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第一部 第一章 汝は祝福されし者なりて


第一部


第一章

    汝は祝福されし者なりて





 一日一日を大切に生きよう。どんな不幸でも気の持ちようで世界は素晴らしくなる。些細な幸せでも至福にできる。それが私の、いわば、信条だった。




――――――――――――――――◆――――――――――――――――――――――

 三日間降り続いていたうっとうしい雨も止んで、太陽が久しぶりに大地を照らしている。少し湿った地面はきらきらと輝き、雨の残り香の独特の匂いがまた心地よい。

 ――まるで神様が祝福してくださっているみたい。

 なんだかくすぐったくて、私はくすくすと一人笑った。

 目の前では碧眼の女の子が長い金髪にブラシを入れている。

 少し濁った鏡に映る自分の姿を見て、思わずまた微笑む。そこに写る腰まで伸びた長い金髪も、潤いに満ちた碧眼も、はりのある白い肌も、薄く朱がかった唇もすべてが綺麗だと思う。

 ―――別に自分に酔っているわけではない。十分客観的に自分を見ている自信はある。いつも私は彼女という私を見ている。彼女を見て綺麗だと思うのだから、私自身も綺麗だと思うのは自惚れではないだろう。

 髪をとき終えてブラシを化粧台に置くと、ちょうど彼女の声がした。

「エリス!早くしないとラヴァさんが来ちゃうよ」

「わかってる」

 答えてみると、それは私の思った以上に響きのある大きな声になっていて、浮かれている自分にびっくりする。

 椅子から立ち上がって、もう一度鏡に映った自分の姿を見てみる。くるっと回ると、長い髪が大きく揺れて広がり、閉じた。

・・・・・・・完璧だ。

 私は自信を持ちたくって、鏡の中の自分に大げさにうなずいてみる。

 とたんになんだかひどくばかばかしく思えてきて苦笑した。

 でも悪い気分じゃない。むしろいい気分。自分でも驚くぐらい優しい気持ちで胸が一杯だった。

 鏡の中の私は幸せそうに笑っている。


幸せそう・・・・・


きっと、私は幸せなんだ。――そう思えることが幸せだった。



 部屋を出て階段を静かに下りていくと食卓が見えてくる。身支度をしに二階に上がるほんのついさっきまでは朝食の食器やらなんやらが置きぱっなしになっていたのに、今は全部片付けられていた。

 ラヴァとの約束の時間を理由に片づけを押し付けた時は嫌そうに顔をしかめてしぶしぶと片付けだしてたけど、やっぱり、ちゃんとしてくれている。

 ソフィは本当にいい妹だと思う。そして本当にいい家族だと。

 そんな妹が階段の下で両手を腰に当てて恐い顔をして立っていた。

 私と同じ目、髪、顔、体。唯一違うのは髪をそのままにしているか、三編みに髪をまとめているかだけ。そう、彼女の髪を縛っている紐をはずしたら私たち自身以外には見分けがつかないにちがいない。

「エリス!デートに行くのはいいけど。仕事増やさないでよ。ただでさえ、今日のあなたの分までしなくちゃいけないのに。私が後片付けしたからいいけど、私がしなかったらエリス完全に遅れてるよ。降りてくるのはぎりぎりだし。それに――」

「そう言う割にはちゃんとしてくれてる」

 私が微笑むと、その怒っていた表情は一気に緩んで優しくなる。

「へへ」

「ありがとう。すごく助かった」

 ソフィはこそばそうに頬をかきだした。

「どうしたの、あらたまっちゃって?」

「変かな?」

「うん、すごく変。熱でもある?」

「こいつ」

「てへっ」

 軽く頭をこづくと、ソフィは舌をちょっぴり出して笑った。

 私たち姉妹は父と母がいなくなった三年前から、二人で助け合って暮らしている。畑を売って、機織機を買い、機を織り、女手だけで何とか暮らしてきた。

 つらいときは互いに支え合い、時には笑い合い、何をするにもいつも一緒だった。

 そんな生活に変化が訪れたのは三ヶ月前だった。

 きっかけは私はある男性と付き合い始めたこと。

 そして今日は彼と始めて遠出する。遠出といっても隣村のはずれにある丘なのだが、それはすごいことだ。

 今まで私はソフィを一人にしないようにしてきた。私だけが幸せに浸ることに何らかの負い目を感じていた。

 今回のことを提案してくれたのはソフィだった。

 双子だからだろう。結局、私の考えも、したいこともあの子はお見通しなのだ。私は何度も断ったが、そのたびにソフィは強く勧めてきた。そういう頑固なところも私たちは似ている。

