第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿1日目・朝――地獄の走り込み――
世間はGW。
横浜桐生学院の名物、GW合宿の時期がやってきた。
夏の大会前の最後の追い込みを行う重要な時期となる。
選手全員が学校内の寮に泊まり、合宿を行う日々を過ごす。
強化メニューを行うだけでなく、学校のグラウンドに全国から他校を呼び、練習試合を行うのが恒例行事だ。
朝の空気は、ほんのりと湿っていた。まだ太陽が山の端から顔を出しきらない午前五時半。集合のホイッスルがグラウンドに響き渡ると、眠気も容赦も容赦なく吹き飛ばされた。
1年生たちは黙々と準備体操をこなしたあと、グラウンド横にある通称“地獄坂”へと向かった。傾斜約15度、距離にして120メートルほどの坂道。だが、問題はその距離ではない。指示は「この坂を30分間で10本。全力で」だった。
「……マジかよ」
誰かがつぶやいたが、誰も答えなかった。すでに気圧されている空気の中、ただ一人、井上宏樹はじっと前を見据えていた。
「よーい……スタート!」
監督の号令がかかると同時に、全員が一斉に駆け出した。地面を蹴る音、息を吐く音、シューズが砂利を蹴る音――。
坂道は思っていた以上に体力を奪った。最初の1本目、まだ体は動く。心肺もそこまで悲鳴を上げない。
(いける、まだ余裕だ)
千堂陸はそう感じながらも、無意識に足の力をセーブしていた。だが、2本目、3本目と重ねるうちに、太ももに鈍い痛みが走り出す。
「ハァ……ハァ……っ、脚、重……!」
佐藤悠真がゼエゼエと音を立てながら坂を下りてくる。彼の得意なスプリントも、この傾斜と回数には通じなかった。自慢のスピードが、だんだんと鈍っていく。
「しっかり腕を振れ! リズム崩すな!」
上からはコーチの檄が飛ぶ。谷崎コーチが一段上から全体を見渡していた。
4本目を終えたあたりから、誰もが無言になった。汗がシャツに染み、呼吸は荒れ、吐く息は白くさえ見えるほどだ。
坂を登るたび、世界が狭くなる。視界の端は揺れ、重くなった脚がまるで鉄球のようだ。1歩を出すたびに、自分の限界が試されていく。
(ここで負けたら、夏はない)
千堂はそう心の中で繰り返していた。井上が前を走っているのが見えた。その背中を追うように、ただただ足を前へ出す。
6本目、7本目と過ぎる頃には、誰かが口の中で嗚咽を漏らしていた。松岡竜之介は息が切れて、肩を大きく上下させながらも一歩も止めなかった。
「俺が止まったら……4番が笑われる……!」
自分自身を奮い立たせるように呟きながら、重たい脚を引きずって登っていく。
8本目――脚が棒のようになっていた。呼吸も浅く、吐く息だけが音を立てる。背筋も丸くなりがちだ。だが、ここからが勝負だと誰もがわかっていた。
「後半の2本は、本当の意味での『地獄』だ」
それは、谷崎コーチの常套句だった。筋力も持久力も限界を迎え、身体が前に進むことを拒否しはじめるその頃にこそ、本当の意味での「成長の扉」があるのだ、と。
9本目、坂の頂上で足がもつれ、倒れ込みそうになった佐藤の脇を、千堂がすっと追い抜いていく。その姿は、汗まみれでもブレなかった。
「まだ……走れる!」
千堂の声に、佐藤が顔を上げた。
「ッ、俺も……まだ、いけるっ!」
最終10本目。もう誰もしゃべらない。ただ、ゼエゼエと息をしながら、黙々と坂を登っていく。
井上は最後の一本、脚に力を込めて加速した。
(球速を上げるには……体幹と足腰が重要になってくる! ここで負けたら、エースにはなれない)
登り切った瞬間、井上は地面に手をついて倒れ込んだ。肺が爆発しそうなほど痛む。だが、その目には達成感があった。
「ラストォォォッ!! お前ら全員、走りきれぇぇぇ!!」
監督の怒号のような激励の中、全員が最後の力を振り絞った。
10本目、全員が坂を登りきったとき、まだ朝の六時半だった。だが、1年生たちにとっては一日分の体力を使い果たしたような疲労が体中を襲っていた。
それでも、誰一人として脱落者は出なかった。
「――これが、地獄の走り込みだ。よくついてきたな」
監督の言葉に、誰も声を返すことはできなかった。だが、それぞれの目には、確かに「覚悟」の光が宿っていた。
夏の大会まで――まだ合宿は始まったばかりだった。




