第一章 第五章 第二片 影なす雲の上には光ある星ありて
本当はもう二度と彼女とは会わないつもりだった。再会はお互いにとって不幸にしかならないと解っていたから。
僕は女神を憎悪していた。彼女からすべてを奪っていくその存在を、力を。
儀式が終われば僕は教会を去るだろう。しかし、いったいそれにどれほどの意味があるだろう。彼女への贖罪にはなるはずもなく、教会を否定することは世界を否定することに等しい。それなら、いっそう死んでしまえばいい。世界を否定し、すべてを道連れにしてしまえばいい。そう思い、それは弱い自分の逃げなのだと気付く。
ならせめて、自己嫌悪のうちに暮らすなら・・・・・その痛みが心に開いた穴を紛らわせてくれるのではないだろうか、そう思った。それでも、自分で自分を憎むことには、自らの存在を否定することには限界があった。
頭の中で、仕方がなかった・・・という甘い囁きが大きくなっていき、ただ、別の出逢い方ができなかった、出逢ってしまった運命を悲しみ嘆くようになっていた。
たった一日ですら、僕はその苦しみに耐えられなかった。
そんな時、彼女達が行方をくらませたと聞き、捕まったという知らせを聞き、無理を言ってこの任務を賜った。
なぜ、そうしたのか。今になって思えば簡単な理屈だった。つまり僕は彼女に憎まれたかったのだ。彼女に軽蔑され、蔑まれ、存在を否定されたら、それはひどく甘美なことだった。
たとえ、そのことが彼女をさらに追い詰めることになっても、どうでもいい、そう思っていた。―――――先程までの僕は壊れかけていた。
あの時、意識を失った彼女の華奢な体を抱いた瞬間、自分がいかに弱く、儚いものに甘えようとしていたのかを知った。
守るべきものを自らの手で何度も、何度も傷付けていた現実に、取り返しのつかないことをしてしまったことに気付いた。
彼女に身分を明かすべきではなかった。
こんな偽りだらけの「ウォルフ・メシーヌ」という人間であっても彼女の中ではかけがえのない存在だったのだ。彼女にとっては一筋の希望の光だったのかもしれない。それを僕は壊したのだ。
あれほど自分が犯してしまった罪を憎みながら、また過ちを犯す。これが人の業というのなら、弱さというのなら、仕方がないのかもしれない。
それでも、自分を許せなかった。
だが、だからといって何ができるだろうか?
今の僕にできることはほとんど何もない。ただ、彼女を守ることだけ。
何かに八つ当たりしたい衝動に駆られたが、そんな贅沢をする資格すらないと歯を噛み締め行き場のない怒りを紛らわす。昨日の夜からそんなことを繰り返していた。疲れが溜まり苛立ちが募っていくのを自覚し始めた頃、鳥の囀りが聞こえ、夜が明けたのだと知った。
もうすぐ彼女が目覚める。あれほど憎悪に救いを見出していたのに今は恐れを抱いている。
彼女にどんな顔をして会えばいい?いや、それ以前に会うことが許されるのだろうか?・・・僕はいったい何がしたいのだろう?
護りたい? 許されたい? 救いたい? 癒されたい? 触れたい? 側にいたい?
彼女は?
