第一部 第四章 第一片 去りゆきしは安息なる時なれど、愚者は諦めることはなし。
第四章 去りゆきしは安息なる時なれど、愚者は諦めることはなし。
何かが壊れるときは突然だ。どんなに強固なものでもその最後は脆く儚い。誰かが、美しいものはその散り際に最も美しいといったがあれは嘘だ。散ってしまったら何も残らない。醜い滓すらやがて消える。だから、もし今度その兆しが見えたなら俺はすべてをなげて立ち向かうと思う。
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扉が叩かれる音に目を覚ました。目を開けて時計を見るとまだ六時。教会に行く時間までにはまだ三十分ほどある。
師匠はまだ寝息を立てている。扉を叩く音は衰える気配がなく、仕方なくベッドから出て扉に向かった。
この小屋の扉は厚い。だから、今まで聞こえなかった声が近づくにつれ聞き取れた。
「ラ・・さ・・・、・・・ラヴァ・・ん」
声の主はフレデリカだった。
尋常でないドアの叩き方に不安を覚え、急いで閂を抜こうと手を伸ばす。
「フレデリカか?ちょっと待って、今開ける。どうしたんだ、こんな時間に?」
「ラヴァさん!―――急いで!エリスが」
一瞬すべてが止まった。
「エリスが・・・!」
再びその名前を聞いた瞬間、理性が飛び力任せに閂をはずして扉を引き開けていた。
外に立つ彼女は肩で息をしていた。どこか倒れそうなほど弱々しく、普段は好奇心に爛々と輝いている瞳は光を失いで、不安気に揺れていて痛々しい。いつもの彼女とは明らかに違っていた。
だが、そうと解りながら俺は叫んでいた。
「何かあったのか!フレデリカ、エリスに何かあったのか!」
怒声に彼女は脅え、身を縮こまらせる。それすらもどかしく思え、溢れ出てくる理不尽な怒りに、戸惑う肩を力任せに掴んだ。
「・・えっ・・・あ・・・・・・」
彼女は戸惑いの声をあげ、俺は手に力を込める。その顔は痛みに歪み、恐怖の色を帯びていく。
それでも、やめろ、と言う理性は激情の前には何の反抗もできなかった。
腕にさらに力を込めたその時、声が俺を止めた。
「ラヴァ、何をしているか!」
振り向くと、そこには眼があった。静かで、そして鋭い眼が。
「・・・師匠」
「手を放してやれ、ラヴァ」
見下ろすと、その細い肩に深く指が食い込んでいた。気付くとふっと力が抜け、手が落ちた。
「落ち着け、ラヴァ。――お嬢さんは大丈夫かい?」
「あっ・・・はい。・・・大丈夫です」
答えて、彼女は肩を両手で抱く。そして、体を小さく震わせて怯え、上目遣いで俺を見た。その姿にひどい罪悪感を覚える一方で、彼女の言葉が気になってもどかしさに唇を噛みしめた。
「深呼吸でもして少し落ち着きなさい」
「あっ・・・・はい」
彼女は視線に押されるがまま二度深呼吸をした。それでも瞳から不安の色はなくならなかった。
「もう、大丈夫かね?」
「え・・・・・あ・・・はい・・・・。えっと・・・」
「すまないが、何があったかこいつに話してやってくれ」
一瞬の躊躇うような仕草の後、彼女は話し始めた。
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私は、どうしたらいいのだろう?
