第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿3日目 余韻③
白線をまたいで打席に立った瞬間、千堂陸は深く息を吸った。
グラウンドに充満する熱気。蒼嵐学院の応援席から響く太鼓と歓声。すべてが豪快な野球を期待している。
だが、陸は迷わなかった。
(振り回す必要はない。俺がやるべきは――チームに道を拓くことだ)
バットを短く持ち、ヘッドを少し寝かせる。セーフティの構えをするつもりはない。相手に気取られないように、普段通りに立つ。
マウンドの神谷岳が大きな体を揺らし、こちらを睨んだ。
振りかぶりが豪快すぎて、まるで巨岩が動き出すかのようだ。観客が「おおっ」と息を呑む。
初球――。
全身をしならせて投じられたボールが、唸りを上げてミットへ向かって突き進む。
普通なら迷わずフルスイングをする場面。相手も、観客も、それを望んでいる。
だが陸は、一瞬のためらいもなく動いた。
バットをスッと下げ、球の下に差し出す。
「コツッ」
乾いた小さな音。
白球は力なく転がり出し、投手正面へ転がる。
神谷の動きが一瞬止まった。――まさかのセーフティ。
力と力がぶつかり続けた展開が続いていたので、完全に意表を突かれた。
陸は迷いなくスタートを切った。スパイクが土を掻き、身体が前へと飛び出す。
耳に入るのは歓声ではない。呼吸の音と、心臓の鼓動。
(間に合う!)
投手神谷も猛然と拾いに走る。しかし、白球を握り直す一瞬の遅れが、致命的な差となった。
ベースへ飛び込む――「セーフ!」
塁審の右手が横に広がった瞬間、ベンチから歓声が爆発した。
蒼嵐学院の内野手たちは顔を見合わせ、観客席も一拍遅れてざわつく。
先ほどまで続いた豪快な流れとは一転、わずかに転がった打球での出塁。
だが陸は構わなかった。
(これでいい。派手さはいらない。俺は俺の野球をやる――それだけだ)
一塁ベースの上で立ち上がった陸の目は、静かに輝いていた。
大阪大和学園との死闘で感じた「全国の壁」。
あの恐怖を越えた今、彼はもう迷わない。
豪打の嵐に飲まれるのではなく、冷静な一打で流れを切り拓く。
千堂陸の戦いは、ここから始まっていた。