第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿1日目・個別練習(高田・千堂編⑫)
夕食を終え、シャワーで汗を流した千堂陸は、自室に戻ると机に向かった。シンプルなデスクの上に、無地のノートを1冊。まだ新品のそれを、丁寧に開く。
1ページ目の上に、ボールペンでこう書いた。
《千堂陸・野球用トレーニングノート》
そして、今日のトレーニングを思い出しながら、ゆっくりとページを埋めていく。
【5月1日(土)】
■メニュー:下半身・体幹中心メニュー(導入)
①ハーフスクワット(バーベル)
──目的:守備の低姿勢・打撃時の下半身安定
──意識したこと:股関節から沈む。膝を前に出さない。呼吸を止めない。
②デッドリフト(床引き)
──目的:ハムストリングス・背筋・体幹連動
──課題:最初は腕で引こうとしていた。下半身主導を意識。
③ローテーションメディシンボールスロー
──目的:回旋力とスイングスピード
──気づき:体幹が弱いと“止まる”のが難しい。反復で感覚が変わってきた。
……
■今日のまとめ:
疲れたけど、体の“どこに効いているか”が分かるトレーニングだった。
毎日全部やるのは違う。明日は“体幹中心”の日。フォーム重視で取り組む。
ノートを閉じると、不思議と気持ちがすっきりしていた。
「……よし」
ふと喉が渇いたことに気づき、Tシャツのままスリッパを突っかけて自販機のある外通路へ向かう。夜風はまだ少し湿気を含んでいるが、練習終わりの身体には心地よかった。
自販機でスポーツドリンクを選んで缶を取り出したとき、ふと視界の隅に違和感を覚えた。
──隣の建物、室内練習場の中に、まだ誰かの影がある。
千堂は缶を手にしたまま、静かに足を向けた。ガラス越しに中を覗き込むと──
「……えっ」
そこには、高田優斗がいた。
ひとりで、黙々と素振りを繰り返していた。照明を半分だけ落とした練習場の中で、彼の動きだけが静かに、しかし力強く浮かび上がっている。
スパーン──という乾いた音が、時折グリップと空気を切り裂く。
汗はすでに滲み、背中にはTシャツが貼りついている。それでも高田は止まらなかった。
──あれだけ追い込んだあとでも、まだ。
千堂は缶を持ったまま、言葉を失っていた。
高田のフォームは、美しかった。ただの力任せではない。下半身、体幹、肩、そして手首まで──今日教えてくれたすべてを、実際に“自分で体現して”いた。
「……本気で、上を目指してるんだ……」
知らず知らずのうちに、指が缶を強く握っていた。
この背中を、追いかけたい。そう、心の底から思った。
練習場から漏れた光が、千堂の影を長く伸ばしていた。
高田の素振りは、一定のリズムで続いていた。
呼吸を乱すこともなく、ひと振りごとに軸のブレもない。誰に見せるでもない、誰に評価されるでもない。まるで、自分との約束を黙々と果たしているようだった。
千堂は、その背中をしばらく見つめたあと、缶を胸元に抱えるようにして静かに歩き出した。
──バタン、と扉を開けて足音を立てるのが、無性に悪いことのように思えた。
遠ざかる足音の代わりに、背後からはまた、スパーンという乾いた音が聞こえてくる。
夜風が、肌にひんやりとまとわりついた。
(……あの人は、あれだけやって、それでもまだ振ってる)
合宿初日。朝から晩まで、限界まで追い込まれた一日だった。
にもかかわらず、誰よりも早く動き、誰よりも遅くまで練習する先輩がいる。
(……まだ俺なんか、全然だ)
千堂は、自動販売機の光から離れるように、静かな寮の裏手へと歩いた。缶の冷たさが、さっきまで火照っていた手のひらから熱を奪っていく。
空を見上げると、うっすらと月が浮かんでいた。少しずつ、夏の匂いが混じってきている。
(でも──)
缶を開ける音が、小さく夜に響いた。
(……いつか、追いついてみせる。いや、追い越すくらいの覚悟じゃないと、きっとダメだ)
今日書き終えたばかりのトレーニングノートが、胸ポケットに収まっているのを思い出した。ページ数はまだたったの1。それでも、あの背中に近づくための、最初の1歩だ。
千堂は、ゆっくりと口に運んだスポーツドリンクを飲み干す。
目を閉じて、もう一度、高田のあの背中を思い浮かべた。
そして、誰にも聞こえない声で、心の中で、こう誓った。
──必ず、自分も、あの場所へ行く。




