第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿1日目・ケースバッティング(1年生編②)
陽射しがグラウンドを刺すように照らしていた。
ノーサイン形式のケースバッティングは、終盤に差しかかっていた。選手は状況に応じて最善のプレーを自ら判断しなければならない。ミスをしても誰も指示は出さない。結果がすべてだった。
「バッター、松岡! カウントは2ボール、ランナー二塁、1アウト!」
グラウンドにコーチの声が響いた。
松岡竜之介は、ベンチで立ち上がると、ヘルメットを被ってバットを肩にかける。
ほんの少しだけ、指先が冷たかった。バットのグリップがいつもよりも固く感じる。
直前の打者――千堂陸が、進塁打に失敗した。
だからこそ、今の場面で求められているのは「流れを変える一打」だった。
(最低でもランナーを進めなきゃいけない。チームの空気を変えるには、俺が打つしかない)
ゆっくりと打席へ歩く。その歩幅は一定に見えて、内心では焦りと緊張が混じっていた。
カウントは2ボール。ピッチャーは四球を恐れてストライクを取りに来る。
(きっと、次の球は甘く来る。……絶対に仕留めろ)
構えたまま、目を細める。
3球目――インコースより、ベルトの高さ。まさに自分が得意とする球。
だが、松岡の身体は反応しなかった。
バットは動かず、打席の中でわずかに硬直する。
「ストライク!」
審判の声が重く響いた。
(……今の、振れたろ)
頭の中で何度もリプレイが流れる。
「甘い」とわかっていた。狙っていた球だった。けれど、頭と体がわずかにずれた。迷いと恐れが、わずかにバットを遅らせた。
カウント2-1。
表情には出さなかったが、胸の奥が熱くなった。焦り、悔しさ、そして自分への怒り。
ベンチからの視線を感じる。
「松岡、打てよ」とか「次、絶対振れ」とか――誰も声には出していないのに、背中に突き刺さってくる。
4球目。
ピッチャーが腕を振った瞬間、それが変化球だと気づく。アウトローへ沈む球。タイミングを合わせにいこうと、体が勝手にバットを出していた。
詰まった。
打球はふわりと上がった。どこか乾いた音。ボールは高く舞い、ピッチャーの真上へ。
「ピッチャー、バック!」
守備陣の声が響く。松岡は打席でしばらく動けなかった。ベンチへの戻り方さえ、ぎこちなかった。
捕球の音が聞こえた瞬間、アウトのコールが重なった。
“完全な失敗”――それ以外の言葉が浮かばなかった。
グラブをつけた手を見つめたままベンチに戻る。ヘルメットを脱ぎ、無言で腰を下ろす。
「……甘い球、見逃して。難しい球に手を出して、凡退か」
小さく、呟くように言葉が漏れた。
誰も責めなかった。けれど、誰も励ましもしなかった。
それが、悔しさをさらに増幅させた。
自分はもっとやれると思っていた。インコースを引っ張ってライトスタンドに叩き込んだ練習試合。初めて褒められた打撃練習。期待されているという自覚。
でも、現実は――甘い球を見逃し、プレッシャーに押されて、力のないフライ。
「……俺、何やってんだよ」
バットを持つ手が、微かに震えていた。汗と一緒に、情けなさも指の隙間から落ちていく。
「竜之介」
後ろから呼ばれた声に、顔を上げる。
捕手をしていた藤原が声をかけてくれた。
「振っただけ、まだマシだろ。次の打席、またチャンスは来る。……それを打てばいい」
慰めではなく、ただ前を向かせるような言葉だった。
松岡は静かにうなずいた。
(次こそ、絶対に……)
ヘルメットを膝に置き、呼吸を整える。
プレッシャーに負けた。自分に負けた。でも、それを認めるからこそ、また前に進める。
それが、松岡竜之介という男の強さだった。




