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浜茄子の花の咲く頃

作者: 三坂淳一

『 浜茄子の花の咲く頃 』


 文政七甲(きのえ)(さる)(西暦 千八百二十四年)

 五月二十八日(新暦 六月二十四日)朝方雨、その後、晴れ

 暮れなずむ道を利兵衛と要助は歩いていた。

 蒸し暑かった一日も終わり、陽はようやく西の山に墜ちようとしている。

 烏が数羽、侘しげな声で鳴きながら、黄金色に輝く夕焼けの空を山に向かって飛んでいく。道は朝方まで降った雨でぬかるんでいた。草鞋(わらじ)は泥に塗れ、重さを増していた。

 利兵衛は早足で歩きながら、時々後ろを歩く要助の方を振り返った。

 要助は唇を固く引き結び、足元を見ながらひたすら歩いていた。

 要助は大分緊張しているようだ。利兵衛は口元に笑みを浮かべながら、そう思った。

 無理も無い、子供だった昔とは違い、初めての忍び勤めに向かうのだから。

 二人は継ぎの入った黒の筒袖を身に纏い、紺色の股引(ももひき)を穿いていた。

 やがて、道は侍屋敷が立ち並ぶ森閑とした小路に入った。

路地の両側には質素な冠木門(かぶきもん)と木の塀に囲まれた侍屋敷が夕暮れの中でひっそりとした(たたず)まいを見せていた。

利兵衛は紫陽花(あじさい)を覗かせた冠木門の前に立ち、門の後ろに腰を下ろした年嵩(としかさ)の番人に声をかけた。番人が冠木門の脇にある潜り戸を開けた。

利兵衛と要助はその潜り戸から屋敷の中に入った。

正面に紫陽花が厚ぼったく咲き誇っていた。

屋敷の奥に通じる小道を歩き、奥の庭先に出た。

正面に小さな離れの部屋があり、二人の男が黙然と座っていた。

少し年配の男と若い男が縁先で蹲る利兵衛たちに目を遣った。

「利兵衛か。待っておったぞ」

年若の侍が利兵衛に声をかけた。

「少し、遅参いたしました。申し訳ございませぬ」

年若の侍は利兵衛の脇に控える要助に目を止めた。

「利兵衛、その者は」

「わたくしの弟の要助でございます」

利兵衛の言葉に、要助は身を固くした。

「おお、あの要助か。見違えた。随分と大きくなったものだ」

その年若の侍は、利兵衛たちに座敷に上がるよう、片手で招き促した。

利兵衛たちは座敷に座ることを遠慮して、濡れ縁の板の間に座った。

「ここにいる新妻栄助のことは知っておろうな」

栄助と呼ばれた男は黙ったまま、利兵衛たちに会釈した。

「勿論、承知いたしております」

利兵衛は栄助と呼ばれた男に目を向けた。

その眼には微かな憧れの念が浮かんでいた。

年若の侍は表高八十石、役高二十石で、奥州泉藩二万石の物頭(ものがしら)を勤めている衣笠右馬之(うまの)(すけ)で、齢は利兵衛と同じ、二十二歳の若侍であった。丸く輝く眼を持った白皙長身の侍であった。新妻栄助は金四両二人扶持を戴く無足人(むそくにん)で、藩きっての『忍び』と評されていた。

無足人とは、知行を持たない無禄の士で、給金と扶持米だけを与えられた下級武士を指している。郷士とか、苗字帯刀を許された準士分の百姓もこのように呼ばれていた。

齢は三十歳であったが、常に沈鬱な表情をしており、齢よりも老成した感じを抱かせた。

中肉中背で、これといった特徴も無く、どこにでもいそうな平凡な外見をしていた。

表情の無い顔がいっそうその平凡な容姿を目立たないものにしているようにも思われた。

「栄助、すまぬがこの利兵衛たちにもう一度、先ほどの話をしてやってはくれまいか」

右馬之助の言葉に軽く頷き、栄助が話した内容は実に驚くべきことであった。

「昨日、親戚の法事があり、常陸(ひたち)の大津に出かけたのでござる」

栄助が静かに語り始めた。

「法事も済み、本日、大津を去り、戻ろうとした矢先のことでござるが・・・」

少し、間をおいて話を続けた。

「異国の大きな船が突然現われ、その船から伝馬(てんま)(せん)が出され、何人かが大津浜に上陸したという、とてつもない話を耳にいたしたのでござる」

大津浜の沖合に現われた二隻の黒船から、二艘の伝馬船が漕ぎ出され、その伝馬船に六人ずつ乗っていた異国人が大津浜に上陸したという話であった。

十二人が浜に上陸した。しかも、鉄砲を四挺ほど携えていた。

その他、鯨突きと思われる銛も十本ほど持参しているようであった。

「親戚の漁師が飛び込んで来て、そのような話をしたので、それがしもとりあえず、大津浜に急ぎ出向き、様子を見ることとしたのでござる。大津浜では、上陸した十二人の異人たちを取り囲むようにして、大勢の浜の漁師たちがおったのでござる。かと申して、それほどの緊張した感じは受けなかったのでござる。思うに、どうも、漁師たちは異人という存在に慣れているようでありましたなあ。陸地ではともかく、海の上ではかなり異人たちと交流があるやも知れませんな。異人たちと浜の漁師たち、お互いに手振り、身振りで何とか意思を伝えようとしておったのでござるが、どうにも埒があかない様子でござった。その内、大津村の村役人が何人かの侍を連れてくるのが眼に入ったのでござる。そもそも、大津村は水戸藩のご家老、中山備前守様のご領地であり、連れてこられた侍たちもおそらくは中山様のご家来衆と思われた次第でござる。その様子まで見届け、とりあえず、泉に帰り、本多のお殿様にご注進せねばならないと思い、大津を離れ、帰途に着いたということでござる。ご注進後、本多のお殿様から、衣笠様にもお伝えせよ、とのご指示を戴き、ここに罷り越した次第で」

栄助が口にした、本多のお殿様というのは、泉藩家老の本多忠(ただ)(より)のことで、二百五十石を戴く筆頭家臣であった。頑健で屈強なからだをした武士であったが、このところ、病気で臥せっていることが多くなっていた。

利兵衛は昔、遠目で一度だけ見た本多忠順の顔を思い出していた。

大きく、つぶらな眼をした男で、眠そうに物憂くけだるげな表情をしていた。

「昔、ロシアという国の船が蝦夷地で無法を働いたことがある。この大津浜のことも或いは、ロシアの者たちの仕業かも知れぬ。まあ、いずれにしても、備えあれば、憂いなし、である。今は夜を迎え、いたしかたがないが、明日、藩としてのご処置、ご対応がなされるかも知れない。利兵衛、そして、要助の両名。急ぎで済まぬが、明日の朝一番で、小浜村の(から)船見(ふねけん)番所(ばんしょ)に出向き、この異国船のことを見番に知らせてやってはくれぬか。見番のほうでも、何か噂を聞いているかも知れぬが」

些少であるが、当座の路銀である、と右馬之助は一分銀を二枚、懐紙に包んで利兵衛に渡した。利兵衛はありがたく受け取り、懐中にしまった。


利兵衛と共に、濡れ縁から縁先に下りた要助の眼に、若い娘の姿が映った。

娘は華麗に咲いた紫陽花をぼんやりとした様子で見ていた。ほっそりとした姿は何やら物憂げに見えた。おきく様だ、と要助は思った。微かな胸の疼きを覚えた。

要助より三歳ほど年少のおきくは十五歳の初夏を迎えていた。

おきくはこの屋敷の主、二百石を戴く中老、衣笠儀兵衛の娘で、右馬之助の妹である。

おきくに初めて会ったのは、十年ばかり前になる。

死んだ父、理介に連れられて、この衣笠の屋敷を初めて訪れた時のことだった。

小さな(おんな)(わらべ)が庭先で蝶を追いかけて遊んでいた。

蝶はひらひらと女童をからかうように飛んでいたが、小さな手を差し出して追いかける女童に捕まえられるほど悠長な存在では無かった。

その女童は少年の要助に気がつき、蝶をつかまえて、とねだった。

要助は目の前をひらひらと飛んできた白い蝶を、指を広げた両手で難なく掴んだ。

組み合わせた指の間でパタパタと羽根を翻す小さな生き物をその女童に見せた。

女童はにっこりと微笑んだ。

そして、大儀であった、と大人びた口調で要助に礼を言った。

そのあとで、ありがとう、と今度はあどけない子供の口調で礼を繰り返した。

傍らで、衣笠家の女中がおしゃまなおきくの言いようを聞いて、笑っていた。

それが、おきくとの初めての出会いだった。豆狸のような女の子、だと要助は思った。

それが、要助が記憶しているおきくに対する初対面の印象であった。

眼がくりっとしていた。黒目がちのつぶらな眼をしていた。

その日、その女の子の兄である右馬之助にも会った。

ひょろりと背が高い前髪の少年であったが、女の子と同じ眼をしていた。

(どん)(ぐり)(まなこ)の若様、というのが要助の印象だった。

その後、父の理介が死ぬまで、理介に連れられて衣笠の屋敷を訪れる度、要助はおきくの遊びに付きあわせられた。

おきくの丸い顔は齢と共に、細長くなり、瓜実顔になっていった。

おきくは要助が顔を見せる度、喜び、無邪気に要助を綾とり、姉様ごっこといった女の子の遊びに誘ったが、年を重ねるにつれ、要助は段々尻込みをするようになっていった。

身分が違いすぎる、ご遠慮すべきだ、と少年の要助にも分かってきたからだった。

おきくは自分の眼の形が嫌いで、こんな丸い眼は嫌、もっと切れ長の眼が欲しかった、などと、無邪気な口振りで要助にこぼしていたが、要助の目には、おきくは次第に眩しい存在になっていった。

そのおきくが紫陽花を見ながら、庭に立っていた。数年振りに見るおきくは美しい娘になっていた。髪は、肩で切りそろえた禿(かむろ)から娘島田になり、筒袖は小振袖になっていた。

おきくに比べ、百姓みたいな継ぎはぎだらけの粗末な筒袖を着ている自分が要助には恥ずかしくてならなかった。身分の分け隔て無く、時には要助兄(あに)さまと自分を慕ってくれたおきくに今の貧しい姿の自分を見せたくはなかった。

要助は身を縮めて、利兵衛の広い背中に隠れるようにして、おきくの脇を通り過ぎた。

幸い、おきくは気付かなかったようだ。

要助はそのように思い、何気なく後ろを振り返った。

そこに、おきくの眼があった。おきくはハッとした表情を見せた。

そして、にっこりと微笑んだ。

同じだった。捕まえた蝶を見せた時に要助に微笑みを返した、あの時のおきくの微笑みと同じ微笑みだった。要助はぎごちない会釈をして、その場を去った。


「おきく様は大層美しい娘になられた。この秋には、本多の若様、(あきら)さまと言ったかのう、その若様に嫁ぐそうだ。目出度い話だ」

潜り戸から外に出た利兵衛が足早に歩きながら、要助に言った。

章と呼ばれた若様は今の家老、本多忠順の四男で齢は要助と同じ十八歳の若者だった。

「章さまは、今は江戸藩邸におられるが、近々、百三十石取りの亀田様に養子として入られる。亀田様には子供が居なく、章さまが先ず養子として入り、その後で、おきく様を亀田家の嫁として迎えるという段取りらしい。つまり、夫婦養子みたいなものだ」

そのように語りながら、利兵衛は要助の顔を見た。

利兵衛には昔から相手の眼を見詰める癖がある。

利兵衛は面長であるが、太い眉、高くがっしりとした鼻、常人より大きな眼を持っている。その利兵衛にじっと見詰められると、要助はいつも恐くなる。

齢は四つほどしか違わないが、父母を五年前の疫病で亡くしてから、要助にとっては親代わりの利兵衛であった。おいらの心の中まで見透かされるようだ。

利兵衛に見詰められる度に、要助はいつもそう思うのだ。

今度も、秘かにおきく様を好いているおいらの心を読んでいるのかも知れない。

利兵衛は要助を見ながら、いつの間にか、背丈が伸び、自分の背丈を追い越した弟の将来のことを考えていた。要助は忍びには向いていないのかも知れない。この背丈はまだまだ伸びる。その内、右馬之助様と同じくらいの背丈になるかも知れない。

忍びは小柄なからだのほうが良い。あっても、中肉中背のおいらくらいまでだ。

目方は減らせるが、背丈は減らそうとしても減るものではない。

背丈の高い忍びなんて、聞いたことが無い。

北条乱波(らっぱ)で世上名高い風魔小太郎殿は六尺豊かな大男だったと云われているが、実際忍びとしての行いをしたわけでは無く、言わせてもらえば、忍びを束ねる頭領でしか無かった。新妻栄助という卓越した忍びでも、おのれの背丈はもう少し、小さかったほうが良く、水を飲んでも太るというおのれの体質を常に気にかけているという噂を聞いたことがある。

親父の死後、衣笠家に仕える忍びとして、要助を鍛えているのは他でもない、おいらだが、おいらの見るところ、要助は格闘の業は向いていないようだ。

気が弱いというか、優しいというか、おのれの手で相手に疵を負わせたり、果ては殺すという行為ができないみたいだ。刀術も棒術もとてもものにはならなかった。

受けてばかりいては、いつかは打ち倒されてしまう。教えても無駄だと思い、要助への稽古を諦めた。そこで、おいらは要助に早歩きと早駆けの術を教え込んだ。

戦国の世ではいざ知らず、この天下泰平の世では、忍びは物見ができれば良い。

そのためには、早歩きと早駆けが大切なこととなる。見たことを正確に記憶することも必要となるが、これに関しては、要助の能力は素晴らしいものがある。

知らないところに連れて行き、戻ったところで、その場所の記憶を訊ねると、松の木の枝振り、本数、牛馬の数、果ては空を飛んでいる烏、鳶の数さえ、すらすらと言ってのけたのだ。これに関しては、おいらも要助に一歩も二歩も譲らざるを得ない。

相手と格闘して倒すということに関しては、要助は全く向いていないが、弓術に関してはなかなかの力量を発揮した。敵と離れていれば、気持ちが楽になるのか。

飛び道具ならば、ひょっとして、とおいらは思った。

そこで、おいらは要助に(つぶて)の投擲術を教えてみた。

相手と離れて、相手を倒すということならば、相手に対する遠慮は少なくなるので、ひょっとすると隠れた才能を発揮するかも知れないと思ったからだ。

おいらの予感はずばり当たった。要助は本来左利きだったが、刀術の訓練の際、無理やり、右利きに矯正した。左利きの侍はいない。おいらの家は無足人と雖も、苗字帯刀を許されている郷士で、侍のはしくれだ。

そして、飯を食う際の箸も右手で持たせ、筆も右手で持たせた。

右手で箸を持たせ、一掴みの小豆の粒を別な器に移し替えさせたこともある。

線香一本が燃え尽きる間に、何粒移し替えできるか、試したこともある。

その結果、要助はいつの間にか、両利きになった。礫の投擲も右でも左でもできるようになった。試しに、両手を同時に使って、礫を投げさせてみた。

案の定、両手で同時に投げられた礫は木に彫りつけた的の中心に同時に当たり、小気味よい音を響かせた。要助も面白がり、これを契機に、礫の修業に打ち込むようになった。

或る時、おいらが修行の相手となり、要助の礫を受けたことがある。

自慢では無いが、おいらは体術にはかなりの自信を持っている。

素早い動きで身を(かわ)す自信があったのだ。

しかし、結果は無残なものであった。

要助の放った礫は鉄砲玉のように速く、おいらに迫ってきた。

一個は何とか躱したが、二つ目は躱すことができず、おいらの胸に当たり、一瞬息が詰まった。一週間、撃たれたところが痛んだ。

要助はすまなさそうな顔をしていたが、おいらは嬉しかった。

痛さなぞ、すっかり忘れていた。

弟の天賦の才を見つけた嬉しさに比べれば、胸の痛みなぞ糞喰らえだ。

礫は要助にとって、とてつもない武器となると思ったからだ。

忍びには何かひとつ、人に負けない術があれば良い。

その術がずばぬけておればおるほど、必ず、その術は身を救う。


利兵衛はそんなことを思いながら、薄暗くなった道を歩き、渡辺村の田んぼ沿いにある粗末な小屋に帰った。ガタガタ、ギシギシと音を立てる戸を開けて、暗い土間に入る。

土間は狭く、竈と流し、水甕しか無い。柄杓で水甕から水を汲んで、飲み、喉を潤してから板の間に上がった。ごろりと横になって、利兵衛が呟くように言った。

「要助の顔は忍びには向かないな」

「どういう意味じゃ、利兵衛兄じゃ」

「今日、右馬之助様のお屋敷で、新妻栄助殿にお会いしたろう」

利兵衛は笑いながら、要助に言った。

「あの栄助殿の顔が忍びの顔じゃて」

「栄助様の顔」

「何の特徴も無い、あの顔が忍びの顔だ。額は広からず、狭からず、眉は太からず、細からず、目は大きからず、小さからず、鼻は高からず、低からず、口は大きからず、小さからず、唇は厚からず、薄からず、耳は大きからず、小さからず、これといった特徴の無い顔が忍びの顔じゃ。背丈も高からず、低からず、じゃ」

要助は兄の顔を見詰めた。

「栄助殿の顔は人相書きにはまことに書きづらい顔をしている。それにひきかえ、おいらもそうだが、要助の顔は人相書きが喜びそうな顔をしている。細長い顔、太く吊り上った眉毛、高くがっしりとした鼻、ぎょろりとした大きな眼、それに、背丈は五尺七寸ほどで常人よりかなり高い。手配されれば、すぐ、密告されて捕まってしまうわ。昔、日本左衛門こと、浜島庄兵衛という稀代の大盗賊の人相書き手配書はこうだった」

背は五尺八、九寸ほど、月代(さかやき)は濃く、頭に引き疵が一寸五分ほどあり、色は白く、歯並びは普通、鼻筋通り、目は細く、面長なるほう、と利兵衛は講釈師の口調を真似て語った。

兄の言葉に笑いながら、要助は箱膳から飯碗と汁椀を取りだし、夕餉の支度にかかった。

饐えた臭いがしたが、朝炊いた麦飯に味噌汁をかけ、たくあんと胡瓜の漬物で簡素な夕食を済ませた二人はお湯を呑みながら、話の続きを始めた。

「栄助殿はあれだけの忍び達者なのに、まだまだ、それがしは未熟者である、と言っておられるのだ。忍び達者であるという評判をとっていること自体が、未熟者であることの証であると言っておられるのだ。本物の忍び達者ならば、そのような評判にはならない、評判にはならないよう、忍び勤めをするものだということなのだ。つまり、人の噂に立つこと自体が忍びとしては失格であるという思いが栄助殿にはあるらしい。噂になること自体が恥である、という考えなのじゃ。おいらはそのような栄助殿が好きだ」

