第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿1日目・個別練習(谷崎コーチ&井上編①)
場面は戻り、合宿初日午後、井上サイドの話
グラウンドの隅、陽射しが傾きかけた午後のブルペン横。蝉の声が間断なく響き、じっとしているだけでも汗が滲むような蒸し暑さが漂っていた。練習の本隊が引き上げた後の静けさの中に、井上宏樹はひとり、汗で背中に張りついたユニフォームの違和感を気にすることもなく、立っていた。
「井上。まずは、今のお前の投球を見せてくれ」
谷崎コーチの声は、陽炎の中をまっすぐに貫いてきた。井上は小さくうなずき、無言でキャッチャーミットに視線を向ける。肩を軽く回し、一球目を投げ込んだ。
ミットが鳴る音は悪くなかった。しかし、谷崎の表情は微動だにしない。
「……なるほどな」
井上はもう一球投げた。力強さはある。だが、全体的に身体の動きがバラバラで、フォームの“軸”が感じられない。
「悪くはない。けど……“もったいない”な。素材はいい。腕のしなりも悪くないし、リリースの感覚も悪くない。だけど、体の使い方が全部バラバラなんだよ」
そう言って谷崎は、指で軽く自分の肩から腰にかけてなぞるように示した。
「たとえば今の投球。お前、軸足に体重が乗ってない。上半身だけで投げにいってるだろ。これじゃあ、球速も制球も伸び悩む」
井上は黙って、唇を噛んだ。自覚はあった。中学時代は弱小校で、細かい指導など受けたこともない。ただ“なんとなく”投げて、エースになった。だが、高校では通用しない。紅白戦でも午前の実戦練習でも打たれた――投げた直球はことごとく狙い撃たれ、詰まらせることすらできなかった。自分の“武器”と思っていた直球が、通じていない現実に突きつけられた。
「いいか、今日からお前には、“フォームの再構築”を徹底的にやってもらう。力じゃなく、効率で投げるための練習だ。今までの癖は一回、全部リセットしろ」
谷崎の声に、一瞬だけ井上の瞳が揺れた。だが、その奥には確かな闘志が灯っていた。
「……わかりました。お願いします」
「よし。じゃあまずは“ノーステップ投球”からいこう。軸足にしっかり体重を残して、上半身の動きとリリース感覚に集中する。それから、“静止→投球”で下半身主導の感覚を掴んでいく」
井上はうなずき、すでにグローブを外してシャドウピッチングの準備に入った。
谷崎はふと、西日に照らされる空を見上げる。
(こいつが球速120kmに届けば――いや、それ以上の投手になれる。フォームさえ整えば、真っすぐの質も変わる)
指導者としての直感が、確かな可能性を告げていた。
夕陽が濃くなる影の中、個別練習が静かに始まろうとしている――。




