見守るだけの恋 前編
目の前を彼女が歩いている。
後ろを歩く俺に気がつく様子はない。
というよりも、誰かが自分の後をついてきているとは、思っていないのだろう。
彼女の後姿は元気がないものだった。
もちろんその理由を俺は知っている。
彼女は今日、失恋をしたのだ。
彼女が好きだったのは同じ部活の1年先輩だ。
彼女は数日前から決意を固めた顔をしていた。
きっと卒業式の今日に告白しようと決めたのだろう。
だけど・・・それは出来なかった。
告白すらさせてもらえなかったのだ。
傷心の彼女が心配で、だけどなんと言っていいかわからなくて、少し離れてついていくしかない俺。
彼女は途中で進路を変えた。公園に寄ることにしたようだ。
俺は慎重に距離を取って後をついていく。
彼女は東屋に入って、そこのベンチに座ったようだ。
そっと近寄って声を掛けようかどうしようかと思った時に、彼女の声が聞こえてきた。
「先輩・・・」
震える声で一言呟いた言葉に彼女のこの2年間を思うと、俺は声を掛けることもできずに、ただ立ち尽くすしかなかった。
◇
俺が彼女のことを知ったのは今から5年前。中学に上がる前の春休み。
俺は小さな頃から体を動かすのが好きだった。じっとしていることは苦手な子供だった。
そんな俺を持て余した親は、朝早くに叩き起こしてジョギングをやらせることにしたのだ。
俺は忙しい父に誘われて、一緒にいられると喜んだ。
だけどその内に父は仕事がもっと忙しくなり、俺は一人で走ることになった。そのジョギングが日課になった頃、俺はいつもと違うコースを走ることに決めた。それは俺が通っていた小学校とは逆のほうに向かうことだった。
俺の家の一本裏の道が、隣の小学校区との境だった。中学もそこで別れる。だけどそちらには歩いて10分ほど行けば比較的大きな公園があるのを知っていたのだ。
その公園に辿り着いた時に、前方から走ってくる人がいた。俺はその姿に見とれてしまった。その人は俺と同い年くらいの女の子。軽やかに走ってきたのだ。彼女は凝視している俺と目が合うと、軽く頭を下げて俺の横を走り抜けていった。
俺はただ呆けたようにそれを見送ったんだ。
それから俺は毎朝その公園に向かってジョギングをした。彼女とは最初は挨拶する程度だったけど、そのうちに顔なじみになり一緒に公園を走るくらいには仲良くなれた。
彼女はやはり隣の中学に通っていた。俺と同い年。それから、俺と同じで陸上部に入っていた。
陸上の地区大会で彼女と顔を合わせた。彼女は普通に挨拶をしてくれた。声を掛けてくれるくらいには、親しまれているのがうれしかった。それを見ていた部活のやつらに『彼女』だと勘違いされたけど、まあ、それもいいか。そう思ったから、俺はその噂を否定も肯定もしなかった。
中学の3年の大会は俺も彼女も地方大会まで進むことが出来た。だけど全国大会には俺も彼女も行けなかった。それは俺たちの実力が足りなかったのではなくて、日課の朝のジョギングで俺たちは二人そろって怪我をしてしまったからだった。
その怪我の詳細はこうだ。俺と彼女はいつものように公園で会い2周走ると、自宅があるほうに向かって走っていった。偶然にも、彼女の家も学校区の境よりだった。
いつもの別れ道。いつものように手をあげて別れるはずが・・・。
今でもあの時の事は、はっきりと思い出せる。金属の資材を積んだトラックが走ってくるのが見えていた。別れるところは少しカーブになっていて、スピードを落としながらトラックが彼女の横を通過して・・・いきなり固定していた紐が外れて、崩れてくる資材が見えた。そこからの情景はスローモーションだった。落ちてくる資材から彼女を庇おうと手を伸ばした俺。その俺に来るなというように左手を払うように腕を振った彼女。俺の手が届く前に資材は彼女の上に落ち、潰されるように倒れる彼女。俺の上にも資材が落ちてきて、左肩に衝撃を感じて意識を手放した。
どれぐらい気を失っていたのかわからない。一瞬だったのか、数分だったのか。目を明けた俺は微かに顔を上げた。見えたのは右のこめかみの辺りから血を流す彼女の顔。名前を呼んだけど、反応を示さない。かろうじて動かせる右手を伸ばしてみたけど、彼女に届かない。
事故の音を聞きつけた近所の人たちが、俺たちを資材の下から助け出そうとしてくれた。そのうちにパトカーや消防車、救急車が到着した。
病院に搬送されて、俺たちは治療を受けた。俺は左肩を骨折していた。他にも資材が当たったところが酷い状態だった。ただ、幸いにも足は打撲程度で済んだ。
彼女は頭に資材が当たりかなりの大怪我をおった。何より衝撃のせいか、5日間目を覚まさなかった。やっと目を覚ました彼女は、事故の衝撃で記憶を失っていた。これが一時的なものなのか、ずっと思い出せないままなのかわからないそうだ。
