お坊ちゃま
昔々、ある国のすみっこに、森に囲まれた町があり、町のすみっこには有名な崖がありました。
どうして有名だったかと言うと、世を儚んで身を投げる人がその崖を選ぶ事で有名だったのです。
そんな崖に、今宵もまた一つ、人影が現れました。
ピン……ピン……と小さな金属音が夜闇に響きます。
星の降り出しそうな夜空に向かって、きらきら光る一枚の金貨が、潮風にさらされながら高く高く飛んでいっては、引き戻されるように持ち主のもとへ向かって落ちていきました。
それを取り、また空へ送り出すその人は、町で有名な怠け者のお坊ちゃまです。
彼も、かつてその崖に訪れた人々と同じように身を投げに崖へやってきたのです。
しかし、お坊ちゃまは崖のふちに近付くにつれ、聞こえる波の音が大きくなるにつれて、これではつまらないのではないかと思い始めました。
そこで、満天の星空から星の代わりに降ってきた金貨を、手の甲と手のひらで捕まえました。
やや痛む手の甲にため息を吐いてから、彼は宣言しました。
「表だったら行く、裏だったら帰る!」
そっと手のひらをどかすと、結果は裏でした。
「そもそもどっちが表でどっちが裏じゃ?」
そんな事を言うお坊ちゃまでしたが、すぐに崖を去り、また金貨を宙へ弾き上げながら町への道を歩き始めました。
帰ってきた町中では、貧しさのあまり家を失った人々がそこかしこに座り込んでいました。
中には物陰からお坊ちゃまの金貨を見つめる人々もいましたが、彼がいつも持ち歩いている拳銃が怖いのでしょう、彼らが物陰から動く様子はありませんでした。
そんな彼らを見て、お坊ちゃまは立ち止まります。
「良い事を思い付いた」
そう言うとまた歩き出しました。
屋敷への道とは反対の道を進んでいったお坊ちゃまは、噴水広場にやって来ました。
噴水広場と言っても、はるか古代に作られた噴水は、今となっては壊れて止まったまま直し方を知る人もなくただ雨水を貯めるだけのものになっています。
それを直そうと言い出す人はいません。
噴水を直せるほどのお金があれば、宴会の為の食べ物やお茶会の為の身なりに使った方がよほど良いからです。
しかし、そんな噴水にも水は溜まっているので、鳥や猫や、貧しい人々が集まるのでした。
金貨を後ろ手に隠したお坊ちゃまは、ちらほらいる人々の背中を見つめながら、おそるおそる噴水へ近付いていきました。
そして、元気な声で挨拶します。
「おはよう、噴水のヌシ」
もう空は白み始め、星々も姿を隠していました。
すると、噴水にたむろする人々の中で一人、水底の藻から掘り出したのであろう錆びついた古銭を服の端で磨いていた男が不機嫌に振り向きました。
彼が噴水のヌシです。
その噴水広場の噴水には、お金を放り込んで願い事をすると、はるか昔に広場に噴水を建てた王様の魂が聞き入れてくれる、という伝説があり、特にその王様の時代の古銭が好んで投げ込まれるのです。
そこで、町にやってくる旅人や、お坊ちゃま達のような貴族のお客に伝説を教えて古銭を売りつけ、放り込まれたそれを拾ったり掘り出したりしてまた売りつける、というのを繰り返している事で、彼は町中に数多くいる貧しい人々の中でも有名でした。
もちろん噴水のヌシだけがそうしている訳ではありませんでしたが、少なくとも最初にそれをやり始め、そして最も儲けているのは間違いなく彼です。
「王様に贈るお金は失うと少し困るくらいの金額でやっと耳を傾けてもらえる」という噂も、彼の嘘なのか、元からあったお作法なのか、もう誰にも分かりません。
