第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿1日目・ケースバッティング(1年生編③)
午前の練習は、いよいよ終盤に差しかかっていた。
ノーサインのケースバッティング。
指示は出されず、与えられたカウントと走者状況をもとに、各選手が“何をすべきか”を考え、自らの判断でプレーを選ぶ。
「バッター、佐藤! ノーアウト、ランナー一塁、カウント1ボール1ストライク!」
コーチの声が響くと同時に、佐藤悠真は元気よく「はいっ!」と返事をしてバットを持ち、打席へと駆け出した。
けれど、その笑顔の裏で、胸の奥が少しだけざわついていた。
(今まで誰も打ててない……次、俺が打たないと)
頭では冷静でいようとしていたが、プレッシャーは確かにあった。
千堂も、松岡も結果を残せなかった。流れは重く沈んでいて、そこに風穴を開けるような打撃が、今のこの打席で求められていた。
(外野の間を抜くヒットじゃなくてもいい。バントもない。なら、最低でも進塁……いや、チャンスを広げる)
佐藤の持ち味は俊足。出塁すれば一気に得点圏へ。
それは自分でも分かっていた。だからこそ、出たい――打ちたい。
ピッチャーがモーションに入る。
初球、ストライク。速球、見逃し。
タイミングを測ろうとしたが、少し目が泳いでいた。
(やばい、迷ってる)
一塁ランナーがリードを取りながらこちらを見ていた。
ベンチからも静かな視線が送られる。
(俺なら……できる。足がある。凡打でもセーフにできる)
2球目。甘い球ではなかった。
外寄り、やや落ちてくる変化球。
佐藤は“当てにいくように”バットを出した。
詰まった打球が、ボテボテで三塁線に転がる。
「ファール!」
守備陣の動きが止まり、打席に戻るよう促された。
(……振った、けど。今のは振らされた)
焦りが胸を満たしていく。
ピッチャーのテンポは早く、どんどん次の球が来る。
3球目。
内角の速球――反応が遅れた。
振った瞬間に、空振りだと分かった。
「ストライク、バッターアウト!」
佐藤はその場に立ち尽くしたまま、呼吸を整えようとするが、心拍だけが早くなっていた。
(……三振か)
俊足を活かす機会もないまま、バットが空を切った。
歩いて戻る足取りは重かった。
「もうちょい早く振れたらよかったな。次、頑張れ」
捕手の藤原がまた声をかける。責めているわけではない。けれど、佐藤の胸にはそれが少しだけ刺さった。
(わかってる……わかってるのに、振り遅れる)
ベンチに腰を下ろすと、ユニフォームの膝を握りしめた。
三振の感触が、バットのグリップに残っている気がした。
(足はある。守備も悪くない。でも、打てなきゃ試合に出られない)
気持ちは前向きなつもりだった。練習も誰よりもしている。
でも、こうして結果が出ないと、心のどこかが沈んでいく。
「佐藤」
横から声がかかる。
見れば、ベンチにいる藤代が軽く手で背中を叩いていた。
「走塁とか、守備で貢献できてるんだから、あとはバッティングでひとつ噛み合えば化けるよ。焦んな」
「……ありがとうございます」
力のない声が出た自分に少しだけ腹が立った。
(俺は、もっとできるはずだろ。振り遅れてる場合じゃない)
周囲には明るく振る舞っている。
チームのムードを作っているつもりだった。
けれど、心の奥底でずっと、自分の打撃へのコンプレックスが残っていた。
本当は、静かに悔しい。
――足があっても、バットに当たらなきゃ、塁に出られない。
ノーサインの練習。
この打席は、ただの“練習”ではない。コーチたちにとっては“評価の場”でもある。
(結果を出さなきゃ、残れない)
それが分かっているからこそ、空振り一つが、重くのしかかる。
それでも、佐藤悠真という男は――次に向けて、前を向く。
バットをそっと握り直した。
悔しさは、次の打席への燃料に変える。
それが自分の強さだと、信じている。




