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ロマンヌの癒し日記  作者: ほか
第1話 たやすく光らない姫
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4 セシルの悩み

 今日はレストランは早めにおしまいになりました。

 誰もいなくなったダイニングで、セシルは一人、後片付けをしていました。今日の彼女はやはり、いつもと様子が違っていました。普段は仕事を着実にこなしていくタイプの彼女ですが、今日はいつにも増して、多く仕事を引き受けるのです。

 その仕事の量が尋常ではありませんでした。

 まるで働くことによってなにかをすっかり忘れようとしているようにも見えるのでした。

 「ご苦労さん」

 セシルの方が一度大きく跳ねました。

 「……オーナー」

 ロジェがワインを片手に、ウインクして言いました。

 「たまには付き合ってくれよ、セシル。これ、もう今日明日中にあけないと、味が落ちるんだ」

 「……はい」

 セシルは生気のほとんどない目で頷きました。


 「今日はさすがの君でもキツかっただろ」

 ロジェはワイングラスにワインを注ぎながら、こんなふうに切り出しました。

 「いいえ」

 セシルは抑揚のない声で答えました。

 「わたし、ありがたかったです。かえって、余計なことを考えずに済みますから」

 「……セシル」

 「オーナー」

 ロジェははっとしました。

 「……少し、訊いていただけますか」

 両目の涙の粒を人差し指でぬぐうセシルの顔には、微笑がありました。


 口火を切ったのはいいものの、セシルはそれっきり黙りこんでしまいました。なかなか言い出しづらいものがあるのでしょう。

 「ごめんなさい。少し、考えさせてください。どうお話するか、少し、整理したいんです。……ってオーナー、訊いてます?」

 「……あ、あぁ」

ロジェは我に返りました。

 「いや、珍しいこともあるもんだと思ってさ。いつもてきぱきしてて、着実に物事こなしてく君が、なにかにつまづくなんて」

 セシルはまた生気のない瞳で微笑みました。

 「私だって、人間ですから」

 「いや、悪いって言ってるんじゃないぜ」

 ロジェは優しく微笑みながら言いました。

 「むしろ、立ち止まっていろいろ考えてみる、いいきっかけになると思う。前ばっか見て走ってるとさ、そのうち息が詰まるじゃん」

 「そう……!その通りですね」

 このとき急にセシルはなにかに思い当たったとでも言うように瞳の奥の黒い部分をかすかに開いたのでした。

 「わたしも…。息が詰まっているのかもしれません」

 「なにがあったんだ」

 セシルは恥らうように下を向くと、話し始めました。

 その話の冒頭は意外なものでした。

 「私、実は小さい頃はよくいじめられていたんです。引っ込み思案で臆病な子で、いつも周りにどう思われているか、びくびくして」

 「そりゃ、なんか……」

 ロジェは慎重に考えてから、こう言いました。

 「今のセシルとは、大分違うな」

 「えぇ。そのときがとっても辛かったから。すぐに変わったんです、私」

 セシルは相変わらず空っぽな笑みを見せて言いました。しかし次の言葉を話しているときの彼女は、なんだかうっすらとした影をその瞳のなかに秘めているようで、隠れてその様子を窺がっていたロマンヌはそれを敏感に感じ取り、震え上がったのでした。

 「大人しくしてるとつけ上がられるから、誰よりもハキハキ喋って、なんでも自分でやって堂々としていようって思ったんです」

 ロマンヌはふと気が付いてパパのほうを見ました。パパはどう思っているのでしょう。今のセシルお姉ちゃんの言葉について。

 ロジェは難しい表情をしていました。それは複雑で、なにを考えているのか、一見しただけではわからない表情でした。

 「でも今回ばっかりはちょっと気がくじけちゃった」

 ロジェは切なそうにセシルを見返しています。ロマンヌも、苦しいような辛いような気持ちでいっぱいになりましたが、ぐっとこらえて身を乗り出しました。

「先月、市場で出会った男性――メディスって言うんですけど――が問題なんです」

 セシルの話によると、彼は貴族の出身で、お忍びでここ、ラロシェルに買い物に来ていたのですが、どうも、話をしていくうちにセシルに惹かれていったらしいのです。

 それを彼から打ち明けられたとき、セシルは戸惑いつつも、嬉しかったと言います。なにしろ真面目一筋で男性関係には全く縁のなかった彼女は、これもようやく訪れた人生の春なんだと、喜んで交際の申し出を受け入れることにしたのでした。