彼女の怪我も頭以外は打撲程度で済んだと聞いた。
入院中に一度だけ彼女と会った。彼女は俺の顔を不思議そうに見つめていた。
『お互い災難でしたね』と、知らない人のように言われた。
俺も『そうだね』としか答えられなかった。
退院をした後、しばらくは動くこともままならない日々。怪我をしたのが夏休み中だったのが幸いした。と思う。全国大会に出られなかったのは残念だけど、命があるだけいいと思うことにした。
ギブスが外れリハビリに通って腕の動きも良くなったところで、俺はまたジョギングを再開した。だけど、親にあの公園に行ってはいけないと言われてしまった。彼女のことが気にはなっていたけど、親に心配をかけたのは確かなので、俺はジョギングコースを小学生の頃のものに変えた
そして、高校の受験日。俺は彼女と再会した。会えたのは試験が終わって帰るところだった。突然の再会に俺は何も言うことが出来なかった。
合格発表の日。友達と喜びあっている彼女を見つけた。俺も合格していたから、春から同じ学校に通うことが出来る。
4月。入学式の日。なんたる幸運。彼女と同じクラスになれた。席も彼女の隣の列の一つ後ろだ。これだけ近ければ話しかけておかしくないだろう。
話しかけてみた。よかった。好感触だ。
・・・だけど、初対面の人としてのあいさつ。やはり俺のことは思い出していなかったのかと思った。
というよりも彼女は記憶を失ったままなのか、一部でも思い出すことが出来たのか、とても気になった。
でも、いきなり聞くわけにもいかないから、俺はじれったく思った。
翌日の帰り、彼女と一緒になった。帰り道がほぼ一緒とわかり、目を丸くする彼女が可愛かった。
部活。彼女はどこに入るのだろうか。また陸上部に入るのだろうか。そんなことを思っていたからか、昼休みに同じ中学の先輩が俺を訪ねてきた。いや、同じように彼女のところにも女の先輩が訪ねてきた。二人はそれぞれに俺たちに陸上部に入ってほしいと言ってきた。俺は言葉を濁して即答を避けた。彼女がどう答えるのか気になったんだ。それに受験でのブランクだけでなく、怪我によるブランクもある。いくらジョギングをしているとは言っても、陸上の走りとはまた違うから。
考えていた俺の耳に彼女の声が飛び込んできた。
『申し訳ありませんが、陸上部には入りません』
女の先輩はその言葉に残念そうに微笑んだ。その顔は彼女に断られると知っていたようだ。
俺のほうの先輩は俺に見学に来いと言ってくれたけど、俺も彼女と同じように断った。先輩は俺に『何故』と聞いてきたから、正直に事故に遭ったことを言った。そして『もう前のようには走れません』と付け加えた。
先輩は俺を陸上部に勧誘するのをあきらめてくれた。
この日の帰り、彼女が待っていた。『聞きたいことがある』という彼女。並んで歩いたけど、なかなか切り出してこない。
あの公園のそばに来た時に彼女が『ここに寄りたい』と言った。自販機で飲み物を買って空いていたベンチに座る。
しばらく黙っていた彼女が訊いてきた。
『事故に遭ったって言ったよね。その事故ってどんな事故』
俺はトラックの積み荷の下敷きになった事故だったと、簡単に言った。それを聞いた彼女は目を潤ませて俺の腕を掴んできた。
『じゃあ、わたしと一緒に事故に遭った人って、あなたなの。教えて。あなたと私の関係って何』
問われてどう答えようか迷った。というより彼女と俺の関係って、朝のジョギングで顔を合わせていたくらいで、それ以上でもそれ以下でもない。まあ、一部の俺の友人たちには『彼女』だと勘違いされていたのだけど。
「ただのジョギング仲間」
端的に答えたら疑わしそうな目で俺のことを見てくる彼女。またしばらく黙っていた。彼女の視線に居心地が悪くなったころに、視線を落とした彼女がポソリと呟いた。
『彼氏じゃないんだ』
少し安堵が滲んだ声に俺は口を開けて彼女の事を見つめた。
「はあ?」
気まずげに目を逸らした彼女は小声で事情を話してくれた。
彼女の学校でも、陸上の大会で会う俺のことは噂になっていたらしい。彼女も『彼氏?』との問いに否定も肯定もしなかったそうだ。理由は恋愛ごとが面倒くさかったから。少しでも走ることに集中したいのに、周りは『誰が好き』と騒がしい。それなら同じ学校ではない俺を『彼氏』に、仕立てるのはちょうどよかった。
と、記憶が戻らない彼女に、親友が話してくれたそうだ。
他の事情を知らない友人たちは、事故の時に俺が彼女を庇おうとしたとか、彼氏のことを忘れてかわいそうとかいろいろ言ってきたらしい。記憶がなかった彼女は混乱したそうだ。
日常が戻り傷も癒えてきたら、少しずつ記憶が戻ってきたそうだ。ただ、日課のジョギングのことは思い出せなかったらしい。あの公園に走りに行っていたことは覚えていたそうだったけど。