それは突然だった。
「ん・・・ん、誰?こんな夜中に・・・・」
扉をたたく音に眼を覚ました。
「ソフィ」
エリスも目を覚ましていた。私たちは互いにうなずいてからベッドを出た。
「こんな夜中に誰だろ?」
エリスが小声で言った。私にというよりは独り言といった感じだった。時間が時間だけに不審者かなとも思ったが、きちんとノックをするのもそれはそれで変だろうと思いなおす。
「行こう」
「うん」
少し眠い目をこすりながら、階段を転ばないように気をつけて下りた。
後になって思えば、この時エリスが目を覚ましていたのは女神の成せる御技だったのかもしれない。
コンコン、コンコン
怖いぐらいに同じリズムで音がしていた。
扉の前に立ち、エリスが訊く。
「どちらさまでしょうか?」
丁寧な、それでいてどこか冷たい声が扉越しに聞こえた。
「夜分遅くすみません。教会のものです。扉を開けていただけませんか?」
教会という言葉を聞いて、一気に目が覚めた。
エリスがあわてて閂をはずして扉を開ける。
「申し訳ありません。お開けするのが遅くなってしまって」
外には三人の男の人が立っていた。二人は鎧を着た大男。真ん中にいる一人はさっき声の主だろう、今まで見たこともないような立派な法衣を着た、たぶん、司祭だった。
しかし、小柄で、やせ細った神経質そうな顔を見て、思わず息が詰まった。
「構いません。こんな夜中に尋ねたこちらが悪い。私は大司教を務めさせていただいているホルムスと申します。エリス・ミシェルはどちらでしょうか?」
「私・・・ですけど」
エリスは戸惑い気味に答えた。
まったく見当が付かなかった。こんな偉そうな人がいきなり夜遅くに尋ねてくる理由も、なぜエリスの名前が出てきたのかも。
教会は絶対だ。エリスに限ってそんなことはないとは思う。けれど、万が一何か罪を犯してしまったのなら・・・・
私たちの不安そうな顔を見て、彼は微笑んだ。
「そんなに心配なさらなくとも良い。あなたは選ばれたのです」
「選・・・ばれた?」
「そうです。選ばれたのです。神への御使いに」
その言葉の意味するところもわからずに、それでもエリスも私もその重みに言葉を失った。
「立ち話もなんですし、中に入れていただけませんか?詳しい話はそれからいたします」
そして、その男はまた笑った。
・・・・女神より教皇を通して神託が下りました。メディシスの不漁は女神の御意思だそうです・・・・
・・・・双子はこちらと女神をつなぐ橋・・・・
・・・・エリス・ミシェルには海の恵みを願いに、女神の御許に行って貰います・・・・その代価として、教会の名のもとにあなたは願いをひとつだけ叶えられるでしょう・・・・・
エリスは少しも表情を変えなかった。少しも動揺を見せなかった。
私は血の気が引いて・・・・私は・・・・・・泣き出しそうだった。
・・・・・・姉君にはクルシュ岬で女神に召されていただきます・・・・
きっと、たくさんの人が救われる。たぶん、それは善行で、名誉なこと。
・・・・・・けど、エリスはやっとラヴァさんと幸せになれるところなのに・・・・こんなのってない。これこそ、神の悪夢じゃないの?何で私たちなの?何でエリスが?
どうして・・・・?どうして・・・・・?
大司教様が帰れてから、エリスと二人向かい合って座ってずっと同じことを考えていた。でも、答えはなにもでない。でるわけがない!
それは女神様かエリス、そのどちらかを裏切ることだから。私に選べるわけがなかった。
無常に時間だけが過ぎていった。時は待ってはくれない。日が明けて、明日になる。そして、日が巡りエリスが行ってしまう。逝ってしまう。
ああ、私はなんて弱いのだろう。ただ、信仰さえあればこんなに苦しむことはないのに。ただ、女神様だけを信じていればいいのに。私の弱い心はあの方を疑っている。母なる方に憎しみにさえ近いもの抱いている。ひどい娘だと思う。利己的で、他人の不幸に目をつぶって、自分の望むものだけを見たいと思う。
ああ・・・・でもどうして人の不幸を望むだろう?できるならみんなに幸せでいて欲しい。そう、私が望むのは人の不幸せじゃない。ただ、エリスに幸せでいて欲しい、それだけなのに・・・・・・。これは過ぎた望みなのだろうか?たったひとりの肉親の、姉の幸せを願って何が悪いの?