 しばらくの間、レストランのみんなにはそうとは悟られずに幸せ気分いっぱいで過ごしたセシルでしたが、そのあとがいけませんでした。

 ある日いつものようにメディスとの待ち合わせ場所に赴いた彼女でしたが、いつまで経っても彼がやってこないのです。仕方がないので諦めて帰途につくと、なんとその途中で他の女性と腕を組んで歩いている彼の姿を発見してしまったのです。そして2人のこんな会話を聞いてしまったのでした。

『ねぇ、まだ遊んであげているの?あのセ……なんとかって子と』

『あぁ、もうそろそろ飽きたかな。あんな暗い田舎娘』

「ひどい…!」

 ロマンヌは怒っていました。本気です。セシルお姉ちゃんは暗くなんかありません。確かにほかのシェフやパティシエに注意しているときはちょっぴり怖くもあります。でも根は照れ屋さんで、だからこそあまり優しい素振りが見せられないだけなのだと、ロマンヌは知っていました。それだけではありません。ほかの従業員だけでなく、自分にも本当はとっても厳しくて、厳しすぎて、ときにイライラしてしまうんだということを。でもロマンヌの前ではいつも、よきアドヴァイスをしてくれる優しいお姉さんだと言うこと。ロマンヌの知らないセシルお姉ちゃんだって、このほかにもたくさんいることでしょう。そんな彼女を、暗い田舎娘だなんて、たった一言で片づけてしまうなんて……。


 「許せないわね」

ギュッとこぶしを握り締め、闘志を高めていると、後ろから声がして、ロマンヌは振り返りました。

 そうしてみてびっくり。そこにあったのはひとりの姿だけではありませんでした。今声を発したママのほかに、パエリエお姉ちゃんや、レアの姿があります。

「3人とも……」

呆然としているロマンヌをよそに、パエリエお姉ちゃんが先程のママの言葉に頷いて続けます。

 「女の敵の典型ね」

 そう腕を組んで睨みをきかせたあと、

 「でもセシルってば、なんでロジェなんかに相談してんのかしら。この手の話なら、女のあたし達のほうが、よっぽどよくわかることくらい思い当たりそうなものだけど」

 「ロジェは案外考えが柔らかだし、それに、存外優しいから。……セシルとふたりっきりっていうのは、ちょっとだけ心配だな~と思って見に来ちゃったんだけど、そういうことなら、どうぞ、喜んでお貸ししますって気持ちよ」

 「……はいはい、ごちそう様」

 うんざりといった感じで返すパエリエでしたが、なにも反論しないところを見ると、プレヌが惜しげもなく称えるロジェの美点を実は誰よりもよくわかっていながら、それを認めたくない気持ちから、先程の言葉を発したといったところでしょう。 

 「現実の男なんてあんなもんだもの。あんたは恵まれてるわ」

 「まぁ、パエリエ。それはお互い様でしょ」

 「ううん。実際に紳士方に囲まれてるってだけじゃなくて―」

 旦那さんと上手くいっていないからでしょうか。パエリエは器用に話題をすり替えました。

 「あんたの頭のなかには、とっても素敵な男性が住んでるみたいだから。もう羨ましくなるくらいにね」

 「え?」

 ……。

 「「「あぁ」」」

 少しとまどったあと、プレヌ、ロマンヌ、レアの三人が、示し合わせたように同時に目を見合わせました。

 季節は4月。もうじきサン・ジョルディの日です。昔スペインのカタルーニャ地方のモンブランク村にいた一匹のドラゴンに生贄に捧げられた娘を助けようと騎士、サンジョルディがドラゴンをひと突きすると、そこから流れ出た血から、赤いバラの花が咲いた、という伝説から、ここラロシェルでは、毎年騎士に扮した男性と姫に扮した女性が広場に登場し、お芝居を披露するという行事があるのです。

