表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ノスタルジック ドリーマー

 今日は思っていたとおり、とても嬉しい日になった。寒空の下、風が少し強いのは気にならず心地よく大学病院からの帰路につけたのは大腸がん術後5年の節目の検診結果が出たからだ。がんの再発なく、やっと通院が終了した。45歳で大腸がんが見つかり手術してから5年の間、何度も定期的に通院した。がん再発の不安や怖さは多少あったが、今まで前向きで陽気に、そして、元気に過ごしてこられたのは、あの不思議な3か月を過ごしたことがとても大きかった。それは大腸がんと診断されてから入院をするまでの期間であり、普段はほとんど夢をみない私がよく夢をみた。それらの夢の内容は、ほとんどが私の人生の25歳くらいまでの昔懐かしい出来事に関係するものばかりだった。普段は思い出すことなく頭の中の片隅にひっそりとかたずけられていて、見つけることがとても困難で壊れてしまいそうな記憶だった。きっと思い出さなければ少しずつ、少しづつ崩れていって、いつの間にか元の形がわからないくらいに忘れてしまうだろう。大事な記憶は大切にしまったままにせず、心や身体が疲弊した時に思い出すのがいいだろうと思う。そうすれば、きっと元気や勇気をもらえて心も身体も癒してくれるし、前を向いて歩いていけと背中を押してくれるはずだ。私がそうであった。不思議な夢たちがそうしてくれたのだった。私はいつの間にかノスタルジック・ドリーマーになって心も身体も癒されていたのだった。

【初恋の夢】


 血便に気づいたのは職場の和式トイレだった。便の検査をすると潜血反応が陽性であったため、病院で大腸カメラの検査をするとがんが見つかった。大腸の直腸の部位に腫瘍があった。医師に映像で説明を受けている途中からだんだんと思考が鈍くなって、放心状態に近づいていたような感じだった。この先どうなるんだろう、人生の終着駅が見えるところに来たのかな、と思った。いきなり、あなたは数年後に死ぬかもしれませんと宣告されたような気持ちだった。今は45歳で人生の折り返し地点を少し過ぎたところって思っていたのが違ったのだろうか。まさか、60歳までにがんになるなんて少しも考えがなかった。その後、病院から家までどのように帰ったのか記憶はなかった。


 近所のかかりつけ医師に紹介してもらった大学病院で再度検査を受けて手術することになった。どこの病院でも緊急を要する手術でない場合、一か月先まで既に手術の予定が入っている。どんなに早くても検査終了から手術まで一か月以上かかる。誰もが早く手術して欲しいと思うだろうが、手術まで患者にできることはあまりない。ストレスを溜めないようにしてよく笑うことを心掛ける、身体に良いものを摂り免疫力を付ける、神仏に祈るなど、それくらいしかできないのではないだろうか。今現在、特に症状はない。しんどくはないし、痛くもないし、苦しくもない。少し便が出にくい時があるのは年齢的なものや体調のせいと思っていたのが腫瘍のせいであった。大腸がんの初期症状はない場合が多い。そのため、症状が進行してから見つかることもよくある。同じ職場の10歳年上の先輩がそうだった。元野球部の先輩は職場のソフトボール大会でハツラツとプレーされていたが、その2週間後に強い腹痛を訴えて入院して大腸がんが判明した。腸が詰まるほど腫瘍は大きくなっており、腸閉塞が原因の痛みだった。そして、検査すると肝臓と肺にがんの転移が認められた。先輩は痔があったので血便があっても大腸がんだと思っていなかったと聞いた。先輩が大腸がんで入院したのは私の大腸がんが見つかる八か月年前だった。自分の血便を見たとき、先輩の話が頭をよぎった。気にしないと気づけないくらい、うっすらとした半乾きの血液が細長く付着していた。気づけたのは先輩の話を聞いたお陰だと思った。うちは洋式便器なので少量の血液付着では観察困難だろう。大腸がんは日本人に1番多いがんで、日本人の2人に1人はがんにかかる。検便は必要な検査であり、誰でも1年に1度は受けるのがいいだろう。しかし、私の職場の健康診断に検便はずっと入ってなかった。これからの健康診断には検便を入れてくれることを願う。


 大腸がんと診断されてから毎日1時間くらい散歩しようと思った。根拠はなく医師に言われたからでもない。強い運動は血流が速くなって増えるため、がん組織が大きくなったり、転移したりするリスクが増えないのかとか、免疫力が一時的にでも下がるのは好ましくないのでは、とか考えたからだった。それに加えて、散歩でゆったりと歩くと心も身体もリラックスできて気分転換に良いし一石二鳥だと思った。散歩コースは日替わりで普段通らない道を選んで歩くようにした。昔の記憶をたどって通学路を歩いたり、古い友人を思い出したりして歩いた。散歩を初めて三日目のことだった。蝉がまだ鳴いている仕事帰りの夕暮れ前、私の家とは反対側の学区南西端にある住宅街を歩いているとき、急に小学校低学年の時の記憶が蘇った。確かこの辺に南さんの家があったはずだ。南さんは私が初めて好きになった女の子で、小学校1年、2年時に同じクラスだった。目のくりっとした、肩までの髪で活発なかわいい子でピアノが上手で私にピアノを教えてくれた。その時に教わった「ねこふんじゃった」は今でも弾ける。弾けるといってもそれだけで、他には何も弾けない。ピアノは南さんからしか教わったことがないのだから。用事がなければ来ることがない住宅街で、もう30年以上はこの住宅街に来ていない。南さん宅は小学校低学年時に遊びに行ったことがある。幼馴染み以外の女の子の家に遊びに行ったのは南さんが初めてだった。ピアノ以外に何をして二人で遊んだのか覚えていないが、おやつにショートケーキとオレンジジュースを出してもらったことは、とても嬉しくて鮮明に覚えている。誕生日でもないのに友達の家でケーキなんて食べられることはなかったから。ひょっとすると誕生日だったのだろうか。南さんのことで思い出せないことはたくさんある。小学校低学年の記憶だから当たり前かもしれないが、南さんの下の名前は何だったのかとか、私が南さんの家へ遊びに行くと言ったのか、それとも南さんが遊びに来ないかと誘ってくれたのかとか、とっても気になることが思い出せない。下の名前を思い出せないのは、いつも南さんと呼んでいたからだろうか。思い出せないことが悲しい。小学校低学年時は同じクラスだったが、その後の南さんのことが全く記憶にない。顔は思い出せるが名前が出てこないと職場の大先輩方からよく聞くことがあるが、年齢的な脳の衰えだろうか。私も顔はきちんと思い出せる。南さんは私のことを覚えてくれているのだろうか。私の名前は覚えているのだろうか。


 南さんの家だった場所を通ると表札はやはり違う名前であった。南さんの小学生低学年時の記憶しか私にないのは、小学校の時に南さんが引っ越したからだろうか。その後の帰路はずっと南さんのことを考えていた。少しだけの小学校時の思い出をふり返って、今、南さんはどうしているのだろうかと妄想した。南さんの大人の姿なんてピアノの先生になっていることしか思い浮かばない。あまりにも南さんについての知識がないものだから。もし、ピアノの先生をしているのなら習いに通ってみたい。もう一度、彼女にピアノを教えて欲しいと叶わないような夢を願った。小学生の時、そろばん、習字、体操、英語塾、カブスカウトを習ったがあまり好きになれなかった。習って自分的に損はしてないが、費用対効果を考えるなら損になるのだろうか。親は期待外れだったと思っているだろう。不純な理由かもしれないが、南さんと一緒にピアノを習っていれば良かったなと今は思う。音楽はずっと、ジャンルを問わず好きだし、一生の趣味となるもの。人生を彩り豊かにしてくれるものだと思う。きっと、ピアノが習い事の中で、当時の私に合っていたと思う。南さんにピアノを教えてもらっているとき、私はとても嬉しかったし楽しかった。私の記憶の中の南さんの表情はいつも楽しそうだったし、きっと南さんも私のことが好きであっただろうと思う。南さんを想って自宅付近まで帰ってきた時、夕焼けがとてもきれいなことに気づいた。夏が終盤の黄昏時だった。


