第一部 第三章 第一片 想い、言葉にせん
第三章想い、言葉にせん
人を好きになった。いっぱい恋をした。ただし一人で。あの人はそのことを知らない。それは私に勇気がなかったから。居心地のいい時間を壊してしまう危険を冒すことが怖かった。
今、あの人に告白する勇気を持てるのかはわからない。でも、今しなければ想いを伝えられない気がして、想いを宙吊りになんてしたくなかったから、伝える所をなくしたらどうしようもなくなりそうでそれが何より怖かった。
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「今日までの二年間、お前は無事任務を遂行した。数々の苦労もあっただろう、本当にご苦労であったな」
「いえ、そのようなことは・・・ありがとうございます」
「貴様の任も今日の日没とともに終わる。以後は別命あるまで待機していろ」
「あの、隊長。ひとつだけお教え願えますか。・・・どちらが御使いに選ばれたのですか」
「気になるのか?」
「・・・はい」
「選ばれたのは姉の方だ」
「そう、ですか。・・・・失礼します」
「ゆっくりと休むとよい」
「はい」
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祭りの喧騒が耳に心地よかった。皆がそれぞれが思い思いの時間を過ごしている。
さまざまな音が飛び交い、酒が料理がひっきりなしにテーブルを行き来し、恋人たちは二人だけの世界に心を沈めている。子供達はそんな大人の間を縫って走り回っていた。
そんな幸せな空間を、俺はエリスを探して見回した。ここに着いたときにはすでにエリスも、ソフィアもどこにも見当たらなかった。
「あいつら、どこ行ったんだ・・・。おっと!」
足に何かがぶつかってきた。驚いて見下ろすと子供が尻餅をついて倒れていた。見知った顔だった。
「大丈夫か、オーラ?」
「ラヴァ!」
大声を上げて驚くものだから、周りの視線がこっちに集中した。非難の視線がなぜか混じっている。
「そんなに驚くことないだろ。俺だってここに住んでるんだから。ほら」
「あ、ありがとう」
さしだした手につかまって立ち上がると、オーラは服についた土をせっせっと払いだした。その仕草は前よりもどこか落ち着いていて、時間の流れを感じさせた。
「ケビンさんは元気にしてるのか?」
すると「後ろ」と俺を指さす。
「?」
振り向くと、少し赤く染まった顔が俺を見上げていた。
「よぉ、ラヴァ」
そう言ってにやっと豪快な笑みを浮かべる。思わず口元から苦笑が漏れた。
「・・・ケビンさん。驚かさないでくださいよ。声をかけてくれればいいのに」
「俺だってここに住んでるんだから、いちいちお前に断る必要はないだろ。―――ふん、相変わらず元気そうじゃないか、ラヴァ」
「ケビンさんも相変わらずですね」
「どうだ、慣れたか、あの偏屈親父には?」
「さすがに、半年も一緒にいれば少しは」
あなたもね。と、もちろん心の中だけで付け加える。
「そうか。ま、お前は手先が器用だからな。おい、オーラ、もう人にぶつかるんじゃねえぞ」
「わかってるって」
オーラは友達を見つけたのか、走って人ごみの中に消えていった。
「オーラも元気そうですね」
「俺と同じで、それだけが取り柄さ。まぁ、座れよ。一杯ぐらい付き合え」
「はい」
俺は彼の隣の椅子に腰を下ろして、杯を受けた。
「ありがとうございます」
「よし、かわいいお前の恋人に乾杯!」
ケビンさんは一気にグラスに入った酒を飲みほし、気持ち良さそうに息を吐いた。
「しかし、お前と話すのは久しぶりだな。五ヶ月振りか?同じ村に住んで、毎朝教会で会ってても話さずじまいで過ごせるもんだな、ええ」
「そう、ですね。俺も出ていった身ですから。こっちからはさすがに話しかけづらいですよ。それにケビンさん、俺のことを無視してるきらいがありましたし」