 結局、私は彼女の好意に甘えることにした。



 コンコン。

 薄い木板を張り合わせた扉を叩く音がした。同時に私の鼓動が高鳴る。

「俺だけど。エリス?」

 続いて、ラヴァの声が聞こえる。

「ほら、来たよ、愛しのラヴァさんが」

 ソフィは悪戯猫のような笑みを浮かべていた。

「そういう言い方やめてよ」

「少しぐらい、妬んでもいいでしょ?それぐらいの権利はあるわ」

「もう」

 頬を膨らませたのも一瞬、すぐに笑顔を作り、目を閉じて心を落ち着かせる。自分の鼓動だけがはっきりと私の耳に響く。そして、扉に手をかけた。

「それ!」

 突然ソフィが私の背中を押した。それほど力は入っていなかったが、私がバランスを崩すのには十分すぎた。

 前のめりになる。鍵が開いている扉はあっさりと開いて、少しも私の支えになってはくれない。

 何とか歩いて勢いを殺そうとするけど、だめだ、体勢が傾きすぎてる。勢いを殺しきれない。

 こけると思った次の瞬間、私は何かにぶつかり止まっていた。 

「ソフィ!」

 反射的に振り返って怒りに任せて叫ぶ。

 ソフィは必死に笑いを堪えていた。。

 両の手、そして頬には自分を支えてくれているものの布の感触、そして温もり。

 恐る恐る振り返って、見上げる。

「・・・・・・・」

 ラヴァの驚いた顔が頭上にあった。

 沈黙の中、私と彼は見つめあう。

 自分が今ラヴァの胸に受け止められているという状況が徐々に私の中で形を成し、熱を帯び、さーっと頬が紅潮する。 

 あわてて彼の胸を半ば押すように後ろに下がって、そのままうつむいた。何か言わないと、と思っても言葉が出てこなかった。

 彼の厚い胸板の感触が、少し遅れて私の胸を高鳴らせる。胸が苦しかった。

「おはよう、ラヴァさん」

 ソフィがにっこり笑って言うと、ラヴァは苦笑ともため息とも取れる仕草で肩をすくめて、優しく微笑む。

「おはよう、エリス、ソフィア」

「・・・・ごめん、ラヴァ」

 胸の鼓動を押さえつけようと必死で、私は指を絡め合わせて意味もなくもじもじとする。

「もう慣れてるよ。騒がしいのはいつものことだろ。・・・・それに、賑やかなのは嫌いじゃないし」

「そうですよねー」 

 ソフィは、またにっこりと笑う。ラヴァにそう言われると、私に返す言葉はない。

「雨も止んで絶好のお天気だし、ラヴァさん、今日一日エリスのこと頼みますね」

「ああ。・・・・それにしても、お前たちホント懲りないな」

「・・・・・別に、好きでやってるわけじゃないわ」

 私は口を尖らせて精一杯すねてみせると、彼は小声で笑った。なんだか裏切られたような気がして、そっぽを向いてやった。

「ま、仲がいいのはいいことだよ」

 ラヴァは少し困ったように頭をかいたが、すぐにまた小さく笑う。

「ほら、行くぞ」

 差し出された彼の手を見ると、今の自分がひどく子供に思え、意味もなく恥ずかしくなった。

「・・・・うん」

 下を向いたまま、ゆっくりと彼の手を握る。彼の手は大きく、硬い。なんだか少しばつが悪くって、私はまた俯きがちになる。

「仲がいいね、お二人さん♪」

 横目でにらむと、ソフィは両手を腰の後ろに組んで、私たちを覗き込むように顔を突き出して笑顔になる。

 彼はそんなソフィにさも当然のごとく言った。

「あたりまえだろ。――それじゃあ、エリスを借りていくからな」

 私はさっきとは別の恥ずかしさに赤面した。

 そんな私を尻目に、ソフィは今度はひどく意地の悪い笑みを浮かべた。自分の妹ながら、その笑顔のバリエーションの多さには驚く。

「はい。煮るなり焼くなりどうぞお好きに。少しぐらい返すのが遅くなっても構いませんから」

「ソフィ!」

「エリス、しわ。あんまり怒ると、消えなくなるよ。ねぇラヴァさん?」

「な!?」

 反射的にラヴァの顔を見上げる。彼の表情はひどく曖昧で、笑うのを必死に堪えていた。

 何で私がこんなにいじめられなきゃいけないの!