きっと僕を憎むだけでは満たされない。彼女にとってエリス・ミシェルはただ一人の家族。ずっと共に歩んできた半身。それを失った彼女はもうこの世界で一人ぼっちなのだ。
そう自分が奪った、彼女から。何もかも自分が・・・・・
絶え間なく繰り返される自己嫌悪。それは意外な形で終わりを告げた。
扉が、ミシェル家の扉が開いた。そこから顔を出したのは金髪の女性だった。
彼女は少し戸惑ってから、微笑を浮かべて言う。
「おはようございます。朝ごはん作ったんですけど、その、よかったら、えーっと・・・・あの、ウォルフさんでいいですよね?」
上目遣いでこちらを見る彼女をただ見つめることしか出来なかった。
しばらく、まったく予想をしなかったその態度に困惑しつつも、困ったような彼女に反射的に肯いていた。
彼女は嬉しそうに笑った。
「よかった。どうぞ、上がってください」
肯きを両方に対する肯定と取ったのだろう、さっさと家の中に入っていき、それにつられて足が動いて扉をくぐっていた。
彼女に勧められるままテーブルにつき、料理をよそう彼女の後姿を眺めていた。
彼女は鼻歌を歌っていた。いつも通りのソフィア・ミシェル。それが逆に違和感を誘った。先ほど感じた壊れ物の印象が鮮明に甦ってきたが、結局それを表す言葉は見つからず、不器用な僕は彼女を傷付ける言葉しか言うことができなかった。
「あなたは私のことが憎くないのですか?」
一瞬、空気が張り詰めたが、それだけだった。
「・・・・悲しいこと、言うんですね」
そう言って、皿を両手に持って振り返った。二房の髪が揺れ、前髪の間から寂しそうに揺れる瞳が垣間見えた。
彼女は微笑を浮かべる。
「昨日の残り物しかなくて、お口に合うかわかりませんけど」
「・・・自分は最低の人間です。あなたに憎まれて当然の」
その碧い瞳を直視することができず目を逸らす。
「私、あなたのことが好きでした」
過去形が、そんな権利はないとわかっていながら悲しかった。
机に置かれた皿からは暖かな湯気が上っている。幸せな匂いは、しかし、辛い。欲しいものが目の前にあるのに、それは絶対に手に入れることはできない。懺悔のように許しはなく、だが拷問のように苦痛もない。ただ、胸が痛い。
「もし、許されるなら私のわがままを聞いてもらえますか?」
肯いた。僕には選ぶ権利はない。選ぶなんて許されない。
死ねと言われれば、受け入れよう。でも、それは絶対にない。彼女はそんなことを言う女性ではない。それがわかっていたから、次の言葉はまったく見当がつかなかった。
「私にもう少しだけ恋をさせて下さい」
すべてが止まった。思考も、呼吸も、もしかしたら時間さえ。
―――――もう少しだけ恋をさせて下さい。
彼女は・・・、彼女は優しすぎる。その優しさは残酷で・・・・・・・それでいて胸を熱くする。
「・・・・・いいんですか?」
涙声になっていたかもしれない。
頬を薄朱に染め、浮かべたのは聖母の笑みだった。
「はい」
腰が浮き、手が伸びていく。震える手を彼女は両手でそっと包み込んだ。その温もりを手に感じた。
こんな関係許されるわけがない。
幸せになれるわけがない。
先にあるのはきっと不幸だけだ。
理性は感情を律する。本能のまま、欲望のなすがままに生きることは厄災しか生まない。幼い頃からそう教わり、そう心がけてきた。だけど、今回ばかりはダメだ。この溢れ出る熱い感情をどうして冷めた理性がとめることができるだろう?
この喜びはとめられない・・・・・・
「いやっ!」
突然、温もりが胸に飛び込んできた。
すぐにその体が小さく震えていることに気付く。彼女は怯えていた。
「――――――抱きしめてっ・・・!」
かすかに聞こえる人間の暗く、重い足音達。彼女が脅える理由を理解した。・・・・教会に向かう人々だ。
「・・・お願い・・・・抱きしめて下さい」
子供のように頼りない彼女。先ほどとの落差がかえって彼女を抱きしめずに入られなくさせた。一瞬の躊躇いの後、彼女を抱きしめた。
「・・・もっと・・・・もっと、強く・・・!」
ただ彼女を不安から、恐怖から、救い出したくて腕に力を込める。
彼女は何も言わない。ただ僕の胸に顔を押し付けていた。偽りになると知りつつ言葉を発せずにはいられなかった。
「僕があなたを守ります。絶対に。だから、そんなに脅えなくていいんです」
