16
結局僕は体調を崩し、一日杉山の家に厄介になる事になった。貴美子おばさんが布団を敷いてくれたので横になり、熱を測ると三十八度の熱があった。僕は身体を暖かくされて、用意された市販の風邪薬を飲んだ。体調を崩した事はLINEで連絡を入れたのと、貴美子おばさんに僕の家の電話番号を教えて連絡をして貰った。今日はとても山梨から東京まで戻れそうにないので、ここで一泊すると連絡してもらった。帰ったら父と母のお叱りがあるだろうが、今はそれどころではなかった。
布団の上で横になる僕は風邪をひいて学校を休む田舎の小学生みたいだった。もうすぐ大学生になるのに、山奥の民家で子供っぽいシチュエーションを体験するとは思わなかった。
横になってしばらくすると、杉山と祐樹さんは車で買い物に出かけると言って家を出て行った。僕は杉山が遠くに行ってしまうので心細くなったが、引き留める立場に僕は居なかった。杉山は僕の世界から離れて、祐樹さんと二人だけの世界に行ってしまうのだ。僕はそんな心細い気持ちを忘れようと思い、瞳を閉じた。
それから僕は深い眠りに落ちた。古井戸の底に溜まった濁り水みたいに、僕の意識は暗く静かな場所に沈んでいた。そして目が覚めると、僕は家に杉山と祐樹さんが戻ってくる気配がした。
暫くすると玄関のガラス戸が開いて、二人が上がり込んできた。廊下を歩く足音が聞こえて襖が開くと、杉山が顔を覗かせてこう言った。
「芦川、気分はどう?」
「さっきよりはいい」
僕は布団に寝たまま答えた。寝汗をかいたお陰で気分は優れたが、まだ完全に回復した訳ではなさそうだった。
「塩山の街ではちみつとレモンを買ってきたよ。お湯で解いたはちみつレモン飲む?」
「貰う」
僕はそう答えた。汗のせいで喉が渇き、体がミネラルとクエン酸を求めている気がした。
四分程布団の上で待つと、杉山が湯気と一緒に甘酸っぱい香りを放つマグカップを持ってきてくれた。杉山は膝をつき、傍らにマグカップを載せたお盆を置いた。インディゴのジーンズに包まれた杉山の足はなだらかな曲線を描き、古代の女性を象った土偶の曲線に通じる柔らかさがあった。
僕は身体を起こして、杉山が用意してくれたはちみつレモンのマグカップを受け取った。中を覗くと、半月切りにされたスライスレモンがうっすら濁ったお湯の中に浮かんでいた。
「ありがとう。頂きます」
僕はそう断ってはちみつレモンを飲んだ。柔らかい炭火で沸かしたお湯の口当たりの後に、はちみつの甘味とレモンの酸味が来る。レモン汁を絞って入れてくれたのだろう。
「どう?」
杉山が僕に尋ねる。はちみつレモンのうまみは絞り切った雑巾みたいだった僕の中に沁みわたって、弱った細胞をよみがえらせてくれる。
「ありがとう。すごく美味しい。沁みるよ」
僕はそう答えた。まだ自分でも体力が回復しきっていない言葉だったが、先程よりは身体が軽かった。
「これ、お母さんが教えてくれたレシピで作ったの。ここにきて役に立った唯一のスキル。今年の初めに祐樹さんに出したら、喜んでくれたよ」
杉山は満足そうに答えた。このはちみつレモンを飲んだのは僕だけではないのかと思ったが、今更何を言っているのだと僕は自分を叱った。
「夕飯は、何か食べられる?」
「あまり味の濃くないものがいい。おかゆとか雑炊みたいなのがいい」
「わかった。もうしばらく寝ているといいわ」
杉山はそう言って、僕の元から離れて行った。僕は布団脇のお盆に半分残ったはちみつレモンを置いて、また横になった。
僕は杉山がしてくれた優しさの感触を心の掌で味わいながら目を閉じた。一連の厚意は僕を想っての事ではなく、僕を弱って倒れそうな人間を救う為の厚意なのだ。杉山の中に、僕はもうかつてのクラスメイトでしかない。僕は何回か一緒に行動を共にした間柄の人間で、それ以上の存在ではないのだ。僕は手元に一緒に撮った写真があったから違うと思っていたが、杉山の中には一緒に写っている相手でしかないのだ。現に杉山には想い人が居て、この村でより良い日々を送っているではないか。それに僕が何か意見する事が出来るのだろうか。出来ないししてはいけない。そう思って僕はまた眠りに着いた。
