山田登世子「メディアのテロル」やさしいまとめ
この文章は、現代社会における「距離感の喪失」と、それを引き起こすメディアの影響について語っている。
■p272・1~10(ページ数は、数研出版「論理国語」のもの)
〇〈はるかなもの〉ってなに?
「はるかなもの」とは、私たちから遠く離れていて、簡単には触れられない存在のこと。 それは人であれば「権威」、物であれば「憧れ」、風景であれば「旅への誘い」といった、距離があるからこそ生まれる感情や意味を持っていた。
でも今、その「距離」がどんどん消えていってる…。
〇その原因はメディア
テレビやネットなどのメディアは、遠くのものをすぐ近くに見せてくれる。 マクルーハンというメディア研究者は、テレビを「近視のメディア」と呼んだ。 つまり、テレビは物事の全体像や深さをぼやかして、断片的なイメージだけを感覚的に見せてくる。
その結果、私たちは「今この瞬間」にばかり巻き込まれて、遠くのものに思いを馳せる余裕がなくなってしまう。
〇まとめ
この文章は、「メディアによって〈はるかなもの〉が失われつつある」という警鐘であり、かつては距離があるからこそ生まれた尊敬や憧れが、メディアによってすぐ手の届くものになり、私たちの感覚や世界の見方が変わってしまったことの指摘。
■p272・11~273・12
〇「いながらにして遠くを感じる」とは?
テレビやネットなどのメディアは、家にいながらにして遠くの世界を見せてくれる。でもこの文章では、それが「贈りもの」であると同時に、「〈はるけさ〉を奪う破壊の力」だって言っている。
つまり、遠くにあるものをすぐに見られるようになったことで、 本来感じていた「距離のあるものへの憧れ」や「手の届かないものへの敬意」が失われてしまうってこと。
〇〈はるけさ〉とは?
「はるけさ」は、遠くにあるものの持つ神秘性や、近づけないからこそ感じる特別な雰囲気のこと。 それは、物理的な距離だけじゃなくて、心の距離や時間の隔たりも含んでいる。
〇ベンヤミンとアウラの話
この考え方を深めたのが、哲学者のヴァルター・ベンヤミン。 彼は「複製技術時代の芸術作品」という論文で、芸術が持っていた「アウラ(独特の雰囲気や一回性)」が、写真や映画などの複製技術によって失われたと語った。
たとえば、昔の絵画は「その場に行かないと見られない」「一度きりの体験」だったけど、 今はコピーされた画像をスマホで見られる。それによって、芸術の持っていた「はるけさ」や「アウラ」が消えてしまったっていうこと。
〇まとめ
・メディアは遠くのものをすぐ近くに届けてくれるが、そのせいで「遠くにあるものの特別さ=はるけさ」が失われてしまう。
・ベンヤミンは、複製技術によって芸術の「一回性」や「神秘性」が失われることを「アウラの喪失」と呼んだ。
・それは芸術だけじゃなく、私たちの「生の感覚」全体に影響している。
■p273・13~274・9
この文章のテーマは「距離」と「アウラ」
まず、「距離の問題」とは、芸術作品が本来持っていた“遠さ”――つまり、簡単には触れられない特別な雰囲気――が、複製技術によって失われてしまうことを指摘。
〇複製技術がもたらす「近さ」
写真や印刷などの技術によって、芸術作品は大量にコピーされ、誰でもどこでも見られるようになった。 その結果、芸術が「マス(大衆)」に近づきすぎてしまい、もともと持っていた神秘的な雰囲気――それが「アウラ」――が壊れてしまう。
〇アウラとは?
ベンヤミンによると、アウラとは「どんなに近くにあっても遠いはるけさを思わせる一回限りの現象」。 つまり、芸術作品が持つ「一度きりの出会い」や「近づきがたい特別さ」のこと。
この「はるけさ」は、空間的にも時間的にも、簡単には手が届かないからこそ感じられるもの。 でも、複製技術によってその距離がなくなり、作品が“いつでもどこでも見られるもの”になってしまうと、アウラは消えてしまう。
〇まとめ
・複製技術は芸術作品を大量に広めることで、「遠さ」や「一回性」を失わせる。
・その結果、作品が持っていた「アウラ(はるけさ)」が壊れてしまう。
・アウラの本質は「近づきがたいこと」。だから「近さ」はその対極にある。
■p274・10~275・10
〇メディアが変えてしまう「時間の感覚」
この文章の中心は、「マスメディアが私たちの時間の感じ方を根本から変えてしまう」ということ。
テレビやネットなどのメディアは、すべてを「今この瞬間=アクチュアル」に押し込めてしまう。 その結果、時間の「濃淡」――たとえば、昔の記憶の深さや未来への期待――が失われて、 時間がただの「平らな面」みたいになってしまう。
〇経験の世界もフラットに?