それで彼女が幾分か取り戻したように感じられたのは思い上がりではなかったはずだ。
足音は遠ざかり、家の中には彼女の息使いだけが聞こえていた。
静かだった。
いつのまにか、安らぎ満ち溢れている自分がいた。そっと彼女の頭を撫でようとして手が震えた。拳を一度握り締め金の髪に添える。柔らかな奥に確かな感触と温もりが伝わってきた。
「・・・・どこか遠くに・・・」
彼女は顔を上げて、慌てて体を離した。
「――――ごめんなさい。今のなしです。・・・・・忘れてください」
必死になっているそんな彼女が微笑ましくいじらしかった。
「いいですよ」
「え」
「いきましょう、どこかに」
言ってスープを飲んだ。少し冷めかけていたけれども、ほのかな温もりが優しかった。思えばちゃんとした食事は一日ぶりだった。
「おいしいです」
「あ、ありがとうございます」
「冷め切らないうちに食べましょう」
「はい」
その食事は会話はなかったが、優しい雰囲気に包まれていた。
「ごちそうさま」
「おそまつさまでした」
「村はずれの川で待っていてください。迎えにいきます」
「・・・本当にいいんですか?」
その問いが胸に刺さった。自分が今の今まで嘘をついてきたことを思い出す。
内から聞こえてくる良心のような黒い声を必死に押し隠して答えた。
「大丈夫ですよ。行きたい所、考えておいてください」
「はい」
その笑みはどこか彼女の姉を連想させるものだった。薄い膜がかかった、どこか寂しげな笑みは僕が作ったものなのだろう。できることならその膜を剥ぎ取ってあげたい。
「少し、遅くなるかもしれませんが必ず行きますから」
「はい、待ってます」
そう言って彼女はまた微笑みを浮かべた。
この村の領主館は現在「神託の騎士団」が借用していた。顔パスで城の中に入ると、聞こえたのは床の下から響く男の叫びだった。
大階段の前に立つ警備の少年が僕に気付き、すぐに握った右手を胸に斜めに掲げる敬礼をした。
「君」
「はっ、何でしょうか、聖士」
「ラインビッヒ隊長にお会いしたい。取り次いでもらえるか?」
「承りました。お持ちください」
聖士。あれほど、誇っていたその称号は、今は重く、煩わしい。
彼は城の奥に走っていった。
僧兵、特に「神託の騎士団」の始まりは早い。幼少の頃から信仰を磨き、特に敬虔な選ばれた子供だけが九歳の頃から訓練が始まる。十三になるまでに一通りの武術、神学を学び更なる篩にかけられる。
残った数百名の候補が教国の最果てに近い森に裸同然で放り込まれる。そして聖都ラクファカーンに早くたどり着いた者が試験を通るということだけを教えられる。ただし、一般人とは交わってはならないという条件付で。
後から知ったことなのだが、この試験には大きな仕掛けがある。少年一人一人に教会直属の斥候兵がつき、彼らを監視するのだ。そして、「神託の騎士団」に相応しい人格、実力を判別する。いくら早くたどり着こうとも、聖都に至るまでに相応しからぬ行動を取ったなら不合格となる。逆にいくら人格が優れていようとも、実力がなければ切られる。
そういった試練をくぐり抜けてきた者は晴れて「神託の騎士団」の一員となり、教会に仕えることが許されるのだ。
そして、特に秀でた者は誓約の儀の際に、教皇本人から聖士の称号を与えられる。
あの頃の僕はまっすぐで、誇りと、自信と、そして信仰を持って世界の、女神のためにすべてを捧げることを誓った。
ラインビッヒ聖士の言葉もまた心を打った。「神託の騎士団」はこの世の罪をすべて背負い悪となるために存在していると。――――すべては女神のために。自分に課せられた使命の大きさを誇りに思った。
神託の盾に配属が決まり、いくつかの任務をこなし、初の単独任務として要人警護を授かった時は本当に嬉しかった。
いかなる困難もそのすべてを乗り切ってみせると思っていた。
そして、彼女達、姉妹と出逢った。
時が経つにつれ、演技だった自然が自然になっていった。
月に一度、彼女と会うことがこの上ない楽しみになっていった。
気が付くと、影ながら彼女達を見守ることさえ僕の中で任務ではなくなっていた。
いつまでもこの関係は変わらない。変わるなど考えもしなかった。
やがて、夢の如く一瞬ですべて変わってしまった。
「聖士。ラインビッヒ隊長のもとにご案内します」