利兵衛はそう言って、仰向けに寝転んだ。

「でも、利兵衛兄じゃ。江戸はともかく、ここでは、栄助様でもご出世はなさっておられぬぞ。今もって、無足で給銀を戴く郷士のままじゃ」

「要助の言う通りかも知れぬ。父上もかなりの忍び達者であったが、小屋ほどのこの家しか残せなかった。江戸の忍びならば、働きひとつで、奉行にもなれるという話だが」

既に、夜になっていた。月の光が窓から差し込み、青白くあたりを照らしていた。

「利兵衛兄じゃ、明かりを灯そうか」

「いや、もう、寝ることとしよう。明日は朝が早い。明六ツまでにはここを発たねばならぬ」

菜種油が買えず、今は臭い鯨油を使っている、あの生臭い臭いには堪らぬ、いっそ明かりを灯さず、このまま寝たほうが良い、ということか。要助はそう思った。


傍らで、利兵衛が何事か呟いていた。こんな暮らしでは女房を持つこともできぬ。

要助の耳にはそのように聞こえた。

隣に住んでいる、おときの顔がふと、要助の脳裏に浮かんだ。

おときは十七歳で利兵衛より五歳下の娘だった。

おいらより、一つ下になる。要助は暗闇を見詰めながら、おときのことを思った。

利兵衛兄じゃはおときを好いている。これは、間違いない。

そして、おときも利兵衛兄じゃを好いている。これも、間違いない。

好いている者同士、一緒になるのは当たり前のことだ。

利兵衛兄じゃとおとき、申し分のない似合いの夫婦となる。

その時は、一つ下でもおいらは、おときのことを(あね)さんと呼ばなければならない。

少し、照れくさいが、おときのことをそう呼ぶこととしよう。姉さんと呼ばれたおときは少し恥ずかしそうにすることだろう。やがて、利兵衛兄じゃとおときの間には子が生まれることじゃろう。そしたら、おいらはその子と遊んでやる。子守もしてやろう。

男の子であったら、おいらは礫の術を教えてやることにしよう。

おいらに自慢できる忍びの術はこの礫の術しかない。あとの術は全て、兄じゃに敵わない。兄じゃとて、自分の子に忍びの術を教えるのは嬉しいことだろう。いや、待てよ。

忍びは自分の子には忍びの術は教えないと昔、聞いたことがある。

身内の忍びか、まるっきり赤の他人である忍びに子を預け、忍びの修業をさせるのだ、という話を昔、誰かに聞いたことがある。

忍びの修業は極めて苛酷で、自分の子なら、どうしても愛情が先になり、厳しく教えられないからだ、とその話をしてくれた者は語っていた。

それならば、礫の術だけはおいらが教え、あとの術は栄助様が良いだろう。


でも、問題がある。これはかなり深刻な問題だ。おときには病気の母親がいる。

おときは城下の商人のところで通いの下女勤めをしながら、母親の世話をしている。

下女勤めの給金はほんの雀の涙といったところらしい。

給金の委細は知らないが、人から聞いたところでは、年で一両あるかないか、という話らしい。父親が死んだ頃はおときの家でも多少の蓄えはあったらしいが、母親の長患いでその蓄えも尽き、売れる着物も売り尽くし、今では薬代も払えぬという有様らしい。

そして今、おときには妾奉公の話が持ち上がっているらしい。

何でも、小名浜の網元が泉のご城下の商家を訪れた際、その商家で甲斐甲斐しく働いていたおときを見て、一目で惚れ込んだということだ。

おときは女にしては背が高く、少し痩せ気味の女だが、下膨れで柔らかそうな唇を持ち、翳りを帯びた表情が色気を感じさせ、この女なら世話をしたいと男心を(くすぐ)るのだそうだ。

おときの母親は承知していないということだが、親戚の者がおときの家の窮状を見かねて、おときにこの妾奉公の話を受けるよう言い聞かせているということだ。

こんな暮らしじゃ、女房を持つこともできぬ、と呟いた兄じゃはきっと、おときのことを思っているのだろう。そうに決まっている。でも、おいらたちに何ができる。

時々は、畑で作った野菜をおときのところに運んではやっているものの、薬代として渡してやれる銭なんて一文もありはしないのだ。今日、右馬之助様から戴いた一分銀二枚は本当にありがたかった。これで、米麦、味噌、醤油を買って、一ヶ月は何とか暮らせるのだ。でも、おときに渡してやれる余裕なんか、まるで無い。

豪勢な暮らしを楽しむ網元もいれば、日々の米麦にも事欠く貧者もいる。

世の中、何か狂っている。

おやっ、天井の梁で何かが光っている。光は間を置いて、光ったり、消えたりしている。

田んぼから紛れ込んできた蛍、か。水しか飲まぬ蛍は短い命を終えて、死んでいく。

おいらたちも同じようなものか。

蛍を憐れんでもしょうがない。おいらたちも同じだ。

要助は暗闇を睨みつけながら、そう思った。


五月二十九日 午前晴れ、午後曇り


(あかつき)七ツ半(午前五時頃)、利兵衛と要助は渡辺村を発って、小浜村に向かった。

二人は藍で染めた筒袖の野良(のら)()股引(ももひき)という姿で菅笠(すげがさ)を被っていた。

百姓が二人、急ぎ足で歩いているといった風であった。

藍で染めた布は虫と蛇が嫌うものとされ、野良仕事には向いているとされていた。

利兵衛は草鞋を素肌に履いていたが、要助は長旅には慣れていないということもあり、革足袋を穿いた上に草鞋を履いていた。革足袋は臭かったが、草鞋で素足が擦れるよりはましだった。二人の足は速く、馬を曳いて小走りに歩く野良仕事の百姓たちを何人も追い越した。早歩きと早駆けの修業は七歳を過ぎた頃から利兵衛について行なった。

渡辺村の住まいから半里ほど行ったところに新田(しんでん)宿(じゅく)という小さな宿場があり、その宿場の急な坂を上ったところに峠がある。新田(しんでん)(とうげ)と言い、陸前浜街道に入る難所と言われた峠で道は山道で細く、勾配が急で往来する旅人にとっては息がきれる難儀で厄介な峠であった。泉藩では参勤交代で参府する殿様の行列を家臣一同、この峠まで見送り、道中の無事を祈願することが常であった。参勤交代の行列はこの峠から陸前浜街道に入る。

この陸前浜街道は当時、水戸へ向かう場合は『水戸路』、逆に、水戸から磐城に向かう場合は『磐城街道』と呼ばれた。

水戸路は、新田峠、頭巾平を経て、植田宿に入る。植田宿は磐城平藩の領地で磐城平藩の植田陣屋があり、町木戸もある。植田宿から同じ磐城平藩領の関田宿に入り、九面(ここづら)、鵜ノ子岬を経て、平潟(ひらかた)に入る。そして、平潟から大津村を経て、水戸に向かうこととなる。


さて、新田峠には旅人が往来する山道の他に、所々にがさ(・・)や(・)ぶ(・)が生い茂る獣道が何本もある。その獣道を登ったり下りたりして、忍びとしての早歩きと早駆けの修業を毎日のように繰り返したのである。時には、がさやぶとか、細い水の流れの茂みに潜む蝮を驚かしたり、驚かせられたりして、利兵衛と要助はひたすら歩き、走り廻った。このような獣道で修業を積めば、平地の道ならばどれほどの距離でも歩くことができるし、駆けることもできる、というのが利兵衛の言い分であった。

常人は日に十里ほどしか歩けぬが、速歩術を習得した忍びならば、一時間で四里を歩くことができ、一日で四十里は歩けると云われている。(一里は約四キロ)幼い要助は利兵衛に従って、歯を食いしばってこの辛い修業に耐えた。その峠で、要助は礫の術も習得した。

矯正された右腕での投擲、本来の利き手である左腕での投擲、右腕で投げると共に左腕でも投げるといった交互投擲、更には、利兵衛を驚かした両腕での同時投擲、といった修業を飽きもせず、不断に続けた。修練の結果、要助の礫は利兵衛も驚く腕前となった。

この礫の術のことは誰にも言うな、と利兵衛は要助に何回も釘を刺すように言った。

剣術の極意も同じで、一子相伝を原則とし、秘太刀に関しては門外不出が常である。

いざという時に、一度だけ使って相手を斃せば良いのだ。普段には使わず、思わぬ時に、相手が予想もしない秘密の技を繰り出して斃す。これが、術者が普段に心に秘めるべき覚悟とされる。刀を抜いた武士は必ず相手を斃さなければならないし、未熟な場合は斬られて死ななければならない。刀を抜いて、斬り合わせるということは命のやりとりということなのだ。生半可な気持ちでは、刀は抜けぬ。斬られて、死にたくないならば、必殺の技を身に付けなければならない。これは父上から伺ったことで、剣術使いも忍び働きも同じだと、おいらは聞いた。そのように、利兵衛は要助に話した。要助にとっては、礫の術が秘すべき必殺の技であり、肝心な時以外は滅多に見せてはならないが、おめえの礫はいつか必ず、ひとを救うはずだ、と利兵衛は付け加えた。


城下に、小兵衛という刀鍛冶がいる。

五十を越えた年寄であるが、素直な性格を持つ、孫のような要助を気に入り、『向こう鎚』として時折、要助を雇っていた。要助は、駄賃だよ、と小兵衛がくれる幾ばくかの銭を嬉しそうに受け取り、そっくり、利兵衛に渡すのが常であった。

小兵衛は顔中が皺だらけで、笑うと目が無くなるといった小柄な老人であったが、『主鍛冶』で刀を鍛練する時の気迫には鬼気迫るものがあった。小兵衛の刀は、折れず、曲がらず、よく斬れる、そして、刃紋も美しい、という評判を取っていた。

ただ、欠点は己の気がむいた時にしか、刀は打たない、ということだった。注文が来ても、相手が気に入らなければ、そっぽを向く。金ははずむと云われても、相手にしない。

従って、弟子は去り、妻も去って、貧乏暮しが終生続いた。

要助の父、理介とは幼馴染で仲が良く、理介の稼業である忍び勤めのことも十分承知していた。或る時、戯れに、残鉄を使って十字剣(十字手裏剣)を作ったことがある。

刃を整えた上で、要助に渡しながら、言った。

「どうじゃ、この十字剣は。なかなか、良い出来になった。欲しければ、あげるよ。まあ、但し、実戦には向かぬな。第一、十字剣というものは投げても、どこに行くか判らぬ。曲がってしまい、狙ったところには行かぬのじゃて。十間も離れれば、まず、役には立たぬ。二、三間の間合いなら、当たる。が、相手は死なぬ。疵を付けて、怯ませるだけじゃ。その間に、遁走すれば良いのじゃ。どうしても、斃したければ、この刃の先に、鳥兜の毒を塗ることじゃな。疵口からじわりと毒が入り、その内、苦悶して死ぬこととなる。まあ、多少陰険なことだが、命を賭けたやりとりでは、まあ、許されることだろう」

「小兵衛さま。残鉄はまだ残っているかい」

「おう、まだ少しはある」

「それなら、おいらに鉄の礫を作っておくれ」

これくらいの礫が欲しい、と要助は懐から小石を取り出して、小兵衛に示した。

「ああ、お安い御用よ」

こうして、要助は鉄の礫を二十個あまり手に入れた次第であった。


泉より南下して滝尻に向かい、滝尻より西に向かい、下川を経て小浜に入った。

渡辺村からも三里足らずの道であった。

(一里は三十六町、一町は六十間、一間は六尺、一尺は約三十センチメートルで、換算すると、一里は四キロメートル弱となる)

忍びの歩きは速い。

常人から見たら、ほとんど駆けているようにしか見えない。

修業の際は、菅笠を胸に当て、下に落ちないような速さを保って歩く。

その際、風圧を受けて疲労するのを避ける意味で、頭を下げ、目線を下にして歩く。

新田峠で鍛えに鍛えた利兵衛と要助の足は歩きでも半刻で悠に三里は行く。

明六ツ(午前六時頃)を少し過ぎた頃に利兵衛と要助は小浜村に着き、浜辺に近い土手から海を眺めていた。利兵衛も要助も、汗ひとつ掻いてはいなかった。

風が吹いていた。穏やかな風だった。空はよく晴れ、雲一つ無かった。

遥か彼方に見える水平線が微かに湾曲して見えていた。

海は凪いでおり、穏やかな波が浜辺に押し寄せてきては、また静かに沖に返していた。

(うみ)(どり)が数羽、白いからだを見せて、青い空を悠然と飛んでいた。

「要助、あの白い海鳥は()という海鳥だ。浜に近いところに島があるだろう。右手に見えるあの聳え立っている小さな島だ。あの島が鵜のすみかと云われておる」

「兄じゃ、あの島の名前は何と言う」

「確か、(てる)(しま)と言ったはずだ。てる(・・)はお日様が照るのてる(・・)だ」

照島と呼ばれる島は浜辺より百間ばかり沖合にぽっかりと浮くように屹立していた。

高さは二十間ばかりで、白い剥き出しの岩肌を崖のように見せていた。

島の頂には松が数本立っており、目に鮮やかな緑の葉を繁らせていた。

鵜は渡り鳥で秋に飛来し、冬をここで過ごして、春にはまた北に帰ると云う。

帰りそびれた鵜が数羽、松の木の上をぐるぐると飛んでいた。

「兄じゃ、照島の形は鮫の(ひれ)のようじゃのう」

「ああ、そうじゃ。もう少し、横の方から、小名浜寄りから見ると、もっと、鮫の鰭のように見えるぞ」

土手の下の砂地には、紅い花が一面に咲いていた。

緑の葉を押しのけるようにぽっかりと咲いている花を暫く眺めた。

「要助、この花を見たことがあるか」

「泉のどこかで見たような気もするが、どこで見たか、思い出せぬ」

「お館近くの天満宮の境内に少し咲いているのよ。しかし、この小浜の浜辺にこのように咲き誇っているとは。見事なものだ」

「兄じゃ、この花、何と言う花じゃ」

「浜茄子と呼ばれているな」

「はま(・・)なす(・・)。なす(・・)はあの茄子か、味噌汁の具となるあの茄子か」

「そうだ。あの茄子という字をあてる。もっとも、茄子とは縁もゆかりも無いが、文字だけは茄子だ」

紅い花の花弁は大きく、二寸ばかりもあり、中に黄色の花芯を持っている。

花が咲き終わった頃に、親指ほどの実をつけ、秋を迎える頃にその実は赤く熟する。

甘酸っぱい実は下痢止めの効用ありとされ、この磐城では古来から珍重されてきた。

そのように語る利兵衛の言葉を聞きながら、(つや)やかで(あで)やかなこの花はまるで、おきく様のようだ、と要助は思った。少し胸が疼いた。

「さて、そろそろ、見番所に行くとするか」

花を見詰める要助の思いをよそに、利兵衛がすたすたと歩いて、丘の上の見番所に向かった。小高い丘を登って、泉藩の『唐船見番所』に着いた。

ここからは、左手に小名浜、右手に平潟の海が臨めた。


番所は簡素な小屋で、海に向かって、上に開く大きな(しとみ)()があるだけの造りであった。

利兵衛と要助が着いた時、一人の年寄が遠眼鏡で平潟の沖合を眺めていた。

「お初にお目にかかります。おいらたちは泉藩、御物頭、衣笠右馬之助様お雇いの佐藤利兵衛並びに要助と申します」

遠眼鏡から眼を話し、眼をしょぼつかせながら、不審の目を向けてきた年寄に相対して、利兵衛が丁寧な口調で言った。

「おお、衣笠様のご家来か。わしは、ここの見番を務めている郷方(ごうかた)丹野與()()兵衛(べえ)と申す」

「衣笠様の命により、本日は大津浜での黒船到来の出来事をお伝えにまいりました」

「おや、もう、お気づきで。いやはや、何ともお早い。しかし、それにしても、妙な」

與次兵衛の話によれば、昨日は終日海上が曇り、霧も出ていたこともあって、気付かなかったが、今朝、夜明けと共に、平潟の沖合を遠眼鏡で見たところ、異国の船と思しき黒船を二隻ほど番人が見つけ、泡を食って、先ほど、見番のそれがしに連絡があり、驚いて見ていたところでござる、ということであった。

「して、衣笠様はどのようにしてお知りになったのでござろうか」

與次兵衛が不思議そうな表情をして訊ねてきた。

「昨日、たまたま、大津を訪れていた者が大津浜の異変を夜半知らせてきたのでござる」

「さようでござるか。当方でも、本日、黒船を見た旨、これから泉のお館にお知らせいたす所存で」

そこに、一人の男が駆け込んできた。やたら、丸っこい男であった。

番所に入るなり、歯を剥き出して、にたりと笑った。

「おお、権八(ごんぱち)。待ち兼ねたぞ。平潟沖の異国の船発見の件、早く、お館にお知らせいたせ。黒船二隻、平潟沖に出現とな」

権八と呼ばれた男は四十を少し過ぎた男であったが、やたら丸っこい男であった。

背は低く、太っており、眉は丸く太く、目も丸く、鼻は団子で丸顔と、要助の眼には七転び八起きの達磨(だるま)が人の形をとって現われたように映った。

「ほい、がってんだい。これから、ひとっ走り、泉に行ってくっから」

そう言い残して、権八はばたばたと音を立てて、丘を駆け下って行った。

與次兵衛は呆気にとられている利兵衛たちに、恥ずかしそうな表情で笑いながら、権八のことを語った。

「あれは、わしと同じ郷方で、普段はこの小浜の田んぼの稲の出来具合を見たり、山に入っては植林した木々の生育の程度を見る仕事に携わってござるが、何を隠そう、元来は泉藩の忍者でござる。爺様の代からこの小浜に土着しておる者で、忍者としての修業はわしの見るところでは何もしておらぬようでござる。ただ、体に似合わず、駆けることだけは得手と思われる。まあ、見ての通りで、やたら忙しい男でのう」

いかにも人が好さそうな與次兵衛はこのように言って、利兵衛たちに笑いかけた。

利兵衛は遠眼鏡を借りて、遠く、平潟の沖合を観た。遥か沖合に、黒く大きな船が二隻、目に映った。帆柱は三本あり、白い帆がくっきりと見えた。

利兵衛は遠眼鏡を要助に渡し、よく見るように言った。

「大きな黒船が見える。こんな船は初めて見た。白い帆も、一枚、二枚、・・・、何と八枚ほど見える。船の大きさは比べるものが無いので、しかとは判らないが、三十間から四十間はあるかも」

