第3幕【第1章ː地獄の合宿編】合宿1日目・個別練習(谷崎コーチ&井上編⑮)
ブルペンに足を踏み入れた井上宏樹の顔には、明らかな緊張と――それ以上の期待があった。
フォームを作り直し、下半身と体幹を鍛え、回転や指先の感覚を繊細に刻み込んできた数時間。
自分が変わったかどうか、それを証明するのがこの場所だった。
「じゃあ、軽く体を動かしてからでいい。20球だけ、直球に集中しよう。狙いは“再現性”だ」
谷崎コーチの言葉に、井上は小さく頷き、ゆっくりとマウンドに立つ。
足元の土の感触が、午前中とはまるで違うものに感じた。
グラブを握り、ボールを胸元へ。
深呼吸。下半身、体幹、腕――すべてを連動させて、最初の一球に集中する。
(ノーステップの感覚、股関節の回旋、タオルで掴んだ腕の振り、回転の“乗り”――全部、思い出せ)
右足を上げ、軸足にしっかりと体重を残しながら――リリース。
――パンッ!
乾いたミット音がブルペンに響いた。打者がいないにもかかわらず、捕手役のミットがわずかに後ろに下がった。
「……っ!」
井上自身が一番驚いていた。
“軽く”投げたつもりだった。だが、ボールは今までにない“伸び”を見せていた。
「113km/h」
井上の目が見開かれた。
(……うそ……?)
今までどれだけ頑張っても、110kmの壁を越えられなかった。
それを、自分が“今”、あっさりと更新した――。
「そうだ。今の球、ちゃんと“乗ってた”。手じゃなくて、体で投げられてたな」
谷崎の声に、井上は我に返る。
「……え、はい……でも、こんな簡単に……」
「簡単じゃねえよ。けどな――“今まで考えてなかっただけ”だ」
谷崎は、わずかに笑いながら言葉を続けた。
「力を入れたって球速は上がらん。フォームが整えば、出せるスピードは変わる。お前の本当の土俵は、やっと今ここだ」
井上はふっと笑いかけようとしたが、どこか浮ついた気持ちが残っていた。
「もう一球、投げます」
力まず、同じように――と心がけての2球目。
右足を上げ、先ほどのイメージをなぞるつもりで振りかぶる。しかし――。
――パンッ。
音が、軽い。ミットもさほど動かない。
球速表示は「109km/h」。
「……あれ……?」
さっきと同じように投げた“つもり”だった。
だが、腕が先行していた。フォームの“芯”がぶれていた。
「それが“再現性”の難しさだ」
谷崎は静かに言った。
「1球目ができたからといって、次もできるとは限らない。それを“何度でも”できるようになって、初めて一人前の投手だ」
井上は無言で頷いた。
(さっきの感覚……俺の中にまだ残ってる。絶対、もう一度、再現してみせる)
再び、構える。
3球目。4球目。球速は上下し、回転も安定しない。
それでも、井上は投げ続けた。
最初の1球――あの“理想”を、もう一度自分の中に刻むために。
そして、やがて“毎回それを出せる投手”になるために。