彼の年の頃は十五歳ぐらいだろうか。彼の眼は真っ直ぐで澄み切っていて、今は遠い昔を懐かしく思った。
通された部屋は書斎だった。本で埋め尽くされていて、品の良い調度品と共にこの城の主人の人格の良さがうかがえた。
「どうした、ウィリアム?」
隊長は多くの書物に挟まれた机に向かってペンを走らせていた。
「よく見ておくといい。お前もいずれはこういう雑務に埋もれることになるだろうからな。地位が高くなるにつれ、剣よりもペンを使うことの方が多くなる。騎士の笑い者だ」
そう言って彼は一人笑った。
「・・・ラインビッヒ隊長、馬を一頭お貸しいただきたい」
すっと眼が細められた。返ってきたのは静かな問いだった。
「ウィリアム、お前は我等の使命は何だと思う?」
彼が口にしたのは何度も自問自答した問いだった。同時に今の僕を試す最も適当な試金石となる問い。答えはもう決まっている。
「神託を守ることだと思っていました。しかし、今は、目の前の一人の笑顔を守ることが女神の御為になると思っています」
額を汗が伝った。隊長の目は真っ直ぐ自分を見ている。背信と取られても仕方ない発言だった。築いた覚悟が揺らぎ、それを抑えてこちらから睨み返す。
彼は小さく笑った。
「かまわんぞ」
意外な答えにとっさに言葉がでてこなかった。
隊長は手早くペンを走らせ、紙を差し出す。
「許可書だ。諸々の品もつけておいた。・・・・どうした、いらないのか?」
許可書を受け取り目を通す。馬一頭。食料や野宿用の品。そして、ソフィア・ミシェルの監視の翌日までの解除命令。
あまりにも寛大な処置だった。
「隊長・・・」
「シオンはお前の馬だ。他も聖士としての権限の範疇。気にすることはない」
「――――ありがとうございます」
彼は徐に椅子から立ち上がった。
「ウィリアム、お前さっき目の前の一人と言ったな?」
「はい」
「幸せというものを量でしか捉えることができない人間は多い。いや、ほとんどがそうだ。彼らを前にして、お前はそのすべてに正面から同じ言葉を言えるか?」
「できると、信じています」
「人はエゴに生きる生き物だ。同時に、他者と価値観の共有を欲する生き物でもある。それゆえに、エゴを進む人間はその内面に大きな自己矛盾を抱えている。願いが純粋であるほど大儀に踊らされ、罪を重ね、他者の価値観に染まり、気付けばもう後戻りはきかぬ。そして、理想と現実の軋轢に苦しむ」
先ほどまでの僕そのものを表す言葉に戸惑いが生まれる。
教会を信じ、命令に誇りを持っていた自分。大義に殉じると覚悟していた自分。傷付けてしまった自分と、救いたいと願う自分。傷付くことを恐れる自分。失うことを恐れ、それでいて求めてしまう自分。それはすべて迷いで唯一つ――――彼女か、その他の大勢か―――
しかし、僕は答えを見つけた。あのか細い体を抱いた時、答えは自ずと定まった。それは絶望に染まっていても贖罪であり、救済だった。
「ウィリアム、お前はまだ若いし何も知らない。―――――明日の夜までには帰って来い」
その目は温かで、それでいて哀しみが醸しでていた。その瞳には静かな深みがあって、自分のすべてを持っても敵わないような錯覚に思わず目を逸らしていた。
「・・・何も知らないのは、ラインビッヒ隊長、貴方のほうです」
深く頭を下げてから、部屋を出た。
まるで子供のような態度に、自分の器量の小ささに自己嫌悪した。それを城中に木霊する憎しみの声がさらに加速させた。そう、僕には彼を救い出すこともできない。そして、エリスさんも・・・・。
馬に乗り彼女のもとに向かう時も無力感だけが大きくなっていった。
日はもう高く登り、村人たちは農作業に精を出している。しかし、どことなく彼らの表情には落差があった。
顔を輝かしている者とどこか陰のある者。大多数は前者だったが、それゆえに後者が目を引いた。そんな彼らを見て嬉しく思った。神よりも彼女達のことを気にかけてくれるそんな人間が少しぐらいいてもいい。僕が彼女を守りたいと思うのは決して身勝手な願いではないはずだ。
そう思うと隊長の言葉が思い出される。
僕は、やはり弱い人間なのだろう。たったこれだけのことで心が揺らいでしまう。でも、それでもただひとつ己の選択は貫きたい。後悔しないために。
認めよう。