「三十間から四十間の大船か。五百石船でもたかだか十二、三間しか無い。倍以上の巨大な船だ。平潟、大津では大変な騒ぎになっているだろう」

利兵衛が感心したような口振りで呟いた。

平潟村は棚倉藩領で、裏の大津村は水戸藩領となる。

「平潟は棚倉藩領で、あの有名な密夫大名の子が藩主となってござる」

與次兵衛が笑いを抑えながら、利兵衛に言った。利兵衛も思わず、笑った。

要助には何のことか、その時は分からなかったが、後で、利兵衛から委細を聞き、世の中にはとんでもないことがあるものだと思った。

平潟の現藩主は井上正春と云う。正春はまともだが、父の正甫(まさもと)には、このようなだらしない逸話が残されている。正甫は浜松藩主であった。

浜松と言えば、幕府にとって、重要なところであり、浜松を領する藩主はそれなりに幕府から評価されている大名と言える。

しかし、正甫は驚くべき失態を犯してしまったのである。

今から八年ほど前、内藤新宿あたりで小鳥狩りをして楽しんだことがあった。

狩りの途中、千駄ヶ谷村に立ち寄った。そこの農家で留守番をしていた百姓の女房を見かけた。どういう風の吹き回しだったのか、正甫はついむらむらと好色心を起こし、やにわにその女房を押し倒し、犯そうとした。そこに、その家の主人である百姓が帰ってきて、女房を押し倒して、行為に及んでいる正甫を見つけた。

百姓は怒り、おらの女房に何をするだ、とばかり、天秤棒で正甫をなぐりつけた。びっくりした正甫は刀を抜き、百姓の腕を斬りおとすという刃傷沙汰、暴挙に出た。その後、事件を闇に葬るべく、百姓夫婦を自分の領地、浜松に連れてきて、口封じを行なった。

しかし、世間の口に戸は立てられず、噂は江戸中にあっという間に広がってしまった。

正甫は江戸城に登城する際、他家の足軽から、待ってました密夫大名、とか、百姓女のお味はいかがでござったか、などと散々にからかわれたと云う。

幕閣、果ては将軍も知るところになり、結果、翌年、浜松から棚倉へあえなく左遷、転封となった。面目を失った正甫は病気を理由に棚倉には一度も入らなかったということだが、数年後、嫡子の正春に家督を譲り、隠居した。

正春は父の醜態を恥じながらも、悄然と棚倉に入らざるを得なかった。

棚倉は検地石高より実高がはるかに少ないという領地で、徳川幕府の治世では失政を犯した大名に対する幕府の処分、つまり、左遷の地として有名なところであった。

そして、次に左遷されてくる大名が現われるまでは、そこにじっと、甘んじなければならない。(井上正春はこの後、十二年間、棚倉に居た)

やがて、利兵衛たちの耳にも、昨日の大津浜への異人上陸の噂が流れてきた。

それは、漁師たちの口から流れてきた。

何名か、人数の詳細までは確固たる知らせは無かったものの、伝馬船に乗ってきた異人が大津浜に上陸したという話は確固たる事実として伝わってきたのである。

漁師仲間の噂話は身軽な伝馬船のように速く伝わる。


一方、泉藩では対応に追われていた。

本多家老に新妻栄助から届いた知らせ、息せき切って駆け込んできた小浜村の権八からの平潟沖異国船発見の知らせで、城内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。

藩主、本多忠知は四代目藩主でこの時、三十七歳で藩主就任後九年目を迎えていたが、あいにく、江戸に参府していた。

家老である本多忠順は病床にあり、登城して泉藩としての対応を決めることは出来ず、嫡男の本多六郎が父の名代として登城し、番頭用人など上級藩士と諮って、対応を協議することとなった。その結果、巳ノ刻(午前十時頃)過ぎに、物頭の衣笠右馬之助に対して、小浜へ出張せよ、との命が下された。

(ひつじ)ノ刻(午後二時頃)、泉陣屋(お館)から右馬之助が率いる隊が一番隊として出発した。

※泉藩は二万石で、藩主は城主格大名とされたが、実際の城の築城は許されず、堀で囲った陣屋形式の館に居住していた。堀に囲まれた百間(百八十メートル)四方の敷地で、塀は無く、樹木が塀代わりに植えられていた。敷地は一万坪といったところ。

本多忠知は徳川家康旗下の猛将、本多平八郎忠勝の家系で家紋は本多葵として知られる立ち葵紋で、旗紋は丸に『本』の一文字を入れた文字旗である。

葵紋は京都の上賀茂神社、下鴨神社の紋であり、本多家は元々、賀茂の社職であったと云われている。

徳川の三つ葉葵より格式が高いという話もあり、この紋を譲って欲しいと家康が言ったとか、言わないとか、この紋に関する逸話は多い。

忠知の祖父の(ただ)(かず)は善政を敷いた名君であり、幕閣においても、老中にまで出世をして、参府及び江戸城登城の際、先頭の鑓の穂先に太陽を表わす赤い玉を付けることを特に許された。その名誉は本多赤玉として世に知られ、二万石の小藩ではあったが、赤玉を見た他藩の行列は敬意を表して、赤玉行列一行に道を譲った、と史書には記されている。

一番隊はこの丸に本の文字旗を翻し、且つ、種子島鉄砲を抱えて勇躍、泉を出立していった。衣笠右馬之助はその白皙長身の姿を馬上に揺られながら、小浜に向かった。

小浜の唐船見番所では、與次兵衛が遠眼鏡で平潟沖の黒船の様子を監視していたが、(うま)ノ刻(正午頃)になって、海上が俄かに曇り、異国船が視界から消滅してしまった。

やきもきしている内に、泉から権八が戻り、一番隊の出発と磐城平藩による関田派兵の報を知らせた。

「ここに居ても、この霧では一向に見えない。霧も晴れる様子がない。ここで待つよりも、磐城平藩の出兵の様子を関田に行って、見てきたほうが良い。どんな様子なのか、面白い。その様子を右馬之助様にお知らせすれば、きっとお喜びになられるだろうよ」

利兵衛が傍らの要助に言った。要助に異存は無く、二人は與次兵衛と権八に別れを告げ、見番所を離れ、関田に向かった。関田は小浜と平潟、大津のほぼ中間にある。

そして、小浜から関田までは二里しか離れていない。一番隊が到着する夕刻までには、十分戻って来ることができる距離と利兵衛は踏んでいた。

要助はわくわくする気持ちを抑えられずにいた。勿来の関跡がある関田浜に行くのは要助にとって、初めてのことであった。十八歳の要助の心は躍っていた。

興奮を抑えられずにいる要助を見て、利兵衛は言った。

「この小浜は泉藩の領地であるから、危害を受ける心配は無いが、これから行く関田は磐城平藩の領内になる。他藩の隠密と知られれば、十中八九、命の保証は無くなる。十分に注意して赴くことになるぞ」

隠密活動は藩を常に監視する幕府のみならず、藩同士でも活発に行われていた。

水戸藩の隠密により描かれたと云われる泉陣屋周辺の詳細な絵図も現在残されている。

二人は小浜村を離れ、北西に位置する岩間村に入った。

岩間村を抜け、西に行くと、鮫川という大きな川に出る。

古来は、鮫がいるとされた川であった。

「要助、鮫川の名前の由来を知っているか」

利兵衛が歩きながら、傍らの要助に訊ねた。

「知らねえ。教えてくんちぇ」

「うん、知らねえなら、教えてやっぺ。ここいらへんは、秋になると、たくさん鮭が獲れる。その鮭を狙って、海から鮫が来るのだそうだ」

「今でも、鮭はいっぱい獲れるから、秋に来れば、鮫を見ることはできるのか」

「ああ、見ることができるとも。秋頃、また、来っか」

利兵衛がにやにやしながら、言った。

「うん、おいらは来る。絶対、来るぞ」

利兵衛は要助の真剣な顔を暫く見ていたが、いきなり、笑い出した。

「やっぱり、要助よ、おめえはいい忍びにはなれんな」

「なぜ、じゃ。兄じゃ」

「おめえは人の言うことを信じすぎる。今の、おいらの言葉はまるっきり、口からのでまかせよ。秋になっても、鮫なんか、一匹も来ねえよ。鮭が獲れるのは本当のことだが、それを狙って、鮫なんか来るものか。要助、おめえの欠点はそれだよ。素直すぎるってことだよ。人の言うことは、まず、疑え。それでなきゃ、いい忍びにはなれねえよ」

兄じゃ、ひでえや、と要助は不貞腐れて呟いた。

その呟きを聞いて、利兵衛はまた笑った。

鮫川の川幅は広いところで悠に五十間近くあり、渡し舟に乗ることとなる。

二人は舟場を探した。人が集まっているところに目指す舟場はあった。

舟場には掛け茶屋が二、三軒ほど建っていた。茶屋からは旨そうなにおいが漂ってきた。

腰掛けに座っている旅人の傍には団子と焼き田楽の皿が置いてあった。

利兵衛はにやりと笑って、要助に言った。

「要助、おめえ、腹が空いているだろう。さっきから、腹の虫が泣いているようだ」

「まさか、そんなことはねえ。腹の虫が泣くなんてことはねえが、今朝は朝が早く、食い物を喰ってねえのは間違いねえけど」

「要助、正直に言いなよ。腹が減ったって、ね。おいらも腹が減っている。右馬之助様から戴いた銭もあることだし、久しぶりに、焼き田楽でも食うべか」

利兵衛の言葉に、要助は素直に頷いた。

腰掛けに腰を下ろして、利兵衛が焼き田楽と焼き団子を二皿ずつ注文した。

焼いた豆腐田楽と団子が届く間、要助は唾が口中に溢れてくるのが分かり、利兵衛に気取られないようにそっと飲み込むのが難しかった。

利兵衛はそんな要助を横目で見て、にやにやしていたが、何も言わなかった。

やがて、旨そうなにおいと共に、焼き田楽と甘辛団子の皿が二人の腰掛けに載せられた。

急いで、口に入れた要助は、アチッと思わず呻いた。田楽も団子も焼き立てで熱かったのだ。ゆっくりと食いねえ、逃げはしねえから、と利兵衛に言われ、要助は思わず照れ笑いをした。あっという間に、食ってしまった要助を見て、利兵衛は苦笑いしながら、また一皿ずつ、要助のために注文してやった。

腹ごしらえをした二人は舟場に行った。

舟場には此岸、対岸とも、渡し舟が二艘ずつあり、船頭も二人ずつ居た。

渡し賃を払い、鮫川を渡った二人は関田宿に向けて、足を速めた。

須賀というところを過ぎ、中田というところに差しかかったところで、川に出遭った。

蛭田川という川で、鮫川よりは流れが狭い川であり、橋がかかっていた。

橋を渡り、浜辺を左手に眺めながら、急ぎ足で歩いた。

空はどんよりと曇り、海上には薄い霧が出始めていた。

「この霧では、小浜から平潟沖は見えないだろう。霧は濃くなる一方だ」

海を見ながら、利兵衛が呟くような口調で言った。

「兄じゃ、随分と長く続く浜じゃのう。おいらは小名浜のあの長い浜を思い出す」

「小名浜の浜もここに負けず、長い浜だ。もう、ここいらあたりは、関田の浜よ。もうすぐ、関田宿も見えてくるはずだ。あそこらへんが、そうかのう」

利兵衛が指差したところを見ると、確かに家が密に建っていた。

いよいよ、関田宿か。要助は緊張した。

「要助、宿場に入ったら、あまりきょろきょろするんじゃねえぞ。怪しまれっからな。但し、周囲への目配りは怠っちゃなんねえぞ。分かったな」

利兵衛の言葉に、要助は軽く頷いたが、本当のところは分かっていなかった。

目配りするということは周囲を注意深く見るということだ。

きょろきょろと見ることと同じことなんじゃないか。要助はそう思っていた。

「要助、目配りするということは頭を動かさずに、眼だけ四方八方に動かすということだ。頭を動かして、見るんじゃねえぞ」

なるほど、そういうことか、と要助は悟った。


関田宿に入った。やたら、侍の数が目立った。磐城平の安藤様ご家中の侍か、と要助は思った。当時の磐城平藩主は安藤対馬守信義で齢は三十九歳で、幕府の奏者番というお役目に就いていた。奏者番は若年寄、老中へと進む、大名としての出世階段の一つである。

要助は利兵衛の後にくっついて歩いていたが、時折、浜辺の方に目を遣った。

関田は海苔の名産地であり、浜辺には海苔を天日で乾かしている風景が至るところで見ることができた。昼までは晴れていたが、午後になって、大分雲行きが怪しくなってきた。 

漁師の女房たちがぼちぼち、干してある海苔を片付け始めるといった光景も見受けられた。潮のにおいと共に、海苔のにおいも漂っていた。悪いにおいでは無く、要助にとっては、食欲を誘うにおいであった。さっき、食ったばかりなのに、おいらの食い物に対する欲は強い、と要助は思わず、自分を嗤った。

「要助、なこその関跡でも見物するかい」

と、言いながら、利兵衛は街道から離れ、関跡に向かう間道に入った。

なこその関は、八幡太郎源義家が詠んだ歌で名高いところである。

吹く風を なこその関と 思へども 道もせにちる 山桜かな、という歌である。

要助はこの歌を父から初めて聞いた時、道もせにちる、という言葉の意味を取り違えていた。せにちる、背中に散る、というのはどういう意味だい、と父に訊いたら、父は一瞬、言葉に詰まったが、その内、笑い出した。

要助よ、道も背中に散る、では意味がまるで取れない。道を(せば)めるように散る、という意味じゃよ、と父の理介は幼い要助の頭を撫でながら言った。

優しい父であったが、磐城で疫病が流行った時に、母と共に、まことにあっけなく、この世を去った。利兵衛の後を追って、細い間道を歩きながら、要助は父との会話を懐かしく思い出し、一抹の寂しさを覚えていた。

関跡はほぼ小高い山の頂にあり、そこに立つと松の樹越しに関田の浜が一望できた。

その時になって、要助はようやく利兵衛の考えが判った。

ここに登れば、関田浜がひらけて見え、磐城平藩の警戒の様子が見える、ということか。

浜の右手に突き出して、岬が見える。鵜の子岬である。岬の手前が九面(ここづら)というところで切り通しの街道が通っている。岬の裏が平潟の浜となっている。

そして、磐城平藩の警戒番所はこの関跡から見て、左手の浜辺にあった。

馬が四頭ばかり、侍、足軽が二十人ばかり、小さく(うごめ)いていた。

陣幕を張り出したようだ。上がり藤を染めぬいた旗差しものも何本か、立てられている。

この程度の陣容ならば、泉藩も引けはとらないだろう。要助はそのように思い、傍らの利兵衛に視線を走らせた。利兵衛もじっと見詰めていたが、要助と同じようなことを考えていたのか、口元に薄い笑いが浮かんでいた。

「そろそろ、引き返すとするか。もう、十分見た。大した陣容では無い。戻り、右馬之助様にお知らせするとしよう」

二人は関跡を離れ、急ぎ足で山を下り、浜街道の道に戻った。


(さる)ノ刻(午後四時頃)、衣笠右馬之助が率いる泉藩一番隊が小浜村河岸(かし)陣屋に到着した。

本多の馬印を染めた陣幕が小浜の海を臨む小高い丘に立てられた。

衣笠隊に少し遅れて、本多彦四郎正道が騎馬で陣屋に着いた。

彦四郎は右馬之助、利兵衛と同じ齢、二十二歳で家老本多忠順の次男である。

藩主の家系に連なる侍で、この時、大筒方を兼務する番頭用人を勤めていた。

石高は百四十石で、泉藩二万石では立派な年寄格の上士であった。

右馬之助同様、白皙長身の若者で広い額を持ち、目は細めであるが、眉太く、鼻筋は通って高く、まことに見栄えのする若侍であった。ただ、欠点と言えば、唇が薄く、少し歪めて笑う癖があり、知らぬ者から見れば、酷薄な印象を与えてしまうという点が挙げられるくらいであった。これが少し、損をなさっているところだが、実は人情機微にはなかなか通じておられる、と右馬之助は何かの折、近しい者に語ったことがある。

彦四郎には、影のように、新妻栄助がひっそりと付き添っていた。栄助は忠順の忍びであるが、忠順病床とのことで、今回は彦四郎の忍びとして小浜に同行していた。

馬から降り立った彦四郎のもとに、右馬之助が挨拶に訪れた。

「これは、本多様。陣屋見廻り、恐悦至極に存じます」

「貴公が居れば、何の心配もございませぬ、と父上には申し上げたのだが、どうにも心配性でなあ。六郎兄上が行くまで、ここに滞在し、何かことがあったら、栄助を使いとして泉に寄越せ、ときつく命じられたわ」

「して、ご家老のご病気のほうは如何で」

「うむ。あまり思わしくは無い。もともと、胃弱なほうであったのだが、ここ数年で急にお弱くなられた。大分、お気も弱くなられた」

そう言って、彦四郎は沈鬱な表情を見せた。

夕刻、陣幕近くに高張提灯が立てられた。また、彦四郎の命により、小浜の浜辺に(かがり)()が焚かれた。篝火の手配は小浜代官の庄子佐一右衛門が行なった。

篝火近くには、松の折り枝、松の割木などの打ち松が山のように積まれた。

庄子代官は金四両二人扶持を戴く徒士(かち)無足で、この時、五十歳を少し越えたばかりの四角い顔をした男であった。篝火が焚かれた頃、御用意人が到着した。御用意人は緊急事態が起きた場合、近在の村から派遣されてくる百姓たちのことで、人選などは事前に村の庄屋によって決められていた。今回も、滝尻村、下川村、小浜村から総勢で二十人ばかりの百姓が陣屋に集まってきた。右馬之助が率いてきた諸士無足人と呼ばれる足軽、郷士と合わせ、五十人近い男たちが小浜河岸陣屋に集結したのである。


夜を迎えて、宿舎の手配がなされた。無足人たちは小浜村庄屋で泉藩の蔵番も兼ねている豊田與右衛門宅、そして、御用意人たちは小浜村名主の兵左衛門宅にとりあえず投宿することとなった。庄屋、名主ともに村を代表する豪農であるが、簡単な裁判権を持つ庄屋に対して、名主は村一番の貢納者ということではあるが裁判権は持っていなかった。

しかし、庄屋のいない村では、名主が庄屋として裁判権を持つことは許されていたのである。庄屋の豊田與右衛門は苗字、帯刀を許されており、この時、六十歳の還暦を迎えていたが老いてますます元気な男で、人あたりは柔らかく、いつも微笑を絶やさない、どちらかと言えば、百姓というよりはむしろ、商人風な感じを与える男であった。

しかし、いざとなれば、殊の外、冷徹な応接をする男、油断のならない男とも見られていた。彦四郎が陣屋に着いた時も、小袖に紙子の羽織をぞろりと纏い、白足袋を穿き、扇を構えて、お泊り下さいますよう、お迎えに参上つかまつりました、と彦四郎に如才なく挨拶をした。一方、名主の兵左衛門は四十を少し過ぎたばかりの中年のぎょろめ男で、極めて如才ないが、多少がさつな感じを与える男であった。上には厚く、丁寧に応接するものの、小作人に対しては普段に威張り散らすという評判も取っている男であった。

