第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿1日目・ケースバッティング(1年生編⑤)
グラウンドに立ちこめる午前の空気には、湿り気と重さがあった。
ノーサインのケースバッティングも終盤に差し掛かり、選手たちの息遣いは荒く、全身から疲労の色がにじみ出ている。
打者は与えられた状況の中で、指示なしに最適なプレーを選ばなければならない。
失敗すれば、黙って記録されるだけ。結果と判断、その両方が試される。
「バッター、千堂! 1アウト、ランナー一塁、カウント1ボール1ストライク!」
ベンチに響く谷崎コーチの声に、千堂陸は立ち上がった。
先ほどの打席――
進塁打の場面で、右方向への打球を狙いながらも、体がついてこずショートゴロ。
自分らしくない凡退だった。頭で理解していたのに、体が反応しなかった。
その悔しさが、まだ胸にわだかまっている。
(……あれは、打てるはずの球だった。言い訳はできない)
汗で張りつくヘアバンドを指で直しながら、無言で打席へと歩み出る。
アウトカウントは1。ランナーは一塁。
繋ぐためのヒットが欲しい場面。守備は併殺を取りにくる陣形で構えている。守備の動きをよく見て、野手の合間を抜きたい。
(狙うのは、低く鋭く、ライト方向)
バットを構えながら、頭の中で打球のイメージを描く。
右方向。ボールの入りを見極め、最短距離でミート。
力まず、だが確実に“やるべきこと”を果たす。
ピッチャーがモーションに入った。
1球目――内角寄りのストレート。やや詰まり気味。
見送る。ストライク。カウントは1-2。追い込まれた。
(ここからだ。焦るな、呼び込め)
脚の重さは消えていない。朝の走り込みの疲労は残る。
だが、その中でも“動ける”と信じている。
2球目。ピッチャーの手から放たれた球は、やや外へ逃げるスライダー。
陸は迷いなく踏み込んだ。
右足で地を強く捉え、最短のスイングでバットを振る。
乾いた音。
打球は一、二塁間をゴロで抜け、ライト前へ転がった。
「ライト前ヒット!」
一塁ランナーはすかさず二塁へ。
陸は淡々と一塁ベースに到達すると、ヘルメットの庇を指先で押さえる。
静かな表情のまま、キャッチャーの返球をじっと見つめていた。
(最低限じゃない、“繋げた”)
一塁コーチャーが「ナイスバッティング!」と声をかけてくる。
陸は短く頷いた。派手なガッツポーズなどはない。
けれど、その背中からは、確かな達成感がにじんでいた。
「……やるべきことを、きっちりやる。ほんとに、あいつはそういうタイプだな」
隣で腕を組んで見つめていた大山監督は、小さく頷いた。
「見えてたな。打球方向も、球種も……迷いがなかった。朝の走り込みがあった中、前の打席の失敗をしっかりと反省し、切り替えたな」
谷崎が笑う。
「派手さはないけど、外さない。こういう奴が、ベンチにいるとほんと助かるんですよ、マジで」
「いや――もう、“いる”だけじゃないだろ。こういう打席を重ねた先に、レギュラーがある」
監督の言葉に、コーチは黙って頷いた。
ベンチ内の空気が、わずかに変わった。
グラウンドで放たれた一本のヒットが、チームの流れを動かし始めていた。
「やっと、流れが……」
「繋がったな」
選手たちの間からも、そんな声がこぼれる。
地味だが確実。静かだが、存在感がある。
それが、千堂陸という選手だった。
そしてその一打が、午前の重たい空気を確かに変えていた。