僕は彼女が欲しい。ほかの何を失ってもただ彼女だけは笑っていて欲しい。そして、僕を見ていて欲しい。
こんなにも誰かを好きになったのは初めてだった。自分がこんなにも醜い欲望を持っていることを初めて知った。
でも、そんな自分は不思議と嫌いじゃない。むしろ逆だ。
だからこそここまで頑張ることができる。ただ、彼女さえ笑顔でいてくれれば、今まで築き上げてきたものを捨ててもいいと思える。僕を見つけ嬉しそうに微笑む彼女を見て、そう確信した。そして強く思った、救いたいと。
「ソフィアさん、危ないですからもう少ししっかり捕まっていてください」
「・・・はい」
別に疚しい気持ちがあったわけではない。純粋後ろにいる彼女が少し不安定で危なっかしく心配だったのだ。
少し躊躇った後答えてから、彼女は体に回した腕に力を込めた。すると、柔らかな感触が背中に広まり、鼓動が一気にはやまった。
「あ・・・」
今更ながら自分の言った言葉の意味に気付き、恥ずかしさがこみ上げてきた。何か言おうとしても言葉が出ず、彼女が温もりと重さだけがその存在を大きくしていった。
「・・・白馬ですね。まるでお伽噺の中のお姫様みたい。こうやって男の人の後ろで馬に乗るなんて考えたこともなかった」
彼女に救われ、それを逃すまいと言葉を続けた。
「ソフィアさんがお姫様なら、自分は差し詰め姫を守る騎士ですか?」
「違います。ウォルフさんは王子様です」
真面目で、温かな声が背後から聞こえた。言葉が詰まった。また、闇から囁く声が聞こえた。
それを必死に振り払って言った。
「王子なんて柄じゃないです」
言って馬を駆けた。彼女が短い悲鳴を上げて抱きついてくる。
今度はわざとだった。
嬉しかったのだ、彼女の言葉が。そして照れくさかった。
こんな僕を彼女は大切だと言ってくれた。好きだといってくれた。そんな彼女にただ言いたかった。
「ありがとうございます」
「え?」
早口になっていた。たったの一言なのに、それが異常に恥ずかしかった。
誤魔化すように、今一度手綱を締める。
「しっかり掴まっていてください。とばしますよ」
「え、ちょっ・・・・きゃっ!!」
悲鳴を上げ、慌てる彼女が愉快で、僕は笑っていた。
「うわぁーー」
春先の海は冬の荒々しさが消え、穏やかな表情を見せていた。夏の煌きとまではいかないまでも、それが逆に爽やかな美しさを醸し出している。
彼女は浜辺に着くなり馬から降り海際へと走っていって歓声を上げた。かと思うと、馬を木に繋いでいる間、彼女は静かに海を眺めていた。
海風になびく透き通った金髪。薄いルージュのスカート。その隙間から見える白い肌。そして、青い海と澄み切った蒼穹。まるで一枚の名画を見ているような錯覚を覚える。
髪を押さえる彼女の動作すらそれに美しさを加える要素だった。
「・・・きれい」
「海は初めてですか?」
「いえ、昔両親に待ちに連れて行ってもらうときに馬車の上から。でも、こうやって近くで見るのは初めてです。いつかゆっくり来てみたいなって思っていたんです」
「自分も、海に来るのはずいぶん久しぶりです」
ふと彼女は靴を脱いで、水に足をつけて声を上げた。
「冷たーい。―――でも気持ちいい!」
スカートを両手で上げて、そのまま沖へと歩みを進めていく。
貝殻か石で脚を切らないように気も付けるようにと言おうと思った瞬間、彼女は「痛っ」と短い声を上げたその場にしゃがみ込んだ。
スカートが水面に広がり、波に揺れる。
慌てて彼女に駆け寄った。
「ソフィアさん!大丈夫で――・・・!」
突然、視界を水が覆った。
何が起こったかわからず呆然としていると、彼女は手をすくいあげたまま肩を震わせて笑い出した。
「ふふふ・・・きゃっ!」
やりかえした。今度は彼女が目を見開いて驚く番だった。
「お返しです」
瞬きをして、彼女の薄紅色の唇が攻撃的に釣り上がる。
「やりましたね」
そこからは互いに海水の掛け合いだった。
互いに服が濡れることも気にせず、途中からは声を上げてはしゃいだ。――――そう、子供のように純心な恋人のように・・・・・振舞おうと必死だった。心の奥底の不安と痛みを掻き紛らわすために――――
その後、近くにあった海辺の洞窟で火をおこして濡れた服を木を立てて干した。幸い、持たされた荷物の中にはテント用の大きな布があってそれを裂いて服代わりにした。