庄屋宅に宿泊を手配された無足人たちは、下男部屋が付いた長屋門を通って、屋敷の玄関に案内された。玄関は二つあった。百姓用の玄関と、武士用の玄関と二つあった。

屋根は藁葺では無く、瓦葺であり、敷地には五頭ほど入る厩、納屋が四つ、大きな土蔵が三棟ほどあり、豪気な感じを与えていた。そして、広い母屋には広い土間、竈が三つ、内便所が二つあり、更に、村の裁判を行なう白洲も設けられていた。一方、名主の兵左衛門宅は母屋こそ広く大きかったが、屋根は藁葺であり、白洲も無かった。

(とり)ノ刻過ぎ(午後七時頃)、あたりが薄暗くなってきた頃、利兵衛と要助が小浜に戻り、庄屋宅を訪れ、右馬之助に関田の磐城平藩の陣構えの詳細を報じた。

彦四郎は中座していたが、彦四郎の耳として、新妻栄助が利兵衛たちの話を聞いた。

話が済んだ頃、豊田與右衛門がにこやかな顔をして現われ、利兵衛たちを夕餉(ゆうげ)の席に案内した。夕餉の食事としては、盛り切りのどんぶり飯、若布の味噌汁、葱を刻んで入れた納豆、豆腐の冷奴、人参と大根の煮しめといった簡素なものであったが、利兵衛たちの目には豪勢な食事と映った。更に、薬食いで精をつけなんしょ、と(やま)(くじら)(猪の肉)のしぐれ煮が丼に盛られて出てきたのには驚かされた。要助は、山鯨は初めてだったが、頬張り、噛みしめるとじわっと肉の旨味が出てくる味わいには陶然となった。旺盛な食欲を発揮する要助を見て、利兵衛は笑いながらも、負けじとばかり、山鯨に喰らいついていった。

どんぶり飯のお代わりを運んできた下働きの女が、利兵衛と要助の様子を見ながら、お仲間の中には、おいらは山鯨より紅葉(もみじ)(鹿肉)がいい、と言って、周りから場所を心得よ、と(たしな)められた人もいますよ、と言って笑っていた。

夜中、御用意人による忍び巡廻がなされた。忍び巡廻ということで、提灯は持たず、暗闇の中をひっそりと村内を巡り歩いた。この巡廻には、新妻栄助と吉田庄五郎も加わった。

吉田庄五郎は泉藩で十五石を戴く諸士無席郷士であったが、忍びでは無く、隠密であった。目は細く、三白眼で肌の色は病的に白く、眉は薄く、不気味な感じの男であった。

齢は四十ということであったが、齢より若いようにも、老けているようにも見える不思議な人物のように要助には見えた。忍び巡廻とは別に、足軽小頭による見廻りもあった。

彦四郎から、村人はともかく、出張してきた者には酒を売ってはならないという禁止通達がなされ、違反している不届き者がいないかどうかを調べて廻っていた。

この夜、()ノ刻(夜の零時頃)になって、水戸表から大津浜への出兵が始まった。

大津浜現地からの急使連絡に基づく水戸藩としての措置であった。

また、夜間見廻りの後、彦四郎の命を受けて、栄助が平潟、大津浜へ忍び物見として小浜を秘かに発った。


五月三十日 曇り、後、雨


海上、霧が深く、視界が利かず、平潟沖の黒船の様子は一切判らなかった。

朝方、磐城平藩に属する植田村の名主が来て、小浜村名主の兵左衛門に、黒船に関して今までに判明していることがらを訊ねた。愛想よく、とにかくよく笑う男であった。

大柄で雄大な鼻を持つ男で、精力絶倫で若い妾を三人ほど囲って、奉公させているという噂もある五十男であった。

「黒船が二隻ほど現われて、何名かが、伝馬船に乗って、大津浜に上がったということしか、おいらは知らねえ。いっそ、泉のお館から来られた本多の若様に訊いた方が早いのではなかっぺか」

兵左衛門はそのように言い、植田村名主を本多彦四郎の許に連れて行った。

くどいほど馬鹿丁寧な挨拶を受けた彦四郎は薄い笑いを口元に浮かべながら、その名主に言った。

「わしに訊くより、植田なら関田に近い。関田村の平藩の藩士に訊いたほうが早いぞ」

そのように皮肉っぽく言いながらも、今までに判明していることはそう多くは無いが、まあ、こんなところだ、と兵左衛門が語った話と同じようなことを語ってやった。

その名主が兵左衛門と肩を並べて去った後、彦四郎は傍らに控えていた右馬之助に笑いながら言った。

「平藩では、名主に隠密の役をやらしているのじゃな。黒船の話はともかく、こうして来れば、泉藩の守りの委細を十分見て、承知して帰ることができる。まあ、名主も使いようじゃな。ここから帰ったあの名主はそのまま、関田に行き、ここの様子をご注進することと相成る」

「昨日の利兵衛、要助の役割を公然と果たすことができる、ということでしょうな」

右馬之助もにやりと笑いながら、そのように言った。

()ノ刻(午前十時頃)あたりで、平潟、大津の方向から大きな音がした。

周囲に轟き渡るような大きな音で、これが噂に聞いた黒船の大砲の音かと噂し合ったが、何分、霧のため、視界が利かず、その音が異国船からのものかどうか、判明しなかった。


霧が深く、平潟沖も見えず、無聊を囲っていた彦四郎の許に栄助が大津から戻ってきたのは、午ノ刻(昼の十二時頃)が過ぎ、梅雨空から雨が降り出してきた頃だった。

黒い雲が到来し、あたりが薄暗くなってきたと思った矢先、激しい驟雨(しゅうう)が小浜を襲った。

降りしきる雨の中、何度も雷のような大きな音が聞こえた。

彦四郎は庄屋の豊田與右衛門と碁盤を囲んでいた。

栄助は庭先に立ち、笠の雨雫をさらりと落としていた。

軒先に(うずくま)って、栄助は大津浜で見聞きしたことを(つぶさ)に語った。利兵衛と要助も栄助の傍らに蹲って、栄助の話に耳を傾けた。栄助は一昨日の状況から話し出した。

大津沖に異国の船と思しき黒船が出現し、沖合に碇泊した。

黒船の船体は全て銅鉄で覆われているが、ところどころにビイドロの障子のような窓も見受けられた。黒船は二隻で、それぞれの船から(はしけ)とも伝馬船とも思われる小舟が一艘ずつ出された。伝馬船一艘には六人の異国人が乗っていた。伝馬船は二艘で、十二人の異国人が大津浜に上陸した。伝馬船の長さは四間ばかりで、細板を何枚も張り合わせられて造られており、表面は全て漆で塗られているように思われた。異国人は四挺の鉄砲を携えていた。これらの鉄砲は我が国の種子島とは異なり、火縄は付いておらず、石を金属に打ち付けて、火花を飛ばして発火させる鉄砲であった。この形の鉄砲は古来、我が国にもあったが、種子島と比べ、実用性に欠けるということで廃れていた鉄砲である。

( 我が国には良い火打石が無かったことも廃れていった理由である )

他、十二人の異人が携えた武器としては、鯨突きと思われる突き棒が二本、銛が十本ほどであった。加えるに、剣を四本、羅紗を二反ばかり持参していた。

大津浜に上陸する際、伝馬船から下りようか、下りまいか、かなり逡巡した様子を見せた。そこで、大津浜の漁師たちが早く浜に下りて来い、と催促した際、異人の一人が片手を自分の首に当て、下りたら、首を斬られるといった仕草をした。

それでも、どうにもひもじくてしょうがなかったのか、浜に全員が下りてきた。

その者たちの仕草では、米とか何か食料品が欲しかったらしい。

浜の漁師が異人の手を取って、とりあえず、庄屋のところへ召し連れようとしたがなかなか承知せず、漁師に取られた手を押し払う様子を見せた。

どうも、話を聞く限りでは、浜の漁師たちに異人に対する恐怖心とか敵愾心といったものは感じられませぬな、と栄助は言った。

過去に何度か海上で異人に遭遇し、船乗り同士、異人慣れをしていたのかも知れませぬ、と栄助は付け加えて語った。

十二人の中に一人、黒ん坊がいたと云うことでござる。膚の色はまさに薄墨のようで、赤い膚が多い異人の中で極めて目立っていたとのことでござった。この十二人の上陸後、直ちに、早馬を走らせたとのことでござる。勿論、水戸表へのご注進でござった。

昨日は、十二名の異人を大津浜の漁師小屋に入れ、軟禁いたし、米の飯なぞを振る舞っているとのことでござった。警戒が厳しく、その漁師小屋には近づけませんでしたが、少し離れたところから眺める分には、異人たちは揃いも揃って、大きな男ばかりで、警固に当たっている役人の首一つ分は高うございました。赤い頬髯、口髭、顎髭なぞ生やし、鼻は天狗のように高く、眼は黄色或いは青色といったおかしな眼をしておりました。

服も奇妙な形をした長い筒袖を着て、少し緩んだ股引のようなものを穿いておりました。

布地は、そう、羅紗のような感じを受けましたな。陣羽織に使われるあの羅紗でございます。丈夫で、雨にも強い布でございます。

彦四郎から栄助に、先ほどから聞こえてくるあの大きな音は何の音かとお尋ねがあった。

栄助は即座に、音は異国船から聞こえてまいりました、おそらくは、黒船が放つ大砲の音かと思われまする、と答えた。


一昨日、昨日の様子を報じた後、栄助は再度物見として大津に出立した。

栄助には、右馬之助に命じられて、利兵衛も同行することとなった。

おいらも行きたい、と要助は望んだが、泉表への連絡要員として、要助は小浜に残ることとなった。

手持無沙汰となった要助は庄屋の家の者から番傘を借りて、雨の中、村の中をぶらぶらと歩いた。小腹が空いたので、河岸陣屋から少し離れたところにあった飯屋に入った。

この飯屋は夜になると煮売り酒屋となるが、夕方までは茶屋も兼ねていた。

焼き団子の旨そうなにおいに誘われて、中に入った要助は三本ほど入った串団子を一皿注文した。渡辺村あたりでは、このような店には一度も入ったことがない要助であったが、今のような旅の空では少し羽根を伸ばしてもいいだろう、と勝手に思っていた。

利兵衛から腹が減ったら何か食いな、と三十文ほど貰っていたので、初めて自分で注文して食っていても、銭があると、気は楽なものであった。四文払って、店を出た。

雨はまだ止まない。止まないどころか、本降りになってきたようだった。

平潟の方から、また、大砲の轟くような音が聞こえてきた。

暮れ六ツ(午後七時頃)あたりで、ようやく、霧が晴れてきた。

要助は唐船見番所に行き、平潟沖を眺めた。意外なことに、異国船の姿は消え失せていた。先ほどの大砲を放った後、どこかに行ってしまったのか。

要助は番人から遠眼鏡を借りて、夕陽で黄金色に照らされた海を隈なく探したが、どこにも異国船の姿は見受けられなかった。


(いぬ)ノ刻(午後八時頃)になって、利兵衛が戻ってきた。

栄助はそのまま大津浜に向かったが、利兵衛は関田まで行き、そこで噂として洩れ聞いた話を彦四郎、右馬之助に伝えるべく、大津行きを断念して戻ってきたらしい。

利兵衛の話によれば、大津浜の今日の出来事はこのようであったらしい。

磯原にある水戸藩の遠見番所から郷士や郷同心といった無足人が駆り出され、大津浜に出向き、漁師小屋に軟禁されていた異人たち十二名を捕えたという噂を関田で聞いた。

派兵された者たちはこの蒸し暑い中、火事装束に身を固めていたらしい。

火事装束というのは、垂れ布付きの刺子頭巾を頭に被り、刺子半纏、腹当、刺子手袋を身に付けた上で、股引を穿き、紺足袋を履いた上に草鞋を履くといった姿になる。

考えただけでも、汗が噴き出そうになる恰好だった。

また、直接の領主である中山備前守の家中からも家士がかなりの数で出兵してきたらしい。その恰好も、火事装束に優るとも劣らない恰好であったらしい。

額には額当、襷を掛けて、鎖襦袢、鎖手甲を着用し、袴に脛巾(はばき)という、まさに、斬り込みを思わせる姿の侍も居たらしい。

噂をしている商人は大津から来ているらしく、面白おかしく話していた、と利兵衛は結構大真面目な顔で彦四郎と右馬之助に話していた。

聞いている要助は、おかしくて、若様たちの前でなければ、腹を捩って笑いたいという衝動に駆られるほどであった。

そして、水戸藩ではこの一番隊の他、二番隊、三番隊と続々と大津浜に集結させようとしているとのことでございました、と利兵衛は語った。

大儀であった、ゆっくり休め、という彦四郎からの(ねぎら)いの言葉を戴いてから、利兵衛と要助は庄屋宅で、遅い夕餉の食事を摂った。

無足人が数名ほどやはり遅い夕餉の食事を摂っていた。

昨夜は山鯨だったが、今夜は紅葉のしぐれ煮が丼にたっぷりと盛られて出た。

ほら、そこのあんにゃたち、いっぺえ食いな、とばかり、しぐれ煮の丼がやたら、利兵衛と要助の箱膳の前に廻されてきた。鹿の肉を食うのも要助には初めての経験であった。

要助の舌には、鶏の肉よりあっさりした感じだったが、しぐれ煮の甘辛醤油の味がよく染み込んでおり、昨夜の山鯨の堅めの肉より美味に感じた。飯も丼で三杯食って、昨夜同様、幸せな気分を味わった。このような飯が食えるなら、このままずっと、この小浜に居てもいいと要助は思った。その後、すっかり日が暮れて夜になった小浜の浜を歩いた。

利兵衛は歩きながら、関田宿の話ばかりした。昨日、今日と平藩に対する物見のために訪れた関田宿を利兵衛は大いに気に入ったようであった。関田宿には綺麗な女がいっぱい居る。利兵衛はにやりと笑いながら、要助に語って聞かせた。

「関田宿には飯盛り女と呼ばれる宿場女郎がわんさか居てな。旅籠の前には、留女(とめおんな)という大柄で力の強い女中も居て、そこのあんにゃ、寄って行きな、とばかり袖を掴んで自分が雇われている宿に呼び込もうとするのよ。袖を掴まれた男は、にやにやする男ばかりでは無く、ほとんどが掴まれた袖を振りほどいて、立ち去ろうとする。掴んで引きずり込もうとする女と振りほどこうとする男、まあ、どちらも必死も必死で賑やかなものよ。おいらはなるべく道の真ん中を恐い顔をして歩いたせいか、袖を掴まれずに何とか通り過ぎてきたものの、まあ、いい経験をしたわ。家の数は二百軒ほどあり、人も千人は下らないと見たな。駅馬も五十頭ばかりおり、なかなか繁盛している宿場だわ。黒船のこともあり、平藩の侍もいっぺえ居てなあ、大津同様、皆暑苦しい恰好をしてござった。要助と一緒に行った時は、ほとんど街道をそれるように歩いたので、判らなかったが、今日の関田歩きは面白かった。今度は、要助にもじっくり関田の街道筋を見せてやっぺ」

いい気分で話す利兵衛と一緒に歩きながら、要助も今度は一人で関田とか大津に行ってみたいと思った。夜の浜辺は暗く、寄せては返す波の音だけが聞こえていた。これが、海鳴りのような音なのか、と要助は思っていた。

歩く要助たちの鼻腔に甘い香りが漂ってきた。利兵衛が言った。これが、浜茄子の香りだ。要助、どうだ、いい香りだろ。要助にはその香りはせつない香りのようにも思えた。

人恋しさの香りとも思えた。十八歳の要助にとって、この小浜滞在は忘れられないものになる、そんな予感がしていた。星が出ていた。寄せては返す波の音は、幼い頃に聞いた子守唄のように、ゆったりと耳に響いてきた。


六月一日 曇り後、晴れ


昨日同様、朝方は濃い霧に覆われ、平潟沖は何も見えなかった。

辰ノ刻(午前八時頃)前、甘南備(かんなび)次郎太夫が率いる二番隊、鉄砲足軽部隊二十人が小浜河岸陣屋に到着した。百石役高二十石の俸禄を戴く甘南備はこの時、番頭用人を勤めていた。甘南備の家は中老職まで昇進できる年寄格の家格であった。目は針のように細く、痩身でやや神経質な感じを与える中年の侍であった。藩内では、沈着冷静な男として知られていた。

その後、半刻(はんとき)(今の一時間)ほどして、中村弁之助率いる三番隊の鉄砲足軽部隊十五人が到着した。七十石役高十石を戴く弁之助はこの時、大目付取次惣武具預を勤めていた。

陽に焼けて膚の色は黒かったが、眉目秀麗、鼻も高く、目鼻立ちが極めて鮮やかな侍で、白塗りをすれば、そのまま江戸の中村座に出ても通用するのではないか、と城下の娘からかまびすしく騒がれている美男の若侍であった。

陣屋内に到着後、先遣隊として派遣されている衣笠右馬之助率いる一番隊と諮り、各々の部隊の配置を終えてから、庄屋宅に投宿している本多彦四郎の許に赴き、挨拶がてら、他藩の動き、これまでの情勢などを語り合った。


巳ノ刻(午前十時頃)の少し前に、大津に忍び物見に出向いていた新妻栄助が小浜に戻ってきた。栄助が彦四郎以下に語ったところは以下のようなことであった。

大津浜では郷士や郷同心などの兵員を出動させて、上陸した十二名の異人たちを捕え、浜の漁師小屋から村名主の土蔵に押し込めた。

これは昨日、利兵衛が関田で聞いた噂と同じであった。

異人たちは厚い皮の被り物、羅紗の長い筒袖を着て、羅紗の股引を穿いていた。

被り物の形はいろいろで、陣笠のような被り物も、先端が尖っている被り物もあった。

黒い顔の者もいれば、白い顔、赤い顔をした者もいるが、いずれも鼻が鼻筋通って高く、ほとんどの者は赤い髪と赤い髭をしている。体格は大きいが、体臭が強く、何とも言えないくらい臭いらしい。臭い、臭い、と役人が話していたのを聞いた。

齢は、なかなか判別はむつかしいが、二十歳くらいの若者から四十近くの中年まで幅広いように思われた。

全員を土蔵に押し込め、やれやれと思った矢先、海上の深い霧を破って、伝馬船に似た小舟が四艘ほど現われた。

浜から、陸に上がって来いと手招きをしたが、首に手を当てて、首を斬られるから上陸はできないという身振りが返ってきた。近づいた四艘とも、六人ずつ乗っており、全員が鉄砲を携えていた。火縄の付いていない鉄砲であった。