 今年のその騎士役に、なんとプレヌが選ばれたのでした。それというのも、レストランのみんなやロジェの友人たち、近所の人達も集めて定期的に“スピルト”で開いているパーティーで、舞台女優志望であるレアが監督(時に主演)を務めるお芝居のなかで、凛々しい騎士や王子役をさっそうと軽やかに、そしてどこか危うく色っぽく(ロジェ曰く、男になったときの彼女の色気は普段の様子からすると信じられないくらいなのだそうです。これを耳にした当人はぷんぷん。もう、失礼しちゃう)演じるプレヌの評判が口コミで広がり、とうとう今回本場での(?)男役を頼まれるに至ったのでした。

 お稽古を見たパエリエは意外にも、プレヌの演じる男役に、そのあと余韻が覚めなかったりしているのでした(彼女の性格上、口には出しませんが)。

 「ねぇ、ところであのこと、ロジェになんで言うの?」

 パエリエがプレヌに囁きました。

 「うーん、それが悩みの種なのよね」

 どうやら劇のことで、なにかロジェに隠し事があるようです。なんだろう、とロマンヌも思わず考えていると、

 「しょれより今はセシルお姉ちゃんの悩みでしゅっ!」

 案外しっかり者のレアが話の流れを軌道修正します。

 みんなは再び、女性に特有のおしゃべりをやめて、ロジェと、そしてセシルのほうへと視線を移しました。

 「でもわたし、あんなことがあったあとでも、忘れられないんです。……まだ、好きみたいなんです。彼のこと」

 おかしいですよね、そう苦笑して話を終えたセシルに対して、ロジェが出した答えは、

 「おかしくはないって」

 でした。

 「そんな人やめとけとか、諦めろって言われても、気持ちってのは現実に即して合理的にいかないのがふつうなんじゃないかな」

 「オーナー……」

 「無理に否定してると間違って自分そのものまで否定したくなったりする」

 それが真面目なセシルには怖いと言ったロジェにセシルは畏れにも似たものを感じました。

 ひょうきんでソフトなように見えて、人の事をよく見ているオーナーです。

 「どうにもならない感情はしばらく、ほっとけばいいよ。

 のんびり、和らぐのを待つんだ」

 そう言ってくれたロジェに会釈して立ち去って行く背中でセシルは聴いたような気がしました。

 気持ちが和らぐ方法を唸って考えてくれている、頼りになるオーナーの声を。


 セシルが店から帰っていくのを見送ると、ロジェは部屋の裏側の壁に向かって呼びかけました。

「さ、そろそろ出て来いよ」

彼の言葉に従ってばつが悪そうに姿を見せたのは、プレヌでした。

「ごめんなさい、ロジェ。盗み聞きするつもりは……」

「わかってるよ」

ロジェはわざと不機嫌そうな声を出しました。なぜって、

「わたし、セシルとロジェがふたりっきりになってるのを見て、それで心配になって、つい……」

 そう。これ。これが聞きたかったのです。

 ロジェが怒っているとばかり思っているプレヌは彼にわかってもらおうと、彼の背中に両手をまんまと添えてしまっています。

 おもしろいので、ロジェはそのまま演技を続けることに。

 「けど、話聴いてくうちにわかっただろ、これは聴いちゃいけない話だって」

 「そうだけど……」

 プレヌは悲しそうな顔をして続けます。

 「でも、話を聴いたら、なおさら最後まで訊かなきゃって思ったの。セシルはわたしたちにとっても大切な仲間よ。だから協力したいの。でも、盗み聞いたことは悪かったわ。本当にごめんなさい」