昔、ミル神父がおっしゃられた言葉が思い出される。
女神は人に試練を課す。それは徳を身に付けさせるためなのだそうだ。徳を得たものだけが次の世界で再生できる。だから、人は日々励み、試練に打ち勝たなければならない。・・・のだと言う。
今がそれなのだろうか?もしそうなら、私は・・・・・・・いらない。徳も、再生も、いらない。
私はエリスがいて、見知った人たちがただ暖かな時間に包まれていられればそれだけでいい。
そう思うことは背信なのだろうか?
少しの疑問さえこの世界を創りたもうたお方への裏切りなのだろうか?
「ソフィ」
顔を上げるとエリスは微笑みを浮かべていた。
「お祈りしましょう。ほら、教会の方たちも」
ホルムス大司教が残していった二人の僧兵の祈り声が外から微かに聞こえた。生まれた頃からずっと聞きなれた祈り。でも、今は悲しいぐらい遠くに感じられる。
「家から出てはいけないって言われたけど、お祈りくらいはしてもいいでしょ?」
そして、エリスはまた微笑む。その笑顔が胸に刺さった。
エリスはそっと目を閉じて祈り始めた。
「――我らが母なる神よ。私たちは貴女が見守っていてくださっていることを忘れません」
私は目を閉じて問いかけはじめる。
・・・・・どうして、エリスなのですか?
「私たちの喜びも、悲しみも、苦しみもすべてが貴女のもの。御心のままに創られしこの世界。御心のままに創られしこの命。日々の糧に込められし御心を私たちは忘れません」
でも・・・、それでも・・・エリスは他の誰でもない。誰のものでもない。
「生は眠り、死は目覚め。私たちは貴女とともに。女神に――」
私には・・・感謝なんてできない。
「やめて!」
私は叫んでいた。
エリスはゆっくりと目を開いて私を見る。憂いに満ちた、でも優しい青い瞳が私を見る。圧倒され、言葉に詰まり、それでも私は必死に言った。
「もう・・・やめて。・・・エリス、本当にいいのこのままで?」
「すべては女神様の御意思よ」
「エリス!」
「・・・・・・」
「なんでなの!どうして何も言わないの?おかしすぎるよこんなの・・・だってエリスなにも悪いことしてないじゃない。なのにどうしてこんな・・・・!エリス、どうして諦めちゃうの?ねぇ!」
涙が溢れて零れた。
エリスは穏やかな表情を浮かべていた。どこか諦観に似たものをそこに感じそんなエリスを直視できなかった。
彼女は表情をそのまま、穏やかな声で私に語りかける。
「怖くないと言えば嘘なるわ。すごく突然で。もう、後何日しかこの村にいられない。もう、目を覚ますことがなくなる。朝の陽の光も、小鳥の囀りも、冷たい風も感じられない。そう思うと・・・・・すごく怖い。・・・・・でも、でもね。私の命でたくさんの人が救われるなら私はがんばりたい。もちろんたくさん未練があるよ。あり過ぎてわからないぐらい。ソフィともっと一緒にいたいし、ラヴァともっと生きていきたい。・・・・でも、もしそうしたら私は、私をきっと許せない。誰かが苦しんでいて見て見ぬ振りをするなんて私はできない。・・・・・・・・ごめんね、ソフィ」
卑怯だよ、エリス。そんなの卑怯だよ・・・・・・。
どうして謝るの?どうして微笑むの?・・・・そんな風に言われたら、何も言い返すことができない。
「私は大丈夫だから、ね」
その憂いの微笑みはまた私の心を刺す。さっきよりもより深く、より鋭く・・・・。なのにそれが優しさだと解るから、それを表に出すことはできない。
・・・・でも、本当にこのままでいいの?