何やら、紙片のようなものを掲げ、先に上陸した者たちに渡したいというような身振りをした。手紙か、と思い、浜の者が竹竿に籠をぶら下げて、渚を歩いて小舟に近づき、その紙片を受け取った。見ると、判読はできないが、異国の文字のようであったので、藩役人の許しを得た上で、土蔵に収容されている異人たちに渡した。

その後、暫くして、囚われている異人たちからも手紙を渡したいとの意思表示があり、その手紙を受け取り、浜に戻り、小舟の中に居る異人たちに渡した。

手紙の交換後、四艘の小舟は浜に上陸することも無く、海上の親船に向かって漕ぎ去り、消え去っていった。

ざっと、このようなことを栄助は大津浜で見聞したこととして語った。


巳ノ刻(午前十時頃)を少し過ぎた頃、本多亮太郎(すけたろう)が十人ほどの泉藩士を引き連れて、小浜河岸陣屋に到着した。亮太郎は彦四郎の実弟で、忠順の三男である。

七十石役高十石で大目付惣武具預を勤めていたが、この時弱冠二十歳の若者であった。

少年の頃から、馬術に長け、藩の馬術世話という役にも就いていた。

全員が火事装束という姿をしていた。

この蒸し暑い中、ご苦労さまだねえ、という村人の声も聞かれたものであった。

垂れ布付きの陣笠、胸当、火事羽織、腰には宛帯を巻き、手甲、野袴という火事装束で現われた一行は文字通り、汗みどろといった有様だった。

到着の報に、彦四郎が出迎えたが、汗を満面に掻いた弟の亮太郎を見て、暫くは声も出なかった。他藩も火事装束で出動したと聞いた時は、思わず、失笑した彦四郎であったが、よもや実弟までもこのような火事装束で現われるとは夢にも思っていなかったに相違ない。

「亮太郎、お前、何じゃ、その恰好は」

彦四郎の呆れたような口調に、亮太郎は反発して答えた。

「兄上、これは戦以外での緊急時の出動の決まりでございますぞ。中老の石井様がそうおっしゃっておりました」

「いやはや、それにしても、このむしむしと暑い中。なんともはや」

彦四郎も苦笑いするばかりであった。

父上ならば、火事装束をせよとは申すまい、と彦四郎の顔には書いてあった。

亮太郎は生来色白で、一見、女と見間違えるような優男であったが、馬術は勿論、武芸に長じている若者であった。近々、嫡子のいない番頭用人の家に養子として入ることとなっていた。何でも、その家の十六になる娘が昨年の桜の花見で、馬に乗って颯爽と走る亮太郎を見て、一目惚れをしたのが契機となったとか、泉城下でもっぱらの評判となっていた。女の髪は象をも繋ぐ、可愛い娘の頼みに否と言う男親はいない、と評判になった。


午ノ刻(正午頃)になって、斉藤周平が率いる後詰め鉄砲足軽部隊二十人が陣屋に到着した。八十石役高二十石を戴き、物頭大目付取次組頭を勤める斎藤周平は泉藩の剣術師範も兼ねる壮年の剣士であった。江戸の小野派一刀流中西忠太の許で修業し、免許皆伝を受けていた剣士であった。大柄で頑強なからだを持ち、眉太く、目は切れ長で大きく、意志の強そうな口元、丈夫な顎を持つこの剣士に敵う侍は藩には居ないと言われていた。


昼餉を摂った後、栄助と入れ代りに、利兵衛と要助の二人が大津に出向いた。

後詰めの部隊の一員として小浜に来た、市郎右衛門という者も同行することとなった。

市郎右衛門という者は金三両二分二人扶持の無足人並であったが、実は新妻栄助同様、泉藩の手練れの忍者であった。切れ長の細い目でむっつりと相手を睨む癖のある無愛想な中年の男であったが、栄助には一目置いているらしく、栄助が、見どころがある兄弟、と利兵衛たちを引きあわせてくれたこともあってか、親しみのある眼差しを利兵衛たちに向けるようになった。

小浜の空はいつの間にか、晴れ渡り、海の彼方にむくむくとした頭を見せる雲があるばかりであった。

小浜から大津までは四里足らず、忍者の足ならば、一刻(いっとき)(今の二時間)もかからない。

しかし、市郎右衛門は小浜から岩間を過ぎ、佐糠までをほとんど駆けるような速歩で歩いた。利兵衛はこんなに速く歩く必要は無いのに、とは思いながらも市郎右衛門に負けじと歩いた。要助も同じ考えと見えて、あたりの風景に目を遣る暇も無く、ひたすら市郎右衛門、利兵衛に遅れじと歩いた。

佐糠まで来たところで、市郎右衛門は立ち止って、利兵衛たちを見た。

じっと、鋭い目で見た。そして、満足そうな顔をして、利兵衛たちに微かな笑顔を見せた。利兵衛たちが汗ひとつ掻かず、自分の早歩きに付いて来たことに満足を覚えたものと思われた。市郎右衛門は利兵衛たちを試していたのだ。

「おめえたち、駆け歩きをどこで修業した」

利兵衛が答えた。

「新田峠で、十年ばかり」

「なるほど、それで、息も切らさずにおれに付いてきたということか」

気に入った、と市郎右衛門が言い、その後は普段の足遣いに戻った。

やがて、鮫川の渡し舟場に着いた。

「おめえたちは昼餉を食っただろうが、おれはまだ、飯をくってねえ。すまねえが、ここの茶屋で蕎麦を食わしてもらうよ」

市郎右衛門は、もり(・・)とかけ(・・)、と大きな字で書いてある茶屋に入り、もり蕎麦を二人前注文した。おめえたちも、ついでだ、何か食いねえ、と言って、利兵衛たちに焼き団子を振る舞ってくれた。この茶屋は蕎麦とは別に、白身の魚の天麩羅も四文ほどで売っていた。

近くに腰を下ろした商人風の旅人が旨そうに食っているのを要助が珍しそうに見ているのに気づき、市郎右衛門は天麩羅も六枚ほど注文した。

届いた熱々の天麩羅を旨そうに食う利兵衛と要助を見て、市郎右衛門はにやりと笑った。

「若えやつはなんぼでも食えるもんだ。おれも若え頃はそうだった。今のこの齢になっちゃあ、もうあんまり食えねえがな」

むっつりした外見とは別に、市郎右衛門は結構話し好きだった。蕎麦を食い終わった後、前を流れる鮫川に目を移しながら、利兵衛たちに話しかけてきた。

「おめえたち、鮫川の名物って何か、知ってるかい」

「鮭が獲れるという話は聞いているよ」

要助が言った。

「そう、塩鮭が名物だな。正月には欠かせねえものだ。塩鮭を食わねえとおれは正月が来た気がしねえ。で、その鮭は川のもう少し、上のほうで、(やな)を仕掛けて獲るんだ。鮭の他、名物と言やあ、こんにゃくと椎茸っていったところだ。椎茸は十年ほど前から栽培できるようになったのよ。それまでは、地のもので高かったけんど、この椎茸栽培がものになってからというもの、大分、値が下がり、煮しめにも使われるようになってきた。ありがてえもんよ。飯に湯をぶっかけて、醤油で煮込んだ椎茸でさらさらと食うのも結構粋なもんだぜ」

市郎右衛門の話を聞いている内に、要助は腹が満ちているのにもかかわらず、唾が口の中に溜まってくるのを覚えた。

三人は渡し舟で鮫川を渡った後、街道を関田に向かって歩いた。

中田の浜を過ぎ、関田の浜が目に入ってきた。

天気はよく晴れており、関田の長浜は街道筋の松並木とあいまって、まさに、白砂青松といった風情を醸しだしていた。

「浜街道は歩く方向によって、呼び方が違うんだ。今、おれたちが歩いている道は水戸路と呼ばれ、逆に歩けば、磐城街道と呼ばれる。ここから、水戸様のご城下までおおよそ二十里ばかり。おれたちの足でも、三刻(さんどき)(六時間)はかかる」

要助は市郎右衛門の話を聞きながら、左手に見える青い海を眺めて歩いた。

松の並木越しに、白い砂浜が見え、海鳥もすいすいと飛んでいる。

海鳥が時々鳴き、要助の耳に響いた。緑の松に、白い砂浜、白い海鳥、そして、青い海と空。これから、異国船騒動の渦中にある大津浜に向かう自分たち、忍び三人組。

何とも言いようのない違和感を覚えた要助であった。

「このあたりの砂浜の砂は鳴り砂、或いは、鳴き砂と呼ばれている。雨の降らない乾いた季節に、砂浜を歩くと、きゅっきゅっと砂が鳴き声をあげる。砂自体が水晶みたいな石の粒でできており、細かく、白く、さらさらとしていてな、踏むとそのように音を立てて、鳴くのだそうだ」

平藩士が警戒する中、市郎右衛門たちは足早に関田宿を通り過ぎた。

陣笠の下から覗かせる侍の顔はいずれも汗に濡れ、埃が付いて、一種異様な斑模様を呈していた。

関田宿を過ぎ、九面(ここづら)という奇妙な地名のところに差しかかった。

九面は、昔は崖が海までせまっていたところで、道が浜辺近くの洞窟道しか無かったと云われている。旅人はいったん、浜辺に下り立ってから、その洞窟道を通って水戸側の道に出るということを余儀なくされていた。しかし、海が荒れる度、洞窟道には海水が流れ込み、とても歩いて渡れる状況では無く、海が収まるまで通行止めになるのが通常のことだったと云う。その後、海までせまっていた崖に何とか、人馬が通れるような隧道を掘り、道を通し、果ては、その隧道を崩して、切り通しの道にして、現在の街道になったと云われている。そんなことを、物知りの忍者、市郎右衛門が語った。

「この話、嘘か真実(まこと)か、は知らねえ。何と言っても、おれが生きてる時代の話ではないからのう」

と、真面目に聞いている二人をからかうような口調で付け加える市郎右衛門であった。

九面の港には五百石船が数艘浮かんでいた。港の突端は鵜の子岬と呼ばれ、断崖絶壁となっている。五百石船は、長さは十二、三間ほどしか無いが、帆桁(帆柱に横に渡した用材)は八間もあり、大きな白い帆をぱたぱたと風に揺らせていた。

また、街道筋には大きな土蔵が十数棟ほど並び建ち、目にも鮮やかな海鼠(なまこ)壁を陽光に照らさせていた。黒い平瓦を壁に貼り、その目地を蒲鉾形の漆喰で盛り上げている海鼠壁土蔵を横目で見ながら、平潟へ抜けた。平潟も宿場町で関田同様、賑やかな宿場である。

「今は女どももあまり出ていないが、夕方頃になると、ここも関田同様、紅灯弦歌の巷となる。まあ、利兵衛には毒じゃな。要助にはまだ少し早いか」

市郎右衛門が笑いながら、言った。

「旨い食い物もいっぱいあるぞ。ほら、あの店を見てみろ。読めるか。鮨、鰻飯、と書いてあるのじゃ」

市郎右衛門が指差したほうを見て、利兵衛が言った。

「おいらは、鮨は一度食ったことがあるけんど、鰻飯はまだ食ったことがねえ。一度、食ってみてえもんだ」

「利兵衛、気持ちは分かるが、鰻飯は高えぞ。店によって違うが、五十から百文はするで。高え店だと、二百文もとりやがるが、まあ、普通は百文といったところか」

百文、と要助はびっくりして、思わず呟いた。

「そうよ。百文よ。百文もありゃあ、小浜の一膳飯屋なら、酒を三合ばかり呑んで、肴を五品ほど食える金だ。旨いが、鰻飯はとにかく高え」

「おいらは、泥鰌(どじょう)は親戚の家でご馳走になったことがあるけんど、鰻はまだ見たことがねえ。同じように、細長いからだをしていると聞いたことがあるだが、どこがどう、違うのか、さっぱり判らねえ」

要助の言葉を聞いて、市郎右衛門と利兵衛が笑った。


平潟を抜け、近道である山道を通って、大津に入った。

山影を縫うように、三人は歩き、大津浜、大津村の様子を探索した。

藩役人が監視している土蔵も小高い山の上から窺った。時折、異国人が役人に付き添われて、土蔵から出ては、また、戻るという繰り返しを何回か目撃した。

厠への往復であろうと要助は思った。異人と雖も、出るものは出るのだ。

異人たちを間近で見て、要助は感心した。なるほど、話に聞いたように、異国人の背丈は高い。彦四郎様、右馬之助様よりも高いのではないか、と要助は思った。

付き添う役人より、頭一つほどは間違いなく高かった。

袖の長い筒袖のようにも見えるし、半纏のようにも見えるものを着ており、下には股引とは少し違う、猟師が穿くような山袴みたいなものを穿いていた。布地は厚くて少しごわごわとしている。あのような布地を羅紗というのか。

要助はそんなことを思いながら、初めて見る異国人を観ていた。

とりたてて、何の進展もなさそうだ、さて、帰るとするか、と市郎右衛門が利兵衛たちに囁いた時だった。急に、役人たちの動きに変化が見られた。緊張した面持ちで、何かを連絡し合っているように見受けられたのだ。三人は土蔵の裏山の茂みに場所を移して、耳をすませた。どうも、誰かが新たに来るらしい。そんな感じが窺われた。

帰るのは夜でも十分帰れる、もう少し、ここに居て、何が起こるか見届けてやろう、と市郎右衛門が二人に囁いた。


夕七ツ(午後五時頃)頃になって、武士の集団が不意に土蔵の前に現われた。

葵の御紋の旗が見えた。察するに、水戸表からの部隊が到着したものと思われた。

三人はじっと耳を傾けた。

一番手として、供の小者を含め、水戸から二百人ほどの人数で来たらしい。

先手物頭、目付、筆談役、大筒方、太鼓貝役という言葉も聞こえてきた。

筆談役も来たということは、明日あたりから異人たちに対する尋問が始まるということになる。尋問が始まれば、おそらく、二、三日はかかるであろう。

少なくとも、面倒だから、斬ってしまえ、という乱暴なことにはならないだろう。

市郎右衛門は草の茂みから利兵衛、要助に目配せをした。

さあ、そろそろ小浜に戻るぞ、と市郎右衛門の目は語っていた。

戻りは街道を通らず、海岸沿いの浜辺の道を走りに走った。

暮六ツ(午後七時頃)には、小浜に着き、彦四郎と右馬之助に水戸藩からの派兵到着の話を含め、大津浜の物見で見聞したことを具に報告した。

三人が庄屋宅を訪れた時、彦四郎と右馬之助は離れの茶室で與右衛門が()てた抹茶を服していたが、市郎右衛門の声を聞くなり、茶室のにじり口から外に現われ、話を聴いた。

大儀であった、ゆっくり休息せよ、という労いの言葉を賜った後、三人は庄屋宅を退出した。長屋門のところで、栄助が待っていた。

彦四郎様から銀を少し戴いた、で、今夜は縄暖簾で一緒に飯を食わないか、と栄助は三人を誘った。市郎右衛門は笑みを浮かべて、栄助の申し出を受けた。

利兵衛、要助も勿論異存は無い。要助は庄屋宅での豪勢な夕餉の食事にも多少未練はあったものの、泉藩を代表する忍びの熟練者と過ごす機会はまたと無いだろうと思い、山鯨、紅葉の肉は諦めることとした。


四人は縄暖簾をかけた煮売り酒屋に入った。

店の片隅に先客が居た。達磨に似た丸っこい男、小浜在住の忍者、権八だった。

四人を見た時、目尻に皺を寄せ、照れたような笑みを浮かべた。

権八の脇には銚子が二本並んでおり、酒を呑んでいたのは明らかだった。

「権八さん、こっちへ来ねえ。みんなで飯でも食おうや」

栄助が店の真ん中に陣取り、権八を呼んだ。

権八は、初めは渋っていたが、市郎右衛門も声をかけると、観念したような表情で銚子と食いかけの肴の皿を持って、栄助たちが座っている板の間に来た。

「おいらはここの住民だから、おめえさんたちと違って、酒を呑んでいいんだ。悪く、思わないでおくんなんしょ」

「ああ、それは当然だ。おいらたち、ここへ出張(でば)って来た者は、酒はご法度だけんど、権八さんは別だ。おいらたちに遠慮なく、呑んでおくんなんしょ」

栄助が笑いながら、権八に言った。

それから、店の小女を呼んで、煮豆、人参と大根の煮しめ、(かれい)の焼き物、椎茸の煮付け、(あわび)の刺身、冷奴、里芋の田楽おでんといった煮売りの品々を慣れた口調で注文した。

小女に、菜飯はあるか、と訊いたら、あると言うので、五人分の菜飯も頼んだ。

やがて、煮売りのものが入った皿と丼に入った盛り切りの菜飯が届き、みんなでわいわいと話しながら夕餉の食事に取り掛かった。

要助は、焼き鰈と鮑の刺身が珍しく、おずおずと手を伸ばしていたが、栄助に遠慮なく食いな、無くなったらまた、注文すればいいだけの話よ、と言われ、遠慮なく食い始めた。

「栄助さん、いつもは酒を呑むんじゃろ」

権八の問いかけに、栄助の代わりに、市郎右衛門が答えた。

「栄助さんもおいらも、酒は呑んだことがねえ」

「やっぱり、そうかね。おいらは忍び失格の男だから、酒を呑むんだけんど、本物の忍びは、酒は呑まないというからに」

「敵方の屋敷に忍んでいった時、吐く息が酒臭くては、すぐ露見してしまうからな」

市郎右衛門が煮しめに箸を伸ばしながら、そう言った。

「時に、利兵衛さん、おめえの得意は何だい」

栄助が利兵衛に訊いた。

「得意って、忍びの術のことで」

「そうよ。でも、言いたくなきゃ言わなくってもいいよ。まあ、忍び同士だから、腹を割って話してしまうが、おいらはどちらかと言えば、刀術のほうかな。これでも、少しは

自信があるのよ。斉藤周平様にも、筋がいい、と褒められたこともある」

 市郎右衛門も言った。

 「おいらは、変装術かな。隠密仕事では七方出と言って、変装術が役に立つ」

 七方出というのは、七種類の人間に変装する術であり、露見しない程度の下地は勿論必要となる。虚無僧に化ける時は尺八が吹けなければならないし、出家した僧に化けるならば、お経の一つはすらすらと読まなければならない。他、山伏、商人、放下師(ほうかし)、猿楽師、常の(なり)(武士とか百姓)の五つが七方出の術に含まれる。

 権八も猪口を干しながら、言った。

 「おいらは、体術、特に柔だな。この小さなからだが柔では案外武器になる」

 利兵衛は遠慮がちに言った。

 「おいらは忍び込みがどちらかと言えば、得手のほうで。この要助は礫の術が得意です」

 栄助は、礫が得意と利兵衛から聞いて、要助のほうを見た。

 「礫が得手かい。おいらも手裏剣術は心得ているほうだが、実は、礫のほうが実戦においては向いているのではないかと思っているんだ。棒手裏剣は間合いが難しく、間合いの見切りを誤ると、上手く刺さらないものだ。その点、礫は狙ったところに当たれば、それて用は済むからな。で、どのくらい、当てられる」

