Day4
今日のバイトは昼からだ。仕込み作業のみ、開店前には退勤する。家から出るのは嫌だが、家で1人になるのもまたいい気分がしなかった。それならまだ店に顔を出していた方が気が紛れる。それに、今日のシフトはショウと一緒だったはずだ。
一晩中怖がり続けて、少し感覚が麻痺してきたのかもしれない。昨晩まで感じていた恐怖は『自分が一体何をしたんだ、どうして俺がこんなに怯えないといけないんだ』という怒りに姿を変えた。
ただ俺は夜の公園を散歩しただけだ。それなのに、なぜこんな理不尽な目に遭わなければいけないのか。考えれば考えるほど苛立ったし、怯えていた自分にも腹が立っていた。
バイト先が割れていると言っても、顔や名前までバレてはいないだろう。その程度の情報で何ができるというのか。くだらない、俺は楽しい夏休みのためにまだまだ稼がないといけないんだ。
13時に出勤した俺は店でショウと合流した。昨日見たものについて話すと、ショウは眉間にシワを寄せ、額に手を当てこう言った。
「ナオちゃん、敵は相当ヤバい奴だね。触らずに逃げたのは正解だったと思うよ。あとナオちゃんの言う通り、この店がバレてるからって気にしすぎない方がいいと思う。挙動不審だと目立つからね」
ショウは頼りになる奴だ。やっぱり店に顔出して良かった。俺は黙々と焼き鳥に串を打った。単純作業に打ち込んでいると、余計なことを考えずに済む。時計はあっという間に17時を指していた。開店時間だ。
帰り支度を始めようと思い席を立ったそのとき、店の電話が鳴った。店の予約か、と思い立ち去ろうとすると、店長が意外な人物の名を呼んだ。
「はい、炭火焼鳥『備長』です!……ああシンゴ?」
驚いて足を止め電話の方を振り返る。店長は少し困ったような顔で、頷きながらシンゴと会話を続けていた。少なくとも電話ができる、というシンゴの状況を察し、俺は大きくゆっくり息を吐いた。肩の荷が下りるどころか全身の力が抜けていくのを感じた。
「はいはい、うん? マジか〜、そりゃ大変だったな。はい、わかったよ〜。お大事に」
店長は電話を切ると、俺の方を振り返る。口をすぼめて鼻から大きく息を吐く。これは、店長が頼み事をする時の顔だ。
「ナオちゃ〜ん、シンゴ今日シフト入れないって言うんだよ。閉店までとは言わないから、このまま営業のシフトも入れたりしない?」
「シンゴ、どうかしたんですか?」
バイトをサボることなど、シンゴにはよくあることだ。連絡がつかなかった時は非現実的な呪いの効果を疑いもしたが、冷静になれば藁人形と釘で人をどうにかできるわけがない。確かに不気味なほどの悪意を感じはしたが、それだけだ。俺は張り詰めていたものが解けていくのを感じていた。
「なんか怪我したとかって言っててさー。あいつのことだから酔って転んだとかだろ。で、ナオちゃんどうなの、シフトの方は」
「いいですよ。22時くらいまでだったら」
助かったー! と言いながら抱きしめてくる店長。俺も負けじと坊主頭のおっさんを抱きしめ返す。そうしたくなるくらい、今の俺は開放感という喜びに包まれていた。大学受験を終えた時ですら比べ物にならないほどの開放感だ。
水曜日。週の折り返し地点に『よし、飲むか!』となる人は少ないのだろう、今日も素晴らしいバイト日和だ。このまま楽に稼いで楽しい夏休みの軍資金にしようじゃないか。俺は鼻歌まじりにカウンターを拭いた。
19時過ぎ、今日も林田さんが現れた。常連さんの中にはほとんど毎日来る人もいる。彼がこの頻度で来るのは別に変わったことではないが、今日は珍しく連れがいるようだ、しかも女性。
「こんばんは! 林田さん、今日はお二人なんですね!」
「そうなんだよ〜、この娘は部下の西山ちゃん。嬉しいことに飲みに誘ってもらっちゃってさ、オジサン元気になっちゃったよ! あ、これセクハラじゃない!? がっはっは!」
林田さんの喋りは絶好調だが、それとは裏腹に顔色は優れない。そこに突っ込むのは野暮ということは、前回の一件で学習した。
「ナオヤと言います。西山さん、初めまして……あれ?」
すらりとしたパンツスーツを着ているが、後ろで束ねた艶のあるロングヘア、どことなく感じられる清楚な雰囲気で思い出した。この人、おととい奥のカウンターで飲んでいた女性だ。
俺が思い出したのを察してか、西山さんは俺に向かってぺこりと会釈した。こちらも会釈を返すが、薄く開いた目は遠くを見つめているようで視線が合うことはなかった。
「先日もお会いしましたね。不思議なご縁があるものですね、今日は賑やかな席で楽しんでいってください!」