また目を覚ますと、今度は鼻先に料理の匂いが漂ってきた。味噌汁と野菜の煮物の匂いは分かったが、後は分からなかった。僕は寝返りを打たずに、浅い眠りと覚醒の間を暫く漂った。するとまた襖が開いて、杉山がお盆に乗った小どんぶりを持ってきた。飲みかけのはちみつレモンはいつの間にか下げられてしまったらしい。杉山が僕の元におかゆの入った小どんぶりを置くと、僕は布団から起き上がった。
「卵がゆを作ったよ。食べられる?」
「とりあえず」
僕はそう答えた。杉山が手渡してくれた卵がゆは程よい暖かさで、息で冷まさなくとも食べられる感じがした。
「ありがとう。頂きます」
僕はそう断って、蓮華で卵がゆをすくって口に運んだ。程よい塩味が病んだ心身に最高のうまみを与えてくれる。
「美味しい」
咀嚼した僕はそう答えた。
「よかった。これは貴美子おばさんから作り方を習ったの」
「そう」
僕はそう答えた。そして卵がゆを食べ終えて心の余裕が生まれた僕は、用意していた言葉を話す事にした。
「ここの生活はどう。高校に通わなくなってからどうなった?」
僕の言葉に杉山は表情一つ変えずにこう答える。
「こっちに来てから最初は戸惑ったけれど、家の仕事や地域の仕事を手伝うようになってそんな気持ちは消えていった。東京に居た頃は、正直自分の寂しさを紛らわしたいのと誰かに見てもらいたい気持ちが合わさって無理をしていたと思う」
杉山はそこで言葉を区切ると、神妙な顔つきになってこう続けた。
「だから、中学の同級生とか他の所で仲良くなった男子とよく遊んだけれど、そのせいで結局自分の道を誤らせちゃった。芦川もそうやって付き合っていた相手の一人。私のせいで何か迷惑を掛けたなら謝るわ」
僕は何も言えなくなった。只の遊び相手に過ぎなかったと杉山から言われた衝撃的だったからではない。杉山が味わってきた苦しさの断片を垣間見た気がして、僕を黙らせたのだった。
「でも高校って言う箱庭を追い出されて、この村に来てそんな考えも変わった。広くて散らばった生活よりも、狭いけれど密集した生活の方が私には似合う気がしたの。学校とは違う、もっと抽象的で深みのある関係に出会えた。だから私は余り以前に執着する事もやめたし、祐樹さんと言う人とも出会えた」
「そうか、良かった」
僕は小さく相槌を打つ。
「今まで自分はもっと色んなことが出来るって思っていたし、学校とかでもそう教え込まれていたけれど、実際は違った。私にはこの村で小さく生きるのが幸せなんだって。だから、気持ちが向いた相手も一人だけになった」
「好きなんだ。祐樹さんの事」
「ええ。だからね、年が明けて春になったら私、祐樹さんと結婚する」
僕は何も言わなかった。彼女の気持ちを引き留める事も出来ないし、より良い日々を送れる場所と相手を手に入れる事が出来た彼女の事に意見を言う事なんて出来やしなかった。
「そうか、よかった」
甘い嬉しさの中に隠し味程度の苦みを僕は味わいながら、僕はそう答えた。
「だから、芦川や他の皆と過ごせた短い高校生活は楽しかった。今日はなんだか高校生活に最後の区切りが着いた気がする。来てくれてありがとう」
杉山はそう言って空いた小どんぶりを下げ、僕の傍らから離れた。襖が閉じると、彼女は完全に僕の中から別の世界へと移ったのだった。後に残ったのは、スマートフォンに残った写真データと記憶だけだ。僕は満足したような微笑みを漏らし、布団に横になった。
翌日、体調が回復した僕は杉山の住む丹波山村を後にする事となった。杉山と祐樹さん、それに貴美子おばさんの三人はバス停まで見送りに来てくれた。
「それじゃ、また会う日があれば」
僕はそう言って、奥多摩方面に行くバスに乗った。バスが丹波山村から遠ざかるにしたがって、僕の中で杉山の事も遠ざかって行き、僕の人生の中で過ごした高校生活も遠く過去の物になるような気がした。