私にはもう、信じて願う神様はいないと知っていた。それでも、祈らずにはいられなかった。
―――――誰か助けてください。エリスを助けてください・・・・・・・・・・、と。
祈りは虚しく、届くはずはないものと知っていた。それでも、合わせた手を握り締めて祈った。エリスは主の祈りを再び唱え、女神に祈った。エリスの願いと私の願いはきっと一緒。なのに祈る方は違う。私たちの歩く道が違っていく。いや、もうかなり昔から違っていた。だけど、それは確かに幸せに至る道だったはず。エリスが今進もうとしているのは神へと至る道。それは狭い、狭い道。彼女ひとりであっても身を削りあらゆるものを犠牲にしてはじめて通ることが許されるもの。そこまでして女神様のもとに至ることに・・・・・・意味があるのだろうか?自分の中の冷静な部分は信仰を良しとし、うなずく。一方、感情は激しく首を横に振り乱し、叫ぶ。
――――――お願い。どうか・・・・どうか・・・・
「止まれ!」
突然、僧兵の叫び声が聞こえ、私は――エリスもおそらく同時に――弾かれたように扉の方を見た。
「――貴様、何者だ?」
金属が擦れる音が聞こえた。―――たぶん、剣が鞘を走る音。冷たい感覚が背中を伝う。
私はたまらずエリスを見た。
エリスの顔からは血の気が引き、白を通り越して青くなっていた。さっきまであれほど落ち着いたのが嘘のように、エリスはひどく怯えていた。
エリスは外の「誰か」に怯えているのだろうか?それとも、あの人が来たのかもしれないという予感に怯えているのだろうか?
たぶん後者だろう。その考えは私を大きな不安と微かな喜びの混じった複雑な気持ちにした。
人が駆ける音。刹那、大地に何かがめり込む鈍い音がした。・・・そして、短い叫びと何かが地面に叩きつけられる音。
「貴様ーー!」
僧兵が叫び終える前に、また嫌な音がして、ずぐに地面に何かが叩きつけられる音が聞こえた。
そして、沈黙が訪れた。
その間は永遠のように長く感じられた。不安が容赦なく私たちを押しつぶそうと溢れてくる。
やがて扉が叩かれ、私たちの間に緊張が走り、呼吸が、時間がとまった。
すぐに、あの人の声が聞こえた。
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扉を開けると、今にも泣き出しそうな顔でソフィアが駆け寄ってきた。
「ラヴァさん!」
涙を湛えて光る青い瞳が俺を見上げる。
「エリスが・・・、エリスが・・・、私どうしたらいいのかわからなくて。それで・・・それで・・・」
震える小さな頭をそっと撫でた。顔をくしゃっとさせって、堪えていた涙が頬を伝った。
ソフィアは俺の背中越しに倒れている二人の僧兵を見つけ、濡れた目を大きく開いて驚いた。
「大丈夫、少し気絶してもらってるだけだから。・・・話はフレデリカから全部聞いている」
努めて微笑んで言ってから、エリスを見た。
彼女は椅子に座ったまま張り詰めた青い瞳で俺を睨んでいた。
「・・・どうしてきたの?」
姉妹なのに、妹とは正反対の態度。そんなエリスが何故かいとおしかった。
「エリス!」
「ソフィは黙ってて」
言い返そうとするソフィアより先に俺は言った。
「二人を迎えに来た」
「それがどういうことかわかっているの?」
「そのつもりだけど」
いなやエリスは叫んだ。
「全然わかってない!」
彼女の瞳がはっきりと揺れる。
「全然・・・わかってないよ・・・・。ラヴァ、教会に・・・・神様に逆らうってことなのよ。破門されて、もう二度と生まれ変われないかもしれないのよ」
感情が、一筋の涙が白い頬を伝った。膝の上できつく握り締められたその手は俺が家に入った時からずっと震えたままだった。