 その夜に南さんの夢をみた。私と南さんは小学生低学年時の姿で、二人で大きなおもちゃ売り場にいた。なぜか外国のような雰囲気の建物の中で周囲も外人ばかりだった。まるで私が好きな映画のワンシーンの様だった。それは主人公の小学生の子供が目覚めると大人になっており、子供の心のままでおもちゃ売り場に行くシーンだ。広いフロアの中央の床にはピアノの鍵盤が設置されていて、足で鍵盤を踏めば電子ピアノの音が鳴った。外人の子供の男の子と女の子が二人が上手に足で踏んで演奏しているのを多くのギャラリーが囲んでいて、私と南さんもそのギャラリーの中でしばらく見ていた。男の子が右手パート、女の子が左手パートを足で踏んで音をきれいに出し「チャップスティック」を演奏していた。私は南さんと踏んで音を出して遊びたかったが、奥の方にグランドピアノが設置されているのを南さんが見つけ、一緒にグランドピアノを弾こうと誘ってくれた。グランドピアノの前まで来ると、私は急に弾きたい衝動に駆られた。二人で一緒に「ねこふんじゃった」と「チャップスティック」を弾いたが、なぜか私は南さんと同じくらい、すごく上手に弾けていて気分が良かった。2曲弾き終わると南さんのお母さんがお迎えにやって来た。帰って食べてと南さんのお母さんがチーズケーキをくれた。大好きなチーズケーキがもらえて満面の笑みの私に南さんが「また一緒に弾こうね、大人になってもだよ」と言ってくれた。私はとても嬉しかったが、急にはずかしくなって下を向いた。そして少しの沈黙の後に「うん」と言った。フロアの入り口まで一緒に行ったが、私は気の利いた言葉の一つも発することなく無言で南さん親子を見送った。彼女は手を振りながら「バイバイ」と言って帰っていった。私はフロアに設置の鍵盤には目もくれず、まっすぐグランドピアノへ戻りピアノを弾いた。「ねこふんじゃった」を繰り返し何度も何度も。少し疲れて弾き間違えたとき、目覚めた。


 もう会えないと思っていた南さんと夢で会えたことが嬉しくて、とっても幸せな気分の目覚めだったので余韻に浸ってしばらく起き上がれなかった。現実に南さんと会うことは奇跡的なことだろうし、無理なのだろうと思う。もし、すれ違ったとしても顔すらわからないだろう。しかし、夢ならまた再会できるかもしれない。次は大人になった南さんと夢で会ってピアノを弾けたら、話ができたらいいなと願った。心も身体も軽く、清らかな感じになり、これから病気と闘う気力や元気を南さんからもらえた気がした。



【親友だったのケンの夢】


 これからの入院に備えて生命保険の書類などで机を整理していた時、引き出しの奥にしまってある手紙やポストカードがあったことを思い出し、それらが入っている箱を取り出して開けてみた。二十歳くらいの時にもらった彼女からの手紙、高校の時にホームステイしていたホストファミリーからの手紙やポストカード、親友だったケンからの手紙とポストカードをまとめて箱に入れていた。全部で数十通あるだろうか。その中でケンからの手紙を今すぐに読みたくなる衝動に駆られた。もう20年以上前の手紙の内容はほとんど思い出せない。ただ懐かしさとケンの思い出が溢れてきた。ケンからの手紙とポストカードは全部で20通あった。ケンの手紙を読みだすと止まらなくなって一気に最後まで全部読んでしまった。手紙をもらった当時の記憶が鮮やかに蘇り、思い出と共に涙も溢れてきた。ケンの手紙はいつも近況報告から始まり、ファッションや音楽、彼女の話が多い。そして、気に入った服を着ている姿や気に入った小物などを上手に絵を描いてどんな感じか教えてくれる。さすが美術を専攻しているだけあってセンスのある表現方法だ。手紙の他に音楽のカセットテープやアメリカのテレビ番組のビデオテープを送ってくれたこともあったし、ケンに頼まれた物をこちらから送ったこともあった。ケンとは3年と少しの間、手紙のやり取りをしていた。


 ケンとは高校1年生の時の春休みに出会った。ケンも私もアメリカに憧れていて、アメリカへ行ってみたかった。出会ったのは高校生のホームステイを斡旋するエージェントの事前教育だった。ケンとは別の高校だったが意気投合してすぐに仲良くなった。三か月の事前教育が週一回あり、授業が終わったら一緒によく遊び、互いの家へよく行った。私の家は食堂でケンはうちのかつ丼が好物だった。ケンの家はお茶屋で近くにあるケン行きつけの中華屋の酢豚が私の好物だった。酢豚は豚の唐揚げと少しのパイナップルしか入っておらず、黒酢の味の餡が絶妙に美味かった。あと、ケンの母が入れてくれた番茶や玄米茶はいつも美味しかった。私とケンは高校2年の夏休みをアメリカで過ごした。ケンのホストファミリーはオクラホマシティに住んでおり、私のホストファミリーはその隣の州の田舎町に住んでいた。ケンのホストファミリーは州都に住んでいたが、私のホストファミリーはトム・ソーヤの冒険やあらいぐまラスカルの主人公が住んでいるような自然豊かな場所に住んでいた。車で走っていると野生の鹿を見たり、車にはねられたアルマジロの死骸を見ることがあったし、ハミングバードやリスたちが家の近くにいた。鍾乳洞に連れてもらったし、川をカヌーで下ったし、マス釣りをしたし、まるでトム・ソーヤとかスターリングになったかの様な生活だった。小さい頃にアニメで見た様な生活を私は満喫した。他には湖に泳ぎに行ったり、ゴルフに連れてもらったり、ポーカーをしたり、料理のレシピを教えてもらったりした。庭の芝を刈ったり、掃除をしたり家事を手伝った。毎日が新鮮で刺激的で、あっという間にホームステイは終わってしまった。とっても素晴らしい体験だったし、アメリカへ行かせてくれた両親とホームステイさせてくれたホストファミリーにはとても感謝している。


 日本に帰ってきて、アメリカの大学へ行きたいと思ったが現実は簡単にできることではない。まず言葉の問題。日常会話にも問題があるのに勉強についていけるのか。トラブルが発生した時に対処できるのか。次に経済的な問題。生活費と教育費などの必要経費を4年間大学に通うとして、いくら必要か考えると結構な大金になる。私には弟妹が一人ずついるし、金持ちではない我が家では現実問題とても難しい。そして、アメリカで独り暮らしはできるのかと問われたら、「できる」と即答はできなかった。そんな私とは違ってケンはアメリカの大学へ一人で旅立っていった。私はケンをとても尊敬していたし、そしてとても羨ましかった。ケンは色んな事によく気が付いて気配り上手、優しいし、絵が上手いし、空手黒帯、麻雀強い、バイタリティーがある。私はこれといった特技はないし、意気地なしだなと思った。アメリカの大学へケンが行ってから、お互いに手紙を一、二か月に一度くらいの頻度で出していた。夏休みと冬休み、又はどちらか片方で年に1、2度はケンが日本へ帰ってきた。帰ってくるといつも会って遊んでいた。一度だけ、私が就職前の夏休みにケンの住むオクラホマシティへ遊びに行った。お互い21歳の初夏だった。私にとって2度目のアメリカ訪問でも前回と同様に私はとても興奮していた。オクラホマの大地は飛行機の窓から見るとキルトのパッチワークの様な柄だった。牧草地の草色、畑の作物の色、むき出しの地面の色、池の色、街の建物、それぞれの区域がキルトのパッチワークの様に彩り豊かに見えた。その景色を見て日本へのお土産にホストマザーからもらった手作りのキルトのパッチワークを思い出した。そのキルトは毛布の代わりにも使えそうな大きさだったが素敵な作品だったので今でも大事にしまってある。私の大事なアメリカの思い出の宝物だ。オクラホマ空港に着くとすでにケンが笑顔で迎えに来てくれていた。ケンの顔を見ると私は安堵し一緒にいると心強くなれた。そういえば、数時間前にサンフランシスコ空港で少し年下の日本人の女の子が不安そうな表情で乗り継ぎがわからないと聞いてきた。私は前回もサンフランシスコ空港で乗り換えたので教えてあげることができた。その女の子と一緒に話でもしながら途中まで行こうと思ったが、彼女は希望に満ちた笑顔を私に向けた後、一人で足早に乗り換え口へと去って行ったのだった。私は二度目のアメリカでも不安があったのだとケンの顔を見て気づいた。ケンは私のリュックを持ってくれたので私はスーツケースを引きずってケンの車へ向かった。ケンはアメリカへ行ってから、いつもお金が足りないと手紙に書いてあったが乗っている車を見てよく理解できた。ケンの車は年季の入ったアメ車で、一言で言うなら「ボロい」だろう。製造から確実に15年以上は経過してそうだった。ただ燃費が悪いだけで走るには問題なく乗り心地も悪くなかった。やはり、アメリカで車を乗るなら日本車よりアメ車のほうが雰囲気や気分が良いと思った。久々にアメリカの道路を車で走ってケンと一緒にアメリカンロックを口ずさみオクラホマ到着早々に私の気分は最高潮だった。