「無視?ああ違う違う。いつもきれいな嬢ちゃんがいるから近寄れなかっただけさ」
「気を使ってくれてたんですか」
「俺だって嫁持ちの身だからな。それぐらいできるさ。で、嬢ちゃんはどうした?喧嘩でもしたのか?」
俺は肩をすくめて答える。
「それが、どこにも。ここで待ち合わせのはずなんですけど。いったいどこにいったのやら」
「・・・そうか、せっかくおまえがプロポーズしようってのにな」
ちょうど杯を傾けとところで、飲んでいたワインが気管に入ってむせた。
「ゲホッゲホッ・・・ケビンさん!?」
彼は楽しそうに俺を見て笑った。
「やっぱり図星か」
なぜそのことを知っているのか見当が付かず、彼の顔を見る。彼はすぐに答えた。
「簡単さ。今日は祭り。お前が嬢ちゃんに告ったのも去年の今日。お前みたいなやつは特別な日にしかそういったことはできないってのが相場ってもんだろ」
確かに、と思った。十年も一緒に暮らしていたせいだろう、俺の考えはお見通しのようだ。あるいは自分が単純なだけか。
「からかわないでください」
「別にからかってるわけじゃないさ。女ってのは特別な何かが大好きだから、俺は喜ぶと思うぜ。――ただ、お前は生真面目すぎるとこがあるからな」
「真面目、ですか?」
「ああ、俺のとこを出て行くときもそうだ。本当はあの時、おまえを殴ってでも引き止めるつもりだったんだ。鍛冶屋としては、お前は一流だったからな。なのにお前ときたら本気ですまなそうな顔をしてきやがった。あれじゃあ文句も言えねぇ」
彼はそこで杯に酒を注いで、また仰ぐ。
「一生懸命なのはいいことだよ。けれど、それが人の負担になることもある。あんま優しすぎるのも、その相手にとってつらいこともあるのさ」
「・・・・・」
親父さんはアルコールが入っているからか、饒舌だった。そして、彼の言葉には重みがあった。
俺はエリスのために今までやってきたと思っている。それがあいつの負担になってるなんて少しも考えたことがなかった。思わず考え込んでしまう。
「そんな深刻な顔するな。お前が嬢ちゃんのこと本当に愛してるなら、大丈夫さ。最後にはそれでなんとかなるもんだ」
「長年の経験からですか?」
「まぁな。俺も若いころは、嫁さんといろいろあったってことさ。――ん、なんだ?」
突然、どよめきが起こった。彼につられて、どよめきの方を見る。男達が何かを取り囲んでいた。さっきまで恋人とキスをしていた男も、その相手までもが見とれているような視線をそっちに向けている。広場中の視線が一点に集中しているようだった。
何かと思い、目を凝らす。人だかりの間から一瞬、真紅が見えた。
次の瞬間、人だかりが分かれて俺達のほうへと道ができ、そこに現れたものを見て言葉を失った。ケビンさんの吹いた口笛がどこか遠くに聞こえた。
俺はそこにいる彼女の名前をつぶやいていた。
「エリス・・・」
それはエリスだった。けれど、飾りっ気のない真紅のドレスに身を包んだ彼女は今まで見たどの彼女よりも美しかった。、
彼女は思わずどきっとするほどの微笑を浮べて俺を見て言った。
「ラヴァ、こんにちは」
「ああ・・」
呆気にとられ、そんな返事しかできなかった。
エリスは恥ずかしそうに俯いて、小声で聞いてくる。
「・・・似合って、ないかな?」
ケビンさんに脇をこつかれて、はっとして立ち上がって、なぜか必死になって言った。
「そんなことない。すごく似合ってる」
「・・本当に?」
「本当」
彼女はみるみる表情を輝かせ、嬉しそうに笑う。それが眩しく、俺は目を細めた。
「ありがとう。思い切ってきて着てきてよかった」
胸に掲げている鍋に気づいて、その温かさとか、不思議な安心感に微笑みが滲みでる。
そのまま、お互いに見つめあって微笑み合う。ひどく暖かい時間が流れていく。
いつの間にか人だかりも、あんなにあった視線も消え、皆自分たちの楽しみを満喫していた。
心の中で皆の気遣いに感謝した。
「その鍋は?」