 「は~ぁ、パパもしぇいかくわりゅいでしゅわね~ぇ」

 怒っているパパを目の前にしてビクビクのロマンヌとは対照的にレアは余裕顔です。

 「パパ怖い……。ママが『わたしが謝るから』って言って一人で出て行ってくれなかっ たら、私たちも今頃……。そう思うと、身体が震える」

 「ロマンヌ。わかりましぇんの?」

 「え?」

 レアはなんてことはないと言うようにロマンヌに言って聞かせました。

 「レア達が今ママと一緒に出て行ったらパパはあんなふうには怒りましぇんわ」

 「……どうして?」

 「パパはべちゅに本気で怒ってるワケじゃありはしぇんもの」

 「……それって?」

 ロマンヌはなにがなんだかわからなくなってしまいました。

 レアはこういうところは自分よりずっと大人びていて感心して(?)しまうのです。


 「……まぁ。演技だったの?」

 「まぁね」

 ロジェは吹き出しながら種明かしをしました。

 「もーぅ。私真剣だったのに」

 「悪い悪い」

 「でも、どうして怒ったふりなんて?」

 プレヌは目をまん丸くして聞いてきました。

 ……本当にわかっていないようです。

 教えてやるか迷いましたが、今回は怖い想いをさせたという引け目もあって、正解を伝えることにしました。

 「……妬いてくれてるのかな、と思って」

 「まぁっ」

 プレヌの顔は真っ赤になりました。

 「ロジェったら。もう知らない」

 「だって現に妬いてんだろ?さっきそう言ったじゃねーか」

 「それは……フン。とにかく、もう知りません」

 そう言い切ってしまってから、プレヌはふと、

 「でも、ロジェって意外と演技派なのね」

 「はぁ?」

 「そうだ!もしかしたら、まんざらでもないかも」

 「なんの話?」

 「あのね」

 プレヌは笑顔で切り出すことにしました。先程、パエリエと話していた、ロジェには切り出しにくい話を。

 「今日のお稽古でね、こんな話が出たの」

 「あぁ、サン。ジョルディのときにやる、お前がかっこよくなるって評判の」

 「そう。それでね、お姫様役の子が怪我をして出られなくて困ってるの。……そこでね、ヴェルレーヌさんのとこの旦那さんはどうかって、みんなが」

 「はぁ?!」

 ロジェは絶叫しました。

 「ちょっと待てよ。なんでオレが、しかも女役っ。適任なんてほかにいくらでもいるだろ」

 「それがねー、夫婦で出て、しかも男女で役が逆転してるなんて、こんなにおもしろい話はないからって」

 「おもしろいって、俺達は見世物かよ」

 「そうじゃないとも言い切れないんじゃない?だってわたしは、ラロシェル一おいしいレストランの看板娘だし」

 「俺は看板じゃない。オーナーだっ」

 「でもいいじゃない。こういうときくらい、サービス精神で街の人を楽しませてあげましょうよ」

 「オレがサービスするのは料理だけなの。絶対やだぞ。女装なんて」

 「あら。みんなも言ってたけど、あの衣装、あなたにとっても似合いそうよ」

 「だからやだって」

 生まれつきの女性よりの容姿のことを言われて狼狽えるかと思えば、ロジェは突然そこで、電撃に撃たれたように動かなくなりました。

 「それだ」

 「え?」

 「ときには、着飾ってみないと、だめなんだ。思いっきり」

 「……あら。いきなり妙にやる気ね。もしかして、そういう方向に目覚めちゃったとか?それはそれで心配」

 「バカ。違うよ。ちょっと耳貸せ」

 ロジェから計画を聞かされたプレヌは微笑みました。名案でした。


 はてさて。プレヌが怒られているあいだ、パエリエはどうしていたかと言えば、それはなんと、シェフのルヴァに呼ばれてレストラン“スピルト”の裏口で話していたのです。

 聞くところによると、ルヴァはパエリエ達とは別の壁際でセシルとロジェの話を聞いていたようなのです。

 見てとるに、彼はすっかり興奮しきっています。

「本当なんでしょうか、パエリエさん。セシルが、セシルがあんなことを言われたなんて――」

 「本当もなにも」

 パエリエはその様子にしばし呆れて言いました。

 「本人がそう言うんだからそうなんでしょうよ」

 「あぁ」

 ルヴァは崩れるようにその場にしゃがみこみました。

 「彼女がこんなにも傷ついているときに、僕は一体なにをやっていたんだろう。僕は――」

 「あんたやっぱり」

 前々から思っていたことを、パエリエはついに口に出しました。

 「好きなのね。セシルのこと」

 ルヴァは耳まで真っ赤になり、後ずさり、両手を上に上げて仰天しながら、

 「どどっ、どうしてわかったんですか?」

 「……あんた、感情が身体全体に出るタイプだって、少しは自覚したほうがいいわよ」

 思わず真面目に忠告してしまったあとで、パエリエは咳払いして、そしてさっぱりした笑顔で言いました。

 「いいわ。手伝ってあげる。ただし、あんたのためにじゃなくて、ろくでなし男に鉄槌を下すために、だけどね」



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