第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿1日目・個別練習(藤原&松岡編⑦)
夕暮れのグラウンド。
練習はすべて終わり、他の選手たちはすでに寮へと戻っていた。
松岡竜之介と藤原守だけが、まだネットの横に残っている。
ロングティーと素振りの感覚が残る手のひらで、松岡はバットを静かに握っていた。
「……藤原さん」
「ん?」
「試合のとき、藤原さんって……なんであんなに“ブレない”んですか?」
藤原はボールバッグに手をかけたまま、少しだけ顔を松岡の方へ向けた。
「“ブレない”ように見えるだけだ。俺だって、心臓はバクバクだよ」
「……でも、打席に立ったとき、怖そうに見えたことなんて一度もないです」
藤原は少し黙ってから、ポケットからバッティンググローブを取り出した。
その場で、いつも試合の時と同じように、指を一本ずつ通しながら話し始める。
「俺が打席に入る前に必ずやる動作がある。
それを“ルーティン”って呼んでる」
松岡は静かに耳を傾けた。
「まず、グローブのマジックテープを貼り直す。この“バリッ”って音で、自分を試合に戻す」
藤原は、実際にテープを鳴らしてみせる。
それは小さな音だったが、松岡には妙に“芯のある音”に聞こえた。
「次に、ヘルメットのつばに触れる。“顔を上げろ”って、自分に言ってる合図だ」
藤原はつばに軽く触れ、視線を前方に向けた。
「構える前には、必ず一回だけ深く息を吐く。“これ以上考えるな”って、頭の中の余計なものを全部流す」
そう言って、藤原は大きく息を吐いた。
それはただの呼吸ではなかった。
まるで、その一息の中に「迷い」や「不安」までも一緒に吐き出すようだった。
「それで……?」
松岡の声が静かに重なる。
「最後に、自分の名前を心の中で一度だけ呼ぶ。“お前ならできる”って。
それを全部やってから構える。そうすれば、どんな場面でも“いつも通り”の打席に変えられる」
藤原は、もうバットを振らず、ただその場に静かに立っていた。
まるで、誰にも見せない儀式を松岡だけに開いたように。
「メンタルってのは、“強さ”じゃなく“整える技術”だ。
心は揺れる。でも、戻る場所を決めておけば、何度でも戻ってこられる」
松岡は、自分の手元のバットを見つめた。
「……僕も、自分だけのルーティンを作ってみます」
藤原は軽く頷く。
「それができたら、試合が“怖くない場所”に変わる。お前にとっての“ベース”を作れ。それが平常心ってやつだ」
夕日が、グラウンドの影をゆっくり伸ばしていた。
その静けさの中、松岡はグリップを握り直し、自分の心に小さな印を刻んだ。