俺は2人のビールを注ぎに店の奥へと引っ込んだ。冷えたジョッキが金色の液体で満たされていく。今まで美味いと思ったことは一度もないビールが、今日は美味しく飲めそうな気がする。開放感とビールの相性は最高なんだろう。仕事終わりのサラリーマンがこぞってビールを飲みたがるのも分かる気がした。
店内はそこそこの繁盛具合。例の2人は店長を巻き込んで盛り上がっている。こういう日は気楽に働けてありがたい、と思っていると店長に呼ばれた。
「おーい、ナオちゃんちょっと来れる?」
「はい、どうしました?」
「西山さんが好きだっていうから怖い話してんだけどさ、ナオちゃん何か話のストックとかない?」
怪談。数時間前までの俺だったら絶対に近づきたくない話題だった。しかしシンゴの無事が判明した今、陽気なオジサンとビートルズがうるさいこの店において何を怖がることがある。そんな当たり前のことが嬉しく思われて、俺はニヤニヤしていた、と思う。
近づいてみると林田さんと西山さんの距離が妙に近いと感じた。会話の中で林田さんの手は彼女の腰に回しているともとれる微妙な位置を触っている。セクハラか、と思い声を掛けようとしたが、余計なことかもしれないと思ってしまい踏み込めない。俯きがちな西山さん、一瞬だけ見えた表情は『無』だった。相変わらず薄く開かれた目は、どこか遠くを見ている。
「怪談すか? いやー、この前バイトの男3人で怪談したんすけど、あまりに寂しかったんで止めましたわ〜」
なるべく明るく答えたつもりだ。これで少しでも西山さんに元気が戻れば……と思っていたら、なんと彼女が俺の話題に反応してくれた。
「そうなんですね。どんな話をされたのかしら、例えば……」
顔を上げながら話し始める西山さん。林田さんは彼女の肩を抱きながら、共に俺の方に向き直る。林田さん、鼻の下伸びちゃってるよ、流石に止めた方がいいかもな。
「丑の刻参り、なんてご存知です?」
……しばらくの沈黙。動悸がする。突然、何を言っているんだこの人は。ああそうか、怖い話がテーマだったっけ、西山さんも詳しい人なんだな。俺は彼女の顔を見た。
白目の限界までぎょろりと見開かれた両目が、俺の一挙手一投足をくまなく点検している。わずかに笑みを浮かべた口元もまた彼女の不気味さに拍車をかけている。
俺は思わず後ずさる。制服の袖を掴もうとした西山さんの手は空を切る。まずい、ここにいたら捕まる。袖でも何でも、掴まれたらおしまいだ。
「ちょ、ちょっと気分悪いっす!!」
狭いカウンターと疲れたサラリーマン達の間をすり抜け、俺はバックヤードへ向かって駆け抜けた。呼吸は乱れ、冷や汗はだらだらと流れている。傍目に見れば体調が悪いようにしか見えないだろう。
中央公園で『丑の刻参り』をしていたのは、西山さんなんだ。だからあの日から何度もこの店に足を運んでいるんだ。目撃者を、俺を見つけるために。彼女の揺さぶりで冷静さを失ってしまった、絶対に俺だとバレた、とにかく逃げないと。
素早く制服を脱ぎ、荷物をまとめる。バックヤードから裏通りにつながる窓から逃げ出せば、西山に気取られずに店を出ることができる。店長には申し訳ないが、もう俺にはこうすることしかできない。
「ごめんなさい、気分が悪いので早退させてください」
何とか家に着いた俺は、今更だと思いつつ店長に謝罪の連絡を入れた。
西山は俺の顔を知ってしまった。名前もだ。いつ狙われてもおかしくない、何なら今この家の外を徘徊しているかもしれない。いや……でも、流石に住所まで辿り着くことはまだできないか。しかしそれも時間の問題らもう怖い怖いと言っていられる次元は超えた。奴の狂気の足音は、すぐそばまで迫っている。
やられる前に、やらなければ。そう覚悟した俺だったが、次の日の朝に店長から届いたメッセージは、想像を絶する狂気が存在するということを俺の脳髄に叩き込んでくるのだった。
またしてもバイト思い出話。客商売にはお客さんに聞いて欲しくない、理解してほしくない会話があります。例えば会計の話とか、トイレの話とか、休憩の話とか。
そういう話のために隠語を用意しているのですが、実は数字にも隠語があるのです。
0=トビ、2=ビキ、3=ヤマ、5=カタ、8=ヤハタ、9=キワ、などなど。抜けているのは使用頻度が多いものしか記憶にないからです。当時は全部覚えていたのに……。
これ、どういう時に使うのかというと、よくあるのは会計のとき。店長が大声で「生、ビキヤマで!」と言ったらそれは「生ビールを一杯230円で計算せよ」ということです。たしか一杯390円だったと思うので、なかなかの割引ですね。僕のバイト先は半ば個人経営の店だったので、結構色々とザルでした。