第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿1日目・個別練習(谷崎コーチ&井上編②)
ブルペン横の奥まったスペースに、ポツリと置かれた白いベースと、距離を測った簡易的なピッチャープレート。午後の陽射しはやや陰りはじめていたが、空気の熱はなおも肌にまとわりつく。
井上宏樹は、足元のプレートに右足を乗せたまま、両腕をぶらりと下げて立ち尽くしていた。正確には、踏み出す左足を上げることなく、その場に立った状態で、次の指示を待っていた。
「“ノーステップ投球”だ。投げる時は、一切足を上げない。その場で、軸足に体重を乗せたまま、上半身の動きとリリース感覚だけに集中しろ」
谷崎コーチは、背後から井上に声をかけた。横にはスマートフォンを固定した三脚と、簡易ミットを構えたスタッフが待機している。
「……動かないで、投げるってことですよね?」
「そうだ。いまからやるのは、“フォームの解体”だ。お前の今のフォームは、足の上げ下げやタイミングに頼ってる部分が多すぎる。リズムや勢いで投げてる。だから、まずはそれを取り払う。必要最小限の動きで、どれだけ質の高いボールを投げられるかを確認する」
井上はうなずき、小さく息を吐いた。
(足を上げずに……体重を乗せて……上半身だけで投げる……)
軽く振りかぶると、井上はゆっくりと腕を引き、肩を回して投げ込んだ。ミットに収まったボールは軽い音を立てた。スピードも切れも、いつもの自分とはまるで違う。
「いい。今のは“投げやすいフォーム”じゃなくて、“投げざるを得ない体の使い方”になってた。それでいい」
谷崎はそう言って、井上の背中に回った。
「フォームってのは、“いかに力を出せるか”じゃない。“いかに力をロスせず伝えられるか”が重要なんだ」
「……ロス、ですか?」
「そうだ。お前の今のフォーム、パッと見は悪くない。でも、投げる瞬間、体がバラけてる。上体が突っ込んで、腕が遅れて出てる。つまり、“力を入れてるのに伝わってない”。これはフォームの“ロス”だ」
井上は黙って頷いた。
「ノーステップ投球では、余計なタイミングを全部捨てて、自分の体の“軸”と“連動”を確認できる。とくに意識するのは、3つだ」
谷崎は指を立てる。
「1つ、“軸足に体重を残す”こと。2つ、“骨盤の向きと上半身のひねり”の連動。3つ、“リリースの位置とタイミング”。この3つがずれてると、いくら力を入れてもボールは走らない」
井上は再び構え直した。今度は、右足の裏に意識を集中させたまま、静かにテイクバック。無駄な力を入れないよう、腕の通り道を確認するようにして――投げる。
「……!」
ミットの音が、少し変わった。最初より、深く、芯を食ったような乾いた音がした。
「今の、いいじゃないか」
谷崎が頷いた。
「体重がちゃんと後ろに残ったまま、上半身が引っ張られて前に出た。まだ完璧じゃないが、さっきより“体全体で投げてる”感覚があるだろ?」
「……はい。なんか……肩に無理がない感じがしました」
「それが“本来の力の伝わり方”だ。お前、今までのフォームは“腕で投げてる”ように見えて、実際は“腕でしか投げてない”。でも今のは、“体が投げてる”。そういう感覚を、積み上げろ」
井上は黙ってうなずき、3球、4球と繰り返した。足を上げず、軸足に体重を残し、滑らかに回転していく。最初は不安定だった動きも、少しずつ芯を得てきた。
その姿を見ながら、谷崎は胸の内で呟いた。
(この感覚が身に付けば……120kmを超える日も、遠くはない)
「この練習、地味だしキツいけど、しばらくは毎日やる。フォームを覚えるまで、100球投げてもらう」
「……100球!?」
思わず声を上げた井上に、谷崎は口元だけで笑った。
「大丈夫だ。まだ“ノーステップ”だ。肩には優しいし、体全体の使い方を覚えれば、もっと楽に投げられるようになる」
「……やってやります」
井上はもう一度構えた。午後の空に、蝉の声が少しだけ遠のいて聞こえた。
ここからすべてが始まる。今の自分を壊して、新しい自分を作る。
投球フォームを、ゼロから。




