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  作者: 夜穹
第一章
2/10

泡にならなかったエアリアル

 昔々、ある国のすみっこに、森に囲まれた町があり、町のすみっこには有名な崖がありました。


 どうして有名だったかと言うと、世を(はかな)んで身を投げる人がその崖を選ぶ事で有名だったのです。


 そんな崖に、今宵もまた一つ、人影が現れました。


 ピン……ピン……と小さな金属音が夜闇に響きます。

 星の降り出しそうな夜空に向かって、きらきら光る一枚の金貨が、潮風にさらされながら高く高く飛んでいっては、引き戻されるように持ち主のもとへ向かって落ちていきました。

 それを取り、また空へ送り出すその人は、町で有名な怠け者のお坊ちゃまです。


 彼も、かつてその崖に訪れた人々と同じように身を投げに崖へやってきたのです。


 しかし、お坊ちゃまは崖のふちに近付き、聞こえる波の音が大きくなってくると、その歩みを止めました。


 その足は、それ以上は半歩ですら頑として動こうとしません。


 そこで、空から星の代わりに降ってきた金貨を、手の甲と手のひらで捕まえました。


 やや痛む手の甲にため息を吐いてから、彼は宣言しました。


「表だったら行く、裏だったら帰る!」


 そっと手のひらをどかすと、結果は表でした。


「そもそもどっちが表でどっちが裏じゃ?」


 そんな事を言うお坊ちゃまでしたが、すぐにまた歩き始めました。


「大丈夫、大丈夫……」


 それは全く大丈夫な事ではありませんでしたが、お坊ちゃまはそう自分に言い聞かせ、ついに崖の縁からゆっくりと海へ向かって倒れていき、そして潮風のただ中へふわりと落ちていきました。


 すぐ後に大きな水の王冠が水面に生じ、破裂したような水の音が夜闇に響きます。


 しかし本当の苦労があったのは水に落ちた後でした。

 落ちる先にあった岩には両足が叩き付けられはしましたが、頭を打ちつけて死ぬ事は無かったのです。

 そうなれば後は息をせずに沈んでいく他ありません。

 それはとても難しい事でした。


 塩辛く、しかもこの時期にちょうど繁殖(はんしょく)する瑠璃(るり)色の()蔓延(はびこ)る水を、むせながら、苦しみながら、死ぬ為だけに飲み込み続けるなんて簡単に出来ることではありません。


 しかし、そういう時は決まって手足が勝手にもがいて浮上してしまうものですが、足の方だけでも使い物にならなくなっていたので、普通よりは簡単だったのかもしれません。


 お坊ちゃまは金貨を海中に放って祈りました。


 海の波よ、このとおり渡し賃は払った、どうか海神の御元(みもと)へ……。


 すると、その祈りがどう聞き届けられたのか……。


「何じゃ?」


 彼は妙なものを見ました。


 水面から垂れ下がりながらふよふよ近付いてくる、何かの尾ひれです。

 それは長く大きく、鱗は無く、恐らく彼自身が溺れている水と同じ色をしていて両脇に付いた前足ならぬ前ひれをはためかせて泳いでいました。


 挿絵(By みてみん)


 海獣か?


 と、目を凝らしたものの、青かった水の色に目が慣れたのかいよいよ死に踏み入り始めたのか、視界が灰色になり始めていきます。

 そんな中お坊ちゃまは、ぼやける視界にありえないものがあるのを見つけてギョッとしました。


「は!?」


 前ひれだと思っていたものはむしろ後ろひれで、水面の辺りで人間と同じ色形の腕が水を()いて揺らめいているのです。

 さらによくよく見れば、その海獣の形をした何かは、体もどことなく人間に似た形をしているように見えてきました。


 ふとそこで、それが海中に何が落ちたのか探しに来ているのだとお坊ちゃまは気付きました。


 水面に何も見つからない事を確認したそれは、ついに水中に頭を突っ込んで潜って来ました。


 潜って来たその頭はと言えば、人間の少女と同じ姿をしていました。


 尾ひれと同じ水の色をした彼女の瞳は魚や獣のそれではなく確かに人間のもので、しかしなんだか宝石のように硬そうでした。

 目の他もまるで細工して(かたど)られたような顔立ちと姿で、何者かに彫られた石像のようでした。

 泡を帯びた黒髪は満月の光の下できらきらと光り、水の中で絹織物のようにはためいていました。

 黒髪から覗く耳は何故か少し長く尖っていて、やはり人ではないのだと分かります。


 ()む息も無いお坊ちゃまは、いつの間にか彼女へ向かって手を伸ばして振り、助けを求めていました。


 すると彼女は慌てた様子でお坊ちゃまのもとへ泳いでくると、彼の腕を取って引き上げました。


 人間の手にある指紋や手相のようなシワのない、すべすべした手でした。


 引き上げられる間、幼い頃に見つけたとても古い本に書いてあった「人魚」という怪物の話を、お坊ちゃまは思い出していました。

 それから、ある時、父の仕事に付きそって遠い外国の森にやってきた日に迷子になり、心細く彷徨(さまよ)い続けた末にたどり着いた村で、服も家も食べ物も全てが奇妙な村人達に助けてもらった時の事を、思い出していました。