 そう叫びたかった。

「もう!ラヴァ、行きましょ」

 半分やけになってラヴァの手を引いて歩き出すと、なぜかソフィが慌てる。

「エリス、忘れ物!」

 ワスレモノ・・・・・・・

 頭の中でその言葉を何回か反芻して、やっとその意味を理解し、軽い脱力感に襲われる。

ああ・・・・浮かれすぎているのだろうか?よりによって彼の前でどじを踏んでしまうなんて・・・・・

 自虐と不安に私が苛まれている間に、ソフィはどっちがデートに行くのか判らないぐらい楽しそうに家の中に入っていって、すぐに昼食が入っているバスケットを持ってきた。

「はい、これ。――じゃあ、行ってらっしゃい」

 ここまでやってしまうと、なんだかそんな自分がおかしくって、笑うしかなかった。

「うん、行ってきます」

「行ってくるよ」

 私は彼の大きな手をしっかり握って歩き出す。

 今日は三日ぶりのお天気。

 そして、私にはこんなにも愛しくかけがえのない妹と恋人がいる。私は本当に幸せなんだ。まるで夢のよう。

 夢はやがて覚めてしまうものだということは解かっている。

 でも、この幸せがいつまでも、いつまでも―――夢と違っていつまでも続いて欲しい、そう願わずにはいられなかった。








 それからずっと、私は彼に一方的にしゃべり続けた。

 妹のこと、彼の新しい仕事のこと、お昼にはサンドイッチを作ったこと、道の端々に見える花や虫や、となり村の風景が綺麗だといちいち感動したりして、そのたびに彼は関心がなさそうに相槌を打つ。

 私はそんな彼にすねてみたりして、甘えた。

 道中、私は幸せを身一杯に感じていた。

 そして、今この瞬間彼とこうして過ごしていられることを神様に感謝して、またソフィにも感謝していた。

 私たちは一時間ほど歩いて目的地である隣村の小さな丘に着いた。

 そこは集落から外れた所に位置していて、周りには草原しかなく、海が見下ろせる。海は穏やかで、日の光を反射してきらきらと光っていて心のそこから来てよかったと思った。もちろん、ラヴァと二人で。

