第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿1日目・ケースバッティング(1年生編①)
グラウンドには熱気がこもっていた。
ノーサイン形式のケースバッティングは、午前も後半に差しかかっていた。各打者は状況に応じた打撃を求められるが、サインは一切出ない。自らが状況を把握し、最適なプレーを選び、実行する。
千堂陸はベンチ前で素振りを繰り返していた。
「カウント、1ボール1ストライク。ランナー二塁。」
コーチの声が響く。陸がバットを握り直し、バッターボックスへ向かう。
頭では分かっていた。この場面、求められるのは右方向への進塁打。無理に引っ張らず、ランナーを三塁に進めることが最優先。
(一、二塁間。最低限セカンドゴロでもいい。最低限、それだけ……)
だが――足が、重い。
朝練での地獄の走り込み。インターバル走、シャトルラン。自分の脚ではないような感覚が、まだ残っていた。
バッターボックスに立つと、息が浅くなった。普段なら自然と入る打撃のリズムが、今日はどこかズレている。
初球は見送った。アウトコース低めの変化球、ボール。
二球目、インコース高めのストレート。体が遅れて反応できず、空振り。
カウントは1ボール2ストライク。
最低限の仕事でもいいんだ、分かっている。
だが、陸の脳と身体の間に薄い膜のような“鈍さ”があった。思考と動きが一致しない。
「……行ける。絶対に右だ。力まずに」
静かにバットを構え直す。ピッチャーのモーションに合わせてタイミングを取る――つもりだった。
内角寄り、やや低めのストレート。狙い通りの球だった。
しかし、タイミングがわずかに遅れた。スイングの軌道が内に入りすぎる。
打球は詰まって、ショート正面へのゴロ。
「あっ……!」
思わず声が漏れた。
ショートが落ち着いて一塁へ送球。ランナーはそのまま二塁にとどまり、進塁できず。
「進塁ならず! ランナーそのまま!」
乾いた声が響く。
バットを握る手に、じんわりと力がこもる。
(……分かってたのに)
自分の頭の中では、打つべきコースも、スイングのタイミングも、すべて分かっていた。
けれど、朝の疲労が足にきていた。間に合わないと感じた一瞬の迷いが、スイングの決断を鈍らせた。
バットを持ったまま一塁ベースを回ることもなく、陸は静かにベンチへ戻る。
ヘルメットを脱いだとき、前髪から汗がぽたりと落ちた。ヘアバンドはすでにびしょ濡れになっていた。
ベンチに戻ると、誰も責める言葉はなかった。
唇をかみしめる。
(走り込みなんて、誰だってやってる。俺だけが疲れてるわけじゃない)
それでも、足が動かなかった。
(最低限のことができなかった)
ベンチに腰を下ろすと、無意識に手がスパイクの紐を触っていた。ほどけてもいないのに、何かをしていないと落ち着かなかった。
そのとき、後ろから短く声がかかった。
「狙いは、良かったよ」
振り返ると、藤代さんが軽く頷いた。
「見てりゃ分かる。足の動きとかが、ちゃんと右打ちにいったのは見えてた」
それでも陸は、うなずけなかった。
「結果が、すべてですから」
静かにそう答え、前を向き直す。
自分のプレースタイルは、チャンスを作ること。大きな見せ場を作るようなタイプではない。
だからこそ、「最低限」を外したときのダメージは大きい。
派手な打球が打てなくてもいい。けれど、右打ちひとつ、チームのための仕事すらできなかった。
悔しさが、胸の奥に残った。
それでも、俯くことなく、陸は前を見た。
次の打席で、必ず取り返す。
それが、自分の野球だと知っているから。




