第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿1日目・個別練習(谷崎コーチ&井上編⑱)
変化球の手応えを確かに感じながら、井上は黙って、ブルペンの壁際に置かれたストレッチマットに腰を下ろした。
「今日は、ここまでにしとくか」
谷崎の声に、井上は小さく頷き、静かに息を整える。
汗が額から流れ、Tシャツの背中に張りついている。
腕の奥、肩の後ろ、股関節の内側――今まで使ってこなかった場所が、じわじわと熱を持っていた。
谷崎は黙ってタオルを放ると、隣に腰を下ろした。
「……全部いっぺんにモノにしようとすんなよ。今のお前には“身につけたことを、繰り返して定着させる”ことが一番大事だ」
井上は、地面に目を落としながら聞いていた。
「今日教えたことは、1週間単位で区切って練習していく」
そう言って谷崎は、ポケットから小さなメモ帳を取り出し、ページを開いてみせた。
「例えば――月・水・金・日の4日でフォームと下半身強化。シャドウ、ノーステップ、ブルガリアンスクワット。徹底して身体に叩き込む」
井上は真剣なまなざしでメモをのぞき込む。
「火・木・日で変化球の感覚づくり。シュートとカーブを交互に、まずは“使える変化球”として磨く。そのかわり、投げすぎは厳禁だ」
「……はい」
「このローテをずっと回して、身体とフォームの土台を仕上げていく」
谷崎はメモを切り離すと、それを井上の膝に乗せた。
「一個ずつ、“できる”じゃなく“再現できる”にしていけ」
「……ありがとうございます。やります」
井上の声には、覚悟の色があった。
変わらなければならない。そんな義務感ではない。
変われる。そう信じられるだけの時間と、確かな感覚が、今日は手に入った。
ストレッチを終えた身体が、わずかに軽く感じる。
立ち上がる井上の背中には、確かな手応えと、小さな自信が芽吹き始めていた。