 二人並びあって丘の頂上にぽつんと座って、昼食を食べた。

 広い丘を二人締めしているような感覚は、私をなんとなく感傷的な気分にしてくれた。

 だからだろうか、昼食を終えて片付けを済ませるとなんだか急にもっと甘えたくなった。

 目で彼を探すと、少し下った斜面に片膝を立てて座り眼下に広がる隣村と晴れ渡った青空のどちらを見るとでもなく、静かに眺めていた。

 私はバスケットを丘のてっぺんに置いたまま彼のところまでゆっくりと下って、横に座った。

 ラヴァは一瞬私を見上げたが、私が座ると同時に視線を正面に戻してまたきれいな風景を眺める。

 そんな彼の反応が面白くなく、また意地悪に思えて、座ったままお尻を動かしてぴったりと体をくっつけると、さすがのラヴァも驚いてようで横目で私を見下ろした。

「なんだよ?」

「ベーつにー」

 悪戯っぽい笑みを浮かべて彼の目を見つめて答える。

「こんなの久しぶりだから」

 ラヴァは苦笑するように優しい笑顔を浮かべて、右手でそっと肩を抱き寄せた。

 とたんに鼓動は早まって、頬が一気に火照る。

 彼はまた視線を前に戻す。

「確かに、久しぶりだよな。・・・・・いや初めてか、こんなにゆっくりするのは・・・・」

「・・うん」

 私は曖昧にうなずいた。それ以上のことをする余裕はなかった。

 肩に触れた彼の胸から伝わってくる温もりを感じるのは本当に久しぶりで、この状態が少しでも続いて欲しくって、私の胸の中はそんな暖かな気持ちで一杯だった。

 心地よい風が頬を優しく撫でていく。萌えた草が静かにざわめいている。雲ひとつない蒼穹。澱みのない青い海。

 そんな些細なこと一つ一つが、今の私には何か特別な、それこそ奇跡のように思えた。

「こういうのって、・・・なんかいいよな」

「・・うん」

 暖かな日差しが私たちを暖かく照らしている。彼が静かに苦笑を漏らすのが聞こえた。

「・・・・・うん以外になんか言えよ」

「うん」

 そう言って、私は堪らずに吹き出した。彼も笑った。

 しばらく笑って、私は真顔に戻って彼に聞いた。それはおかしな質問だったと思う。だって、今まで一方的に断り続けていたのは私自身だったから。

「・・・・ねえ、ラヴァ。また、こんな風にゆっくりできるかな?」

 彼は相変わらず目前に広がっている風景を見ながら、何も言わなかった。

 彼を見つめ続けることがためらわれてうつむいた。同時に後悔が込み上げてくる。

 取り返しのつかない事を言ってしまったような気がしてきて、不安が、私の浮かれていた心を膜で覆っていく。

「・・・・・だめだね、私。少し甘い目にあっただけで欲望に負けちゃって。・・・・・今までラヴァの誘いを断ってきたのって、ソフィを一人にしちゃう気がしてたからなの。一回が二回。二回が三回って、どんどん家を空けることが多くなっていって、いつか、知らず知らずのうちにあの子に寂しい思いさせちゃうんじゃないかって・・・・、ずっと心配だった。でもね、そんなこともソフィは気づいてた。・・・・・あの子こう言ったの、私はエリスの枷じゃないよって。・・・・別にそんな風に思ったことなかったけど、なんか恥ずかしかった。私はあの子のお姉さん。今までもこれからもずっと。でも、それって保護者って意味じゃないんだよね・・・・。私・・・、少し調子に乗ってたかもしれない」

 そのまま、うつむいたまま黙り込んだ。

 さっきまで晴れ渡っていた心は、今では厚い雲に覆われて、重苦しく、暗い。

 ラヴァに言ってしまったことへの後悔は無かったけれど、何かが壊れてしまうのではないかという、言いようのない不安で胸が一杯だった。

「ソフィアのこと大切に思ってるんだろ?なら、それでいいんじゃないか」

 突然、彼は相変わらず正面を見据えて言った。

「エリスは、ソフィアの姉さんである前にエリスなんだし。俺はエリスともっと一緒にいたい。それで十分だろ?あんまりいい子ぶるなよ」

 やっと彼は私を見て、そして優しく微笑んでくれた。

 胸の中に温かな液体がすーと染み込んできて、それは不安を溶かして、私の中を優しく満たしていく。

「うん」

 私は微笑み、答えた。

 誰かにわかってもらえることが、誰かに許してもらえることが、すごく貴重に思えた。

「そう、そうやって笑ってたほうがいい。エリスはそのほうがきれいだ」

 少し恥ずかしかったけど、彼の言葉は私にすごく優しかった。

 紅潮した自分の顔を隠すように彼の胸にうずめ、体を彼に任せて呟くように言った。

「また、来ようね」

「ああ。・・・・もうすぐちゃんとした時計を作れるようになるから。そしたら、今度はソフィアと三人でゆっくりとどこか遠くにでも行こう」

 力強い言葉を発する彼を、彼の大きな胸越しに、彼の高鳴る鼓動を聞いて感じている。

 この人は私の大切な人だ。

 彼はこんなにも素敵な人なんだ。

 一緒にいたい。ずっとずっと一緒に ・・・・・・いたい。

 目を閉じ、彼の胸にすべてを任せた。

「うん。・・・・楽しみだね」

「ああ」

「ソフィもきっと喜ぶと思う」

 このときだけは不安も、期待も、すべてを忘れ、ただラヴァと今ここにいるということだけを感じることができた。









 夕日がゆっくりと地平の彼方に沈んでいく。大地は赤く染められ、働いている人々に今日がもう終わることを告げている。

 もうすぐ教会の鐘が鳴る。それを合図に人々は家々に帰り始めるだろう。

 そして、軽い食事を取り明日に備えて体を休める。この国の夜は長く、また貴重なろうそくを燃やして昼を延ばす余裕がある家も少ない。

 あの後、小一時間ほど何をするでもなくただ時が過ぎていくままに暖かいに日の光に包まれ、萌える草草の感触を身一杯に感じ、優しい微風に体を撫でてもらいながらラヴァと二人寄り添いあって過ごした。

