第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿1日目・個別練習(谷崎コーチ&井上編③)
「次は、“静止→投球”だ」
ノーステップ投球を終えて、水を一口含んだ井上に、谷崎コーチが次のメニューを告げた。
「さっきまでとは違って、今度は“1歩だけ”助走をつけて投げる。ただし――大事なのは“足を運ぶために動く”んじゃなくて、“下半身から動き始める”ってことだ」
井上はタオルで首元の汗を拭いながら、目線をコーチに向けた。
「下半身から……って、さっきのと何が違うんですか?」
谷崎はうなずく。
「ノーステップ投球でやったのは、“力を抜いたフォームでの連動の確認”だ。今度の静止→投球では、そこに“体重移動”が入ってくる。つまり、“地面から伝えた力をボールに乗せる”って感覚を掴む練習だ」
井上はゆっくりと頷いた。片足をプレートに乗せ、反対の足は後方に軽く引いた位置からスタートする。動かない。何もせず、ただ静止。そこから、“1歩だけ”前に踏み出し、投球。
「下半身始動……」
声に出してから、井上は動いた。
――ドンッ。
重たく足を踏み込んだ感触のまま、上半身がついていかず、投球はわずかにシュート回転してミットの右側に外れた。
「……ちがうな」
谷崎は首を振った。
「動き出しが遅い。いや、違う。動き“方”が違う。“踏み出してから投げる”っていう順番になってる。そうじゃない。足を出すときには、もう上半身も巻き込まれていなきゃいけない。下半身→体幹→肩→腕→指先。この順番を、連動させろ」
井上は一瞬、考え込んだような顔をして、ゆっくりと元の体勢に戻った。
「つまり……投げるために足を出すんじゃなくて、“体を連動させるために足が出る”ってことですよね?」
「そうだ。力を“使う”んじゃなくて、“伝える”。一歩助走は、“加速のため”じゃない。“流れを作るため”だ」
次の一球。井上は、さきほどよりも慎重に、だがリズムを持ってステップを踏んだ。
――パンッ!
ミットの音が、先ほどとは違った乾いた音に変わった。
谷崎が、口角をわずかに上げる。
「いいな。いまのは、さっきより“前に進む力”がボールに乗っていた」
井上は少し驚いた顔をして、自分の手のひらを見つめた。
「……なんか、腕じゃなくて、背中から押し出してる感じがしました」
「それだ。“踏み込みの足”で投げるんじゃない。“地面から跳ね返ってくる力”を、“体で受けて”、ボールに乗せる。その感覚を覚えろ」
繰り返す。十球、二十球――足の出し方、骨盤の回し方、肩の向き。毎回、谷崎の指摘が入るたび、井上の動きはわずかずつ洗練されていく。
「いまのは腕が先に出た。もう一回」
「リリース、ちょっと遅れたな」
「右足、開きすぎ。体の“線”が崩れてる」
厳しい言葉。しかし、井上は投げるたびに、確かに何かを掴んでいった。
ふと、谷崎が手を止める。
「よし。じゃあ一度、今の投球フォームを録画で確認してみようか」
スマートフォンをセットし、井上の投球をスローで再生する。画面に映る自分の姿は、ぎこちなくも、少しずつ“投手らしく”なっている。
「……全然、違う」
「そうだろ。“使えてなかった下半身”が、“動きの起点”になってきてる。これを定着させていけば、ストレートの質も変わる」
井上は画面を見つめながら、静かに息を吐いた。
(まだまだ、だ。でも……)
この練習を繰り返せば、確実に何かが変わる――その実感が、井上の心に芽生え始めていた。
「よし、今日はあと10球。最後は、自分でフォームを確認しながら投げろ。俺は何も言わない」
そう言って谷崎は、井上から少しだけ距離を取った。
井上はうなずくと、再びプレートに立った。
1歩の助走。その“1歩”に、全身の力と意識を乗せて。
地面を蹴る音と、ミットの音が、夕暮れの空気に重なって響いた。




