モノクローム
今日も空は青がない。
灰色の空は、まるで病室の退屈を外に映したようだ。
「またか…」
私はうんざりしたように呟く。薄暗い朝というものは、やはり良い気分にはならない。
この静かな時間には、尚更だ。
誰もいない病室はモノクロームと静寂で満ちていて、時折片脚の義足が硬い音を鳴らすだけ。
心を満たすものも、癒やすものも、生憎ここには無い。
今の私にとって、世界はほとんど無色だ。今日も、明日も。
堂々めぐりの思考。そんな内に、いつもの看護婦が入ってきた。
「おはようございます、阿佐野さん。今日は…あ、そうか」
彼女は時々、何かを言いかけてやめてしまう。落ち着いた声色は、その時だけは激しく震える。
彼女は申し訳無さそうな表情をすると、そそくさと私の身の回りを整理し、菊の花に水をやった。
長い沈黙。天井を見つめることに飽き飽きし、私は看護婦の方を見やった。正確に言うと、その向こうを。
花瓶と棚ひとつを跨いだ隣のベッド。すっかり掃除され、人のいた痕跡など全くない。いっそ不穏なまでに調和のとれた白色だ。
誰もいなかったみたいに。
「色がない」
そう言って、何故か背筋がぞくりとした。
「はい?」
「ん、いや、なんでもないです」
若干困惑気味の看護婦を尻目に、強く目を閉じて思考を止める。結局、無言が病室を支配した。
眠ってしまうのが少し怖くて、ただこの単調な視界も見るのが億劫で、私は布団にくるまったまま動かなかった。
「阿佐野さん、そろそろ時間です」
別の人間が入ってきた。1人の世界にこもる事は、どうも無理なようだ。
車椅子に乗せられ、静止した部屋から出される。
部屋を出たそこは、まあ、いつも通りだ。
喧騒とも静寂ともつかない、妙ちきりんな音の集積に包み込まれ、廊下は今日も均整を保っていた。
「ゆうと、ゆうと!そろそろ止めなさい!」
「もうちょっと!もうちょっと!」
「こら!」
中々の大声が響き渡る。無邪気な声の主--ゆうとと呼ばれた少年は、母親に叱られながら、廊下の隅で何やら絵を描いているようだ。
「あ、おねーさん、おねーさん!」
これまたいきなり、ゆうと君はこちらに笑顔と大声を向けた。
「…ん、おはよう」
つい無気力気味の返事になってしまった。お互い車椅子とはいえ、子供と最初から同じ目線なのは、不思議と気が抜けてしまう。…多分私くらいだろうが。
「今日も元気だね」
「うん!」
そう行って、いつものようにニカッと歯を剥き出しにした。
彼とは、私の入院から2週間後に偶々知り合った。彼もまた病院の住人であるらしく、私よりいる時間もかなり長いそうだ。
この病院、車椅子の若い人はあまりいないせいか、どうも私は彼のお気に入りになったらしい。彼はすれ違う度に、私に話しかけてくる。
だが、私はゆうと君の事はあまり知らない。車椅子である事、絵描きが好きな事、底抜けに賑やかな事、これくらいだ。
一応向こうも同様だと思うが、少し気にする箇所ではあった。
「すみません、うちの子がいつもいつも」
彼の母親が、申し訳無さそうに頭を下げた。
「あ、ああ、いえいえ、こちらこそ」
自分の社交性の低さを恨みつつ、返答する。ゆうと君は鼻息を荒くしながら絵を猛スピードで描いていた。
「あの〜…阿佐野さん、そろそろ…」
躊躇いがちに看護婦が言った。もうそろそろ行かないといけないようだ。
「あ、すみません。それじゃあまた」
母親が軽く会釈した。
「ええー!もう行っちゃうの!待っててよ!」
「こら、お姉さんにはお姉さんの用事があるのよ」
「うー…、は〜い」
「また後でね、ゆうと君」
「はーい!」
私は僅かに微笑み、看護婦はまた車椅子を押し始めた。
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「…んあ」
義足が、音を立てる。
瞬きの後に広がった世界は、その色以外の全てが、それまでと全く別だった。
「どうされました?」
看護婦が心配そうに尋ねてくる。その顔には、何故か『またか』、と言いたげな、少々うんざりしたような表情が浮かんでいた。
「あれ、私リハビリしてる?」
記憶が、車椅子までで途切れているみたいだ。近くには車椅子もなく、あの子もおらず、そもそもここは廊下でもない。
ここは、紛れもなくリハビリ室だ。
「変だな、覚えてない」
寝てでもいたのかな?そんな下らない考えが喉に出かかる。
自分の冗談まで、退屈でつまらないのは流石に困り物だ。少し苦笑い。
「廊下で男の子と話した後、先生の所に行ったんです。そこで診療を行った後、リハビリ室に来たのですが…覚えてらっしゃいませんか?リハビリ室に来るまでは、眠ってらっしゃいましたけど」
「ん。んん〜…そうかぁ。そうなんだ?」