 栄助に問われて、要助は利兵衛の顔色を窺った。

 利兵衛は頷き、話してもいい、というような顔をした。

 「十間ほどなら、一寸の的に当てられます。二十間なら、五寸の的に」

 「ほう、それは頼もしい」

 「おいらはからだの動きは機敏なほうだけんど、弟の礫はよう()けきれません」

 その話が契機となって、いつの間にか、忍び談義に話が弾んだ。

要助は栄助たちの話に耳を傾け、聴き入った。こんな機会はまたと無い。

 要助はわくわくしながら、栄助たちの話に聴き入った。

 

一刻(いっとき)ほどして、五人はその酒屋を出た。

 夜空には満天の星が輝いていた。要助は浜辺を少し歩いてから帰ると利兵衛に言い、皆と別れた。あたりは暗かったが、要助は夜目が利く。

 時々、御用意人による忍び夜廻りに遭遇することもあったが、要助は都度、気配を絶ち、誰何(すいか)を受けずに忍び夜廻りを避けて歩くことができた。

 気配を絶って、物陰に潜めば、気づく者はいなかった。

 或る一軒の農家の庭で、忍びあう男女の姿を見かけた。痩せた男と背の高い女が抱き合っていた。女が低い声で呟き、男が時々頷いていた。

 要助は気付かれることなく、その男女の脇を通り過ぎた。

 足音を消して歩きながら、ふと、おきく様のことを想った。

 どこからか、浜茄子の甘い香りが漂ってきた。

 波の音がひそやかに聞こえていた。

 朔日で、月は無かった。


六月二日 曇り、夜になって大雨


海上は深い霧に覆われ、平潟沖は終日霧の中だった。

吉田庄五郎が磐城平藩陣所の警戒の様子を探るために、関田に出向いた。

庄五郎は旅人の格好をして小浜を発っていった。栄助たちとは異なり、庄五郎は忍びでは無く、隠密だった。忍びは隠密の仕事もできるが、隠密は忍びの仕事はできない。

しかし、庄五郎は忍び働きを卑しいものと考えているようであった。

栄助たちの前では決して、忍びを馬鹿にするような言動は慎んでいたが、栄助たちには分かっていた。忍びは人の心を読む修業もさせられる。得手、不得手は忍びによって多少はあるものの、庄五郎の微かな表情の動きで栄助たちは庄五郎の本音を察することができた。引き廻し合羽に手甲を付け、振分荷物を肩にかけ、脇差を小袖の帯に差し、股引を穿いて脚絆を足に巻き、菅笠を被って小浜村を出て、関田に向かったのである。

市郎右衛門は庄五郎の出立の格好を見て、傍らで見ていた要助に囁いた。

「見ねえ、庄五郎さんの格好をよ。恰好は旅人だけんど、左肩が妙に下がっていりゃあ。本人さまは気付かねえものの、いつも、二本差しでいるから、あのようにいつの間にか、左肩が下がって固まってしまうのよ。あれじゃ、恰好は旅人でも、見る人が見りゃあ、侍だと一目で判ってしまう。おいらたちは侍のはしくれでも、常日頃、二本差しではいねえから、左肩は下がっていねえ。要助、おめえも気をつけろよ。気づかれりゃ、命が無くなることもあるものだ。他藩の隠密と判りゃあ、その場でばっさりだ。文句は言えねえ」

市郎右衛門は冷たい視線で、足早に去っていく庄五郎を見送った。


明六ツ(午前五時頃)に大津へ出向いていた栄助が昼九ツ(正午頃)には小浜に戻ってきた。押し込められている土蔵から一人ずつ、異人が名主宅に呼び出され、筆談役を交えて尋問を受けているようだ、との報告がなされた。尋問の結果の委細までは判らないものの、異人たちに危害を加える様子は皆目無し、との報告であった。

昼八ツ(午後二時頃)近く、平潟沖のほうから、霧を破って、大砲の音が二回ほど聞こえた。


昼八ツ半(午後三時頃)、市郎右衛門、利兵衛、要助の三人が百姓のなりをして大津に出立した。

要助は嬉しそうな顔をしていた。

夜四ツ(午後十時頃)を過ぎたあたりから、大雨となった。


六月三日 終日、大雨


辰ノ刻(午前八時頃)近く、大雨の中、要助が戻り、昨夜の大津浜の様子を伝えた。

昨夜、戌ノ刻(午後八時頃)あたりで、土蔵から異人たちが六人、逃亡した。

「夕餉の食事を摂った後で、監視の目を潜り、逃げたとのことでございます。早速、浜のほうを捜索したり、山手のほうを捜索したり、大変な様子でございました。それでも、結局は、裏山のほうで、茂みに蹲って隠れているのを見つけ出し、ひっ捕らえたということでございます。ただ、雨が降っておりましたので、六人ともずぶ濡れで、遠くまでは逃げることは叶わなかった模様でございます」

その後、六人はまた土蔵に押し込められた。

「この捕り物騒ぎには面白い逸話がございまして」

と、要助は続けた。

「この捕り物の際、捕り方に向かって一人の異国人が手向かってきたのでございます。ただ、この捕り方衆の中に一人、柔の達人がおりまして、手向かってきたその異国人をえいやとばかり、柔の術を使って投げ飛ばしたそうでございます」

「おう、そのような武勇伝があったのか。それは、面白い」

右馬之助が興味深そうな顔をして言った。

「はい、見事に投げ飛ばしたそうでございます。その柔の達人というのは、並みの男よりも少し小柄な男でありましたが、柔よく、剛を制すという言葉がありますように、向かってきた大男の異国人を何でも、山嵐とかいう大技で投げ飛ばし、気を失わせたということでございます」

「山嵐、という技なのか」

「小柄な男が大きな相手を相手の力を利用して投げる技ということでございます。何でも、その達人は本来は左利きで、刀は勿論右手で使うよう直されてはおりましたが、何と言っても、とっさの場合は本来の左利きに戻ってしまうのだそうでございます。異国人が襲ってきたその時も、左手で相手の半纏の右袖をまず掴み、そこに右手を相手の半纏の右襟に添えて、右の腰を入れて左方に投げ飛ばしたそうでございます。異国人はこの大技で一間も飛ばされ、地面に叩きつけられ、あえなく気を失ったということでございました」

要助は更に続けた。

「今朝、戻りがけに、その柔の達人を見てまいりました。昨夜の評判はすぐに陣所に伝わり、お手柄であったと皆がその郷士を囲んで誉めそやしておりましたので、すぐ判りました。小柄でありましたが、衣服の上からも筋肉が隆々としておる様子は見て取れ、少しぎょろめでありましたが、まさに、眼光炯々、柔の非常なる遣い手と思われました」

「大儀であった。朝餉を摂って、ゆっくり休むがよい。それはそうと、利兵衛は如何した」

「兄者は市郎右衛門さまと一緒に居ります。本日の様子を確かめてから、小浜に戻ってくるものと思います」

馬之助の許を去って、要助は庄屋宅の朝餉の席についた。

どんぶり飯と味噌汁の他に、葱が入った引き割り納豆、大根と人参の煮しめ、それに、昨夜の残りという山鯨のしぐれ煮が付いた。要助の食欲は旺盛で、お代わりをしたどんぶり飯に引き割り納豆を入れた味噌汁をかけ、さくさくと飯を平らげた。給仕についた(はしため)が笑いながら、要助に、おめえさまは若えから、いっぺえ、食って、大きくなんなんしょ、と言って要助の顔を赤くさせた。

巳ノ刻(午前十時頃)、大雨の中、沖合から大砲の音が雷の如く、四方に響き渡った。


申ノ刻(午後四時頃)、利兵衛が戻り、この日の大津浜の様子を伝えた。

昨夜は土蔵から逃げ出したこともあり、異国人たちは土蔵から海岸の陣所に作られた小屋に移送された。その小屋は竹矢来に囲まれており、中山備前守信(のぶ)(もと)の家臣・松岡勢によって厳重に警固された。一人ずつ、小屋の中から引きだされ、陣所の中で筆談役を交え、尋問が始まった。筆談役は水戸藩から出張ってきた会沢恒蔵(後の正志斎、この時四十二歳)と飛田勝太郎の二人であった。筆談の結果は不明でございますが、市郎右衛門さまが残っておられるので、何か聞き出してこられるかも知れません、と利兵衛は語った。


その後、吉田庄五郎が戻り、棚倉藩と平藩の領内の海岸警備と出兵の様子をこと細かく報告した。要助も縁側に控えて、庄五郎の話を聞いていたが、庄五郎の息が臭いのに気付いた。酒臭かったのだ。

後で、利兵衛が笑いながら、言っていた。

庄五郎殿はさぞかし、関田の宿で深酒をしたのであろう。

小浜で呑めない分、思いっきり呑んだのであろう、と。

海上、ますます霧が深く、数十間先も見えず、という状況になった。


夕七ツ(午後五時頃)、栄助が猟師を九人連れて、小浜に戻ってきた。

彦四郎の命を受け、渡辺村に出向いていたらしい。

猟師はいずれも屈強な男たちで、齢はさまざまであったが、精悍な顔立ちをしていた。

そして、いずれも揃って、無口で無愛想な男たちであった。

これは、先月から御用意人として小浜陣屋に居る下川村の九人を五日間だけ、村に帰すための算段であった、と利兵衛たちは栄助から聞いた。

田の草取りとか、しかるべき農事がいろいろとあって、下川村の名主からお願いされておられたらしいよ、と栄助は言っていた。

猟師とは大違いで、下川村のこの百姓たちは揃いも揃って、いつも冗談ばかり言ってはへらへらと笑っている賑やかな者たちであった。

同じ人間なのに、育つ環境によって、えらく違ってくるものだと要助は思った。


六月四日 晴れ


昨日の大雨とは打って変わって、空はよく晴れた。

平潟沖までよく見えていたが、目指す黒船の姿は無かった。

朝方、彦四郎が小林龍蔵を呼び、下川村から来た御用意人九人に五日間の暇を与える旨、下川村名主の鈴木八右衛門に告げよ、と命じた。この命を受け、小林龍蔵は九人の百姓たちを連れて、小浜陣屋を出立した。小林龍蔵は七石役高六石三人扶持を戴き、大小姓で吟味役も兼ねていた。齢は三十歳少し前の若侍で、いつも微笑を湛え、朋輩からは微笑み龍蔵という仇名で呼ばれていた。一見、優男風ではあったが、棒をよく遣い、裸になると、その筋肉は隆々としているとの評判もある侍でもあった。


昼になって、大津から市郎右衛門が戻り、大津浜の様子を報じた。

筆談の結果、異人は当初、ロシア人と思われていたが、イギリス人であることが判明した。新事実としては、その程度であり、その後も尋問は続いているとのことであった。

また、市郎右衛門は大津に戻って行った。市郎右衛門に要助が同行して行った。

要助は関田の物見として行ったのであった。

その後、二刻(ふたとき)ほどして、要助が戻ってきて、平藩の二番手の部隊が申ノ刻(午後四時頃)に関田宿に到着した旨、報告がなされた。

総勢七十から八十人ほどの軍勢で、郡奉行、代官、火番、大筒方、徒目付、同心小者を交えた部隊で、中に、筆談役も居るようであった。


夕方、利兵衛と要助は小浜の浜辺をぶらぶらと歩いた。

波は穏やかで、波打ち際に寄せては白い飛沫を上げていた。

「今頃、おときさんはどうしてるかな」

要助の言葉に、利兵衛は少し驚いたような顔をした。

「どうしたも、こうしたもねえよ。相変わらず、おっかさんの世話をしているよ」

「兄じゃ。おときさんを嫁にはしないのか」

要助の言葉に、利兵衛の表情は曇った。

要助に向き直り、噛んで含めるような口調で言った。

「要助よ。おめえはまだ、この世の中のからくりが判らねえ。判らねえんで、そんなことを言うのだろうが、まあ、考えてもみねえ。後先の考えなしで、おいらがおときと一緒になったら、どうなると思う」

要助はじっと利兵衛を見た。利兵衛は続けた。

「今でも、ろくなものも食えねえというのに、おときとおふくろ、おいらたち、この四人は本当に食えていけるかい。霞でも食っていかなければならなくなる。おめえはここんとこ、庄屋さまのうちで、飯がたらふく食えて、本当にありがたいと思っているだろう。食えなきゃ、人は衰えて死んでしまう。しかし、米を買うにも、納豆を買うにも、豆腐を買うにも、先立つものが無ければいけねえ。つまり、銭が無ければならねえんだ。おいらたちにも、もう家にあるもので売れるものなんか、残っちゃいねえ。おときんちも同じで、売れるものは全部、売り尽くし、今着ている小袖が最後の一枚で、着た切り雀、といったありさまなんだ。おふくろさんの薬代だって、この頃は払っちゃいねえ。お医者の情けに縋っているありさまだ。栄助さんとか市郎右衛門さんだって、あれっばかりの給銀では到底やってはいけねえ。恋女房を縄暖簾で働かせたり、渡辺宿のあきんど宿の手伝いをさせているという話なんだ。まして、おいらたちは決まった給銀も無く、先だってのように、お勤めの都度、一分銀を一枚とか二枚とか戴くだけの身分でしかねえ。この先の見通しなんて、これっぽっちもねえ暮らしなんだ。好きあった者同士がそのまま一緒になれる、極楽みたいな世界じゃあ、ねえんだ。残念ながら、な」

利兵衛はこのように語り終えた後で、ふと、身をかがめ、足元の小石を掴み、おもいっきり、海に向かって投げた。石はそのまま闇に消え、潮騒だけが耳に残るばかりだった。

兄じゃに悪いことを訊いてしまった、と要助は砂を噛むような思いで後悔していた。


六月五日 曇り


朝方、村で騒ぎがあった。心中があったらしい。要助は行ってみた。

昨日の夜半に心中し、今朝、畑に行く村人が発見した。

既に、蓆が被され、心中の遺骸は見えなかったが、要助の見ている前で、村役人が来て、検分のため、蓆を捲った。要助には見覚えがある顔が二つ並んでいた。

四日前の朔日の夜、夜歩きの時に見たあの若い男女であった。

暗い中、百姓家の庭先で抱き合っていた男と女だった。

要助は忍びの訓練で夜目が利く。あの者たちに間違いないと要助は思った。

男は柔和で気の弱そうな顔をしていたが、死に顔は目も当てられないほど、苦しんで死んだ顔をしていた。女は少し顎が出ている勝気そうな顔をしていたが、死に顔は安らかだった。少し、微笑んでいるようにも思えるくらいだった。

女は胸を一突きで刺され、即死と思われたが、その後で、男は自分の胸を何度も刺したが、死にきれず、最後は、猫いらずでも飲んだらしい。苦悶して死んだ様子が男の顔に現われていた。周りを取り囲んだ村人の口からさまざまな話が要助の耳に入ってきた。

死んだ女には妾奉公の話が出ていた、とか、病気の父親を抱えて苦労していた、とか、死んだ男にも借金絡みの気にそわぬ婿入りの話が出ていた、といった嫌な話が飛び交ったいた。その中で、誰かが呟くような口調で言った。

「心中は ほめてやるのが 手向けなり」

その言葉に反応する者もいた。

「死んで花実が咲くものか」

声高にそう言う者に反発する者もいた。

「死んで、あの世で夫婦として生きる者もいるのだ」

そのしんみりした言葉に同調する者もいた。

「死ななきゃ、添えぬ縁もある」

年配の女が一人、死骸に近づき、足元に桔梗の花をそっと置いて去った。

埋葬は許されず、遺骸は取り捨て、と決められている心中者に対しては、弔いはできない。せめてもの手向けの花か。青紫色の花は見る者に鮮やかな悲しみを与えていた。

ふと、要助は村人の中に、利兵衛の顔を見た。沈鬱な顔をしていた。哀しげな顔もしていた。兄じゃは悩んでいる、と要助は思った。

要助は見番所に赴き、遠眼鏡を借り、平潟沖を見た。

海上は晴れてきたが、異国船の姿は見えなかった。


未ノ刻(午後二時頃)になって、衣笠儀兵衛が馬に乗って、陣屋を訪れた。

儀兵衛は右馬之助の父で、中老で二百石という俸禄を戴いていた。儀兵衛という名前は代々衣笠の当主が受け継ぐ名前で、今の儀兵衛がお役目を退き、隠居をすれば、右馬之助がその名を継ぎ、儀兵衛となる。大柄でやや肥満気味の儀兵衛は壮年の頃は泉藩の槍術師範としても名を馳せていた。柔和な微笑を絶やさない侍で、この時、齢は五十を数えていた。利兵衛たちの父、理介はこの儀兵衛に仕えていた。理介亡き後は、利兵衛を嫡男右馬之助付きの忍びとして雇い、何とか暮らしていけるよう、計らったのも儀兵衛であった。

挨拶に赴いた利兵衛たちに温かい眼差しを向けた。特に、要助の成長には驚きの眼を向け、あの小さい要助がこのように大きくなったと言いながら、我が子を見るような、心に染み入るような笑みを見せた。その後、何かの足しにせよ、と利兵衛に何枚かの銀子を渡した。

この日、大津浜に関する新しい知らせは何も無かった。


六月六日 晴れ


平潟沖は晴れていたが、黒船の姿は無かった。

未ノ刻(午後二時頃)、江戸詰めの本多章(あきら)が江戸勤めの藩士を連れて、小浜陣屋を訪れた。章は彦四郎の実弟で、忠順の四男であった。七十石で近習刀番を勤めていたが、齢は要助と同じ十八歳であった。秋に、百三十石を戴く亀田の家に養子として入り、冬になる前に、衣笠のおきくと祝言する運びになっていた。要助より小柄であったが、眉目秀麗で、まだ少年の面影を宿していた。いかにも貴公子然としていたが、笑うと人を惹きつける爽やかさがあった。要助は、おきくと夫婦になる章を間近で見た。

おきくの夫となるこの若い侍に嫉妬とか嫉みといったものは一切感じなかった。

ただ、哀しみを覚えた。生まれた時の境遇の違いがそのまま、身分の違いとなる現実の哀しさを感じただけであった。


未ノ半刻(午後三時頃)、本多六郎忠貞が陣屋廻りに訪れた。

彦四郎の兄で忠順の長男、嫡男であった。忠順が隠居すれば、この六郎が家老となる。

この時、齢は二十五歳に過ぎなかったが、既に貴人の趣が感じられる青年であった。

彦四郎同様、白皙長身で顔は細長く、顎はすっきりとして鰓が出ていない貴人顔であった。言語が明瞭で爽やかな印象を人に与えた。

六郎の到着で、彦四郎、亮太郎、章と本多四兄弟がこの陣屋で顔を合わせるということになった。庄屋の豊田與右衛門は大いに恐縮がり、武士用の玄関に招き入れ、奥の部屋に六郎以下兄弟四人を鎮座せしめ、歓待相勤めたことは言うまでも無い。