 ケンの部屋は小ぶりな2階建てアパートの2階の一室だった。独り暮らしには十分広く、アメリカのドラマで見る部屋の様で和のテイストのものは置いてなかった。きれいに整頓された部屋からケンが立派に独り暮らしをしているのがわかった。机の上にポストカードくらいの大きさの厚紙に、色鉛筆数色で書かれた絵が私の目に留まった。私が好きなガールズバンドのボーカルが描かれていた。簡素に描かれているがセンスの良さが光っていた。お土産にこの絵が欲しいとケンにお願いすると、気まぐれでサッと書いたやつで、こんなものでいいのならと返事があった。心の中で、こんなもの扱いなら、次はもっといいやつをおねだりしようかなと思った。後にケンの母から、このアパートは手ごろな家賃で上品なエリアではなかったと聞いた。しかし、私にはその様には感じなくて素敵な物件だと思った。


 今回の訪問前に、ケンに一つお願いをした。それは隣の州の私のホストファミリーのところへケンの車で連れて行って欲しいと言ったのだ。結構遠いなあとの第一声であったが、いいよと言ってくれた。私がホストファミリーに会いたいのはもちろんだが、ケンにトム・ソーヤやスターリングが出てきそうな世界を見て欲しかったのもあった。ケンは私ほど喜んではいなかったが、楽しかったと言ってくれた。私は久しぶりにホストファミリーと再会して2泊させてもらった。湖へ泳ぎに行ってボートに乗せてもらい、ホストファミリー自慢の手作りハンバーガーやラザニアなどをご馳走してもらった。私がラザニアを好きだったのを覚えてくれていたのが嬉しかった。以前は高校生で飲めなかった酒を一緒に飲んで、最後のバニラアイスクリーム付きのアップルパイまで長い食事を楽しんだ。アメリカのビールやワインで陽気になった私は意味不明な、つたない英語でホストファミリーと話していたが、見かねたケンが通訳してくれた。ホストファミリーはホストファーザーが退職したこと以外は何も以前と変わりはないとのことでリタイアライフを満喫している様子だった。私も定年後はこの様な生活ができたらいいなと思った。最後にホストファミリーから次は弟妹を連れてこいと言われて、ケンと私はオクラホマへと車で帰っていった。先に私のホストファミリーを訪問してからオクラホマ観光をした。ケンの通っている大学を見たり、ダウンタウンで買い物したり、ケンのホストファミリーを訪問したりして私の二度目のアメリカ訪問はおわった。ケンは別れ際に今年の夏休みは日本に帰らないかもと言った。アメリカの大学も4年目は忙しくなるのかなと思った。ケンの英語はさすが4年目と言えるほど上達していて、アメリカでの生活はとても充実したものとなっていた。きっとこのまま、ずっとアメリカでケンは暮らすのだろうなと思った。オクラホマの大地に山はなく平坦で日差しが眩しかったが、私にはケンがそれ以上にとても眩しく輝いて見えた。


 私がアメリカから日本へ帰って夏休みも終わったが、ケンはこの夏休みに帰省しなかった。そして9月末、急に訃報が届いた。ケンの母から電話があり、ケンがアメリカで亡くなったことを聞いた。詳細は私がケンの家に駆け付けて聞いた。ケンの母は冷静にゆっくりと話をしてくれた。ケンは放火事件に巻き込まれて死亡した。放火事件は夜中にケンの部屋の真下の部屋で発生した。ケンの部屋の真下の住民の痴情のもつれが原因で放火されたとのことだった。アパートは火事になり、ケンは全身に熱傷を受け救急車で搬送された。全身の99%に熱傷があり危険な状態で、すぐに病院へ来るようにケンの母に連絡があった。ケンの母は急いで駆け付けたが移動には丸一日以上かかってしまった。到着した時ケンは喋れることはできなかった。しかし、少しうなづいたり少し首を振ることで、はい、いいえ、の意思表示ができた。到着したケンの母は「大丈夫か、あんた頑張りや」と励ました。ケンは小さくうなづいた。取り乱したケンの母は少しの間、一方的に何があったのかとか、なぜケンがこの様なことになったのかなどケンへ喋っていたが、反応が全然ないためにもう一度、「大丈夫か、頑張らないとダメよ」と言うと、今度、ケンは小さく小さく、ゆっくり首を横に振った。そのあと何を言っても反応がなくなり、しばらくして死んでしまったとケンの母が話してくれた。ケンはなんとか踏ん張って母の到着を待っていたのだろう。最後に親子が会えたのがせめてもの救いだと私は思った。が、話し終えたケンの母は、生きがいを失った様な寂し気な表情で気持ちがここにない様な感じに見えた。大事な一人息子を失ったケンの母の気持ちを考えると、私は何を言えば良いかわからずにいた。また、急に起こった現実、ケンが死んだことを私は受け入れられなかった。ケンの葬式でも、まだアメリカで生きているような感じがした。そして、ケンの死から1年半後にケンの母も病気で亡くなってしまった。あまりにも早過ぎる親子の死だった。私はとても大きなショックを二度受けたのだった。


 ケンからの手紙を読んだ夜、夢の中でケンに会えた。短い夢だった。私とケンは最後に会ったオクラホマの時の恰好の様で、アメリカ西海岸の様な場所にいた。ヤシの木のような木々が道路沿いに立っており遠くに海が見えた。ケンのボロい車に二人で乗っていて、とあるビルの駐車場へ入っていった。ビルに入ると中は展示場となっていて絵が飾られていた。ケンのお気に入りの絵が飾ってある場所へ案内してくれて二人でじっくりと絵を眺めた。若いきれいな女性と黒猫が描かれていた。ブロンドヘアーが肩までの色白で透き通るような肌の女性と小さな黒猫がソファーに座っている絵にしばらく見惚れていた。絵から今にも猫が鳴きだしそうで、今にも女性は笑い出しそうな感じに見える。素晴らしい絵だと思った。ケンは得意げな表情で私に話しかけてきた。「あれから、どうしてるの」私は「まあ、ぼちぼち頑張っているかな」と答えた。ケンは「そうか、心配しなくて大丈夫、うまくいくよ」と言って霞の中に消えていった。ケンはどこへ行ったんだろうと探そうとした瞬間、目が覚めた。あまりよくわからない会話であったが、ケンは私の病気のことを大丈夫と言ってくれたのだと感じた。20数年ぶりに夢で再会できたことが嬉しかった。外はまだ暗く夜明け前だったのでもう少し寝ようと目を閉じた。もし、ケンが生きていたなら、この様な場所で個展をしていただろうという夢だった。ひょっとするとケンは今流行りの異世界で絵を描いているのかもしれないし、異世界から夢の中に来てくれたのかもしれない。死後の世界は誰にもわからないのだから、そう考えると私や誰しもが悲しい気持ちにならない。異世界物が流行る理由がわかった気がした。ストレスの多い現代社会にある救世主の一つなのだろう。そういえば、珍しくケンが自画自賛する絵が一枚あったのを思い出した。それはケンが大学に入って最初に付き合った彼女がモデルの絵で、勝手に彼女が持って帰ってしまった。ケンはあのような絵はもう描けないかも、と言って返してくれないことをすごく怒っていた。そして、それが原因となって彼女と別れたのだった。夢に出てきた絵はその絵だったのだろうか。きっと、その絵なのだろう。ケンは私にその絵を見せてくれたのだ。「またケンに夢で会えたらいいな」と小さく呟いて再び私は眠りについた。ケンの夢に癒されて二度目の眠りはとても心地よかった。



