第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿2日目・ダブルヘッダー編⑩
一塁側ブルペンでの調整を終えた井上が、静かにマウンドへと歩を進める。
背筋は真っ直ぐ、肩に無駄な力はない。
今日の彼には、“以前と何かが違う”空気があった。
――1回裏、先頭打者。
井上が左足を上げ、以前よりも一瞬“静止”するかのような間。
その刹那、下半身の軸に体重を乗せたまま、滑らかに腕が振られる。
ズバンッ――!
乾いた音とともに、キャッチャーミットに真っ直ぐ収まるストレート。
インハイぎりぎり、球速表示は115km/h。だが、それ以上に“走って”見える球筋だった。
「球速はそこまで速くない。これなら打てる。」
成光学園の先頭打者・佐伯は、自分に言い聞かせるように呟いた。
井上の球速は表示で115km/h。驚く数字ではない。むしろ“遅い”部類だ。
なのに――初球のストレートを見た瞬間、ほんのわずか、違和感が脳裏をかすめた。
(伸びてる……? いや、そんなわけ――)
佐伯は首を横に振り、バットを軽く構え直す。
2球目、再びストレート。今度はアウトローへ鋭く突き刺さる。
「ストライク!」
(……クソ、タイミングが合わない)
フォームにクセはない。投球動作も滑らか。
それでも、井上の球には“手元でグンと来る”ような感覚があった。
まるで、最後の一瞬だけ加速するような。
ベンチでは、谷崎コーチが腕を組み、声を漏らす。
「あいつの良さはあの回転数だよ。数値は速くない。でも、バットが出遅れる」
回転数――井上のストレートは、平均よりも遥かに高回転だった。
そのぶん、軌道が落ちず、ホップするような“見え方”を生み出す。
加えて、フォーム改造によってリリースポイントが変化し、ボールの“見える時間”が極端に短くなった。
「数字じゃない。実際に打席に立たなきゃ、あの球のイヤらしさはわからない」
大山監督も小さく頷いた。
――3球目。
佐伯は意地でも振りにいった。1年捕手、田中の構えはインハイ。
井上がセットポジションから迷いなく腕を振る。
ズバンッ!
視界にボールが滑り込むその瞬間、佐伯はバットを振った。
だが、ほんの一瞬――0.03秒の遅れが命取りになった。
バットは空を切り、ミットが乾いた音を鳴らす。
「ストライクスリー! バッターアウト!」
空振り三振。
佐伯の身体がよろめき、口を開けたままマウンドを見つめる。
(……なんで……? なんであの球が振り遅れる?)
速度ではない。力でもない。
“見た目以上に速い球”――それは、物理的な球速ではなく、“回転数”の魔力だった。
佐伯はバットを肩に乗せたまま、納得のいかない表情でベンチに戻る。
マウンド上の井上は、感情を顔に出さず、静かに帽子の庇に手をやった。
(――回転で勝てる。それが、あのフォーム改造で掴んだ答えだ)
試合はまだ始まったばかり。