長兄に対する挨拶の後で、章は、父上のご様子は如何か、と訊ねた。

六郎は少し沈鬱な表情を浮かべた後で、思いきったように語った。

思ったより、重篤な病であり、この夏を何事も無く過ごせるかどうか、目下のところでは何とも言えない、と語り、その後で、万一のことも考えておくように、と付け加えた。

兄弟四人でそれぞれ近況を語り合った後、六郎は陣屋の見廻りに出向いた。


見廻りの後で、右馬之助、甘南備次郎太夫、中村弁之助、斉藤周平といった主だった家臣を一堂に集め、殿様の格段のご高配により、ここに出張った無足人衆にお手当金を支給することと相成った、と言う有難い知らせを伝えた。

三十一名の無足人に対して、一律七百文ずつを支給するというものであった。

支給対象となった無足人たちが喜んだことは言うまでもない。

この小浜じゃ、酒はご法度で呑めないが、なあに、在所に帰りゃあ、悠に七日は呑むことができる、と不謹慎なことを声高に言う者も居た。

当時の物価は百文で米が一升三合ほど買え、酒も上等な酒を四合ほど呑めた。

住み込みの下女の給金が一日五十文という時代の七百文であり、収入の少ない無足人に取っては、まことに嬉しいご褒美であった。煮売り酒屋ならば、夕飯代わりに酒を二、三合呑み、肴を二、三品ほど取って、どんぶり飯を食って、大体百文で済んだ。

利兵衛と要助は右馬之助抱えの忍びということで、このご褒美には預からなかったが、利兵衛は右馬之助と儀兵衛から貰った一分銀を何枚か懐中深く持っていた。

一分銀は四枚で一両となる。一両は四千文である。

つまり、一分銀一枚の値打ちは千文であった。

これで、当分おいらたちは飢えずに済む、と利兵衛は思っていた。

時々、懐中に手を遣り、一分銀を確認してしまう癖がついた利兵衛であった。


六月七日 快晴


明六ツ半(午前七時頃)、庄屋宅の台所近くの座敷で他の無足人と共に、利兵衛と要助が朝飯を食っていると、市郎右衛門が板の間を通って入ってくるのが見えた。

市郎右衛門も二人に気が付き、にやりと笑った。

朝飯はいつものように、野菜の煮しめ、葱を入れた納豆、若布の味噌汁といったところだったが、今日は特別に、白身の魚を磨り潰して焼いたものが一皿出た。

醤油をかけて食うと、熱々に焼いたすり身が香ばしい味を醸しだして、なかなか旨かった。薬食いの肉もいいが、こっちのすり身の焼いたやつも旨い、と要助はにこにこしながら食った。朝餉の後、市郎右衛門に誘われて、浜を歩いた。

大津から昨夜戻って来た市郎右衛門は、今は水戸藩のお調べが毎日続いているが、近々江戸の幕府からも役人が大津に来て、直に取り調べるらしいという噂がある、と利兵衛たちに話した。水戸藩では幕府の役人に対する応接に粗相があってはならないと、迎えの準備で緊張が高まっていた。これも噂であるが、と前置きして、幕府隠密として名高いあの間宮林蔵もその一行に含まれているらしい、と話した。

利兵衛も要助も、間宮某という人物に関する知識は無かったが、市郎右衛門によれば、隠密の鑑とでも言うべき侍で、常陸国の筑波の出身で、何でも(から)(ふと)という北の果てにある島を幾多の艱難を乗り越えて探索して詳細な地図をつくり、幕府に献上したという偉い隠密ということだった。もっとも、それ以上のことは市郎右衛門も知ってはおらず、もし、大津に来たならば、どういう男か、何とか見てやりたいものだ、とも話していた。

市郎右衛門と入れ代る形で、栄助が大津に出立した。

海上はよく晴れ、平潟沖はすっきりと見えていたが、黒船の姿は認められなかった。

利兵衛と要助は終日、市郎右衛門の傍らを離れず、これまでの忍び働きのことなどを訊いて過ごした。磐城平藩の城下町で見聞した話、龍ケ城と呼ばれる磐城平城の様子など、市郎右衛門の話は尽きず、利兵衛たちにはとてつもなく面白かった。

市郎右衛門が語った話の中にこんな話もあった。

「もう、百年近く前の話だが、磐城平のお殿様は、今は日向の延岡に居られる内藤様だった。内藤様は我が本多のお殿様同様、ご譜代のお殿様で、公儀のお手伝い普請に殊の外熱心なお殿様でのう。莫大な借財をつくっても、お手伝い普請を一生懸命なさった、ということだ。しかし、その付けは百姓に来てのう。年貢を六割も取っておきながら、尚、上げようとしたらしい。百姓どもは怒って、一揆を起こした。何と、全藩挙げての一揆となり、数万人の百姓が、さっきおいらが話した龍ケ城を取り囲んだらしいて。囲まれて籠城はしたものの、米が無くなっての。湯長谷藩から、米を借りて急場を凌いだという話が有名な話となってござるわ。この話は湯長谷藩の忍びから聞いた。今でも、湯長谷藩の自慢話になっているらしい。一揆勢が囲む中を、米俵を積んで、百姓を威圧しながら磐城平城に入った武勇伝としてな。内藤本家を内藤分家が救ったという武勇伝よ。まあ、一揆の話は本当にせよ、この武勇伝、本当かどうかは知らんがのう。その後、一揆を起こさせた責任を問われたのか、内藤本家は延岡に飛ばされたということだ。磐城から延岡まで、気の遠くなる道のりだ。一揆を起こさせた罪は高くついたものだ」

と、話しながら、市郎右衛門はにやりと笑った。

要助は市郎右衛門の話を聴きながら、いつかはおいらも密命を受けて、他藩の領地に潜入して忍び働きをしたいものだ、と思っていた。


六月八日 朝は霧、昼頃より晴れ


朝方は霧で平潟沖は見えなかったが、午ノ刻(正午頃)あたりから、急に霧が晴れ、平潟沖の眺望がひらけた。驚いたことに、異国船が四隻も出現していた。

見番所からの知らせで、小浜陣屋の中に緊張がはしった。

未ノ半刻(午後三時)、栄助が大津から駆け戻り、彦四郎たちに大津浜の様子を報告した。

突然出現した異国船から大津浜に向けて、伝馬船が出され、渚に近づいたところでその伝馬船から黒ん坊が二人、渚に下り立つのを目撃した。その黒ん坊たちは何やら書簡のようなものを携えていた。その書簡は浜の漁師から水戸藩士に渡された。

その水戸藩士は異国人を収容している浜の小屋にその書簡を持参し、異国人に渡した。

書簡は筆談役を経由しなかったので、書簡の内容は残念ながら判明しなかった。

書簡を渡した後、伝馬船は母船に戻っていき、その後、異国船四隻は大津沖を離れ、行方知らずとなった。そこまで、見定めてから、大津浜を離れ、帰路に着いた。

途中、関田浜と小浜の間にある中田の浜に異国人が乗った伝馬船が漕ぎ寄せ、何人かが中洲に下りたという話も聞きましたが、帰りを急いでおりましたので、これが事実かどうかは確認しておりません、と栄助は続けた。

栄助の言う通り、見番所からも異国船はいつの間にか、消え去ったとの報も入っていた。

海はきれいに晴れ渡り、異国船が突然出没し、突然消え去った平潟沖は平穏を取り戻していた。

要助は海辺を歩いていた。丘には紫陽花の花が、浜には浜茄子の花が今を盛りと咲き誇っていた。ひらひらと飛ぶ蜻蛉を見掛けた。羽黒蜻蛉だった。この蜻蛉は蝶のようにひらひらと、蜻蛉にしてはまことに頼りなく飛ぶ。少し、飛んでは、飛び疲れたかのように、羽根を垂直に折りたたんでとまる。

要助には懐かしい蜻蛉だった。

小さなおきくが、この黒い蜻蛉は何、と女中に訊ねていた。

女中は笑みを見せて、おきくに言った。

「おきく様、この蜻蛉は羽黒蜻蛉と申します。今頃の季節に、きれいな小川のあたりを飛びまわる蜻蛉です」

「羽根が黒いから、羽黒と言うの」

「そういうお話もございますが、わたくしの聞いたところでは、おきく様のお母上のように、歯を黒くお染めになることをお歯黒をつけると申しますが、そのお歯黒から名前を取ったというお話でございます」

「蝶のようにぱたぱたと飛び、すぐとまるのよ」

「飛ぶのは、きっと、たいへんなのでしょう」

「疲れて、すぐ休む、なまけとんぼ、ね」

そのなまけとんぼを両手を広げて追いかける、おきくの姿を要助は懐かしく思い出していた。衣笠の屋敷の庭で紫陽花が咲き乱れていた。おきくが七歳、要助が十歳の夏だった。

浜辺には少し風が吹いていた。要助は潮のにおいに満ちた空気を胸いっぱい吸い込んだ。


六月九日 快晴


平潟沖、何も無し。

明日あたりで幕府から役人が到着するものと思われまする、と栄助が昨日語ったので、誰か、大津に物見を出そうという話になった。

彦四郎と右馬之助が談合した結果、利兵衛を大津に物見に出して、幕府の異人に対する扱いを確認させるべしということになった。

利兵衛は喜んで出立した。要助も行きたかったが、これは認められなかった。

不服そうな顔をした要助に、またの機会もある、と栄助が笑いながら言った。


利兵衛が出立した後、要助は小浜の山に駆け入り、このところ怠っていた礫の修練に励んだ。ふと、気が付くと、栄助が見ていた。

要助は修練の間、栄助が来ていることに気付かなかった自分を恥じた。

いくら、気配を隠していたとは言え、忍びとしてはまだまだ未熟であると、自分を恥じたのである。

栄助は要助に近づき、うなだれている要助の肩を一つ、ポンと叩いた上で言った。

「見事な礫の技だ。久しぶりに、いいものを見た。要助、おめえのその礫はいい。いつか、きっと役に立つ。おめえのその礫は体術に少しは自信のあるおいらでも、()けきれない。両手で投げることができるなんて、そんな技、おいらは初めて見た。でも、安心しねえ。おめえの技は決して口外しねえから。おいらだけの秘密にする」

栄助にそのように言われ、要助は思わずにっこりと頷いた。

あの時の雲水(うんすい)にもそのように言われた、と要助は二年ほど前の出来事を思い出した。

利兵衛と共に、新田峠で山野を駆け巡り、早歩き、早駆けの修練を積んでいた時のことだった。衣笠儀兵衛からの頼みで利兵衛が磐城平に出かけ、要助は一人、松の樹を相手に、礫の修練に励んでいたことがあった。

ふと、気が付くと、十間ほど離れた木々に寄り掛かるようにして、一人の雲水が立っていた。全然、気付かなかった。礫の修練に打ち込んでいたためか、と要助は思ったが、それにしても、気配が全く無かった。

要助のきつい視線を浴びた雲水はぼそっと呟いた。修練の技、なかなかのものだ、と言っていた。その声は風に乗り、要助の耳に微かに届いてきた。忍び独特の囁き声であった。

他藩の忍び隠密か、と要助は緊張し、懐の鉄の礫に手を伸ばした。また、声が微かに聞こえてきた。よせ、お前と争う気は無い、わしはこれから仙台に戻るところだ、お前が仕えている藩とは何の関わりも無い。

そのような声が聞こえ、雲水は要助に背を向け、磐城街道の方角に歩いて行った。

また、どこからか、お前の礫の術に関しては誰にも言わん、更に、技を磨け、と囁く声が聞こえてきた。網代笠を被り、墨染の衣を纏い、行李を背負って去っていったその雲水は栄助と同じくらいの技量を持った忍びであったかも知れない、と要助は思っていた。

空はよく晴れ、鳶がくるくると、栄助と要助の頭の上を廻っていた。


六月十日 朝は雨、その後、終日曇り


朝方から雨が降り、平潟沖への視界は利かず。

空は驟雨の黒い雲に覆われていた。

利兵衛が大津から戻り、昨日の話として次のようなことを告げた。

江戸から、幕府の代官、古山善吉、蘭学者で通辞の吉雄忠次郎、そして、天文方の高橋景保らが来た。人数は四十人ほどになり、早速、異国人十二名に対する尋問がなされた。

この一行の中に、隠密として高名な間宮林蔵も居た。

何でも、故郷である筑波の実家にも久しぶりに立ち寄るとのことであった。

「間宮林蔵殿も居たと申すのか。どのようなお人であった」

彦四郎からの問いに、利兵衛は簡潔に答えた。

「中肉中背、色の黒いお人で、眉は太く、目は大きく、やや丸顔とお見受けしました」

その後、齢は四十を少し越えているように思われました、と利兵衛は続けた。

異国人に対する尋問の結果、水戸藩の筆談役の見立て通り、イギリスの捕鯨船の船乗りであることが確認された。

この十二人の中には、最初に現われた黒船二隻の船長が二人含まれていることも判明した。二隻の船の船長が一艘ずつ伝馬船を出し、そこに船長自ら乗っていたという事実は幕府役人を驚かせた。

そして、上陸した理由も判明した。

船に敗血症の患者が発生し、野菜、果実、肉といった食料を求めるために上陸したということであった。鉄砲を四挺持参したのも、それらの食料品と交換する代価のものとして持参したということも判った。

その他、代金不足時も考え、羅紗を二反、金貨や銀貨も持参したとのことであった。

尚、通辞から、このところ、異国船の出没が増えているのは何故か、との問いがあり、これに対する答えとしては、日本近海で鯨が盛んに獲れるので、その鯨を捕獲すべく、捕鯨船が増えているのだ、という返事がなされた。

(鯨は日本の場合、浜に近づいてきた鯨を獲り、肉も食べ、鯨油も取るが、外国の捕鯨

船の場合は鯨油を取るための捕鯨であった。一航海が一年にも渡り、肉は船内で食べ

るだけで、腐るため、船内には貯蔵しない。貯蔵するのは腐らない鯨油だけであった。

鯨油は大樽に詰められ、全ての樽が満杯になったところで、航海は終わり、母港に戻

ることとなる。帰港後、鯨油はそのままの形、即ち、鯨油として利用されるか、加工

されて、蝋燭の原料とされる。鯨油から作られる蝋燭は本体が白く仕上がり、且つ、

炎が美しいということで高級品として流通したと云われている。多くの場合、マッコ

ウクジラが捕鯨対象となったと伝わっている)

幕府の尋問が終わり、幕吏から横文字の書付が異人たちの船長に渡された。

その書付には、今回の騒動には目をつぶるが、次回からは厳しく罰するという旨が書かれてあった。

利兵衛からの報告が済んだ後、彦四郎が不思議そうな口調で利兵衛に訊ねた。

「敗血症と申したのか。脚気とか壊血症とかは申していなかったか」

「敗血症と聞きました。敗血症とはどのような病気か、あいにく、存じてはおりませんが、船乗りの中では怖れられている病とか」

「しかし、それにしても、船を預かる船長自身が二人共、伝馬船に乗って、見知らぬ異国の地に上陸するとは。異国人の考え方はよく判らないが、怖れを知らぬ勇敢な者たちではあるな。ご公儀の御役人たちも、そのような異国人に意気を感じたのではあるまいか」

そのあとで、彦四郎は感心したような口振りで語った。

「利兵衛、おまえ、その委細はどこから聞いたのか。それだけの委細はなかなか聞けるものではないが」

右馬之助も感心したような表情を見せていた。

「運が良う、ございました。昨夜、泊まった旅籠に丁度、幕府のお役人がお泊りしていたのでございます。夜、水戸藩の藩士の方々と、ご宴会をされた折、洩れ聞いたという次第で」

「おお、洩れ聞いたと申すのか。しかし、そのような旅籠と雖も、警固の者が隣室含め、固めておるはずだが。果て、どこで、洩れ聞いていたのか」

彦四郎が笑いながら、利兵衛に訊いた。

利兵衛は少し渋い顔をしたが、正直に答えたほうが良い、と思ったのか、諦めたような口調で彦四郎に申し上げた。

「実は、宴会が行われた部屋の天井裏に潜み、耳をすまして聞いておりました」

「ああ、やはり、そうか。聞いたか、栄助。おまえも大した忍びであるが、ここにいる利兵衛も、なかなかの忍びよ」

栄助も彦四郎と利兵衛の遣り取りを聞きながら、にやりにやりとしていた。

利兵衛は忍びの術の中で、忍び込みが得手と話していたが、なかなかの者よ、と栄助は思っていた。


六月十一日 朝は霧、その後、晴れ


霧が晴れ、平潟沖の黒船はいつの間にか、姿を消していた。

栄助が大津に向かった。幕府並びに水戸藩の対応を確認するためであった。

彦四郎は、この大津浜での騒動も一段落した、近々、陣払いをするであろう、と皆に言い、念のため、栄助を確認に行かせた次第であった。

一件落着、との噂が小浜陣屋を駆け巡り、人々の緊張は次第に解けていった。

夕餉の席では、彦四郎の計らいで、膳に銚子が一本ずつ付いた。

無足人、御用意人が喜んだことは言うまでも無い。呑まない者の銚子は、しょうがないな、勿体ないからおいらが呑んでやるぞ、とすぐに、呑み助が取り上げた。

しかし、夕餉の座が乱れるということは一切無かった。斉藤周平、小林龍蔵といった武芸の達人が睨みを利かせている場で羽目は外せるものではない。皆、おとなしく戴いた酒を呑んでいた。市郎右衛門、利兵衛、要助の三人は夕餉の後、渋茶を飲みながら、大福餅を食っていた。三人の銚子を持っていった者が、代わりだ、食っておくんなんしょ、と持ってきた大福餅であった。市郎右衛門は大福餅を旨そうに平らげる利兵衛たちを、笑みを含んで見ていたが、やがて、ぼそっと言った。

「昨日、今日と泉に戻っていたが、どうも、ご家老様のご容体が思わしくないらしい。殿様も大層心配されて、江戸藩邸からご典医を泉に派遣されておられるが、ご典医の話を洩れ聞くところでも、大分いけないらしい。この夏を乗りきられるかどうか、ということだ。六郎様もここから泉にお戻りになられてから、枕元につきっきりで看病に当たられているというお話だ。彦四郎様は気丈なお方で、皆の前では明るく振る舞っておられるが、さぞ、お心を痛めておられることだろう」

万一の場合、章様とおきく様の御婚礼も延びることになるかも知れない、と要助は思った。延期という事態になったら、おきく様は悲しむことだろう、と思う反面、ずっと延びて欲しいという気持ちがおのれの中に芽生えていることにも、要助は気付いていた。