時間がフラットになると、私たちの「経験」も凹凸を失ってしまう。 つまり、過去の積み重ねや物語の深みがなくなって、ただ「今だけ」が強調されるようになる。
この状態を、ベンヤミンは「人間的時間に対するテロル(暴力)」と呼んだ。ちょっと強い言葉だけど、それだけ深刻な変化だってこと。
〇「物語」と「情報」の違い
ベンヤミンは、こうした経験の崩壊を「物語」と「情報」の違いで説明している。
・物語は、遠い場所や昔の出来事を、語り手が自分の経験として語り伝えるもの。 聞き手はそこから助言を得たり、自分の記憶に根づかせたりする。
・情報は、ただ事実を即座に伝えるだけ。 深みや余韻がなく、記憶にも残りにくい。
・物語は「経験の交換」だけど、情報は「即時の消費」。
〇まとめ
・メディアは「今この瞬間」ばかりを強調して、時間の深みを失わせる。
・それによって、私たちの「経験」も浅く、平らになってしまう。
・ベンヤミンは、物語のような「遠くから持ち帰られた経験」が失われることを危機と見ていた。
■p275・11~276・16
〇物語は「手仕事的」な伝達
ベンヤミンは、物語の伝え方を「手仕事的」と呼んでいる。つまり、機械的に大量生産される情報とは違って、物語は人の手で、時間をかけて、丁寧に語り継がれていくもの。
この「手仕事的」っていうのは、ゆっくりと記憶に染み込んでいくような伝達のこと。 すぐに消費される情報とは違って、物語は時間の中で発酵して、経験として根づいていく。
〇「退屈」と「時間の厚み」
「退屈こそ経験という卵をかえす夢の鳥」とは、退屈な時間こそが、深い経験を育てる土壌になるということ。
手仕事的な時間は、ただの「瞬間の連続」じゃなくて、〈私〉という中心を持った人間が、出来事を受け止めながら時間を感じていく。 だからその時間は、意識されないほど自然で、豊かで、凹凸のあるものになる。
〇「はるかなもの」が持つ権威
この世界では、遠くからやってきた物語――異国の話や昔の伝承――が、特別な力を持っていた。 たとえ真偽がはっきりしなくても、人々はそれに耳を傾け、そこから何かを学んだ。
そうした「はるかなもの」は、〈私〉という中心に届いて、経験を豊かにしてくれる存在だった。
〇メディアによる経験の崩壊
でも、ベンヤミンはこうした経験の世界が「消滅の危機」にあると感じていた。 新聞やテレビのようなメディアは、速報性を重視して、物語のようなゆっくりした伝達を押し流してしまう。
ニュースは「退屈な時間」を食い尽くしてしまう。 その結果、私たちの経験は浅くなり、記憶に根づくことがなくなる。 ベンヤミンはそれを「経験の株価が底値に達した」と表現している。
〇まとめ
・物語は「手仕事的」で、時間をかけて記憶に根づく経験を育てる。
・メディアは「今この瞬間」ばかりを伝えて、経験の厚みを奪ってしまう。
・ベンヤミンは、こうした経験の崩壊を深く憂いていた。
■p277・1~最後
〇情報が記憶を空っぽにする?
この文章では、次々と報道されるニュースや情報が、私たちの「記憶の貯蔵庫」を空にしてしまうって言ってる。つまり、出来事がどんどん流れていくせいで、私たちはそれをじっくり受け止める時間を失ってしまう。
「知る」ことはできても、「経験として身につく」ことがなくなる。 情報のスピードが、耳をすます時間――つまり、記憶に染み込ませる時間――を奪ってしまう。
〇「夢の鳥」が殺される?
ここで出てくる「経験という卵をかえす夢の鳥」は、前の文章にもあった表現。それは、ゆっくりした時間の中で育まれる経験の象徴。
でも、情報が速すぎると、その鳥は卵をかえす暇もなく、命を奪われてしまう。 つまり、私たちは出来事を「記憶し、あたため、学ぶ」ことができなくなる。
〇物語の知恵 vs 情報の即時性
物語は、遠くの出来事を語り継ぎながら、聞き手に知恵を与えてくれる。 でも、ニュースは「教えすぎる」ことで、物語の持つ余白や深みを失わせてしまう。
情報はすぐに解釈され、語り尽くされてしまう。 それは「この瞬間にだけ生きる」もので、時間をかけて発酵することがない。
〇私たちは「事件の消費者」になってしまった
ニュースを見ている私たちは、もはや出来事を「経験する人」ではなく、「消費する人」になってしまった。 ベンヤミンは、こうした情報の大量普及によって、物語が語り継がれるような世界が崩れていくのを見ていた。
〇「遠いもの」が失われた世界
今では、革命も戦争もテレビでリアルタイムに見られる。 すべてが「身近」になりすぎて、「遠いもの」――つまり、はるけさや神秘性――が失われてしまった。
出来事と情報の区別も曖昧になり、経験の崩壊はさらに深まっている。 まるで、世界が「即時性」に飲み込まれてしまったみたい…。
〇まとめ
・情報のスピードは、私たちの記憶や経験を育てる時間を奪う。
・物語のような深い伝達が失われ、私たちは出来事を「消費」するだけになってしまう。
・ベンヤミンは、こうしたメディアの力が人間的な経験を破壊していくことを深く憂えていた。