「それでもかまわない」
「バカ!私が嫌なの!」
何かを必死にこらえるように唇をかみ締めてから、エリスは言葉を続ける。
「・・・どうして来たのよ。もう、どうしようもないのに。私は女神様に選ばれたの。司教様も私が犠牲になれば大勢の人が救われるって。・・・・だから、私はもう――」
「関係ないだろ」
彼女ははっと顔をあげる。その青い瞳は小さな子供のように頼りなくて、可哀想なぐらい弱々しい。こんな表情はエリスには似合わない。目をそらさず、じっと見つめて歩み寄りながら言った。
「女神も、教会も、他人も関係ない。おまえの人生なんだから、したいようにすればいい。死ぬことを選ぶなら俺は何も言わない。けど、お前が生きたいって言うなら、俺が守ってやるから」
糸が切れたように張り詰めていた顔が一気に歪んだ。次の声は涙声になっていた。
「・・・・私だって、・・・・・私だって死にたくなんてない。死にたくなんてないよ。・・・でも!」
見せたのは泣きじゃくる子供の顔と憂いに満ちた女の顔が混じった痛々しい表情だった。
俺はエリスを、その小さな頭を抱き寄せた。
「――もう、がんばるな。肩の力抜いて。少しぐらい頼れよ」
すぐに腹にエリスの嗚咽が伝わってきた。震える彼女の体を抱きしめる。
「俺が守りたいんだ、お前を。俺はお前にだいぶ助けられた。昔の俺はバカで、何の目的もなくて、ただ仕事だけこなして、たぶん、生きるためだけに生きてた。でも、今は違う。エリスに会えたからこそ今の俺がいる。曲がりなりにも時計職人なんてやってるのがいい証拠だ。・・・・・だから、な?」
「そんなこと・・・・私のほうが・・・」
エリスは顔を押し付けてきた。彼女が落ち着きを取り戻しつつあることを感じながら、柔らかな髪を撫でる。
「おまえ、色々我慢してただろ。気付かない振りするの結構辛いんだぞ」
「・・・・私」
「エリス、生きよう、な?」
「ラヴァ・・・・・頼って・・・いいんだよね?」
「当たり前だろ」
「うん」
彼女が笑ったのがわかった。きっと泣き笑いだ。どんなに可愛いだろうと不謹慎な考えが脳裏をよぎり、思わず口元が緩んだ。
そのまましばらくエリスの温もりに浸ってから、そっと彼女を放し、もう一人の女の子を見て言った。
「教会が必要としているのは双子なんだろ?」
「え・・・」
「ソフィアも一緒に行こう」
「でも」
「馬鹿。エリスみたいに変な意地を張るな。エリスの妹である時点で、俺にとってソフィアはもう他人じゃない。だからな」
彼女は少しだけ顔を赤くして、小さく肯いた。普段の活発な姿からは想像もできない仕草はエリスに似ていて、双子であることを不意に意識させられた。
「急ごう。人が教会から帰ってくる前に村を出たほうがいいだろうから」
「あ、ねぇラヴァ少しだけ待って」
俺が怪訝な顔をしていると、二人は互いに向かい合ってうなずき合い、二階に上がっていき、すぐに降りてきた。その首には翼を模した小さな白銀細工のネックレスが輝いていた。
「両親からの贈り物なの。他のものは持って行けそうにないから。あとはこれ」
スカートのポケットから出された懐中時計を見て、思わずうれしさに口元が緩んだ。
そのまままっすぐ師匠の所に向かった。一刻も早くこの村から離れなければならなかった。そのために最低限必要な準備ができる所は俺にとってはそこしかなかった。少なくとも教会に通わない程度の信仰心がある師匠ならば俺達のことをさっさと密告したりはしないだろう。もちろん多少なりとも迷惑をかけることになるだろうが、俺の中で迷惑をかけられる人間もまた師匠だけだった。