【祖母の夢】


 夢をみると言っても、目覚めた直後に内容をすぐ忘れたり一部だけしか覚えていない夢、なんて誰でもよくあることだろう。昨日見た夢の内容は一部しか覚えていないが、何と言おうとしていたのか、今まで聞き取れずにわからなかった祖母が最後に言った言葉がわかった。夢は病院で祖母が生きていた最後の一場面で鮮明に最後の言葉を聞いた。祖母の夢を見たのは、昨日にお彼岸の墓参りに行ったからだろう。


 うちは家族で食堂を営んでおり、両親、祖父、祖母、弟、妹の7人で一緒に住んでいた。店舗と自宅は別で少し離れていた。祖父は私が中学生の時に肺がんで死亡した。80歳だった。祖母は私が25歳の時に脳梗塞で入院し、約2時間後に亡くなった。90歳だった。祖母は亡くなる少し前から変なことをよく言うようになった。誰もいないのに窓の外で誰か手をふっているとか、誰もいないのに誰かが何か言っているとか。「誰もいないよ」、「誰も何も言ってないよ」と私が言うと、祖母はいつも怪訝そうな表情をした。少し、痴ほう症が進行してきているみたいだと家族は皆思っていた。祖母は近所の小さな坂で転倒し、頭、腕、足を怪我してから出歩かないようになった。その後、急に身体が衰え、痴ほう症が出てきたのだった。ただ、普段からずっと、にこやかで穏やかな表情は昔から変わらなかった。私はおばあちゃん子で祖母が大好きだった。店を閉めてから帰ってくる両親の帰宅は遅く、祖母がよく私たち兄弟の世話をしてくれていた。


 祖母が亡くなった日は、朝食の時間になっても起きてこない祖母を見に行くと、自力で動けない状態であった。言葉もしっかり声に出せず、聞き取れなかった。だが、表情はいつも通り、にこやかだった。救急車を呼んで病院へ行くと脳梗塞と診断された。私と父親が付き添っていた。医師から「脳内の太い動脈が詰まっていて、すぐに処置が必要でこのまま入院です」と告げられた。入院する部屋へ移動すると、祖母は何か話そうと口を動かしていたが、やはり声がほとんど出ず、理解できなかった。しかし、私は祖母の手を握って理解しているよとうなづいた。突然だったので入院準備はなく、手ぶらできた。入院に必要最低限のものを用意して、すぐに戻ってくる旨を看護師に告げ父親とタクシーで帰宅した。病院から家まで車で15分くらいだった。帰りの道中に後遺症はどうなるんだろうかとか、入院はどれくらいかかるのかな、と父と話をした。祖母が元気に歩いて退院できることを私も父も期待していた。


 帰宅直後、待っていたかの様に病院から電話がかかってきた。「危篤状態となりました、すぐに来てください」とのことだった。家族皆が車に乗り、すぐに向かった。病院に到着すると、すでに祖母は心肺停止状態であった。人工呼吸、胸骨圧迫がなされていたが、皮膚は全く血色がなく、とても青白く、全身は虚脱状態だった。もうだめだ、助からないと感じた。なぜ、祖母を一人きりにしたのか後悔した。私か父のどちらかが残るべきであった。まさか、こんなに短い間に容態が急変するなんて、全く考えもしなかった。医師の表情も、突然の容態急変に予想外という感じの困惑したものだった。家で連絡もらった時から20分くらい経過している。その間、ずっと救命処置がされていたのだろう。助からないのに、この処置はもう必要ない、早く祖母の体を楽にしてあげたいと思った。私は医師に「ありがとうございます、もう十分です、救命処置はいりません」と言った。すぐに父は「そんなこと言うな!」と言ったが、私は「もう無理や、早く楽にしてあげよう」と言うと、父は少し間を置いて、小さくうなづいた。そして、救命処置は中止となり、皆で涙を流した。


 私が夢で祖母から聞いた言葉は「お迎えがきたし行ってくる、みんな元気で仲良く」だった。祖母からの別れの言葉であった。祖母は目前の死がわかっていたのだろうか。祖母は、いつも前向きな、朗らかな、優しい人であった。決して人を悪く言わず、人に合わせるのが上手だった。祖母をよく知る商店街の会長は、「家族に介護や看病で苦労をかけたくなかったのだろう、あの人らしいな」と言ってくれた。晩年、祖母はあまり趣味がなかったが、たまにしか買わない馬券をよく当てた。ある日、祖母が苺の夢を見たし、枠連で1-3を買ってと私に千円を渡されたことがあった。苺なら語呂で1-5と思いきや、3枠が赤だからと祖母は言った。どんな基準で馬券を買っているのか、いつもよくわからなかった。ジョッキーで買ったり、語呂で買ったり、夢で買ったりと色々だった。買うレースの馬柱を見ると、1番と3番は共にほぼ印なしの人気薄だった。しかし、その2頭が1着2着で万馬券、なんてこともあった。そして小遣いをたくさんくれた。一体、どうしたら馬券は当たるのだろうか。夢で祖母に聞いてみたいと思った。祖母の人柄や考え方は私にとって、いつも見習うべきもので師匠であった。


 数年後のこと。私はしばらく馬券が当たらないと買うのをやめて、大きなレースがあると再び買いだしたりの繰り返しをしている。しばらく当たらずにやめた時に祖母に夢で会った。祖母が好きだった羊羹をもらって仏壇にあげた夜で明日は競馬のG1レースの日だった。夢の中で私が自宅の居間で競馬中継をみていると祖母が私に馬券を買ってと頼んできた。「どうしたら馬券が当たるかな」と祖母に聞くと「趣味はほどほどにすること、楽しんで馬券を買うこと、欲を出すと目がくらむ」と言われた。確かにそうだなと思った。楽しめば運も寄ってくる、と言うことだ。楽しめてもいないのに惰性で続けたり、運のなさに文句を言うのは悪手だと祖母は気づかせてくれた。夢では馬券を買わずに祖母と羊羹を食べて番茶を飲んだ。食べ終わると、そろそろ帰ると言って祖母はどこかへ行った。そこで目覚めた。馬券は買ったり買わなかったりで前より楽しむことを第一に心掛けているが、祖母の様な回収率には到達していない。年季がまだ足りないのだろうか。