彼女が着替える間、鼓動の高鳴りを抑えるので精一杯だった。
かと言って、着替えが終わった後も彼女を直視できなかった。薄い布の下には彼女の白い肌が、裸の体がある、そう思うと歯止めが利きそうになかった。
彼女もやはり恥ずかしかったのだろう。顔はずっと朱色に染まっていた。彼女の顔を見てこちらが恥ずかしくなり、それを見て彼女の顔がさらに上気する。露わな鎖骨から首にかけても赤く染まり、ますますこっちが目のやり場に困る。そんなことを繰り返して干し肉を焼き二人で食べた。
日が完全に暮れ、気の紛らしようがなくなると背中を合わせて座った。
気恥ずかしさだけが空気を支配し、食事が終わって以来長い間言葉交わさなかった。沈黙を破ったのは彼女だった。
「・・・・ありがとうございました。今日は本当に楽しかったです」
「自分もこんなに馬鹿をしたのは初めてかもしれません」
そう、今日という日は終わろうとしている。それはこの時間の終わり。
嫌だった。
「逃げませんか?」
「・・・え」
「このまま一緒にどこか遠くに、二人で教会も、誰も知らないところに逃げましょう」
言いながら彼女の答えは解っていた。これは僕の欲望であって、彼女の願いでないことも解っていた。だけど、言わずにはいられなかった。言ってしまうと頭に血がのぼりカーッと熱を帯びた。高揚した思考に彼女の言葉が染み渡る―――――「ごめんなさい」彼女は静かに言った。
「私はいけません。エリスの側にいます。いなければいけないんです。―――――――えっ・・・!」
気がつくと彼女の体が下にあった。はだけた布の隙間からは白い肌が顕になっている。
「あっ・・」
自分の荒い息だけがいやにはっきりと聞こえる。
彼女は目を見開いて僕を見上げていた。
「僕はあなたが欲しい」
言って、唇を無理やり押し付けた。彼女は抵抗する素振りすら見せなかった。悲しいぐらい溢れていた欲望が一気に波を引いていった。
気がつくと泣いていた。
「どうして・・・どうして、あなたは・・・!」
「これは優しさなんかじゃないんです」
そう言って、彼女は優しく僕を抱き寄せた。
豊かな胸が視界を多い、その柔らかさと温かさに涙と嗚咽が漏れた。
「私は弱くって、なのに強がる。色々なものが欲しくって、でも失うのが怖い。だから、素直になれなくって、甘えることができなくって・・・・。―――そんな人間なんです、私は」
泣いているのに、手は彼女を抱きしめていた。
「・・・・・ごめんな――」
それ以上聞くのが辛くて、顔をあげ、唇をふさいだ。
「ウォルフさん・・・・あっ―――ん・・・・」
その行為に、少なくとも僕に安らぎはなかった。あるのは欲望の充足と飽くことのない快感。それは罪悪感と悔恨の念を深めていく。
そうと解っていながら彼女を抱く手をとめることはできなかった。
彼女は何の抵抗もしなかった。逆に進んで受け入れることもなかった。ただ、痛みに顔を歪めながら、それでも僕を優しく抱きしめてくれた。
そのしなやかな肢体を感じるたびに、その切なげな喘ぎを聞くたびに、二人の交わりは、ほとんどが僕のために、その激しさを増していった。
洞窟にこだまする二人の声と淫らな音はどこか遠くのことのように、まるで他人の行為から生じるもののように聞こえていた。艶かしい彼女の肌の動きさえまるで霧に包まれた夢の中のものに思えていた。ただ、触覚を通して伝わってくる温もりと快感だけがその行為を現実のものにせしめていた。
だからこそ僕はすべてをそれに傾け、終わり近づくにつれ快感以外のあらゆる感情はその裏に隠れていき、やがて、絶頂に達したあとの脱力感と充足感のうちに意識は闇の中へ沈んでいった・・・・・
微かな光と波の音に目を覚ますと、隣に彼女はいなかった。代わりに僕の服が畳まれて置かれていた。
横目でそれを確認して、腕で目を覆った。すると、昨夜の光景が鮮明に蘇る。揺れる肉体。艶かしい肢体。切なげに細められた瞳。そのすべてが彼女であり、彼女でなかった。
正直安心していた。
どんな顔をして彼女に会えばいいのかわからなかった。彼女は僕のことが好きだと言ってくれた。僕もそうだった。その彼女を僕は抱いた。あろうことか押し倒し・・・・・・・・犯した。
抵抗されていれば、いかに救われていただろうか。拒絶されていれば、二人の関係の何も変わらずに済んだのかもしれない。
