第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿1日目・個別練習(谷崎コーチ&井上編④)
静止→投球の練習を終えると、谷崎コーチは井上をブルペン脇の倉庫裏へと誘導した。
そこには、体育用具が収められた金属棚と並んで、大型の全身鏡が立てかけられている。もともとはバッティングフォーム確認用に使われていた鏡だが、この時間帯は誰もいないため、投手練習にも活用されていた。
「さて、次は“シャドウピッチング”。実際には投げない。ただ、フォームを鏡で見ながら確認してもらう」
井上は鏡の前に立ち、少し困ったような表情を浮かべた。
「……自分のフォーム、ちゃんと見たことって……あんまりないですね」
「それが問題なんだよ。感覚と実際の動きが、ずれてる。自分が“こう動いてるつもり”と、実際のフォームは、まったく別物だったりする」
谷崎はそう言って、地面にマークテープを貼った。
「このラインに右足を合わせて、いつも通りセットしてみろ」
井上はうなずき、テイクバックの姿勢に入った。ぎこちないながらも、午前からの感覚が残っているのか、身体の動きは幾分なめらかになっている。
だが、鏡越しに見る自分の姿を、井上はまじまじと見つめて息をのんだ。
「……なんか……変ですね、俺」
「どこが“変”に見える?」
「腕が……横に流れてるし、体の回転と合ってないです。それに、リリースの位置が毎回違う気がします」
「その“違和感”を感じられたなら、今日の練習はすでに半分成功してる」
谷崎コーチの声が、炎天下の空気に凛と響いた。
ブルペン脇、倉庫裏に立てかけられた大きな全身鏡。その前に、井上は立っていた。背中には午前中のシャドルランでかいた汗が塩を吹きはじめ、呼吸は浅い。それでも井上は、鏡に映る“自分”から目を離さなかった。
足を上げ、テイクバック、そして投球動作――ボールはない。ただの“動き”。だが、そのひとつひとつに、井上は集中していた。
「今の、肩が浮いてるぞ」
「肘の位置、もう少し低く」
「骨盤が止まって、肩だけ回ってる。下から順番に動け」
谷崎の言葉に応えるように、井上はフォームを繰り返した。五回、十回、二十回――気づけば汗が頬を伝っていた。
「……わかってきました。自分がどう動いてるのか、少しずつ掴めてきた気がします」
井上のその言葉に、谷崎はうなずいた。
「よし。じゃあ、次は実際にボールを持って、“答え合わせ”をしてみよう」
谷崎はスマートフォンを取り出し、三脚に固定しながら井上に合図を送った。
「ここからは“スロー動画チェック”だ。さっき鏡で感じた“違和感”が、実際の投球でどう出るか、可視化する」
井上はうなずき、プレートに足をかける。
(見たフォーム、覚えた動き。それを今から、投げて試す)
力を入れすぎず、だが意識は強く持って――ワインドアップ。スムーズに踏み込み、肘を前へ、指先を走らせる。
――パンッ。
軽快な音とともに、ミットにボールが収まった。
谷崎はすぐにスマートフォンを操作し、スローモーション再生を始める。
「……これが、今の俺……」
井上は無意識に言葉をこぼしていた。スロー映像には、自分の知らない“自分”がいた。骨盤の回転が止まり、肩だけ先に回っている。リリースの位置も毎球微妙に違い、腕が流れている。
「たぶん……シャドウでやってたこと、まだ投球には反映しきれてないですね」
「それでいい。“見て、やってみて、また見て、修正する”。今日だけで完璧になるなんて思うな。だが、今日気づけた分だけ、明日成長できる」
谷崎は画面を止めて言った。
「自分の動きを言語化して、映像で照らし合わせて、修正点を決めていく。それが、フォーム改造だ。気合いでどうにかなる時代じゃない」
井上はもう一度、シャドウの姿勢をとる。今度は、動画で見た“肩の開き”と“肘の流れ”を修正する意識で。
「鏡、もう一回いいですか」
「おう。自分で意識できた部分を、すぐ確認しろ。体に染み込ませるんだ」
シャドウ、動画、またシャドウ。確認して、意識して、試す。そしてまた修正する。
ひとつひとつの動きが、井上の中に“記憶”として残っていく。
「……こんな練習、正直想像してなかったです」
つぶやいた井上の横で、谷崎が静かに言う。
「この“地味さ”を乗り越えられるかどうかで、先が変わる。素材はいい。だが、その素材を磨く作業は地味で、苦しくて、根気がいる」
鏡に映る井上の目が、少しだけ強くなったように見えた。
「……俺、やります。絶対変わってみせます」
「言ったな。じゃあ、明日も“シャドウ&チェック”を20分。毎日やるぞ。フォームが身体に染み込むまでな」
「……はい!」
夕暮れの空の下、鏡に映る少年のフォームが、ゆっくりと変わり始めていた。