 特別何かをしたわけではないけれど、私にとってあのひと時は何物にも変えることのできない時間だった。 

 彼と二人きりで過ごした時間は私が覚えている彼の温もりに似ていて、それに思いをはせることで訳もなく安らかな気持ちになり、同時に切なくなる。

 今、右手にも確かに彼の温もりがある。私はずっと彼の固く大きな手を握っている。

 確かな感触を伴うそれは、私をただ幸せにしてくれる。

 規則正しく高鳴ったリズムを刻み続けている私の心臓は、自分でそのことを実感することで私をさらに幸せにしてくれる。

 とめたくてもとめられない。少し苦しいけど、とっても気持ちいい。そんな不思議な感覚。

 私が彼に恋をして知った、大切なもの。

 まるで夢の中のように心地いい。

 そんな時、彼の手を握っていることがふと思い出されて、自分が今ここにいることを思い出す。

 馬鹿みたいにぼんやりしていて、それでいて気持ちはひとつのことに集中している。

「エリス」

 何の前触れもなく彼は私の名前を呼んだ。

 気がついたら、いつもの分かれ道に差し掛かっていた。

 右が彼のお世話になっている時計職人のスコールさんの小屋に続く小道で、左に行けば私たちの家がある。

 私たちはいつもここで別れる。

 そう、いつものことなのだ。ここで別れるのは当然。

 ・・・・でも、今日はもう少しだけ彼のそばにいたい。この手を、彼の温もりを離したくなかった。

 ――待って、もう少し一緒にいたい。という言葉が口から溢れかける。

 普段はこんなこと絶対に言わない。いや、言えない。

 こんなにも幸せなのに、これ以上求めたら・・・・・・何か大切なものが知らないうちに壊れていくような、そんな不安が私を支配する。

 それは、普段は奥深くに眠っているのに、私の気持ちが強くなると、まるで氷のように溶け出し心を不安で満たす。

 今もそんな不安が胸に満ちていく。

 同時に、今が永遠であって欲しいという、終わらせたくないという思いもまた強くなっていく。

 そう、それは口に出せないメッセージ。

 でも、わがままを・・・・、わがままを、今日一日ぐらい言ってもいいのかもしれない。

 だって、今日は私たちにとって特別な日になったから。今日は私たちの記念日。

 だから、あと一つだけ思い出を作っても、神様は怒られないだろう―――

 それに、この幸福なすべてのものは一瞬で消えるような、儚いものじゃない。

 その証拠に、彼の手はこんなにも暖かくって、がっちりしている。

「うん、今日は楽しかった。・・・ありがとね」

「俺もだよ」

 ―――言えなかった・・・・。

 彼の温もりが手から消え、私は手を振って遠ざかっていく彼の後姿をただ見送る。

 手を伸ばせばいくらでも触れることができるのに、そうする勇気がもてない。

 それが今の私とラヴァの距離なのだろうか・・・・・

 私はいつも遠慮してしまう。

 少しぐらいわがままを言っても大丈夫だと思っていても、彼が好きで好きでしょうがないから、もう一歩を踏み出すことができない。そんな自分が時々嫌になる。

 そう、たとえば今みたいに。

 そして、時々ソフィがうらやましく思える。

 彼女は自信に満ちている。あの子の自信は私のような不安なんか寄せ付けるように思えない。

 私はそんな自信を分けてもらっている。あの子がいたから、私は今ラヴァと付き合っている。

 あの子がいないから、私はもう一歩を踏み出すことができない。

 いつから世界がこんなにも儚く感じられるようになったんだろうか・・・・

 いつからソフィ以外に接するときに、失うことに怯えるようになったのか・・・・

 