でも、彼女は抗わなかった。
彼女がすべてを運命として受け入れているようで堪らなかった。だからこそ止めることができなかった。最後までやりきることですべてを遠くに押しやりたかった。その結果がこれだ・・・・・・・
「ウォルフさん」
腕をどかすと彼女が立っていた。
「よかった。ちょうど起こそうとしてたとこなんです」
朝ご飯です、と言って微笑を浮かべた。
「といってもパンと豆スープですけど」
彼女はかなり早く目を覚ましていたようだ。それに気付かないほどに僕は疲れていたのだろう。丸三日は寝ていなかったのだし当然といえば当然だが、神託の盾としては情けない限りだった。
いきなり彼女が、あ!っと声をあげた。
「どうしたんです?」
「あの・・えっと・・・・。おはようございます」
すぐにその顔が朱色に染まる。不意をつかれた。こっちまで恥ずかしくなる。
「あ・・・・おはようございます」
他になんと言っていいのかわからず黙ってしまうと、しばらくして彼女はくすくすと笑い出した。
「・・・ごはん食べましょうか」
彼女がパンをかじるのをぼーっと見ていた。いや、見惚れていたというほうが適当かもしれない。
すべてが変わって見えていた。
以前は可愛いとか綺麗だとか思っていたその横顔が、今はただ愛しい。
多分それは彼女が変わったからだ。他人から身内に、体を重ね合うことで確かに自分の中で彼女は変わってしまった。
彼女を見ていると不思議と悲しみは消えていった。彼女を抱いている時も、先ほど目を覚ました時でさえ消えることはないと信じて疑わなかったそれがだ。
彼女の優しさは僕を罰するのではなく癒してくれた。
しかし、同時に安らぎを感じている今を、このままではいけないとも思う自分がいる。
「・・・・あの、私の顔に何かついてますか?」
「あっ、いえ」
慌てて目を逸らすと、彼女は笑い出した。
そして、不意に言った。
「ねぇ、ウォルフさん。どうして人は愛情を表現するのに唇を重ねると思いますか?」
不意の質問に答えはすぐには思い浮かばなかった。言われて見れば不思議だ。なぜ人は体の中で、特に口を合わせることに幸福を感じるのだろう?瞳でもなく、指でもなく、生殖器でもなく、唇に愛を想うのだろう?
僕も確かに彼女の唇を求めた。彼女も昨日の朝会った時、僕の唇を求めてきた。
それはたぶん本能だった。
答えずにいると、彼女はゆっくりと話し出した。
「わたしは思うんです。口って息をしたり、食べものを食べたり、生きていくのに必要なことをするところですよね。だからきっと、人は唇を合わせることでお互いに求め合うんだと思います。もうその相手なしでは生きていけないって」
そうして、彼女は柔らかな微笑みを浮かべて言った。
「私、あなたのことが大好きです」
「ソフィアさん・・・・」
「わがままを聞いてもらってありがとうございました。いっぱい恋をさせてもらえました。本当に私にはもったいないぐらい」
思わず、愛している。守ってやる。そう言おうとした。
しかし、彼女の言葉のほうが早かった。
「私まだエリスにキスしたことがないんです。だから、最後に私のありがとうの気持ちを伝えたい。最後のお願いです。私を姉のところに連れて行ってください」
穏やかな微笑みさえ浮かべて青い瞳が僕を見ていた。
だから、他の言葉すべてを飲み込んでこう答えるしかなかった。
「わかりました。あなたをエリス・ミシェルのところにお連れします」
「ありがとう、ウォルフ」
教会に入っていく彼女の後姿を見送った。
彼女は振り返らなかった。凛として進んでいった。その後姿にこの短い二日間を重ね、過去を重ね、出会いを重ねた。
別れの言葉がなくともわかってしまった。これから彼女が何をしようとしているのかを。
教会はそれを止めない。黙認する。必要なのは半身なる贄と楔それだけだから。
僕に彼女の決意をとめることはできない。とめる資格もなければ、勇気もない。
それでも思った。守りたい。僕のすべてをかけて・・・・彼女を。
ほかには何もいらない。この力、この命そのすべてをかけてできることをする。
それがきっと捜し求めた答え。踵を返した。その先に待つものを覚悟して。
作者の諸事情により、次回更新予定日は12月中に変更させていただきました。
本当に申し訳ありません。