【同級生の由佳ちゃんの夢】


 金木犀の甘い香りが漂いだした10月初旬、久しぶりに同級生の由佳ちゃんの家の前を通った。普段の生活では通ることがなく、散歩で色々回っているのでたまたま通ったのだった。由佳ちゃんの母親が玄関前で金木製を見ていた。話しかけたいなと思ったが、すぐ家の中へ入っていったので話をすることができなかった。隣の町内に住んでいた由佳ちゃんは小、中、高校まで一緒だったが、同じクラスになったのは中学1年生の時だけだった。会うとよく彼女から挨拶してくれた。由佳ちゃんは、小学生からずっと短めのヘアースタイルで中学生までめがねをかけていて、いつも笑顔で話しかけてくれる、かわいい子だった。同じクラスになってから由佳ちゃんが好きになった。同じクラスだった時、近所の夏祭りに妹を連れて行ったら由佳ちゃんに会った。由佳ちゃんは夏祭り役員の母親を手伝っていた。由佳ちゃんは私に「兄妹仲いいね、妹さん、将来はべっぴんさんになるよ」と言ってくれた。その時の由佳ちゃんはミニスカートを着ていて、足がすらっと長くてスタイル良く笑顔も素敵で「将来、べっぴんさんになるのは由佳ちゃんだよ」と、私は心の中で呟いた。高校に入ってから由佳ちゃんはモテた。いつも笑顔でかわいくて、スタイル良く、明るい性格とくれば、モテないわけがない。近所でボーイフレンドらしき男性と一緒に楽しく話して歩いている由佳ちゃんを見かけると、私はすぐ角を曲がって会わないようにした。高校生になってからクラスはずっと違ったので、由佳ちゃんと話をしたことはあまりなかったが、話をする機会があればいいなと思っていた。高校を卒業してすぐの頃にもボーイフレンドらしき男性と一緒に歩いている姿を何回か見かけたが、その後、由佳ちゃんはどうしているのか知らない。もう30年以上見ていない。由佳ちゃんの母に、由佳ちゃんはどうしてますかと聞きたかった。


 その夜に由佳ちゃんの夢を見た。うちの食堂へ一人で高校生の頃の由佳ちゃんが来た。私は厨房の奥から由佳ちゃんを様子をこっそり眺めていた。由佳ちゃんは浴衣をきていて、入口近くのテーブルに座った。白地に薄い赤色と青色の朝顔の花が画れた浴衣がよく似合っていた。私の母親が注文を取りに行くと、由佳ちゃんが「こんにちは、たけし君の同級生の森本です、たけし君は元気にされてますか?」と聞いた。「たけしは今度、大腸がんの手術を受けるんですよ」と母。「私の祖母も大腸がんの手術しましたけど元気ですよ、たけし君もきっと大丈夫ですよ」と由佳ちゃん。「それなら、いいんやけどね」と母。「たけし君はこれから夏祭り行くんですか?」と由佳ちゃん。「これから行くみたいよ」と母。「先行ってると伝えて下さい」と言って、由佳ちゃんは店を出て行った。何も注文せず。私はすぐ由佳ちゃんを追いかけ、夏祭りへと向かおうとしたが、どうしても、店から出られなかった。玄関の扉を開けても外に出られず、他の扉も外へ行けなかった。とても悔しくて大声を出したら目が覚めた。夢で由佳ちゃんと夏祭りに行けずに残念だったが、大腸がんは大丈夫と言ってくれたのが、とても嬉しかった。物事にはタイミングが重要であるが、私は由佳ちゃんと良いタイミングが得られなかった。由佳ちゃんを見かけたなら、私からいつも積極的に挨拶をしに行くべきだった。そうすれば、もっと仲良くなれることはできただろう。しかし、恥ずかしがりやの私は無理だった。20歳くらいの時、由佳ちゃんがうちの店に食べに来て、たけし君はどうしてるかって聞かれたと母が話していたことを思い出した。この夢はその記憶から来ているのだろうか。由佳ちゃんの母は元気そうであったけど由佳ちゃんは元気にしているのか心配になった。次に由佳ちゃんの母をみかけたら是非、聞いてみようと思った。金木製の香りが包み込む季節に夢で見た由佳ちゃんは、きっと金木製がお似合いだ。小さな花でも良い香りが強く人気の庭木で花言葉は謙虚や気高い人。来年も金木製が香る頃は由佳ちゃんを思い出しそうだ。



【吉田のおっちゃんの夢】


 うちの店がある商店街で清掃用具などの販売、レンタルしている店の店主、吉田さんは仕事後にうちの店へよく来て飲んでいた。吉田さんには私が専門学校卒業後、地方公務員になるまでの約2年間アルバイトでお世話になった。吉田さんは20年前の66歳の時、肝臓がんで亡くなった。10月20日が命日だった。吉田さんは昔気質な情に厚い人で、気性の激しいところはあったが、間違ったことが嫌いな親分肌な人だった。こんな風に言うと時代劇に出てくるような人だが、吉田さんの友人の一人は主に悪代官役をしている俳優だった。その俳優の奥さんがやっているスナックへ、何度か吉田さんに連れて行ってもらった。その店で、酒に酔った吉田さんが恥ずかしそうに、懐かしそうに映画のワンシーンに出演させてもらったことを話してくれた。出演したのはヤクザ映画でヒロインを乗せたタクシーの運転手を演じた。実際に見るヒロインの女優はとても別嬪さんで、ワンシーンだったが一言セリフもあったので無茶苦茶に緊張したと言っていた。私には吉田さんが緊張するなんて想像ができなかった。その時はタクシー運転手の仕事をしていたから声をかけてもらえてラッキーだったし、良い思い出になったと言っていた。出演した映画は恥ずかしくて見に行けなかったが、今となって見てみたくなったと吉田さんが言っていたので、比較的大きなレンタルショップへその映画を探しに行ったがなかったのは残念だった。スナック以外にもバイト後に焼肉や寿司を食べに連れて行ってもらったり、野球を見に甲子園まで連れて行ってもらったり、競馬場へ一緒に行ったりした。そして、吉田さんは昔話や人生訓をよく聞かせてくれた。吉田さんは若い頃、トラックやタクシーの運転手をしておりどんな車の運転もできたし、市内の地理はすごく精通していた。今の店を始めたのは40歳になってからだと聞いた。うちの店によく来るようになったのは10年ほど前かららしい。私は孫のように可愛がってもらったし、私は祖父のように好きだった。私の母も吉田さんが好きだった。


 吉田さんは私が地方公務員になる数か月前に吐血して入院した。肝硬変による食道静脈瘤の破裂が原因だった。以前から肝臓が悪かったみたいであるが、仕事後、銭湯へ行ってから、うちの店でビールをいつも飲んでいた。つまみは一品でビール数本が定番だった。週に1回くらい、よその店へも行くが、たいていうちの店へ来た。勝手知ったる店なので、よく1本目のビールは自分で出して栓を開けていた。吉田さんが家族からは酒を飲まないよう言われているのはうちの店はみんな知っていた。なので、私の母はいつも吉田さんを心配し2本目を注文すると飲みすぎないよう注意していた。私の母は自分の父が酒で肝臓を患って酒を飲めなくなったので気になっていたのであろう。しかし、吉田さんは吐血したにもかかわらず、病院から退院してもビールを飲んでいたが、以前よりも飲む量は減り飲んだ後はしんどそうだった。そして、だんだん体調が悪くなってうちの店に来ることが徐々に少なくなっていった。


 吉田さんが亡くなる少し前、しばらく顔を見なかったので心配して私と母は吉田さん宅へ様子を伺いに行った。吉田さんは元気なく瘦せ衰え横になっていた。しんどそうな表情で言葉少なく、私は吉田さんが弱ってる姿を人に見られるのが嫌なのかなと感じた。「元気になって、また来てね」と母と一緒に最後に言って帰った。少しでも吉田さんの笑顔を見たかったが見られなかった。しんどそうな吉田さんを見るのが辛かった。そして、もう死を覚悟したかのような雰囲気がとても私を寂しくさせた。吉田さんにはまだ死んでほしくなかったが予感したとおり、それが最後の一緒に過ごした時間となった。もし、私が死ぬ間際であったなら、しんどくても、辛くても少しでも笑っていたいと思った。悲しいだけの、今生の別れなんて絶対嫌だから。でも、吉田さんは見舞いに来てくれたことは嬉しかったはずだ、きっと。


