第三話:幻想入り
僕がこの村に来てから2週間が経ち、少しづつ体を動かせるようになっていた。
あれから僕は朱里の家にお世話になった。僕は知り合いをよこして帰ろうとも思ったのだが、朱里は
「ここは見ての通り、閑散とした場所ですから同年代の人がいると楽しいです。よかったらもうすこしゆっくりしていってください。」
と言ってくれた。少し、少しだけど惹かれ始めていた。
目が覚めると、体は静謐な空気によく反応し、軋んだ。それでも無理やり起き、朱里の祖父の源次が作ってくれた松葉杖を引きよせ立ち上がった。よろよろと窓際まで行き、窓を開ける。白い光が僕の体を包んだ。太陽はどうしてこんなにも人を温かくさせるのだろう。気持ちのよい目覚めになった。動かしづらい体を無理やりに動かしてみる。関節のあちこちがまだ痛む。もうしばらく安静にしなければならないようだった。
「真咲さん、起きた?」
振り向けば襖を少し開けた朱里が覗き込んでいた。
「ああ、朱里さん。おはよう。というか、いきなり入ってくるのはやめてくれよ。」
笑いながら言った。
「あ、ごめん。ほら、家には私とおじいちゃんしかいないでしょう?だから、ついね。」
朱里は目隠しするふりをした。
「いや、別にいんだけどさ。これは僕が間違って朱里さんの部屋にノックなしで入っても文句はないよな?」
朱里はちょっとツンとしながら
「はたきますよ。」
とだけ言って、部屋に上がった。慣れた手つきで僕の布団を畳んで押入れに押し込み、花瓶をもって部屋を出た。僕は朱里の祖父のものであろう浴衣を着て、上からパーカーを羽織って部屋を出た。よく掃除が行き届いている廊下を抜けて和室に入った。
「源次さん、おはようございます。」
源次は朝から手のひらサイズの木彫りの仏像を目で舐めまわしている。
「真咲くんか。おはよう。どうだ、足の方は?」
源次は仏像から目を離さず言った。僕は丸まった肩を見つめながら言った。
「ええ、おかげさまで。左足の方は大分。ただ右足がまだ痛みますね。」
「そうか…まあ、無理はするなよ。」
「ええ、松葉杖大切に使います。」
源次はフンとだけいい、また仏像に意識を集中した。僕は和室をそのまま抜け、その先にある台所に入った。台所は大体16畳ぐらいあるだろうか、広々としていた。中央には料理をするようの机があり、朱里はそこで大根をトントン刻んでいる。
「うわぁ、いいにおい。」
僕はことことと音を立てている鍋を見つめた。朱里は嬉しそうに、
「まったく、真咲さんが来てから料理がたくさんいるようになっちゃたな。困ります」
と言って、忙しそうにしている。ただ、足取りは軽く楽しそうだった。
「朱里さんは料理好きなの?」
朱里はこっちを見ずに、
「別に好きじゃないわ。毎日作っているとさすがに嫌になるかも。」
と言った。
「その割には楽しそうだけど。」
「だって、おじいちゃんはなにを作っても、うんともすんとも言わないんだもん。作る甲斐がないわ。まあ、その点、真咲さんはおいしいって言ってくれるから今は作り甲斐があるな。」
朱里はねぎをたくさん刻んでいる。その音は小気味よいリズムを僕に伝えた。トントントンと。
「まあ、実際朱里さんの料理はおいしいから。少しは転落したかいがあったかな。」
僕は冗談交じりに言った。朱里は照れながら、
「変なこと言わないでください。まったく……え?」
朱里のリズムが止まった。僕を見つめながら言った。
「今、なんて…?」
ただならぬ雰囲気に僕はどうしていいかわからなくなった。松葉杖を握る手が一瞬で固まる。なぜだろう。朱里の動揺は僕の心を一瞬にして凍り付かせるようだ。
「だから、料理がおいしいって。」
朱里がどの言葉に反応したのか僕は理解していた。でも、それしか言えなかった。朱里は頭を大きく左右に振った。
「そのあと。」
「…転落したかいがあったかなって。」
朱里は少しうつむいた。その眼は宙空を見つめている。
「どうかした?」
僕は一歩近づいて聞いた。聞かざるを得なかった。朱里はハッとしてほほ笑んだ。
「なんでもないの。気にしないで。」
そういうとまた包丁を握った。トントントンというリズムが静かに僕の体に波紋を広げていた。
少し震えている。
「どうかしたの…?」
僕はまた近づいた。
「なんでもないの!…別になんでもないの。」
朱里は睨みつけるように僕を見た。そんな朱里を見るのは初めてだった。
その瞬間、僕の視界が揺らいだ。そこにある椅子や、机、大根や鍋、匂いでさえも、ゆっくりと薄らいで、揺らいで、消えていく。もちろん朱里も。
「なんだ…?」
僕はそのまま崩れ落ちた。この世界に僕の足はもう立てなかった。
「…ないで。真咲さん…!」
消えゆく意識の中で矢のような朱里の声だけが揺らぐことなく聞こえた。