おいらは不埒な男だ、と要助は思った。甘い大福餅が急に苦いものに思えてきた。


六月十二日 晴れ


栄助が大津から戻り、昨日の大津浜での様子を報告した。

今回は例外のお沙汰であるとして、幕府から次のものが異国人に支給された。

林檎三百五十一個、枇杷四升、大根五十本、さつまいも三十二本、鶏十羽、酒五升。

これらの物を持たせ、イギリス人十二名を解放し、本船に戻した。

当初の予想に反して、まことに寛大な処置であった。

この処置に伴う御三方様の引き払い、陣払いもあると思われたので、そのまま滞在するつもりでおりましたが、確認したところでは、陣払いは明日に予定されているということでありましたので、本日は戻ってきた次第でございます、と栄助は語った。

御三方様というのは、水戸様、平潟村を領する棚倉藩の井上河内守様、大津村を領する水戸藩附家老の中山備前守様のことを指していた。

明日、御三方様の陣払いが滞りなく、終われば、この事件は一件落着でござります、と栄助は話を締めくくった。彦四郎から、的を得た偵察、まことに大儀であったとのお褒めの言葉があり、栄助は大いに面目を施した。

右馬之助から、要助に明日の陣払いの様子を確認するために、大津に出向くよう、命が下り、要助は喜び勇んで大津へ出立した。


戌ノ刻(午後十時)あたり、要助は大津村の村道を歩いていた。

水戸藩の陣屋に忍び、明日の陣払いに備える藩士たちの動きを具に観察した後で、街道筋にある旅籠に戻る道の途中であった。村は闇に包まれ、ひっそりとしていた。油を倹約するために、百姓たちは夜になると、すぐ寝てしまう。明かりを灯している百姓家はほとんど無かった。そして、長く続いた雨の季節も終わろうとしていた。

夏の夜の闇は濃い。ねっとりと膚に絡みつく蒸し暑さの中で、要助の忍びとしての感覚は異常を感じていた。忍びとしての経験は富んでいるわけではないが、ぞくりとする感じが歩いている背後に感じていた。この嫌な感じは何だろう、と要助は思っていた。

誰かに跡をつけられているのかも知れない。急ぎ足で歩く背後に、自分の歩きに合わせて歩く何者かの存在を感じ始めていたのである。

忍びに違いない。自分と同じ忍びが自分をつけているのだ。

道の傍らに、朽ちかけた祠があった。この祠に隠れ、相手を遣り過ごそうと思った。

要助は祠を通り過ぎると見せかけて、脇に跳躍し、その祠の裏に隠れた。

そして、夜目を働かせて、背後の闇を見詰めた。

じっと、見詰めた。

居た。

道に蹲っている者が居た。

要助はそっと、懐を探り、鉄の礫を二つ取り出し、両手で一つずつ握った。

相手も夜目が利いているらしい。蹲ったまま、何かを取り出した。

鈍い月の光を浴びて、何かぎらりと光るものを見た。

要助は不意に立ち上がり、十間(約十八メートル)ほど離れたところに蹲っている者を目掛けて、礫を右手で放ってから、ほとんど瞬時に左手でも礫を投じた。

右手から投じられた礫は辛くも避けたものの、ほんの少し、間をおいて放たれた左手の礫は避けきれなかったようだ。

ほとんど同時に、礫が二つ来るとは思っていなかったに違いない。

ぐえっ、と言う呻き声が一瞬聞こえた。

要助は走った。

闇の中の道を二町(約二百二十メートル)ほど走りに走って、足を停め、背後を見た。

追ってくる者はいなかった。

逃げきれたと思った瞬間、武者震いがした。暫く、震えたまま、じっとしていた。

やがて、震えはおさまり、要助はひとつほっと息を抜いた。

薄雲に隠れていた月がようやく顔を覗かせた。

満月に近い月の光が要助の顔を照らした。要助の顔はどこか晴れ晴れとしていた。


六月十三日(新暦七月九日) 晴れ、少々降雨あり


午ノ刻(正午頃)、要助が大津浜から戻り、御三方様の陣払いの様子を報告した。

未ノ刻(午後二時頃)になって、泉藩の陣払いが開始された。

申ノ刻(午後四時頃)を半刻(一時間)ほど過ぎた頃、本多彦四郎を先頭に、泉藩の軍勢が泉陣屋の表門に到着した。

表門の御橋の袂で下馬、陣屋の中に入った。

お館の玄関先で、全員で(とき)の声を挙げた。

「えい、えい、おう」という勇ましい鬨の声が周囲に木霊(こだま)した。

この日、戻ってきた者、迎えた者、総勢で五百人を数えた、と云われている。

まさに、泉藩総揃い総出といった有様であった、とも伝えられている。


六月十四日 晴れ


小名浜代官が支配する幕領の四倉(よつくら)近くに久ノ浜という浜がある。

そこに、薬師如来を祀り、地元では俗に、(はっ)(たち)薬師(やくし)と呼ばれる()立寺(りゅうじ)という寺がある。

ここの夏祭りが今日、明日の二日間にわたって行われる。

名物は善男善女が輪になって踊るじゃんがら念仏踊りで、この日は夜通し踊られる。

この祭りには、磐城平藩のみならず、近在の()長谷藩(ながやはん)、泉藩の領民たちも踊りが楽しみで集まってくる。武士は藩と姓名を名乗るだけで、他藩の領内を歩くことができるが、武士以外は名主や檀那寺(だんなでら)の住職が発行する往来手形を持参して藩領の境にある番所で見せなければならない。但し、信仰のため、寺参りに行くとなれば、往来手形は無くとも、大目に見られたということであった。

磐城に住む者が年に一度の楽しみとして集まる祭りで、賑わいはじゃんがら念仏踊りが始まる頃から最高潮を迎える。この念仏踊りには鉦と太鼓が踊りに花を添える。チャンカ、チャンカと鉦が鳴り響けば、磐城の人々の心は浮き立ち、自然に踊りの輪ができあがる。

じゃんがら念仏踊りは男と女が出会い、知り合う場でもあった。

七月末の閼伽井嶽薬師のじゃんがら念仏踊りでは、踊りの中で男に袖を引かれた女はその男と交わりを結ばなければならないという決まりもあったと云われている。

それは、一夜だけのこととして済まされるが、中には、その一時の縁が生涯の縁となることもあったとも云われている。

四倉には利兵衛たちの遠い親戚が船持ちの漁師として住んでいた。

今年の夏祭りは黒船騒動で行けぬと思っていたが、昨日、泉に帰ることができ、利兵衛たちもいつものように、四倉の親戚の家に泊りに来ていた。

泉から四倉までは六里の道であったが、利兵衛たちの足から見たら、何と言うこともない道のりであった。明六ツ(午前六時頃)に泉を発ち、朝五ツ(午前八時頃)までには四倉の親戚である漁師の家に着いていた。

よく来たな、と利兵衛と要助は歓待された。漁師のもてなしは豪勢なものだった。

高価な雲丹、鮑の他に鰹の刺身を大きな皿に盛って、食え、さあ食え、もっと食え、とやかましく勧めるのであった。

小浜でも利兵衛たちにとっては毎日が豪勢な食事であったことは言うまでも無いが、他人の間で食事を摂るのと、こうして、気の置けない親戚の間で食事を摂るのはやはり違う。

冗談を言っては、笑いさざめきながら、本当に腹が膨れるまで食いに食った。

そんな利兵衛たちを見ながら、迎えた方は満足していた。

昼餉を摂った後、利兵衛たちは腹ごなしとして、四倉の浜辺を暫く歩いた。

この浜辺にも、赤い浜茄子の花が咲き誇り、浜辺中に芳香を惜しげもなく放っていた。

磐城の梅雨もようやく終わりを告げ、暑い夏の旬を迎えようとしていた。

音が聞こえてきた。浜辺の向こうから聞こえてきた。

浜辺の外れには小さな岬があり、隧道が掘られて浜街道は繋がっているが、その岬の向こうに波立薬師の波立寺があった。音はそのあたりから聞こえてきたのである。

懐かしいじゃんがらの響きであった。利兵衛たちの心も何やら躍ってきた。

そろそろどころか、もう始まっている。

そう思うと、のんびりと浜辺を歩いているのが、もったいないという気さえしてきた。

早く、行かなければならない。

要助の気持ちを察したのか、利兵衛も笑いながら、足を急がせた。

隧道を越え、波立寺に入った。既に、門前には行列ができていた。見物に訪れた侍もかなり居た。侍の中には、数人の小者を連れた身なりの良い武士も居た。

要助の眼は目敏い。見知った顔の若侍の姿を見た。本多章であった。若党と小者を連れて、へしあい、おしあいをする人混みの中をにこにこしながら、歩いていた。

しかし、混雑の中で、腰の刀が何かの拍子に別の侍の腰のものに当たったのかも知れない。矢庭に、一人の侍が無礼であろうと怒り出した。本多章も驚いたようであった。

これは、相すまぬことを、と章は詫びようとした。

どちらの刀がぶつかったのか、判然とはしないが、他藩に遊びに来ている章としては、とりあえず穏便に事を済まそうという考えがあったのかも知れない。

しかし、わざとぶつけられたと思った相手の武士は承知しなかった。

少し、酒も入っていたのかも知れない。章を見て、前髪に毛の生えた青臭い若侍と踏んだのか、怒りは一向におさまる様子が無かった。詫びかたが悪いと難癖をつけ始めた。

自然と、章とその武士のまわりには、人が居なくなった。

祭りの賑わいの中で、ぽっかりと穴があいたような空間が章とその武士との間にできた。

武士の魂を疵つけたからには、土下座して詫びよ、とその武士は居丈高に迫り、挙句の果ては、大刀の鯉口をきって、刀を抜こうとした。

抜かせたら、駄目だ、と要助は思った。抜けば、当然、斬り合いになる。

相手を斬っても、斬られても、侍である手前、無事に済むわけがない。

切腹して、死ぬことになるのだ。

要助は俊敏に動いた。

すっと、身をかがめ、地面の小石を拾った。

そして、ぎらりと抜こうとした相手の武士にその小石を投じた。

石の礫は誤たず、その武士の右手の甲に当たった。

痛っと、怯み、思わずその武士は蹲った。

利兵衛と要助はその間に、章に近づき、章の腕を取って、人混みに入り、人混みに紛れてその場を去った。章を連れて去りながら、要助はおきくの顔を思い浮かべていた。

これで、おきく様を悲しませることは無くなった、と思っていた。

腕を取られて、寺の門を出た章は少し青褪めていたが、利兵衛たちの顔を見て、安心したようだった。小浜に居た泉藩の者だと気付いた様子であった。

衣笠右馬之助殿の配下の者じゃな、と親しみを込めた眼差しで見て、かたじけない、と礼の言葉を述べた。

章と別れ、利兵衛と要助は波立寺に戻った。

「要助。以前、おいらが言った通りになったな」

利兵衛はにやりと笑った。

「おめえの、その礫の技のことよ。いつか、ひとを救うと、おいらが言ったろう。その通りになった」

利兵衛に言われて、要助も利兵衛の言葉を思い出した。

寺から少し離れた空き地で、じゃんがら念仏踊りが始まっていた。

これから、夜通し、じゃんがらの鉦や太鼓の調子に合わせて、踊りは続く。

近在の村から、じゃんがら念仏衆も何組か、鉦や太鼓を持って、集まってきたようだ。

賑やかさを増した踊りの輪の中に、利兵衛も要助も飛び込んでいった。

夜になると、村人の中には着ているものを脱ぎ、(ふんどし)一丁という姿になり、布の一端を尻にぶら下げ、後ろの人がその一端を自分の褌の前に挟み込むといった格好で、おのおのの褌を数珠繋ぎとして踊る男たちも出始める。

踊りながら、利兵衛が何か言った。

踊りに夢中になっていた要助は利兵衛の言葉を聞きとれず、訊き返した。

「兄じゃ、今、何と言った」

「夜になっても、褌姿にはなるな、と言ったんだ」

「おいらはならねえ。兄じゃこそ、気を付けな。去年は、褌一丁になったじゃねえか」

「覚えていやがったか。あの時は、踊りを見ていた小粋な女が悪かったのよ。そこのあんにゃ、おまえの褌姿、あたし、見たい、と言いやがったからだ」

「兄じゃの欠点、おいら、分かった。女に弱いんだ」

「要助、おめえこそ、今年は気をつけな。甘い言葉に乗るんじゃあねえぞ」

じゃんがらに付きものの即興の唄が聞こえてきた。

『おれとおまえは、米なら五合、合わせて一升にしてみたい』、『浅い川なら、膝までまくり、深くなるほど、帯をとく』、『星の数ほど、女はあれど、めざす女は、ただひとり』

じゃんがら念仏踊りは朝まで続く。

利兵衛と要助、暑い夏を迎えていた。


【 後日談として 】


この大津浜への異国人上陸事件絡みで、当時、人々に口ずさまれた狂歌がある。

具体的にいつ作られたのか,誰が作ったのか、判っていないが、巧いものだと右馬之助が感心して利兵衛に語った。

『なにをして いつまでここに 異国船 人さわがしに はやくいぎりす』

 五月二十八日に上陸し、六月十一日の釈放まで二週間ほどの滞在であった。


米は日本人にとって、貴重な主食であるが、イギリス人にとっては軟禁の間、これでもかと毎日、米飯を与えられたのは迷惑であったのかも知れない。

当時の記録に、上陸した十二名の異国人に対して、白米一升五合ずつ食べさせたが、米は毎日余った、との記述がある。

いくら、日本人と比べて身体が大きな異国人でも、毎日、一升五合は多すぎる。

一日、三食として、一回あたり、五合である。

いくら何でも、食える量では無い。

当時、無足人の給金として、三両一人扶持という給金体系もあった。

年に、三両の金と食い扶持一人前が与えられるという給与体系である。

この三両一人扶持で雇われた侍を、当時の人々は、三一(さんぴん)侍とからかい、馬鹿にしたと云う。食い扶持一人前は、一日に米を五合与えるということであり、年で換算すると、一石八斗という米の支給となる。当時の日本人の成人男子ならば、この米の量で間に合ったということであり、これから見ると、異国人に与えられた米の量は一升五合で、日本人の三倍となる。いくら、『おもてなし』の国であっても、これは過剰なおもてなしであった。


また、記録に、異国人が酒に酔って、なにやら、歌のようなものを唄い、仲間内で戯れる光景も見受けられた、との記述もある。大津浜滞在中は軟禁されていたものの、酒があたえられていたという事実を示すものとして注目される。

船乗りは洋の東西を問わず、マドロスさんで酒が大好き、であったのだろう。


この大津浜事件が終息した後、その年の八月、病床に臥せっていた本多忠順が卒去した。

その跡目は長男の本多六郎が襲い、家老職も受け継いだ。

 この月、利兵衛と要助の兄弟にとって、朗報が入った。

 大津浜事件での利兵衛たちの忍び働きが認められ、泉藩の徒士(かち)無足(むそく)に利兵衛が取り立てられたのである。波立薬師で本多章の急場を救ったということも、或いは、あったのかも知れない。三両二分二人扶持という給金が与えられた。

 利兵衛、要助は勿論、おときにとっても、ありがたい話となった。

 最低限ではあったが、暮らしの目途が立ち、少なくとも、飢えるという苦しみは無くなった。おときは、妾奉公の話を断り、利兵衛と将来を約束する間柄となった。


本多忠順の死で、秋に予定されていた章とおきくの祝言が翌年の春に延びた。

春、衣笠家を出立するおきくの婚礼の一行を、路地の片隅で見送る要助の姿があった。

温暖な磐城の地であったが、季節外れの雪が降り、婚礼の列が歩む道をほんの少し、白くさせていた。雲間から陽が射し込み、降った雪をきらきらと輝かせていた。

要助は菅笠の下から、白無垢の(ねり)帽子(ぼうし)を被り、馬に揺られていくおきくの姿をじっと見詰めていた。


この大津浜事件が起こった翌年の文政八年二月、幕府は異国船に対する無二念打払令を出し、鎖国体制を古来からの祖法、国是とした。

逆に言えば、この大津浜事件が契機となって、幕府としては、我が国は昔から鎖国をしているのだと言う認識を改めてしたわけであり、それまでは鎖国をしているという認識があまり無かったということになる。

この無二念打払令以降、異国船が沿岸に近づいた時は、容赦なく、無条件に攻撃をして構わない、という態勢になった。


三年ほど過ぎた、或る夏の日のことである。

泉陣屋から少し離れた小高い丘に、生蓮寺というお寺がある。

泉藩士の多くがこの寺を菩提寺としている。

或る墓石の前に、要助が佇んでいた。

木立の中からは、蝉の声が寺の静寂をことさら破るように聞こえている。

かまびすしい蝉の声はあたりの暑さを殊更増しているようであった。

要助は手に浜茄子の花を数輪持っていた。

その浜茄子は今朝、小浜の浜に行き、砂浜に咲いていた浜茄子であった。

要助はその花を墓石に手向けた。赤い花びらが風にひらひらと揺れた。

この寺は曼珠沙華が群生する寺として知られ、秋の彼岸の頃には、血のような真っ赤な花を咲かす。彼岸花とも呼ばれる、不気味に赤いこの花はこの地方では、じゃんぽんばな、とも呼ばれている。じゃんぽん、すなわち、葬式が似合う、不吉な花と見られている。

要助は思っていた。

かの人は昨年、じゃんぽんばなが咲く頃に逝ってしまわれた。

享年十七という、墓石に刻まれた齢がまことに切ない。

そして、今、新盆の季節を迎えている。

どこからか、新盆廻りのじゃんがらの道中太鼓の囃しが聞こえてきた。

かの人はお産の時に、赤子と共に、お亡くなりになった。

残された夫の亀田章様は近々、新しい奥様をお貰いになられるそうだ。

利兵衛兄じゃとおとき姉の間には赤子が生まれた。

死ぬ生命(いのち)もあれば、新しく生まれてくる生命もある。

これがこの世の常か。

要助は暫く佇み、かの人、おきく様のことを想っていた。

時々は、この寺に来て、蝶でも飛んでいれば、あの時のように、両手を網にして捕え、またおきく様に見せてやりたい。

おきく様はまた、あの時のように、にっこりと微笑んでくれるに違いない。

おいらもいつかはあの世へ行く。あの世で、おきく様と会うかも知れない。

そして、人はまた、この世に生まれ変わる。おいらとおきく様も生まれ変わる。

その時は、同じ身分の者同士に生まれ変わりたい。おきく、と呼べる身分に。


暑い夏の日のことであった。

蝉がまたひとしきり鳴いている。

要助はまだ佇んでいる。





【参考文献】

『奥州泉藩 黒船異聞』水澤松次編

『文政七甲申夏異国伝馬船大津浜へ上陸幷諸器図等』加藤松籮編

『いわき市史』第九卷 泉藩

他、インターネット情報


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