 吉田さんの命日に見た夢は、私がバイトしていた頃の私と吉田さんだった。吉田さんと私が古い映画館で映画を見ている。私は映画をあまり見ず、吉田さんの表情ばかり見ている。笑ったり、怒ったり、悲しんだり表情がとても豊かだ。しばらくすると、吉田さんが「ここや、わしが出てるシーン!」と大きな声で言った。よくスクリーンを見てみると、確かにタクシーを運転しているのは若い吉田さんだ。急に吉田さんは恥ずかしがり、半分、顔を横に向けながら見ている。でも、とっても嬉しそうだ。吉田さんが運転するタクシーのシーンが過ぎると、急に映画が終わった。「次行くで!」と吉田さん。吉田さんが携帯電話で俳優の友人を呼び出して合流し、その友人の奥さんのスナックへ来た。なぜか店には私の父が先に来ていた。吉田さん中心に会話が盛り上がり、私はずっと話を楽しく聞いていた。すると吉田さんは、私に向いて語りかけてきた。「動けるうちは、立ち止まらず、少しでもやりたいことがあれば積極的に動かないとあかん。待ってるだけでは物事はすすまへん」と言った。なるほどと思うと急に場面が変わり、うちの店に私だけ帰ってきていた。母が「吉田さんら、まだ飲んでるんか」と聞いてきた。「そうや」と私が答えると「飲みすぎや」と言って母は心配そうに溜息をついた。私も横で溜息をつくと夢が終わった。当時、二十歳過ぎの私は吉田さんの人柄に惚れて、その背中について行っていた。その漢の背中は昭和という時代のど真ん中を力強く生きたものであり、とても優しくて包容力があり、哀愁を感じた。今の私は、あれから20年以上も年を取ったが吉田さんの背中はまだまだ、はるか遠くにある。あれから、私はどれだけ成長したのだろうか。夢で吉田さんが言ったように、立ち止まらず少しでも前へ進んでこう、まだ十分に動けるのだから。がんという大病に負けないように頑張っていこうと思った。



【中学校の先生の夢】


 大学病院での検査、MRI、CT、大腸カメラ検査、血液検査が終わり、いよいよ入院の日も近くなってきた。病院からの帰り道の夕方、隣の町内に住む同級生の坂田君と数年ぶりに会った。坂田君は中学校の教師をしていた。彼の両親も教師だったが、冗談好きで人に教えることが上手とは言えなかった坂田君が教師になるとは私は思わなかった。小柄で童顔な坂田君は髭を伸ばしていた。生徒からなめられないようするため髭を伸ばして貫禄をつけたと言ったが、私には少し胡散臭く見えるし女子には不人気だろうと思ったが何も言わなかった。坂田君は去年から私たちの出身中学校に赴任したことを教えてくれ、色々懐かしいことを思い出したと言っていた。私がもうすぐ大腸がんで手術を受けることを話すると、彼も昨年、肝炎で入院していたことを話してくれた。そして、私たちの同級生だった村山君が肺がんで数年前に亡くなったことを聞いた。村山君は隣の小学校で中学校が一緒だった。そして中学2年生の時に同じクラスだった。村山君と私はくわがた虫の話で仲良くなり、彼の秘密のくわがた虫の採取場を教えてもらった。高校は別だったので私は村山君と疎遠になった。村山君は背が高くてがっしりした体格だったので体は丈夫だと思っていた。そんな村山君が早死にするとは意外だった。私も大腸がんで早死にするかもしれないし、健康に気を付けないといけない年齢になったということだろう。お互いに健康でいようと話をして坂田君と別れた。


 中学時代、私にはすごく好きな先生とすごく嫌いな先生が一人ずついた。すごく好きな先生は女性の池先生で国語教師。小柄で35歳くらいだったろうか。ひょっとしたら40歳くらいかもしれない。女性の年齢は分かりにくい。美人ではなかったが尊敬できる素敵な先生で2年生の時、担任だった。生徒をよく誉め、悪いことはちゃんとしかる。ある時、国語の授業直前、やんちゃな同級生が急に怒りだして、教室入り口のドアのガラスを拳で殴って割った。それを見た池先生が駆け付け「あんた、拳を怪我してへんか、見せてみ」「血が出てるし、すぐ保健室行きや」と言ったが、彼はそのまま、どこかへ行った。しかるより、一番に怪我の心配する池先生はかっこよかった。池先生の授業が好きで頑張って勉強して、初めて国語で成績5を取れた。すごく嬉しかった。今でも、この時に覚えた徒然草や平家物語の一部を暗唱ができる。すごく嫌いな先生は男性の牧先生で社会科教師。感情がすぐ表情に出る、押しつけがましい、かっこつけの、意地悪な先生だった。この先生は30歳くらいだったろうか。3年生の時、担任だった。2年生になってすぐの牧先生の授業だった。前の授業が体育で多数の生徒が着替え等に時間を要して授業開始が少し遅れた。これはよくあることだった。待っている牧先生がイライラしだして、ついに怒り出した。去年から、ずっと体育の後の授業開始が遅れているので間に合うようにしなければいけないと。去年からずっと授業開始が遅れている状態だったなと、クラス替えで生徒が替わっているため去年の状態を知っている生徒を探し、私に同意を求めたきた。私は牧先生の発言で不快にされたので「知りません」と言ってやった。皆がサボりたくて遅れているのではなく、年頃の男女が汗をかいていてチャイムが鳴ってグランドから教室に戻って着替えるのに10分では足りない。グランドから教室まで戻るのに5分弱はかかる。体育用具の後片付けに当たるとなおさらだ。トイレまで行ったら間に合わない。だいたい女子が遅れる。本来なら牧先生が体育の先生にその状態を改善するよう言うべきなのだ。体育教師はベテランの強面の教師が多かったから牧先生には無理だっただろうと思う。体育の後の授業で遅いと怒ったのは、3年間で牧先生だけだった。その後、牧先生は私に対して冷たい態度になった。3年生のある時、仕返しをされた。パン屋で昼飯を買って学校へ来たのだが、コーヒー牛乳がなかったのでミルクティーを買った。校則でお茶か牛乳かコーヒー牛乳と決められていたが、イチゴ牛乳であったり紅茶を買っている同級生はたくさんいた。今まで何も言わなかった。牧先生は私がミルクティーを飲んでいるのを見つけると、皆の前で校則違反だと言い、ミルクティーを取り上げた。中学生である私も大人気ないところはあったが、牧先生はもっと大人気なかった。また、ある時、授業が少し脱線して牧先生が雑談を始めた。話の内容は警察官嫌いの友人の話で、暗くなってライトをつけず交番の前を通過した際、警察官に肩をつかまれて止められたが、とても痛かったし謝れと口論になって警察官を謝らしたというもの。私の家の近所には警察官の官舎があり、友人の父親は警察官だ。この話を聞いて、また牧先生に不快な思いをさせられた。よく考えると警察官嫌いの友人なんておらず、自分のことを言っているのでは、と思った。なぜなら、牧先生は愉快に話していたし、ざまあみろ的な感じを受けた。中学最後の年に担任だったのが、とても嫌だった。志望の高校は合格したが、3年生の時、池先生が担任であればもっと頑張れて楽しい中学生活を締めくくれただろうし、池先生ともっと仲良くなれていたと思う。


 坂田君に会った夜、見たのはすごく嫌いな牧先生の夢だった。どこかの居酒屋で、今の私と60歳くらいの牧先生が向かい合わせで座っている。私は牧先生に意地悪されたことを怒りながら、ずっと文句を言っている。牧先生は申し訳なさそうに、「そんなことがあったんか、すまんなあ」と言っている。夢で牧先生は年を取って丸くなっていたが、私の態度が大人気なくて失礼だった。実際に牧先生は今、どのような人になっているかわからない。しかし、年を重ねるにつれて、人間は少しずつ丸くなっていくものであろう。この夢のおかげで、すごい嫌いな先生から、嫌いだった先生に変わった。それよりも池先生が夢に出てこなかったことがとても残念だった。池先生は今、どうしているのだろうと気になった。