 そして、お坊ちゃまは、何故か自分がホッとしている事に気付きました。


 砂浜へ上がると、お坊ちゃまは砂の上にはいつくばって海水をたくさん吐き出しました。

 人魚はおろおろとしていて、その顔は泣いているように見えました。

 そして水の中で泡を吐くような声で言いました。


「どうしよう、どうしよう、死んでしまうの?」


 お坊ちゃまは返事が出来なかったので、人魚へ手のひらを向けて、せき込む喉が落ち着きを取り戻すまで少し待ってもらう事にしました。


「し、死にはしない、むしろ助かった。感謝する」


 まだ少しせき込みながら、お坊ちゃまは言いました。


 すると人魚は安心したように笑い、そっと金貨を差し出します。


「これ、あなたのよね?」


 無邪気に言う人魚に、お坊ちゃまは苦笑いしながら金貨を受け取りました。


「なるほど、そりゃあ海神も俺のような木偶(でく)なぞ要らぬであろうな。しかし代わりにお前をよこした……ありがたく受け取るかの」


 お坊ちゃまは、砂浜に横たわって休み始めました。


「足を打って動けん。朝が来れば街の者どもが探しに来るじゃろ、そうすれば屋敷へ共に帰れる。それで構わぬならしばし話相手になってくれんか」


 人魚は水の中に戻ると、お坊ちゃまを見つめたまま、何か話し始めようと口の中でもごもごつぶやきました。


「わ、(わたくし)は……」


 人魚は、意を決したように語り出します。


「いつか足を得て陸に上がり、それからあなたの元へ行きたいと思っていたの」


「そうか」


 お坊ちゃまの短い返事に、人魚は少し驚きました。


「え?」


「ならば明日でも問題あるまい?」


「このまま街へ!?陸の人間は人魚の姿を見たら何をしてくるか知れませんわ!」


「それもそうじゃの」


 お坊ちゃまは、懐から何かを取り出し、空へかかげました。


 ダァンッ!


 突然響き渡る轟音と少しの閃光に、人魚は小さな悲鳴を上げます。


 彼の手には、拳銃が握られていました。


木偶(でく)と言えど"お坊ちゃま"の近くに海の怪物がおれば街の者どもも武器を出して騒ぐじゃろう。しかしこれでお前は俺を襲えぬ、街の者どももお前を襲えぬ、あの崖の上あたりまで余裕でコレの射程内ぞ。ちなあと六発」


「あまり血は見たくないわ……」


「安心せい、それは向こうも同じじゃ」


 短く笑い、お坊ちゃまはいよいよゴロゴロとくつろぎ始めました。

 そして淡々と語り始めます。


「ここの崖に来る度、どこぞから見られておるのは薄々感じておったのよ、万が一父の顔に泥を塗るような噂が立っては不都合ゆえ今日まで身を投げず潮風にあたりに来たフリなぞしておったが……まさか(さかな)に見られておるとは思わなんだ」


 人魚は、恥ずかしそうにうつむき、肩まで海の中に隠しました。


(わたくし)は、初めて見た時から、ずっとあなたに歌を聞いて欲しかったの……でも、人魚がいると分かったら何をしに来るか知れなくて恐ろしくて……」


 臆病なのはいかにも魚らしい、とお坊ちゃまは心の中で人魚を嘲笑っていました。

 しかし、彼にはとても珍しい事に、そういった相手に()えて優しい言葉を返したのです。


(さか)しいのう、長生き出来ようぞ」


「それはダメよ、私はエアリアルですもの」


「エアリアル?お前の名か?」


「ええ、(わたくし)は昔から色んな事が気になって仕方なくて、確かめる為に周りに迷惑をかけてばっかりでしたの。だから、母様が、お前なんて今すぐにでも水の泡に……大気の妖精(エアリアル)になって海から出ていくと良いって……それで(わたくし)の名前はエアリアルなの」


「はー、シンデレラみたいな名付け方じゃのう。おっと、名乗られたからには名乗るが礼儀じゃの、俺の名はアンク、この先の街の領主の……息子の一人で、それで街の者どもにお坊ちゃまと呼ばれておるのじゃ」


「じゃあ、アンク坊ちゃま?」


 アンクは短く息を吐きました。


「名前も一緒に呼ばれたのは初めてかもしれんのう」


「命の神様という意味の言葉だと聞いた事があるわ、縁起の良い名前ね」


 アンクは少し感心したように目を丸くしました。


「更に博識とは有望じゃのう、たいそうな人気者になれそうじゃ」


「人気者……やっぱりお屋敷では何か面白い話の一つでも出来なくてはいけないのかしら?(わたくし)どちらかと言えば壁の花なのよ」


「まあ、そこらへんは成り行きを見てからじゃの」


 と、少し自信の無さを見せるエアリアルに、アンクは飄々と答えました。

 そんな彼の表情は珍しく穏やかで、丸い耳の先は赤らんでいました。

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