第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿1日目・ケースバッティング(1年生編④)
プレッシャーはじわじわと選手たちに重くのしかかっていた。1年生の誰も結果を出せていない。
流れを変えるどころか、連続して打ち損じる空気がグラウンドに充満していた。
そして、次の打席――
「バッター、高橋! ワンアウト、ランナー三塁、カウントは1ストライク!」
一瞬、ベンチに緊張が走った。
ランナー三塁。ワンアウト。
ゴロでも犠牲フライでも、最低限1点を取ることが求められる場面。
ベンチでは、誰も声を出さない。
失敗が続いている。だからこそ、もう誰かが決めないといけない。
高橋拓海は、静かに立ち上がった。
小柄な体格に、落ち着いた動作。周囲の空気に呑まれることなく、バットを手にする。
(三塁にランナー。打つだけじゃなく、点を取るための一打を)
彼はそういうプレーヤーだった。
華やかではない。けれど、状況を読み、必要なことをきっちりやろうとする。
打席に入ると、ピッチャーを見つめる目は変わらず穏やかだった。
手首の柔らかさを感じさせる構えから、いつも通りのリズムを作る。
ただ、足は少しだけ重かった。
朝の走り込み。体力は削られ、集中力も削られかけていた。
それでも、高橋はいつも通り“静かに立つ”。
(犠牲フライでもいい。しっかり振る。最低限)
ピッチャーが投げた。
アウトロー、速球。
手は出なかった。見逃し。
「ストライク、2ストライク!」
すでに追い込まれていた。
(……打つしかない)
次で決めなければならない。追い込まれた打者が、最も力を試される瞬間。
ピッチャーのモーションに入るのを見て、高橋は構えをわずかにコンパクトに変えた。
4球目――インハイ気味のストレート。
球筋を見切ったつもりで、体を開かず、丁寧にミートにいった。
だが――
打球は芯を外れ、詰まったようにふわりと浮いた。
サードがゆっくりと下がりながら、落ちてくる球を見上げている。
誰も叫ばない。プレーとしては簡単な“凡フライ”だった。
「サード、キャッチ!」
静かなアウトコール。
高橋は、静かにバットを置き、何も言わずにヘルメットを脱ぐ。
悔しさを顔に出さない。
だが、ベンチに戻る足取りに、わずかに迷いがあった。
(……打球が、上がってしまった。あれは……低く強く打つべきだった)
自分でも、わかっている。打点をもう少し下げて、体を残して打ち込むべきだった。
「高橋、振りにいったのは悪くない。タイミングも合ってたよ」
ベンチにいる藤代の声に、高橋は小さくうなずいた。
「はい」
短い返事だけで、それ以上は何も言わなかった。
(ああいうとき、自分はもっとできるはずなのに)
彼は誰よりも冷静だ。ミスを他人のせいにすることもない。
だからこそ、静かに自分の中で答えを探す。
(疲れで体が前に出たか? それとも、焦りがあった?)
打てなかったことより、「どうしてそうなったか」を考える。
それが、彼の流儀だった。
ベンチの後ろでグローブを外し、汗を軽く拭う。
ふと、松岡や佐藤が座るベンチの列が目に入る。
彼らもそれぞれに失敗し、黙って前を向いていた。
(……自分だけじゃない。今、みんなが悔しい)
だからこそ、次の機会には、絶対に成功させなければならない。
無言のまま、ヘルメットを磨くように親指でなぞる。
誰かが打つ。誰かが決める。その“誰か”に、自分がなる覚悟を――静かに、再確認する。




