壁がパンの世界
「ジルを返して!」
雪の降る夜のこと。ベルは男から逃れようと必死にもがいた。しかしそのやせ細った身体が男に敵うはずもなく、何度も突き飛ばされては血を吐いた。
「ジル!」
立ち上がれない身体を引きずって、ベルは前へ前へと這って行った。あの向こうに、あの通路の向こうに、ジルがいる。
すこし進んで、ベルはまた男に蹴り飛ばされた。髪をつかまれて、無理矢理頭を挙げさせられる、冷ややかな嘲笑が耳元に響き、残忍な笑顔が夜には眩しすぎた。
「いやだ。諦めない。ジルに、ジルを返して」
投げ飛ばされて、また通路へと這って行く。男はすこし飽きたようにそれを眺めて、そして突然歩み寄ってベルの左手を強く踏みつけた。踏んで、踏み躙って、骨の砕ける音と真っ赤な鮮血が雪の花びらを落とした。ベルは叫ばなかった。歯を噛み締めて、ただただ通路の奥を見つめた。
殴る蹴るの暴行のあと、フッと蔑んだ笑いを残して男は立ち去る。やっと通路の入り口まで手を伸ばしたベル、でも、目に見えない壁が有った。涙が一滴、頬を伝って落ちた。
通路の奥には部屋が一つ、中に人形のように着飾った少女が座っていて、その目は心配で潤んでいる。窓の外から男の足音がして、そしてだんだん遠のいて行った。少女は比較的自由で、見つからないと分かるや否やそっと部屋を抜け出した。
「ジル」
ぼやける目にジルの姿が見えて、ベルは喜んで口許を綻ばせた。
動けないベルのもとに、ジルは何回も通ってきた。その内雪が融けて、ベルの体はまた一回り小さくなった。その代わり、その小さな体の中で何かが変わって、うずくまるその背中すら力強く見えた。
夏が過ぎ、またコッソリやって来たジルにベルは魔法をかけた。可愛らしい蛇姿のジルを胸にしまって走り出す。男が気付く前に、もっと遠くへ。
外は高地。下には港が見えた。転がるように坂を下る。胸元のジルだけは必死に守った。後ろから警報の音がする。ベルは一番近くの船に転がり込んだ。身体に傷はない。ほんとに強くなったようだ。しかしベルに喜ぶ時間はない。
白い大きな船、乗組員はいなかった。操縦室は船の中央で見つかった。ベルに船を運転する経験はない。でも今すぐ船を出さないと、捕まったら、もう二度とジルには会えない。
何度も挑戦して、船は港で何度も回転する。転覆しそうになったり、渦を作って動かなくなったり、それでもなんとか海には出た。目的もなく、操作することすらままならない。後から追いかける船がある。ベルにできるのは、ただ必死に船を走らせることだけ。
蛇行して、引き返しそうになって、捕まるギリギリをすり抜けて。ふと気がつけば、危険な海域に入っていた。海のことはわからない。でも危険なことは分かる。遠くに、白い柵と黄色の壁が見えるから。
あの向こうにはもっと広い世界がある。その世界はもっと裕福で、幸せに溢れていて、みんなが行きたがるところだという。でもその前の海は危険で、最も強い人しか通り抜けられない。だから、みんなが憧れる場所だ。
波が立ち、船が大きく揺れて、ベルは海へ投げ飛ばされた。板のような物がある。なんとかよじ登ったそれは、昔ここへ来た船の残骸だった。ベルが上るとまた波が来て、ベルを海に落とそうとする。
戦ったって勝ち目はない。ベルは次から次へと残骸を飛び移って逃げた。最後に飛んだとき、足を滑らせたベルは本能に任せて腕を振り回し、手に当たった硬いものによじ登った。
白い。この海に白いもの。波でなければ、柵しかない。海を挟んで、追いかけてきた船の男が目を見張った。強くもなんともないのに、運だけで策に辿りついたベルに目を見張った。
柵はあみだくじのようになっていて、よじ登るのにはそんなに難しくなかった。頂上から下を見ると、まず黄色い壁の頂上が見える。足一個分ほどの幅で、柵より半人分ほど低い。できるだけゆっくりと、ベルは壁に飛び降りた。
さらに下を見る。でこぼこしてはいるものの、ほぼ垂直に下に続いている。その中央あたりで、人が縦に寝られるくらいに大きなでっぱりがあった。今度はそこに飛び降りる。
壁はパンでできていた。ここから下へ降りる道が見つからなかった。その内上からもう一人青年が落ちてきて、二人でおしゃべりしながらパンを食べた。
この壁のでこぼこは、全部食べられてできたものだった。でっぱりは横にもずっと続いている。二人は右へと歩き始めた。永延と、永遠と。そして気がつけば、地面に足がついていた。上を見上げる。あのでっぱりがずっと高くに見える。
先の世界は白い霧に包まれていて、暖かな雰囲気に溢れていた。時折風が吹いて、霧の向こうに町が見える。誰かがこちらに気がついて、ハタと足を止めて手を振ってきた。青年が笑って手を振り返す。向こう側で足を止める人が多くなった。みんな笑って、歓迎してくれている。
「ジル。この世界は楽しそうだよ」
蛇のジルが人間に戻って、二人は三人になって霧の中へと進んでいった。