 彼が立ち止まった。

 そして、振り返って小走りに戻ってくる。

 私は彼の意図が読めずに戸惑い、近づいてくるラヴァをただ見ていた。

 彼は私の目の前で止まって、少し戸惑ってから恥ずかしそうに微笑み、そっと私の肩を抱く。

 私は何が起こるのか分からずに戸惑い、気がつくと、彼の顔が視界を覆っていて、暖かくやわらかい感触が唇に触れていた。

 それでも、何が起こっているのかわけが解からず、目を大きく開けたまま、ぼんやりと彼の顔を見ていた。

 十秒だっただろうか、一分だっただろうか、確かにそのとき私の時は止まっていた。

 離れていく彼の動きはひどくゆっくりだった。

 彼は私から唇を離すと、優しい笑みを浮かべて言った。

「愛してるよ、エリス」

「・・・ラヴァ」

 再び彼の唇が私の唇をふさぐ。

「・・ん・・・」

 重ね合わせた唇が再び離れる。

 ゆっくりと目を開き、私は彼を見上げる。

優しい瞳が私を見下ろしていた。

「私も、愛しています」

 背伸びをして、今度か私から彼に口づけをした。

ラヴァ・・・

 その長い時のなかで、私の心にあるのはただひとつ、『好き』という言葉だけだった。



 