「あ、これ?私特製の青豆のスープ。よかったら食べてみて」
エリスはぱっと周りを見回す。
「嬢ちゃん、ここ空いてるぞ」
ケビンさんが自分の隣、つまりさっきまで俺が座っていた所を指し、右手を振ってエリスを招くと、エリスは微笑んで返事を返した。
彼は嬉しそうに手早く前に散らかった食器やらを片付けて鍋を置くスペースを作る。
「ありがとうございます」
「スープ、俺ももらっていいかな?」
「はい、たくさん作ってますから。・・・・その・・・良かったら他の皆さんもどうぞ」
その言葉に周りにいた男達の視線が再び集中した。
エリスは本当に人がいい。少し残念な気持ちがあったが、俺はそんなエリスが好きで、誇らしかった。
「もらっていいのか?」
「ええ。お口に合うかはわかりませんけど」
「合う合う。エリスちゃんの作ったのなら絶対合うよ」
手に手に空いた皿を持った男たちの列が、鍋の前に瞬く間にできる。
俺はその光景を、エリスの人気をただ呆然と見ていた。
目の前の光景にあっけにとられたのも一瞬、エリスはスープを彼らの皿によそおうとする。
それをケビンさんが止めた。
「ちょっと待った。まずはラヴァからだろ」
「え、・・・あ、はい」
「もっと堂々としろよ。お前は嬢ちゃんの恋人だろうが。そこら辺こいつらにちゃんとわからせないと、誰かに捕られちまうぞ」
そう言って大声で一人笑い出した。
人前でそんなことを言われて、柄にもなく恥ずかしさで顔が赤くなってしまった。
「はい、ラヴァ」
同じように顔を赤くしたエリスがスープの注がれた皿を渡してくれた。
俺はそれを受け取って、ケビンさんの隣に座って一口飲んだ。
「どう?」
エリスが少し心配げに聞いてくる。
呟きに近い答えを返していた。
「・・・おいしい。・・・今まで食べた中で一番おいしい」
「もう、ラヴァ大げさだよ」
エリスは照れ笑いを浮かべて、また顔を少し赤らめた。
おいしいスープとエリスの笑顔。幸せというものがここにはあった。
それをかみ締めるように、またスープを口に含む。
懐かしい味がした。
「よし、嬢ちゃん俺にもくれ」
頃合を見計らって皿を差し出すケビンさん。それに列の先頭の男が不満の声を上げる。
「ケビン、何でお前が先なんだ!」
「うるせぇ!いいか俺はラヴァの保護者だ。いわば、お前らよりも嬢ちゃんに近いんだよ」
「元だろ。捨てられたやつが言っても説得力がないぞ」
「なんだと!」
どちらも殴りかかりそうな勢いに、エリスは慌てて止めようとするが相手はまったく聞く耳を持たなかった。
たかだかスープ一杯のために殴り合いでもされたらエリスも困るだろう、そう思い名残惜しくもう一口だけ飲んで立ち上がろうとした時だった。
「ケ・ビ・ン♪」
その声に彼は恐る恐る振り返った。そして、そこにいる自分の妻の姿を見て、顔がこわばらせたかと思うと、次の瞬間には痛みに顔をゆがませた。
「あんた、うるさいよ」
「痛っ!」
「ちょっと来なさい」
彼はそのまま耳を思いっきりつままれて、引っ張られて行った。
その光景に誰もが呆気にとられてしばらく呆然としていた。
やがて先頭に並んでいる男が思い出したように言った。
「エリスちゃん、スープもらえるかな」
「あ、はい。どうぞ」
エリスがスープをよそい、どんどん列が短くなっていくのを俺は安心半分不安半分で見ていた。
鍋の中もどんどん減っていく。お代わりは期待できそうになかった。
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あの人はそこにいる。
にもかかわらず、私は建物の陰に隠れていた。
もう何度目だろうか、また、物陰から少しだけ頭を出してあの人を見る。
祭りの騒ぎを遠くから眺める彼がそこにいた。
声をかけなくちゃと思っても、まったく動けなかった。ほんの一瞬前まであった勢いはどこかに消えていた。
本当に、どこに行ってしまったのだろうか?