【田舎の思い出の夢】


 11月に入って田舎の叔母さんから新米が届いた。年に数回、米や野菜、果物などを送ってくれる。母は中国地方の小さな、小さな町の出身で弟と妹がいる。叔父が家を継ぎ、叔母はその近郊に住んでいる。私の父は一人っ子であり、祖父母も兄弟少なく父方の親戚はほとんどいないが、母方の親戚はとても多い。田舎の祖父は8人兄弟の3番目だったし、祖母は5人兄弟の1番上であった。しかし、「遠くの親戚よりも近くの他人」のことわざの通り頼りになる親戚はごく一部だけで、母の妹の家族と祖母の弟二人の家族とのみ主に連絡をとっている。私が小さい頃から中学生までの頃は毎年夏休みに1週間くらい田舎へ行っていた。会うのは主に連絡を取っている親戚ばかりだった。よく一緒に遊んだのは母の妹の娘の恵子ちゃんだけだった。恵子ちゃんは2歳年下で弟と同じ年。私の妹は8歳下なので、私と弟、恵子ちゃんの三人でよく遊んだ。海が近かったので泳ぎに行ったり、虫取りしたり、花火したり、探検したりした。今の田舎の祖父の家は改築されてしまったが、前の家にはたくさんの思い出がある。昔の田舎に関する夢が見たいと願って寝るとみることができた。


 すごく懐かしい。以前にも同じ様な夢をみた気がする。これは夢の中だとすぐわかった。小学生1年生くらいの私が、夏の眩しい田舎の家の縁側にいる。田舎の祖父母、私の両親、母の妹夫妻がテーブルを囲んで話している。私は弟、恵子ちゃんと三人で縁側ですいかを食べている。井戸で冷やされたすいかであまり冷たくない。そして、向かいの保育園の庭の桜の木にセミがいるのを見つけ、弟、恵子ちゃんを誘いセミ取りに行く。保育園から神社へ移動する途中、親戚の叔母さんに会ってしゃべるが、方言で何を言ってるのかよくわからない。田舎に住んでいる恵子ちゃんでさえも、年寄りの言葉は全然わからない。気にせず神社へ行く。神社の階段で休んでいると恵子ちゃんが「たけし兄ちゃん、結婚しましょう」と言ってきた。私は慌てて「まだ、子供なのだ」と返答する。恥ずかしくてそっぽむくと、目が覚めた。そんなことがあったなと思い出した。確かに、当時、保育園児であった恵子ちゃんから求婚された。彼女はままごと遊びのつもりだったのかもしれないと思うが、どうだったのだろうか。今も覚えているのだろうか。


 田舎の祖父は大腸がんで亡くなり、祖母は自殺で祖父より少し先に亡くなった。二人とも80歳代で亡くなった。晩年の田舎の祖父母は仲が良くなくて口喧嘩をよくしていたと聞いた。私も目撃したことがあった。どちらが悪いのかわからないが、私は祖父の方が悪いように思っていた。そのため、最後に祖父が入院した時には、優しい言葉をかけてあげられなかった。「医者や看護婦さんの言うことをきちんと聞くように」とか言ったことを後悔している。祖母が自殺した原因は、自分を必要としてくれている人がいなくなったと考えていたようだった。人の世話をするのが生きがいのような人で、年をとるに伴い身体の動きなどが制限されていく中、周りからじっとしていてと言われるのが辛かったのだろうか。そして、末の弟ががんで亡くなったことがとてもショックだったらしい。自殺前に「生きていても、しょうがない」とよく言っていたと叔母が話してくれた。叔母は祖父母について喧嘩の原因はどっちもどっちだと言っていた。祖父は祖母の葬式後、何も言わなかったが悔いるように仏壇の前で長い間、手を合わせていたと聞いた。きっと、祖父は向こうの世界で祖母と再会したのなら、また仲良くできているのだろうと思う。私が夢で見た、幼少時の田舎で家族そろっての団らんは楽しそうに愛が溢れていた。きっと、昔はそうであっただろう。私が中学生になってからは5年に1度くらいしか田舎へ行くことはなくなり、たくさんの親戚が集うのは葬式くらいだった。私の病気が落ち着いたら田舎へ墓参りに行って付き合いのある親戚宅へ訪問したくなった。お中元やお歳暮の贈り物をするだけの間柄にならないよう、心のかよう素敵な親戚関係が継続することを願っている。


【祖父の夢】


 ついに検査の結果が出た。組織型は中分化型腺がんで、直腸がんの進行度はステージⅡからⅢaと推測されるとのことだった。腫瘍に近いリンパ節に異常が認められ、そこまでがん細胞が浸潤している可能性があると言われた。ただの炎症かもしれないし、摘出して検査しないとわからないとのことだった。大腸がんは粘膜から発生する病気で、粘膜から粘膜下層、筋層、漿膜下層へと浸潤していく。さらに、リンパ節にまで広がると、その後、全身へ転移する。ステージⅡは筋層を超えた浸潤で5年生存率は90%、ステージⅢaはリンパ節転移あり(小)5年生存率は64.5%である。手術の合併症の説明、入院についての説明等、色んな話を聞くと、もう目の前に手術が迫って来ているため不安が少しずつ増えていく。そういえば、職場の前署長が定年の数か月後、体調不良を訴え検査すると胆管がんが判明し、手術後に亡くなったと聞いた。とても低い確率ではあるが、手術に危険はつきものなのだ。あとは運を天に任せて医師、看護師たちを信じるしかないだろう。


 入院前日に見た夢は祖父の夢だった。家族の中で祖父の思い出は一番少ないのは一番先に亡くなったからだ。祖父は婿養子で昔は着物関係の仕事をしていた。いつから食堂を手伝っていたのか知らないが、祖父は早起きで食堂へ朝一番に仕事へ行った。そして、昼の忙しさが終わると一番先に帰宅していた。小学校から私が帰宅すると祖父だけがいつも家にいた。子供の私から見て祖父は自宅の独り時間がとても好きそうに見えた。テレビの時代劇やプロレス、相撲観戦が好きで、夕方になるとするめなどを焼いて晩酌していたのを覚えている。祖父は決まった量しか晩酌せず、父みたいに飲みすぎることはなかった。祖父はあまり喋るほうではなく、私にじっくりと話をしてくれたことはあまりなかった。印象に残っている祖父の一番の思い出は、私が幼稚園の帰り道に近道で畑のあぜ道を通った時、雨上がりだったので畑の畝を傘の先で突っつきながら歩いていると、ジャガイモに当たって畝から飛び出てきた。それが面白くて傘の先で突いてジャガイモを何個も取って家へ持ち帰ってしまった。祖父はジャガイモを見てどうしたんだと私に聞くと私を連れて農家へ謝りに行った。農家のお爺さんに私は怒られたが祖父からは怒られずに終わった。泥棒行為になるが悪気があった訳ではなく私は謝らなかったと思う。だが祖父は寛大で私に何も言わずに、行きも帰りも怒られている間も、ずっと祖父は手をつないでくれていたように思う。私は温かい祖父の手で安心していられた。小さな出来事だったが、私にとっては小学生の時、家族みんなで鎌倉や伊豆、和歌山などへ旅行したことよりも強く印象に残っている。


 私が中学生になってすぐに祖父は肺がんで入院した。しかし、家へ帰ると我がままを言ってすぐに退院して帰ってきた。祖父は少しずつ痩せて、寝ている時間がだんだん長くなっていった。時折、祖父の歯ぎしりを聞くことがあったのはとても苦しかったのだろうと思う。そして、祖父は自宅の布団の上で静かに亡くなった。一緒に住んでいたのに、祖父とゆっくり話をする時間がたくさんあったのに、なぜできなかったと今は思っていて後悔がある。しかし、子供の頃の私では、それは無理であっただろうとも思う。入院前に見た夢はそんな思いがあったからだろうか。夢は小さい頃の私と元気ではつらつとした60歳くらいの祖父が居間で丸い石油ストーブを中心に向かい合って座っていた。ストーブの上はやかんの中にちろりがかけてあって日本酒が入っていた。その脇でするめを焼いて祖父は熱燗を飲み、私も焼いたするめをもらって食べた。テレビは相撲が映っていた。「ウルトラマンが見たい」と私が言うと祖父は「これからいいところでダメだ」と言った。ちびりちびりと少しずつ飲む祖父に「お酒は美味しいの」と私が聞くと、祖父は「最初は美味しいけれど、だんだんわからなくなる」と言った。祖父は続けて「酒は大人になってから、飲むのは2合まで」と言った。私は「大きくなったら一緒に飲もう」と言うと、祖父は「長生きしないとな」と言った。するめに飽きた私はみかんを持ってきてストーブの上に乗せた。少し焦げるとひっくり返し、また焦がしてから皮をむいて食べた。私は焼きみかんが好きだった。毎日、段ボール箱に入っているみかんを1個か2個食べた。みかんを食べ終わると私は祖父に「病気は苦しかったし歯ぎしりしてたの」と聞くと、祖父は「病気は苦しいものや、神様仏様からの最後の試練や」と答えた。祖父は続けて「たけしにはまだまだ先のこと」と言って、ちろりに最後に残った酒を飲み干した。「今日はこれでおしまい」と祖父は言って自分の部屋へ行ってしまった。私はこたつに入ると眠くなって目を閉じると夢から目覚めた。この夢の祖父の言葉を信じるなら、私はすぐに死なないのだろうと思った。入院直前に祖父から気持ちを軽やかにしてもらえて身体に活力が出てきた気がした。


