第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿2日目・ダブルヘッダー編⑪
一人目を三球三振に仕留めた井上宏樹は、再びマウンド上でゆっくりと深呼吸をした。
観客席やベンチの喧騒が、一瞬遠のく。
――二人目。成光学園の2番打者、左打席に構える俊足巧打のタイプ。
(ストレートだけじゃ、通用しない。だから……見せる)
ブルペンで掴んだ“もう一つの球”を、この瞬間にぶつける。
井上は足を上げる。フォームは変えない。ストレートと全く同じ始動――だが、彼の頭の中には、谷崎コーチの言葉が静かに響いていた。
(曲げるな。押し出すだけだ。リリースはストレートと同じ)
振り下ろした右腕から放たれた球が、スーッと内角へ――
バットが反応する前に、「ズン」と重い音を立てて、捕手ミットへ突き刺さる。
ストライク。インロー、ギリギリいっぱい。
だが、それ以上に打者の顔に浮かんだ“困惑”が、井上に確かな手応えを与えた。
(今の、完全に芯を外した……)
打者は一歩後ずさり、眉をひそめる。
「ストレートにしか見えなかった……けど、曲がってきた? いや……沈んだ?」
思わず呟くように口にする。
打者の目には、まっすぐ伸びてきたはずの球が、最後の瞬間だけ“逃げた”ように見えた。
ミットの中心から、わずかに10センチ外れた軌道。それは見た目以上に“ズレた”感覚を生んでいた。
ベンチで見守る谷崎コーチの口元が、わずかに緩む。
「……出したな、井上」
続く2球目、打者は明らかに警戒していた。体が先に動いた。
――しかし、その読みは裏目に出た。田中のリードは逆に、外角高めにストレート。
“まっすぐくるはずのシュート”が来ず、棒立ちのまま見逃しストライク。
カウント0-2。追い込んだ。
観客席の空気が、少しずつ変わり始めていた。
さっきまでは「普通の投手」として見ていた選手が、いま、確実に“何かを持っている”投手に変わりつつある。
――そして3球目。再びシュートの握り。
井上は、力まずに、自然に、押し出す。
バットが出る――が、ボールは芯をわずかに外れ、内角寄りで詰まらせる。
コンッという音と共に、バットの根っこに当たった打球は、ピッチャー前へ転がるボテボテのゴロ。
井上は素早く反応し、一塁へ送球――アウト。
二死。
(……狙い通りだ)
打者の足は速い。だが、バットの芯を外し、まともなスイングをさせなかった。
谷崎コーチの言葉が、また蘇る。
――“芯を外す殺意”。
この一球がある限り、井上宏樹はストレートだけの投手では終わらない。
“打てそうで打てない”。そう思わせるだけで、試合の流れは変わる。
マウンドの上で、井上は小さく息を吐き、静かに次の打者を見据えた。