第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿3日目 結末⑥
「ファール!」
審判の腕が左右に大きく振られると同時に、球場の空気が震えた。
――特大のレフトファール。
あと数十センチ内側なら、試合を決める一発になっていた。
ベンチも観客も、そしてマウンドの岡田自身も、心臓を鷲づかみにされたような衝撃に包まれていた。
捕手の藤原守は、面の奥で静かに息を吐いた。
(……やはり獅子丸は一発を持っている。翔の渾身の直球を振り切って、あそこまで飛ばすか。あれを真正面から続ければ、次は確実に仕留められる)
マウンドを見やる。岡田は呼吸を整えている。
額には汗が滲み、右肩が重そうに上下していた。疲労は隠せない。だが、その瞳の奥には「まだ行ける」という意志の炎が揺らいでいた。
(直球、それを獅子丸は一番待っている。ただ、それで抑えられたら完全に流れはこちらにくる。直球で抑えられたら理想だ。じゃあそのための配球として…)
藤原の頭の中で、次の配球の選択肢が並ぶ。
――外角ストレートで逃げるか?
――高めのボール球で泳がせるか?
いや、それでは「勝負を避けている」と思わせてしまう。獅子丸は慎重さを嗅ぎ取るタイプだ。気配を感じ取られれば、一気に主導権を握られる。
(ならば、この球種だ。打者の目線をずらし、重心を崩す。欲しいのは、狙わせて空を切らせることだ)
藤原の脳裏に一つの球種が浮かぶ。
――スローカーブ。
普段なら決め球に使うことは少ない。だが、この場面ではむしろ効果的だ。速球の余韻が残っている打者にとって、緩急の差は剣より鋭い刃になる。
(外角低め。ギリギリ届かない位置。ボールになるのは構わない。振らせても、見送らせても、ここで意識をずらすのが狙いだ)
藤原は一度マスクの内側で小さく頷いた。
そして、ミットを外角の土手すれすれへと滑らせた。打者の視界からは見えない微細な動き。だが岡田には、その意図がはっきりと伝わった。
岡田の瞳が細く光る。
(なるほど……外角低めのスローカーブか。獅子丸を惑わせるには確かにいい)
疲労した腕に力を込める。肩の重さは限界に近い。それでも、彼は頷き返した。
――この一球は、獅子丸のタイミングを狂わせる。
バッターボックスの獅子丸は、バットを強く握りしめていた。
(直球で来い、今度こそ仕留める)
瞳は直球の軌道を追うつもりで研ぎ澄まされている。
捕手の藤原は、その思考を逆手に取ろうとしていた。
(待っていろ、獅子丸……お前が狙っているのは、俺たちが一番投げさせたい“空振りの未来”だ)
ミットが構えを決める。
球場の空気は再び張りつめ、時間が止まったように静まり返った。
――2球目、配球は決まった。