手を伸ばせば、いや、たった一声で十分なのに、それさえ今の私には高い壁となって立ちふさがっていた。
不意に彼が振り向き、視線が合った。
反射的に体を壁に隠しかけて、なんとか思いとどまる。
胸が高鳴るのを必死に抑えて、努めて何気ない調子で、自分の知る限りの一番の微笑を浮かべた。
「こんにちは。来てくださったんですね」
「・・・ええ。少しついでがあったので」
ウォルフさんはそう言って私から目をそらし、黙り込んだ。
それは初めての態度だった。何か冷たいものが私の中を落ちる。
背後では祭りの喧騒が、今の状況がいやがおうにも際立たせ、胸が締め付けられたように痛んだ。
私は必死だった。そう、彼にだって機嫌が悪い日だってあるはずだと努めて思った。
たぶん、いつものウォルフさんだったら、世間話をするだけで終わっていただろう。
でも、今日は違った。いつもの違う、少し冷たいあの人だったから。失ってしまうかもしれないと思ったから、彼とつながっていたいと思い、必死になれた。
「あの・・・、約束」
ウォルフさんが怪訝そうに私を見る。
息が詰まった。それでも私は続ける。
「約束。・・・・馬車に、乗せてもらえますか?」
あるだけの勇気を振り絞って言えたのは、たったのそれだけだった。
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エリスのスープは好評で、予想どおりあっという間に鍋は空になった。
食べた人は口々においしいと言っては、また食べていた。そんな彼らを見ていると、自分のことのようにうれしかった。
エリスが小声で聞いてきたのは、ちょうど自分の皿を空けたそんな時だった。
「ねぇ、二人っきりになれないかな?」
意外な思いにとらわれながらも俺はOKし、俺達は二人、広場を出て畑の中を歩いた。広大な畑には他には誰もいず、ただただ静かだった。
「珍しいじゃないか。エリスがこんなに積極的なの」
自分でも意地悪な質問だと思った。
どんな返答が返ってくるかなと思っていると、エリスは肩を寄せてきた。
「今日ぐらい、一緒にいたいもの。それだけじゃダメ?」
そんな可愛いエリスの小さな肩をそっと抱き寄せる。
「俺もだよ」
鳥の囀り、土を踏みしめる音、そんな優しい音だけが二人を包んでいた。
「静かだね。・・・・・この世界にいるのは、私たちだけみたい」
「二人だけの世界か・・・・」
「そ、二人だけの世界。なんだかすごく贅沢な気がする。――けど、やっぱり私は嫌かな」
「どうして。俺と二人っきりは嫌?」
「もう、いじわる」
俺を見上げるエリスはきれいだった。服のせいか、笑顔までが普段と違って見えた。いつにも増して魅力的で、そんなエリスの拗ねた姿に不意を突かれた。
「もっともっと、ラヴァと一緒にいたいよ。・・・・・でもね、二人だけはダメ。きっとさびしいと思う。ソフィがいて、リンダおばさんがいて、ルースおじさんがいて、それでラヴァがいる。そんな今が一番いい」
笑顔を浮かべてエリスはそう言う。
今日という日に、俺は心から感謝した。何かがこの世界を輝かせてくれていた。その結晶がエリスの笑顔。
それは、幸せのというものの形に思えた。
「エリス」
「ん?」
俺は右のポケットから時計のひとつを取り出してエリスに見せた。
「これって・・・、時計?」
「ああ。さっきできたばかりなんだ。受け取ってもらえるかな?」
「え、でも・・・」
「エリス達のために作った。だから、受け取ってもらえると嬉しい」
俺が頷くと、彼女は壊れ物を扱うように俺が持つ時計に手を伸ばした。
「・・・重いね」
彼女の手の中に納まった時計のふたをそっと開いてやった。
「・・・・動いてる」
静かな驚きの声を上げて盤面を指でなぞる姿は温かかった。