 ゆっくりと離れていく彼を、私はいつもどおり胸の前で小さく手を振って彼を見送る。

 私は彼が見えなくなるまで手を振り続けた。

 やがて彼は見えなくなると、左手でそっと自分の唇に触れた。

 その感触に冷めていたものが、また熱くなり、顔が火照って、胸が高鳴る。

 自然と顔がほころんでいた。

 あんなにも私を縛っていた不安は、いつの間にか消えている。・・・・ただ幸せだった。








 家に着くと、大きな馬車が止まっていた。

 村にある、普段見慣れている屋根がない荷台だけのぼろ馬車じゃない。ちゃんと屋根があってきれいに黒塗りされた豪華な馬車。

 引いているのも品のよさそうな黒毛の馬だった。けれど、私はその馬を、こんな田舎の農村にはあまりにも似つかわしくないそれを、知っていた。

 ソフィは馬車と不釣合いな質素な服装をした青年と玄関で話していた。

「あ、エリス、お帰り。どうだった?」

「楽しかったよ」

 彼は、私と目が合うと軽く会釈をした。

「こんばんは、エリスさん」

「いつもより来られるのが早いですね、ウォルフさん。何か用事でも?」

 彼はきれいな白い歯を少し見せて微笑を浮かべる。

「ええ、うちの主人が注文した馬車をコルベールに取りに行ってたんです」

 コルベールはこの村から東に十キロほどいった所にある町で、たくさんの職人が住んでいるので結構有名な町だ。

「うらやましなー、この馬車」

 ソフィはうっとりと、馬車を見とれている。ソフィの気持ちは解かるけど、私たちにはたぶん一生縁のないものだ。

「またいつか、時間があれば乗せてあげますよ」

「え!いいんですか?」

 彼はソフィに優しく微笑みかける。

「ええ。そうだ、―――エリスさん、ソフィさんに代金の九百フィンを渡しておきましたから」

「九百フィン・・・。いいんですか?いつもより少ないはずなのに、そんなにいただいて」

 彼は私にも優しい笑顔を浮かべてくれる。

「勝手に早く来たのはこちらですから。次のときに多めに納入していただければ、それで結構です」

 それはなんだか温かい言葉だった。私の心はまた温かくなった。

 私たちがこの生活を始めるきっかけとなったのが実は彼だった。

 父と母の葬儀を終え、まだ二人が死んだという確かな実感がわかない私たちは、泣くこともできなかった。

 二人の遺体すらなく、私には両親の死は話の中のものでしかなく、ひどく現実感が欠落したものだった。

 同時に私の日常も欠落していた。

 何もする気になれないどころか、何も考えることすらできず、心にぽっかりと大きな穴が開いていた。

 それはソフィも一緒だったと思う。

 あの時のあの子の顔はひどかった。

 姉として、唯一の家族として何か声をかけなければと思いながらも、私は何もしてあげることができなかった。

 声を発すれば最後、ソフィを慰めれば最後、両親の死が現実のものになってしまいそうに思えてならなかった。

 時間が経つにつれ、日常が両親の死を伴って姿を現し、私たちは悲しみ、恐れ、そして、絶望した。

 もちろん、村の人々はそんな私たちによくしてくれた。・・・・・けれど、私たちはお礼を返す余裕さえなかった。

 私は毎晩、町へ作物を売りに出る両親の最後の光景を夢に見、苦しんだ。

 あの頃は、毎晩が同じ絶望に彩られていた。

 何も手付かずなまま一週間が過ぎたころ、彼ウォルフ・メシーヌが訪ねてきた。

 彼は昔父に助けられた者で、少しでも私たちの手助けをしたいと言ってくれた。

 今思えばもっと警戒してしかるべきだったけど、私たちは彼の申し出を受け入れた。

 それから彼は本当によくしてくれた。二週間、村に滞在して私たちの身の回りの世話をしてくれたうえに、手際よく畑の処分をして、そのお金で機織機まで用意してくれた。

 ほかの村の人たちは、親を亡くしたばかりの子供に仕事をさせるなんて、なんて人の気持ちを察しない人だろう、なんて言っていたが、彼の配慮はうれしかった。

 何か手を動かしていれば、いやなことを考えないですむし、疲れてベッドに入れば悪夢にうなされることもない。

 それにいつまでふさぎ込んでいるわけにもいくわけがなかった。お金がなければ生きていけないのだから・・・・・

「今日はこれから――」

「もう遅いですし、教会に泊めてもらうつもりです」

「え!それじゃあ、晩御飯一緒に食べていきませんか?」

 ソフィは胸の前で手を打ち合わせてうれしそうに言った。こういう時、彼女はまぶしいほどの笑顔になる。どこから生まれたのか、私でも父さんでも母さんでもない彼女だけの笑顔だ。

「せっかくですけど、遠慮させてもらいます。夜道で馬車に傷でもつけたら、主人に怒られますから」

「えー」

 ソフィは唇を尖らして、すねてみせる。

 それを見たウォルフさんは困ったように笑う。いつもの光景だった。

 最近ふと思う。

 彼は何者なんだろうかと。

 領主様からお借りした土地を、どうやってお金に換えたのだろうかと。

 でもそんなことよりも、ウォルフさんが本当に私たち姉妹によくしてくれているという事実が、私には一番大切なことだった。

 彼がどんな困難に遭い、父がどのように彼を助けたのかは、彼は話してくれない。

 しかし、彼の私たちに接する態度はそれを言葉以上に表していた。

 彼の見せるへりくだった態度は商売人のそれではなく(もちろん、そうであったとしても私たちに、雇い主である彼が下手に出る理由はないのだが)、人を不快にさせることのない彼の本質的な態度のように感じられる。

「また明日の朝に教会で会えますよ。食事のほうもまたの機会に」

「・・・はい、いつでも待っていますから」

「ありがとうございます、ソフィアさん。――それじゃあ失礼します。よい夜を」

 彼は優しく微笑んで言った。

「「よい夜を」」

 彼の乗る豪華な馬車は静かに走り出した。

 ソフィは大きく手を振ってそれを見送っている。

 太陽は大地を照らすことをやめ、月に私たちを見守る役目を変わろうとしている。

 世界の色は赤から黒へとさらにその彩色を失いつつある。

 彼の乗る馬車はすぐにその黒い姿を闇に溶け込ませた。

 それでも私たちは家にはすぐに入らなかった。

 ソフィは、彼女には似つかわしくない寂しそうな瞳を闇に向けていた。きっと私も、ラヴァと別れるときは同じ目をしているのだろう。

 しかしやがて、彼を知る最後の手段だった馬車の車輪と馬の蹄が立てる音が聞こえなくなると、ソフィはくるっと元気に振り返って私に言った。

「家、入ろっか」

 私は静かにうなずき、ふたりで我が家に入っていった。

 もう日は完全に沈み、夜はどんどん更けていく。

 私たちの夜は長い。そして、昼もまた長い。

 そしてそれは繰り返されていく。

 日常という名の先の見えない螺旋階段を私は一歩一歩ゆっくりと上っていっている。でも、それは決して苦しみや怠惰に満ちたものではない。

 そう、例えば夕食の席で愛しい妹と話すとき。私の大切な恋人の話で盛り上がる。

 そう、例えば唯一の肉親である妹と寝るとき。互いの些細な夢を話し合って、いつのまにか眠りに落ちていく。

 そう、例えばふと彼の感触を唇に思い出すとき。私の胸は切なく苦しく、そして熱くなる。

 私はそんなとき幸せを感じる。

 辛いこともたくさんあった。多分、これからもたくさんあるだろう。

 でも、それ以上にいいこともたくさんある気がする。

 昔は生きていくことが辛かった。自分の運命を呪った。

 でも、今なら言える。

 生きてきてよかった。これからも生きていきたい、と。

 ほんの少しずつだが、自分を偽ることなく、胸を張ってそう言える自信がついてきたように思える。


                               第一章 完

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