 ついに大学病院に入院した。部屋は4階で見晴らしはとても良かった。手術は5日後。病室に着いて担当の看護師に挨拶をし、入院生活等について説明を受けた。病院内のコンビニで買い食いしてもいいですか、と質問すると医師から怒られた。手術に向けて甘えはダメですと。医師の言いたいこともわかるが、しばらくの間は買い食いはできないのに、病院内にコンビニがあるのがダメなのではと思ったが黙っていた。手術までは少し検査があっただけで特に何もなく順調に経過していった。手術やその後に対しての不安は以前ほどなくなっていたが、手術日の朝は少しは不安と緊張があった。看護師に連れられ手術室までくると、十数人の看護師と患者たちがすでに待っていた。その輪の中に入ると少し鼓動が速くなったのに気がついた。順番に手術室へ呼ばれて、私の番となった。手術室に入り、医師、看護師に「よろしくお願いします」と述べ手術台で寝ころんだ。麻酔の準備がされると後輩の言葉を思い出した。「麻酔って気持ちいいらしいですよ、中毒になる人もいるみたいです」と言っていた。これから麻酔かけていきますと医師から告げられて瞼をそっと閉じた。そして、心の中で「よろしくお願いします」と夢で会った人たちにも言った。漫画などで麻酔がかかったら暗闇の中に落ちるとかあったが、まったく違った。目を閉じていても、強いライトの下でとても明るく感じるし、真っ白の世界の中に溶けていく様な感じで意識がなくなっていった。そして、意識が戻ったのは病室に戻ってからだった。目覚めて、まず、とてもしんどくて身体中が重い。酸素マスクが付けられ息苦しい。お腹からチューブが出ていて、導尿されていて、点滴されていて身動きできない。麻酔で気持ちいいことは全くなかった。少し動くと痛みが起こる。術後がこんなにも大変だとは思わなかった。病気を苦に自殺する気持ちが少しわかった気がする。こんな手術を何回もするのは誰でも嫌だろう。病気に立ち向かうには気力も必要だし、頑張れるためのものが何かあるのは強みだと理解できた。手術後の3日間は特にしんどかった。手術後2日目からは立って歩く訓練が必要であり、痛み、しんどさはあまり軽減しなかった。4日目から少しずつ楽になってきた。手術から1週間、2週間と経過しても、夢はみなかった。経過は良好で病理検査の結果が出た。がんの深達度は浅く、進行度はステージⅠで、がん細胞は筋層まで到達していなかった。医師たちは想定より、ずっと軽度だったことに驚いていた。私はもちろん喜んだが、とても不思議な感じがした。この結果は科学的には自己免疫が活発となり、がんの進行が止まったり改善されたということになるのだろう。しかし、私には何か不思議な力があの世のようなところとか、異世界から作用したかのような気がした。ノスタルジックな夢を見るたびに心も身体も癒されているように感じたし、前向きに物事を考えられていたのだから。3週間と少し入院して退院した。そして、何か月が過ぎても全然夢は見なかった。これから5年間は定期的に通院し、がんの再発がないかの検査をする。再発に対する不安が全くないわけではないけれど、退院してから心がすごく軽くて明るくいられている。ステージⅠで再発は4.2%と低いのはあるが、入院までの3か月で見た夢の影響がすごく大きい。今では会えなくなった家族や友人たちなどと夢で会えて、勇気や元気をもらい、色褪せていた記憶が蘇った。私の記憶の中に生きている人たちは、元気や勇気などをくれるスピリチャルな神様仏様ような存在なのだろうか。夢で会えなくても記憶の中から思い出し、心で語りかけることがあれば何か効果があるように思う。昔の手紙や写真、映像、その人とつながる物などがあれば、より効果的になるのではなかろうか。長い人生、過去をゆっくりとふり返る時間はきっと必要なのだと思う。特に心が疲れた時、希望を失った時、病気になった時などはノスタルジック・ドリーマーになれば、きっと良い方へ導いてくれるのでないだろうか。


 大学病院から歩いて川沿いに出るとカモたちが十羽ほど心地よさげに泳いでいるのが見えた。嬉しさのおすそ分けでカモたちへ餌をやりたい気分になった。近くのコンビニで食パンを買ってきて小さくちぎって餌をやった。するとカモたちは一斉に餌に寄ってきて奪い合いとなった。中にはくちばしでつついて追いかけまわすカモがいた。人の世界だけじゃなくカモの世界も世知辛いなと思った。追いかけまわすカモを見て嫌いな上司を思い出した。世の中にはままならない事や理不尽な事がいっぱいある。しかし、少しでも社会が良くなるよう私は努力したい。カモたちが取り合いを避けるため、皆が食べられるよう小さくちぎった餌をたくさん一度に投げたことで、ある程度はカモたちへ平等に餌を与えられた。衝突が起こらないよう工夫はできるものだ。私は争いが嫌いだし、世の中が少しでも上手く回っていくよう、微力ながら私が何かできればいいなとよく考える。しかし、なかなか人間関係というやつは上手くいかないのが残念だ。カモたちの食欲は旺盛で食パン一袋はすぐになくなってしまった。カモたちがこれからの寒い冬を無事で元気に過ごせることを願って帰路へ戻った。川沿いを駅の方へ歩き進むとベンチに座って弁当を食べている女性がいた。もう正午を過ぎた時間だと気づいたら急にお腹が減ってきた。大きな病院では診察や検査、会計などで待ち時間が長くて半日以上かかることが当たり前だった。検査がある日はごはんを食べられないから、いつも帰りは空腹で検査に疲れていた。だが今日は検査もなく通院も終了して心も身体もとても軽快だ。帰ったら昼ご飯は軽く済ませて晩御飯は私の大好きな、ちらし寿司と茶碗蒸しを作ってと妻にお願いしてみよう。晩御飯が楽しみになると家路へ向かう歩調はより一層早くなっていった。入院後から夢を見ることがほとんどなくなったのは、一体なぜなのだろうと時々考える。大腸がんが見つかってから入院までの間は現実から逃避したい気持ちがあった。先行きの見えない絶望に近い様な感じもあったが、頑張って病気を乗り越えようと前向きな気持ちもずっと持っていた。ことばでは表すことが難しい感情が色々混ざっていた。それらの感情がノスタルジックな夢を呼び寄せたのかもしれないし、古い手紙を読んだり、久しぶりに友人に会ったりとかエピソードがあって夢が生まれたりもした。でも、一番の要因はもうすぐ死ぬかもしれないと目の前の死を意識したことではなかったかと考える。よくわからないが入院してからは大きな不安はなく、目の前の死は意識していなかった。退院してからもそれはずっと変わらなかった。とりあえず、今日の様な日は夢で癒してもらった人たちにお礼が言いたい。「おかげさまでがんの再発なく通院が無事に終わった」と夢で再び会って話がしたいのだが、はたして会えるのだろうか。またいつか会えるのを楽しみに、ずっと待っていたい。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