一日に二度は往復した林道を二人を連れて進んでいった。
道すがらソフィアは起こった出来事の仔細を話してくれた。脅迫としか言いようのない教会の横暴に憤りを感じ、それをいきなり突きつけられた二人を哀れんだ。ただかけるべき言葉も思いつかず、ソフィアが話し終えると、「そうか」とだけ答えただけになってしまった。俺自身、多少の戸惑いのせいもあったが、なにより師匠にどう言ったものかと考えを巡らすので精一杯だった。
師匠は小屋の前に立っていた。俺が帰ってくるのを待っていたようで、俺達に気付くと苦笑を漏らした。
「馬鹿が。お嬢さんは帰しておいた。お前もこれを持ってさっさと行け」
投げられたリュックを反射的に受けとめて、思わず彼を見る。
「師匠・・・・」
「必要なものを入れておいたから、五日くらいはそれでもつだろう」
「師匠――」
「理由か?なに、儂は教会が嫌いだ。それにお前も迷惑をかけるつもりで来たのだろ?」
言葉に詰まった俺を余所に師匠はエリス達の方を見た。
「お嬢さん方」
「「え・・はい」」
同時に答えた二人に師匠は優しい表情を浮かべた。
「こいつは馬鹿だが、その分真面目だ。これからいろいろ大変だろうからいないよりはましだろう。そのことを忘れないようにしなさい」
そして、再び俺を見た。彼の表情からは先ほどの優しさは消え、代わりに普段の、いや、それ以上の鋭い目があった。その奥に潜む何かに一瞬圧倒された。それは完成した時計を見てもらったあの時に見た目と一緒だった。
「ラヴァ、お前は守ってみせろ。教会なんぞに絶対に奪われるなよ」
――守ってやれよ。
あの時も師匠は同じことを言った。
師匠は今日という日が来ることを予想していた?
そこにまで至って、何かが解ったような気がした。
彼は世捨て人だ。一緒に暮らしたこの一年と少しの間に何回もそう思った。世間と、特にその象徴である教会とはまったく関わりを持とうとしなかった。単に変わり者だから、そう思っていた。
しかし、仮に今のエリスの様に師匠の大切な誰かが贄に選ばれていたとしたら。そしてその人は殺されたとしたら―――俺ならばエリスを殺めたすべてを憎む。なら師匠も?
だが、たとえそうであったとしてもこの人は何も言わない。何と言っても人一倍不器用な人間なのだから。だからそこで詮索するのは止めた。
俺は腰を直角に曲げて頭を下げた。
「師匠、今までありがとうございました。――行こう、二人とも」
頭を上げ、エリスの手を引いた。
「え・・・でも・・・」
「ミシェルさん、早くお行きなさい」
師匠に促され、なお躊躇うエリスの手を半ば強引に引いて歩き出す。
「ラヴァ・・・」
「行こう」
軽く会釈だけして小屋を離れた。
押しかけた時も突然なら、出ていく時も突然になってしまった。ただでさえ師匠には返すべき恩が山積みだったのに、また、恩を作ってしまった。おそらく、もう逢うこともないだろうという確信が胸に刺さった。
彼は言った。
ラヴァ、お前は守ってみせろ。教会なんぞに奪われるなよ。
その言葉に応えることが唯一俺に出来る恩返しなのだろう。
後ろから師匠の声が聞こえた。
「ラヴァ、そんな顔をするな。お前は儂に謝らなければならないことなど何もしていない。お嬢さん達を不安にしてどうする」
はっとしてすぐに苦笑した。昨日もケビンさんに同じようなことを言われた。考えていること、特に負い目に感じていることが顔にでるのは、自分の悪い癖なのかもしれない。
「ラヴァさん?」
左に並んで歩く二人を見て微笑んで言った。
「大丈夫。大丈夫だから」
そして俺達は深い森へと、終わりの見えない―――もしかしたらないのかもしれない―――逃避行の第一歩を踏み出した。