第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿1日目・ケースバッティング(1年生編⑧)
午前の日差しがグラウンドに傾きはじめた頃。ケースバッティングは終盤に差しかかり、投手陣にも疲労の色が見え始めていた。
マウンドに立つ井上宏樹は、ブルペンでの調整を終え、深く息を吐いた。
直球一本で勝負する、という決意。
変化球はこれから試している最中。今、試合で使える段階にはなかった。
紅白戦では、直球が通用していた。だからこの練習は直球を軸に。
球速は110キロに満たない。だが回転数が多く、見た目より沈まずに伸びる。打者は手元で詰まらされ、内野フライや凡打が続いた。コースも狙ったところに投げ分けられた。
(今日も、同じように投げれば――)
その自信を抱いたまま、井上は最初の打者に投じた。
初球、外角低め。狙い通りの位置に決まった。捕手・田中智也のミットが乾いた音を立てる。
「ストライク、ワン!」
(よし……)
だが、2球目――内角狙いの速球を打者は狙いすましたように振り抜いた。
快音。打球は一直線にライト前へ。
「ライト前ヒット!」
「うそ……」
紅白戦で、誰も手を出せなかったはずの球だった。
続く打者にも、2ストライクに追い込んだあとで同じ球を選んだ。ストレート、高め。井上の“決め球”の一つ。
だが――
「打ったーッ!」
弾き返された打球は、レフトとセンターの間に落ちるツーベース。ランナー一・三塁。
「ノーアウトでピンチか……」
ベンチの空気が変わり始める。谷崎コーチが腕を組み、大山監督もスコアボードから目を上げた。
田中は立ち上がり、マウンドに向かって小声で話しかける。
「……ボール、悪くない。でも、見切られてるな」
井上は頷くも、その表情には動揺があった。
「紅白戦じゃ、打たれてなかったのに」
「相手は1軍の先輩だ。対応力が違う。こっちがストレートしかないって、完全に読まれてる」
言い返したかった。悔しかった。
でも、田中の言葉は正しかった。
――変化球がまだ使えない。
――でも、通用すると思っていた部分も少しあった。
そのギャップに、井上の呼吸がわずかに乱れる。
次に打席に立つのは、打撃に定評のある2年生の原田。
初球、内角寄りのストレート。狙いは詰まらせること――
しかし、読み切っていた。
鋭く振り抜かれたバットが捉えた打球は、センターの頭上を越える。
「センター、追うが……越えた!」
「2点タイムリーツーベース!」
田中がボールを受け取り、静かにミットを握りしめた。
(どうして……同じ球のはずなのに……)
頭では理解していた。
相手のレベルが違う。読み、対応、間の取り方。
紅白戦で通用したのは、二軍の選手たちだった。
1軍の実戦形式では、違いが歴然だった。
(もう一本、打たせてたまるか――)
井上は踏み出し直し、もう一度ストレートを選んだ。
だが、変化のない単調なリズムは読まれていた。
この日、彼は4人連続で安打を許す。
その背中を、田中は何も言わずに受け止めていた。
ミットを構える手のひらが、汗ばむ。
「……このままじゃダメだな」
田中がぽつりと呟いた。
「でも、まだ合宿は終わってない」
その声は、井上にだけ届いた。
そして彼も、頷いた。
悔しさと痛みの中で、はじめて“本当の課題”に気づいた午前だった。




