第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿1日目・個別練習(藤原&松岡編①)
合宿一日目午後。午前の走り込みを終えたグラウンドに、重たい沈黙が残っていた。
シャトルランとインターバル走を繰り返した選手たちは、すでに昼食へと引き上げている。だが、その広い空間に、二人の姿だけが残っていた。
ひとりは松岡竜之介。汗で濡れたジャージを着替える間もなく、黙々と素振りをしている。
もうひとりは、キャプテン・藤原守。キャッチャーミットを片手に、少し離れた日陰からその姿を見守っていた。
午後の個別練習は、まだ始まっていない。だが、松岡の目はすでに“午後の練習”を見据えていた。
藤原が口を開く。
「お前、午前の走り込みでも一言も弱音吐かなかったな」
松岡は振り向かず、小さく笑った。
「……藤原さんと練習するのに、ヘロヘロな顔見せたくないんで」
藤原がゆっくり近づいてくる。立ち止まったその距離は、バッテリー間よりも近い。
「聞いてもいいですか?」
松岡はバットを止めて振り返った。
「藤原さんって、4番で、キャプテンで、キャッチャーで……。どれも一番プレッシャーかかるポジションですよね」
「……まあな」
「どうやって、あのプレッシャーに勝ってるんですか」
一瞬だけ風が吹いた。砂を巻き上げるそれにまぎれて、藤原は少しだけ目を細めた。
「プレッシャーに“勝つ”っていうより、“潰されない”方法を持ってるだけだ」
「潰されない方法……」
藤原は左手でミットを掲げ、右手で自分の胸を軽く叩いた。
「いいか、松岡。俺が実戦で崩れないためにやってることは、たった2つだ」
「……はい」
「ひとつは、“絶対的な自信を持てるくらいの練習を、毎日こなすこと”」
「……練習、ですか?」
「そう。打つのも、守るのも、考えるのも。どんな場面でも“これだけやってきたんだから大丈夫だ”って、自分で自分を信じられるくらいまで追い込む。練習の量と質が、そのまま“心の柱”になる」
藤原は少し間を置いてから、もうひとつの指を立てた。
「もうひとつは、“自分が平常心を取り戻せるルーティンを持つこと”だ」
松岡が眉をひそめる。
「ルーティン、ですか?」
「ああ。構えに入る前の一呼吸でも、握り直しでも、バットを置く位置でもいい。“いつも通り”を自分の中に作っておく。それをやることで、たとえ心が乱れていても、戻ってこれる」
藤原は軽く屈んで、ベース横に転がっていたティーを拾い上げた。
「お前はきっと、もっと打てるようになる。でもな、それを試合で出せるやつと出せないやつの差は、こういう準備をしてるかどうかなんだ」
松岡は、バットをゆっくりと構えた。目の奥には、いつもよりわずかに強い光が宿っていた。
「練習と……ルーティン、ですね」
「そうだ。練習は裏切らないし、ルーティンは心を支えてくれる」
藤原はにやりと笑って、グラブをはめ直した。
「さあ、午後の個別練習を始めようか。まずは“信じられるスイング”を作るところからだ」
松岡は深くうなずいた。
午前の疲れが、すっと身体から抜けていく気がした。