一理ある、と納得して手持ちの半分を放り込む律儀なお客や、単に王様への敬礼のつもりで小銭を沈めにやってくる昔気質な老人達もいるくらいなのです。
「商売の調子はどうじゃ?」
男は目を丸くしてお坊ちゃまを見ました。
「突然どうされた? まさか今更コケにして笑い飛ばしにでもいらっしゃったんですかい、お坊ちゃま? そんなら間に合ってますぜ?」
と、男は苔や錆を拭き取った緑色が落書きの笑顔のような形になった服の裾を広げて見せました。
「楽しそうじゃの」
「やってみなさるかい?」
「いや、それよりもっと楽しい事をしようじゃないか」
「と言いますと?」
「今は身投げの崖からの帰りなのじゃ、しかし命拾いしたおかげでいらなくなったものがあってのう」
お坊ちゃまが隠していた金貨を差し出すと、噴水のヌシは目の色を変えました。
「これをお前が何に使うか見てみたい」
「ははあ、こいつぁなんたる光栄! ありがたい気まぐれだ!」
敬礼を真似た奇妙な動きと祈りの仕草を真似たぎこちない動きを見せてから、噴水のヌシはうやうやしく金貨を受け取ります。
「なんだい坊ちゃま、私にはくれないの?」
近くで上澄みの水と海の貝を古びた小鍋でぐつぐつ煮込んでいた女が、横から口を挟みました。
他の人々も、同じ事を言いたげにお坊ちゃまを見ています。
しかし、お坊ちゃまが持っていたお金はあの世での路銀にと持ち出した金貨一枚だけ。
それを噴水のヌシに渡してしまったので、両手もポケットも空っぽです。
「彼が金貨を使い切るのを見届けた後、お前にもやるつもりになればやろう。もしそうならなくとも次の誰がしかにはくれてやるつもりじゃ、皆、使い方は考えておいておくれ」
わっ、と噴水周りの人々がどこか嬉しそうにどよめきました。
面白い事が始まったぞ、と言わんばかりです。
「それじゃあ噴水のヌシ、良い買い物を!」
それからというもの、噴水のヌシは、まずみすぼらしい住みかを上機嫌ですみずみまで掃除し、一つしかない食卓とわずかな椅子を玄関先に出し、釣具屋へ干し虫を買いに向かいました。
しかし、店に入ってきた彼を見て、店主は眉間にシワを寄せました。
「何の用だ貧乏人、ここは貴族の方々の為の店だぞ」
しかし噴水のヌシは怯みません。
「そのお貴族がこの金を何にでも使っていいとおっしゃったのさ」
と、店主に金貨を見せました。
「それは墓から盗んだという事か?」
「まさか!要するに、貧乏人に金貨を一枚与えたらそいつをどう使うのか知りたいってぇのさ」
「ふん、彼ららしいな。それで、何を買いに来たんだ?」
「一番高い干し虫さ」
「分かった、出してこよう」
と、店の裏から店主が取ってきたのは、とても珍しい魚を釣る為だけの、とても珍しい干し虫でした。
とても珍しいので、普通の魚は食い付きません。
「こいつがこの店で一番高い干し虫だ」
「よし、それをもらおう」
そうして、噴水のヌシは珍しい干し虫と釣り糸と竿を買い、意気揚々と海辺へ向かいました。
しかし、釣れるのは奇妙な姿をした魚ばかり、見た目がダメならばと口にしてみれば味も酸っぱくてとても食べれたものではありませんでした。
「ああ、全く!お貴族の遊びに付き合わされた!」
噴水のヌシは途方に暮れて、不気味な魚達を海へ逃し、自慢の店になる予定だったみすぼらしくて小綺麗な住みかへとぼとぼと帰って行きました。
しかし本当は、あの奇妙で酸っぱい魚は見た目も味も貴族好みで、とても高く売れる魚だったのです。
その日、命拾いをした魚達は珊瑚礁の影で凱旋の宴を開き、噴水のヌシの買い物の結末を知ったお坊ちゃまは、ケラケラと笑ってコーヒーを飲み干したのでした。