「読み方わかるよな?」
「うん、いっぱい話し聞いてきたから。えーっと・・、今は二、時・・・四十三分?」
「正解」
「よかった。―――でも、すごいね。こんな小さいのに、二つの針がちゃんと動いてる」
子供のように目を輝かせて手の中の時計に見入るエリスが、ますます愛おしく、自然な流れで彼女の名前を呼べた。
「エリス・・・ミシェル」
小首をかしげて不思議そうに、彼女が俺を見る。
高鳴っていく鼓動、息が詰まる。
力を、そして想いを込めてずっと言いたかった言葉を青い瞳を見て続けた。
「俺と結婚してくれないか」
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見慣れた風景が通り過ぎていく。
それを視界の端に妙に意識しながら、私の意識のほとんどは正面に注がれていた。
小さな窓枠からあの人の頭が見える。
馬車のスプリングの音。車輪が回る音。土が巻き散る音。馬の蹄の音。遠くに聞こえる祭りの喧騒。それ以外の音はなかった。ウォルフさんは無言で馬車を操り、私はただそれに乗っているだけ。
何か言わなければと思えば思うほど、焦り、思考が空回りした。
今まで座ったことのないやわらかい椅子が、腰を包み変にうっとおしい。
一年前、エリスがラヴァさんに告白した時の心境が今頃になって痛いほど理解できる。
期待と不安が交じり合ったどうしようもない感情。
前に進もう。でも、もし・・・・
――――――それでも、この思いを伝えずにはいられない。伝えなければ、この思いはやり場をなくし宙吊りになってしまうから。それだけは絶対に嫌だった。
あれほど揺るぎがないと思っていた決意も、すべてが味方してくれていると思えたあの瞬間も、エリスの優しささえも、あの人を前にするとまったくの無力だった。
ただ自分がいて、彼がいて、あとは私の胸が締め付けられるだけ。ほかのことを、結果がどうなるかなんて考える余裕なんてない。
馬車は進む。馬と馬車が奏でる単調なメロディー。
私は今一度目を閉じた。そして自分に問いかける。
何がしたいの?
どうなりたいの?
何ができるの?
何をすべきなの?
考えて、決めて、そして実行する。ただそれだけなんだと自分に言い聞かす。
自分への問いかけの答えはみんな一緒だった。
なら、想いを伝えればいい。
「どうですか、乗り心地は?」
「は、はい!」
いきなり聞かれて、心臓が飛び出るかと思うほど驚いてしまう。
彼はそんな私を窓越しにふっと振り返って、静かに笑った。
「どうしたんです?」
「え、あ・・・」
恥ずかしさの顔が真っ赤になって、俯いてしまう。
彼は再び正面を向いて言った。
「豪華すぎて落ち着かないですか?」
「そんなこと・・・。私、こんなに贅沢な気分になれたの初めてです。その・・・いつも暮らしがきつきつだから」
そう言って私は笑った。少しでも場を和ませようと思って。しかし、彼は笑わなかった。
「そう、ですか。あと少し・・・自分に力があれば、お二人にもう少しよい暮らしをしてもらえたのですが。・・・・自分が情けなくなります。本当にすみません」
「そんなこと・・・そんなことありません!」
考えるより先に、叫んでしまっていた。
「そんなことありません。・・・・貴方は私たちの恩人です。私も、エリスもすごく救われています。・・・・・だから、そんなこと言わないでください」
彼が小さく笑うのが聞こえた。まるで、自嘲の笑みだった。
「自分は、貴女が思っているほど立派な人間ではありません。・・・・むしろ、軽蔑されるべき人間です」
手を伸ばせば届く距離にいるのに、馬車の壁以外の何かが私にそうさせなかった。
彼の様子がおかしい。いつもと違う。でも、何がおかしいの?何が違うの?
