第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿1日目・個別練習(谷崎コーチ&井上編⑩)
股関節ストレッチで下半身の詰まりがほぐれたころには、太陽もだいぶ傾き、グラウンドには長い影が伸びていた。
井上宏樹が汗をぬぐっていると、谷崎コーチが今度はバンド状のトレーニングチューブを取り出し、軽く腕を回しながら言った。
「次は“肩甲骨のダイナミックストレッチ”だ。フォーム改善に繋げるための“上半身の土台作り”だと思ってくれ。ここからが、投げる動きに直結していく」
井上は、谷崎の言葉の“上半身の土台”という表現に、無意識に背筋を伸ばした。
「肩甲骨って、そんなに大事なんですか?」
「めちゃくちゃ重要だ。肩甲骨がしっかり動くようになると、腕の振りがスムーズになる。それだけじゃない。可動域が広がると、“無理のないリリース”ができる。結果、肘や肩の負担も減る」
谷崎はチューブの両端を握って、左右に引きながら腕を前後させる。
「見てろ。肩じゃなく、背中の中心――肩甲骨の“寄せ・開き”を意識してる」
「……肩を回す、じゃないんですね」
「肩を動かすんじゃなくて、“肩甲骨を滑らせる”。この違い、デカいぞ」
井上はチューブを受け取り、見様見真似で腕を左右に回してみる。チューブの張力が背中を引っ張り、普段動かしていない筋肉が軋むように目を覚ます。
「うわっ……背中の奥、こんなに動かしてなかったのか……」
「そう。現代の子は特に“前側”ばっかり使ってる。スマホや勉強で前かがみの姿勢が多いからな。そのままだと、ピッチングでも“腕を巻き込む”フォームになる。リリースが詰まって、ケガもしやすい」
井上は徐々にリズムを掴み、チューブを引きながら肩甲骨を意識的に寄せていく。
「……なんか、腕が“後ろに引っかからず”動いてる感じがします」
「その“引っかかり”を取るのが、今日の目的だ。いくら強くても、スムーズに動けない体じゃ宝の持ち腐れになる」
その後、肩甲骨まわりの動きを出す動的ストレッチに移る。背中で手を組む、肩を引いて胸を張る、四つん這いになって肩甲骨を“回す”ように動かす。
「動的ストレッチってのは、静的ストレッチと違って“動きながらほぐす”から、関節の可動域がより実践的に広がる。これを続けていくと、投げるときに“詰まらない”フォームになる」
「……詰まらないフォーム……」
井上は、その言葉を反芻した。
――思い出したのは、紅白戦で自分のストレートが思うように抜けなかった場面。
腕は振っているのに、力が乗らず、逆に力んでリリースが遅れていたあの感覚。
(あれも……肩が詰まってたのかもしれない)
「もう一度、肩甲骨を寄せながら、腕を前から後ろへ大きく回してみろ。肘を下げない。できるだけ広い弧を描く意識で」
井上は腕を伸ばし、ゆっくり回した。
最初の頃にあった“引っかかり”が、少しだけ軽くなっていることに気づく。
「……軽い……かもしれない。こんなにスッと動くんですね……」
「それが“スムーズな動作”ってやつだ。今日だけで完璧にはならない。だが、こうして肩甲骨を使えるようになると、腕の通り道が広くなり、投球が変わる。伸びが出て、球持ちも良くなる」
谷崎は軽く頷き、最後にこう言った。
「可動域を作るってことは、“動きの余白”を作るってことだ。余白があれば、疲れたときも怪我をしにくい。……それが“プロの身体”だ」
井上は小さくうなずきながら、肩を回した。
確かに――午前中のシャドウでは感じられなかった、“動きの通り道”が、今なら少しだけ見える気がする。
しなやかに、鋭く、無駄なく――
身体の奥から、変化が始まろうとしていた。