「…はい」
それ以上、雑談を続けるでもなく、続けられるわけでもなく、それからは必要最低限の会話と、後は重い無言だ。
「看護婦さん」
「はい、どうしました?」
それが辛かった--わけではないが、言葉が口を突いて出てきた。
「私って…何の診察を受けてたんですか?」
「!……」
看護婦は、一瞬驚いた表情をして--目を逸らし、口を小さく動かしていた。
純粋な疑問だった。分からないのだ。
何故脚を喪っているのか。一体何の診察だったのか。そもそも何故私はここに来たのか。
看護婦の目を見て、それを全て言っても、それを全て問うても、彼女はただ口を動かすだけで、何も音を発さなかった。
--なにも、聞こえなかった。
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--今は、何時だろう。
リハビリも終えて、病室への帰途に着いていた私は、ふとそんな疑問に囚われた。
妙に現実味の湧かない時間が、一体どれほどの長さだったのか。そんな疑問。
多分、誰だってこの疑問が浮かぶ。
だって、ゆうと君が今日出会った場所と同じ所に、まだいるのだから。
「あ、おねーさん、おねーさん!」
車椅子を押してもらい、彼はこちらに近付いてくる。
「こんにちは。どうしたの?」
かける挨拶が分からず、こんにちはとしか言えなかった。
それに構わず笑顔で話しかけてくるのは、思いの外ありがたい。
「見て見て!絵、描けたの!」
彼は、顔に当たらんばかりに絵を近付けて見せてくる。少し後ろに下がって絵を見ると、
「わあ…綺麗な花」
子供の落書きとは思えない、綺麗な花の絵だった。
「あすたー?って花!綺麗でしょ!」
アスターの花の絵。確かに、花も絵も、色も綺麗だった。
「うん、綺麗な--綺麗な、あ…あ?」
綺麗な、綺麗な、綺麗な--赤。
「うあ」
瞬間、世界に色が付き、空が赤らみ、記憶が蘇り--その『赤』が濃さを増した。
『真由美、じゃあ何処行く?』
『え〜。じゃあ最初は優の行きたいとこにしようよ!」
横断歩道。澄んだ青の下、信号の『赤』が色を変えた。
『ん〜、じゃあ服屋とか本屋とか?』
『本!いいじゃん!最近アレの新刊とか出たから、行こうと思ってたんだよね!』
『真由美はホント本好きだねぇ〜』
2人の足が動き出す。青は光りながら、音を発し続けていた。
その音が人々の喧騒になるのは、少し後。
『なあ、おいあれって…』
『は…マジかよ!』
『やべぇ!』
人がどんどん逃げていく。そう、左から迫る巨大な鉄塊から。
気付いて逃げるには、私達はその『死』に近過ぎた。
『え…』
私達は、間に合わなかった。
悲鳴。それが周囲の人間のものと気づいたとき、私達は宙を舞っていた。
鈍い音が響く。私の身体が地面に打ち付けられた音が。
アスファルトが赤黒く染まっていく。
目の前の鉄塊に『赤』がこびりついている。
『赤』い海が広がる。
その真ん中で--彼女は『死』の一線を踏み越えていた。『赤』い海を広げながら。
青が『赤』に変わる。変わる変わる。
『赤』が広がる。どんどん濃く。どんどん大きく。
一面の赤。赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤。
「う…わ」
目の前の『赤』が記憶と重なる。どんどん赤黒く。
「う、わ、うわ、うわ、うわ、うわ、うわあああああああああああ!」
頭を抱え、涙を流し--『私』は叫び出した。
「お、ねー…さん?」
「あッ、ああッ!ああああああああああ!」
呆然とする少年を尻目に、医者が薬を打つ。
数十秒と立たず、彼女は意識を失い、病室に運ばれていった。
「こうなってしまうか…」
医師が彼女を運びながら呟く。
「いつになったらこの子の心は解放されるんだ、あの事故から…」
だらんと垂れた腕は、当然、それ以上動くことはなかった。
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「…んあ」
目を覚ますと、そこは病室だった。
「…あれ?」
時計を見ると、もう朝だった。いつの間にか、随分時間が経っていたらしい。
「あれ、何してたんだっけ」
どうも寝るまでの事を覚えていない。視界の隅で白い菊の花が揺れる。
「はあ、寝ぼけてでもいたのかな?」
あまり深く考えるのをよして、窓の外を見る。今日も、空には色がない。
「またか…」
私の世界はずっとモノクローム。
多分、これからも、ずっとそうだろう。
こんな拙い文章を読んでいただきありがとうございます。楽しんでいただけたでしょうか。
義足や、その他諸々に関しては、一応調べたのですが…正直物凄くガバってると思います。すみません!