彼は自分を軽蔑されるべき人間だと言った。
私は彼のすべてを知っているわけじゃない。もしかしたら、その通りなのかもしれない。
でも・・・
「たとえそうだとしても、・・・・それでも私はウォルフさんのことが大好きです。だから、何か悩みがあるなら言ってください。―――私じゃ頼りないかもしれませんけど、一人で抱え込まないでください。私は・・・、私は・・・・あなたの力になりたいんです」
小さな窓越しに後ろ姿をじっと見つめて彼の言葉を待った。目は逸らさなかった。
胸の鼓動は今までで一番苦しく、切ない・・・・・。
胸の前で手を握ってそれに耐えた。
何も寄りすがるものがない今の私には、それが唯一できる方法だった。
力を抜けば、心臓が暴れだして息が止まってしまいそうだった。
彼は何も言わず、ゆっくりと時は無言のうちに過ぎていき、やがて馬車は止まった。
それでも私は待った、彼が何かを言うのを。どんな言葉であっても、たった一言だけでも彼の言葉を聞きたかった。
彼が大地に降り立つ音が聞こえた。そして、扉が開く。
「・・・・・ソフィアさん、すみません。降りてください」
胸に杭を突き立てられたような衝撃が走り、涙が溢れかける。
私は必死に痛みに耐えた。あるだけの力を振り絞った。それでも、かすれた声にしかならなかった。
「ウォルフさん、・・・・何か言ってください」
その請いに応えることもなく、彼の瞳は私から逸らされた。
「・・・・私、じゃ・・・だめ・・・ですか?」
やめておけばいいと思っても、口が勝手に言葉を紡ぎだしていく。
「どうして?・・・・私をちゃんと見てください!ウォルフさん!私・・・私・・・・」
想いが胸から溢れ出てくる。でも、それはひとつも言葉にならない。どう言っても、どう必死になっても、今のままじゃ何も伝わらないと確信できた。
何もできないことがもどかしく、悔しい。自分はちゃんと進めると思っていたのに、実際はどうだ。自分の思いを伝えるという簡単なことですら言葉にできない。
「ソフィアさん」
彼の右手が私の頬に伸びてきた。一瞬ためらうように止まった後、そっと触れる。
呼吸が止まった。心臓の鼓動だけが意味もなく高まる。
暖かな指先ががやさしく肌をなでる感触に、世界が一気に現実感を失っていく。
彼の目は私を見ていた。逸らすことなく、ただ私だけを、どこか哀しみに満ちた瞳で見ていた。
彼は、静かに言った。
「貴女は優しすぎます。・・・・残酷なんですよ。――――さようなら、ソフィアさん」
離れて行く彼を、馬車に乗る彼を、私は呆然と見送った。
彼の最後の言葉は、まるで永遠の別れの言葉のように思えて、思考が凍りついたまま動くことができなかった。
やがて、雨が降り始めた・・・・・・・
静かな雨だった。
火照っていた体からゆっくりと熱が奪われていくのがわかった。濡れた服が肌に密着して気持ち悪かった。
それでも私は立ち尽くしていた。
頭の中が真っ白になっていて何も考えることができなかった・・・・
ただ過ぎていく時間とともに、私の鼓動が落ち着きを取り戻していくのとは反対に、胸はどんどん締め付けられていった。
胸の苦しさを吐き出すように、一人つぶやく。
「・・・・家、帰らなくちゃ」
ゆっくりと歩き出す。あんなに晴れていた空はいつの間にか厚い雲に覆われていて、まるで夜のように暗く、遠くかすかに聞こえていた祭りの喧騒もすっかり聞こえなくなっていた。
私は何をしているんだろう?・・・こんな雨の中、一人で歩いているなんて――。
・・・・・寂しいな。
寂しい・・・・、寂しいよ・・・。――――何でこうなっちゃったんだろ。エリスみたいにうまくできないよ・・・・。嫌だよ、こんなの・・・嫌だっ・・・!
体が熱を失っていくにしたがって、心はどんどん熱を帯びていく。
泣きたいのに泣けない。泣けるわけがない!
