第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿3日目 結末④
キャッチャー藤原守は、膝を折ったままマスク越しに打者を睨んでいた。
天童獅子丸――初回、甘い直球を仕留められた記憶が鮮明に残っている。あの一発は、守備位置にいた自分でさえ背筋が凍るほどの打球だった。だが、それから二度は凡退。三打席目は二打席目の直球勝負とは変え、変化球で揺さぶり、打ち損じさせてきた。
しかし、最終回、先頭打者で迎えたこの場面でまた変化球に逃げるのは違う。藤原は直感していた。
(こいつを完全にねじ伏せるなら、逃げてはいけない。狙いすました直球で勝負する。それが俺たちの答えだ。)
サインはひとつ。
インコース高め――フルスイングに来られれば長打、いやホームランもある危険なコース。だが、そこに全力の真っ直ぐを叩き込むことこそ、勝負を決める道だった。
藤原のミットが、胸元からぐっと跳ね上がるように内角へ動く。
岡田翔は、その位置を確認し、小さく頷いた。
疲労は確かにあった。八回を投げ切った右肩は重く、ユニフォームの背中には汗が広がっている。マウンドに立つたびに足が沈むような感覚がある。それでも、彼の瞳の奥には一点の迷いもなかった。
(翔、今まで抑え込んできた全ては、この瞬間のためだ――この一球にすべてを乗せる!)
静かな球場に、風がわずかに吹き抜ける。観客席には保護者やチーム関係者がぽつぽつと座っているだけ。大歓声はない。だが、だからこそベンチからの短い掛け声や、スパイクが土を噛む音が、異様に大きく響く。
「行けるぞ、翔!」
「集中しろ!」
鋭い声が岡田の背中を押す。
岡田は帽子の庇を軽く触り、深く息を吸った。右手でボールを強く握る。指先に張りつく汗を無理やり押し殺すように、握力を込めた。
――セットポジション。
足が上がる。わずかな溜め。静寂が深まる。
打席の天童は、バットを肩の後ろに引き、目を細めて岡田を睨みつけていた。初回の快感、そしてその後の二度の凡退が脳裏を交錯する。
(来い……ここで仕留める! 全力の直球だろうが何だろうが、俺は打ち抜く!)
岡田の腕がしなりを作る。
スパイクがマウンドを抉り、土が飛び散る。
全身の力を絞り切って、白球が放たれた。
一直線に、インコース高め。
わずかに甘く入ればホームラン。藤原が構えるその位置に、矢のような白球が吸い込まれていく。
天童の目が見開かれる。
(来た――! これを待っていた!)
反射で体が動く。筋肉が硬直し、バットがわずかに震える。
打席もベンチも、球場全体も――一瞬、音を失った。
白球が胸元を貫くように迫り、視界が収束していく。
――すべてが、この一球に集約された。
時間が止まったかのように、投球の軌跡だけが鮮烈に浮かび上がる。