第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿2日目・ダブルヘッダー編⑫
三者凡退まで、あと一人。
マウンド上の井上宏樹は、グラブの中でゆっくりとボールを回した。汗ばむ掌の中で、縫い目の感触が心地よい。
――直球、シュート。そしてこの一球。
「……次は、“叩きつけるように落とす”――あの球だ」
井上は、ベンチ奥のブルペンで放った一球を思い出していた。
――パワーカーブ。
ゆるい山なりではない。ストレートに近い球速から、鋭く斜めに沈む変化。谷崎コーチが「沈む直球」と称した、攻めの変化球。
打席には、成光学園の3番。スイングスピードが鋭く、一発のある右打者。ここで真っ直ぐを投げれば、捉えられる危険もある。
(だからこそ、今――この球を試す)
田中が慎重にミットを構えたのは、やや内角寄り低め。
井上は静かに頷き、右足を上げた。
フォームは直球とまったく同じ。腕の振りも一切変えない。
だが、ボールの握りは――谷崎から教わった、パワーカーブのものだ。
振りかぶり、叩きつけるように――放つ!
ズバァッ――!
バットが出た瞬間、ボールは“消えた”。
鋭く沈み込む軌道。手元で落ちるその球に、打者のスイングは完全に空を切った。
「っ……くっ!」
打者はその場に立ち尽くす。ストレートに合わせたつもりが、球が消えたのだ。
――ストライク、ワン!
球速は100km/h台。それでも、打者の体感速度ではそれ以上。球質が重い。キレがある。
田中がそっとミットを返す。目を見合わせた井上は、再びうなずいた。
(もう一球。今度は、もっと“沈ませる”)
二球目。打者は完全に警戒していた。だが、その一歩前の思考を読んでいた江原は、今度はアウトローに構える。
井上の足が上がる――そこからの一連の動作は流れるようだった。
ストレートのように前に出たボールが、急激に落ちる。
打者のバットがわずかに届かず、カスることすらない。
「ストライク、ツー!」
スタンドがざわつき始める。井上宏樹、まさかの“キレ味”。
ベンチに座る谷崎は腕を組みながら、小さく目を細めていた。
「悪くねえ……。この落差と球速、緩急じゃねえ。武器になる」
カウント0-2。
井上は、次を最後にすると決めていた。
握りはパワーカーブ。だが今度は、あえて高め――ストライクゾーンギリギリを狙う。
(浮いて見えるようで、最後に落ちる。振るなら振れ――)
田中が何も言わず、構えをそのままにする。
井上、3球目――振り抜く!
バットが鋭く反応した。だがその瞬間、球はストンと沈んだ。
空振り――三振!
「ストライクスリーッ!」
打者のバットが空を切る音が、球場の静寂に響いた。
その場に残されたのは、三者凡退という事実。そして、打者の眉間に浮かぶ苦悶の皺。
「……消えた……なんだ今の……」
井上は淡々と帽子に手をやり、三塁側のベンチへ歩いて戻っていく。
大声を上げることも、ガッツポーズをすることもない。ただ、自分の役割を静かに果たした顔だった。
それを見つめる谷崎コーチが、ふっと呟く。
「ハハハ、監督、とんでもない投手を見つけてきましたね」
「ちょっとの練習でここまで進化するとは、さすが谷崎コーチだな」
ベンチの大山監督も笑いながら、マウンドから降りてくる井上を見ていた。