だって、こんな雨の中、道の真ん中で泣くなんてあまりにも惨めだ。
なのに、なのに・・・・
ほんの少し先の木の下で、ラヴァさんが雨宿りをしていた。
何であの人はこんな所にいるの?こんなの―――
彼は私に気づいてない。今なら避けれる。道を逸れる、それだけでいい。たったそれだけ。簡単なことだ。今は彼に会わないほうがいい。頭でそうわかっていた。
けれども、体が勝手に動いた。唇が望まない、でも、心のどこかでは確かに私が望んでいる言葉を紡ぐ。
「・・・・ラヴァさん」
「ん?――ソ、ソフィア!どうしたんだ、びしょ濡れじゃないか!早く、こっちに――」
考えるよりも先に彼の胸に飛び込んでいた。
私は自分が思っている以上に、弱い人間だった。
「おい、ソフィア・・・・・」
「うう、・・・ううっ・・・」
彼の胸に顔を押し付け、唇を噛み締めて泣くのを必死に堪えた。
目を閉じるとあの人の言葉が甦ってきた。
『そう、ですか。あと少し・・・自分に力があれば、お二人にもう少しよい暮らしをしてもらえたのですが。・・・・自分が情けなくなります。本当にすみません』
あの人はいつも私たちを支えてくれた。
『自分は、貴女が思っているほど立派な人間ではありません。・・・・むしろ、軽蔑されるべき人間です』
そう言うあの人が、何故か悲しかった。
『貴女は優しすぎます。・・・・・・残酷なんですよ』
優しさ・・・
突然、ポン、と大きな手が頭におかれた。
驚いて彼を見上げる。その瞬間、堪えていたものが目の端からこぼれた。
彼は優しい微笑を浮かべて、その手で私を優しく、そっと撫でる。
やっぱりこの人は優しかった。こんなことされたら、こんな風に優しくされたら、もう甘えずにはいられない。手を差し伸べてもらって、それを振り払うほどの力は今の私にはなかった。
「ううっ、・・・ラヴァさん・・・私、私・・・。うわぁぁぁぁぁ―――」
私は泣いた。彼の胸に顔を押し付けて気が済むまで泣いた。
雨の音が泣き声を消してくれる。人のことを気にせず、こんなに大泣きしたのは何年ぶりだろうか?
ここ二年は泣いた記憶がない。
父と母の訃報を聞いた時ですら、こんなに泣くことができなかった。
なのに今は取り乱したように泣いている。
私はひどい娘かもしれない。
「うう・・・ああっ・・・・ひっく・・・」
彼の胸は大きく、温かく、何か懐かしいものに感じられた。
彼の大きな手が私の頭を自分の胸に押しつける。同時に感情を押し留めていたものが一気に壊れて、涙が、声がさらに溢れた。とめどなく、さらに激しく―――・・・・
私は彼の胸にすがるように体をあずけて、ただ泣いた。
大きな胸は何をするでもなく、ただ私の思いを受け止めてくれた。
たったそれだけのことなのに、嗚咽ひとつ漏らすたびに気持ちが楽になっていく。
たったそれだけのことなのに、彼の優しさがどこか懐かしい。
涙枯れた頃、その懐かしさの正体に私は気づいた。
「・・・・ラヴァさん、少しお父さんに似てるかも」
「ん?」
彼の怪訝な声が頭の上から聞こえた。
「におい。・・・・あと、大きな所とか。エリスがラヴァさんのこと好きになったの、なんとなくわかる気がする・・・」
「もう、いいのか?」
「・・・もう少しだけ、このままで・・・いて、いいかな?」
「いいよ」
優しい彼の声。
私は目を閉じて耳を澄ませた。
彼の鼓動が聞こえた。
ゆっくりとした鼓動だった。
ドクン、ドクン
心のどこかで安心し、同時に少しだけがっかりしている自分がいた。
でも、ただエリスの好きな人の腕の中は安らげた。
私はラヴァさんから離れて笑った。恥ずかしさで少しぎこちなくなる。
「ありがとう、ラヴァさん」
「大丈夫か?」
「うん」
がんばって笑顔を作って答える。
ラヴァさんは微笑んでから、空を見上げて言った。
「雨、止んだな。――遅いし、家まで送るよ」