2 妖精イデア
――痛い、痛いよ。
――助けてくれ。
――痛いの。
え?なに?……なんなの?
書庫に足を踏み入れた途端、ロマンヌの耳に声が聞こえてきました。男の人の声、女の人の声、大人の声、子どもの声……。幾重にも声は重なっています。あまりの怖さに、ロマンヌは後ずさりました。
病気のときもそうでした。あるはずのない声がたくさんたくさん、聞こえてくるのでした。
――助けて。
――助けて。
……もしかして。
ロマンヌは波打つ胸をおさえました。また病気になっちゃったの?わたし……。
ロマンヌはこめかみを押さえて座り込みました。しばらくそのままにしていると、ふっとあることに気が付きました。声は確かに、この部屋のある一点から聞こえているのです。そう。ちょうど、ロマンヌの真正面にある書庫の一番奥の本棚の、真ん中あたりから……。
ロマンヌは恐る恐る、声のするほうへと、一歩一歩、歩を進めていきました。
――この本からだ。
ロマンヌは意を決して、声の聞こえてくるえんじ色の本に手を伸ばしました。
ロマンヌが本の背表紙に手を触れた途端、
「わぁっ」
ロマンヌは思わずしりもちをついてしまいました。
本が一人でに棚から出てきて、中を向いて開いたのです。そしてそこから、なんと、何色もの光がとびだしてきたのです。ロマンヌは眩しくて、目を閉じました。
目を開いたとき、そこには相変わらず中に浮いた本と、その上に気取って足を組んで座っている小さな ――本当に手のひらサイズしかない、小さな女の子がありました。
「本当に理想主義なのね、あなた」
女の子は開口一番、こんなことを口にしました。
「理想、主義」
文学少女のロマンヌは、この難しい言葉を知っていました。理想、つまり、目標とするものや望みがとても高い人のことです。
「どうして、私が理想主義なの?」
女の子が平然として答えました。
「あの人があなたの好きな人だってことが一つ」
ロマンヌはドキリとしました。あの人とは、エルネスト先生のことでしょうか。だとしたら、どうしてそんなこと、この子が知ってるの?
「あと一つは、あなたがこの本に選ばれたってことよ」
ロマンヌは目をぱちくりさせました。それを見てとった女の子は得意そうに、
「なにがなんだか、わけがわからないって顔ね」
ロマンヌは素直に頷きました。
「仕方ないわ。説明してあげる」
そう言いながら、女の子はくるりと宙を一回転したので、ロマンヌはますます目をまんまるくしました。
「この世の中にはね、あなたも知っての通り、たくさんの悲しみがあるの。それこそ7つの海を合わせたくらいの深い悲しみが。この本を書いた人は、それをたっぷり感じていて、それを少しでも癒やすために、物語を作ったの。でも時代を超えた今、またこの本は悲しんでる。近くに悲しんでる人がたくさんいるもんだから」
ロマンヌはふと、その本のページがしわくちゃになってしまっているのを見ました。
「あなたの役目は、これから7つの悲しみを探して、和らげていくこと。そうすればこの本も一章ずつ回復していって、また読めるようになるわ」
「……でも、わたしにできるかな、そんなこと」
「大丈夫なんじゃない?」
女の子は水色の髪をかきあげながら、
「この本があなたを選んだんだから。いい?理想主義の人ってね、それだけ悲しみと仲のいい人なの。それにとりわけあなたは悲しみに敏感だわ。つまり、悲しみ専門家ってわけ」
「うーん、あんまり、嬉しくない、かも」
「あら、最高の褒め言葉なのに」
まぁいいわ、と女の子は足を屈み直しました。
「じゃ一応聞くけど。あなた、人の苦しみを失くす気はある?」
ロマンヌは真剣な顔になりました。
夢に出て来た、そしてさっき聞いた、あの声たち。
「うん。ある。わたし、悲しみを失くしたい」
あのときロマンヌが最後に思ったことは、どうにかしなくちゃ、だったのです。どうしよう、では決してなく。
「よし。良い返事だわ。あ、そうそう、自己紹介がまだだったわね」
女の子は誇らしげに、胸に手を当てて言いました。
「あたしはイデア。この本を守る妖精よ。よろしく」
「よろしく。イデアさん」
「イデア、でいいわよ」
「じゃ、イデア。えっと、わたしは……」
「あなたの名前はロマンヌ。エコール(小学校)の初等科2年生。シャイで、でも大人びてる性格ね。もちろん理想主義で、親友は妹のレア。好きな人は、エルネスト先生」
「どうしてそんなこと、全部」
「あ、あと、ちょっと一点しか見えないタイプでもあるわね。あたしのコレ、気が付かなかった?」
イデアは楽しげに後ろを向きました。その背中には、水色と黄緑色を合成したような透明な羽が生えていました。
「そっか。妖精さんだから、魔法が使えるんだね」
「あ、そうそう。あたしのことは、あんたの親友意外には、見られたらダメよ。その時点で、あなたの任務は終了します」
「任務……」
その重い言葉を、ロマンヌはしかと噛み締めたのでした。