1 誰かが傷んでる
夢の世界を、深くいけばいくほど濃くなるグラデーションで表現するなら、そこはほん の少しだけ濁った、けれどほとんど真っ白な世界。そこで、だれかが泣いているのでした。
男の人か女の人とか、大人か子どもか、それはわかりません。
ただその人がどうしようもなく傷んでいること。それだけがロマンヌにはくっきりとわかりました。なぜって、その人が泣く度に、ほかでもないこの胸がきしきしと痛むのですから。
痛い…痛いよう。どうにかしなくちゃ。なんとかしなくちゃ。
「そこで決まって目が覚めるんです」
エルネスト先生は、いつものごとく真剣な顔をして、ロマンヌの話を聞いていました。
「……なるほど」
そう一言呟くと、しばらく考え込んでしまいました。
エルネスト先生は、ロマンヌのパパのお友達です。そしてロマンヌのお友達でもあります。若くてとても素敵で優秀なお医者さんで、ここ、ラロシェルでは評判です。
そのエルネスト先生は考えを一段落つけた様子でこんなことを聞いてきました。
「ロマンヌ。最近学校はどうです?」
「はい! 楽しいです。とっても。イヴォンヌちゃんもいるし、それに、お勉強もだんだん楽しくなってきたんです。しばらくはみんなに追いつくのが、大変だったんですけど」
そういうと、エルネスト先生は労わるようなまなざしをロマンヌに向けて来ました。
ロマンヌはつい最近まで重い病気にかかっていたのです。俗に心の病気と言われるもののようで、近くにこのエルネスト先生がいなかったら、どうなっていたかわかりません。
そこでロマンヌははっと気づきました。
先生が最近学校はどうかと唐突に聞いてきた理由。それは彼女の心の状態を慮ってのことだったのでしょう。
「先生、あの……」
「はい?」
「私は最近、とっても元気なんです。学校が終わった後も、レアと遊んだり、パパやママとお料理したり、それからみんなでお話ししたり。だから、わたしのことは、心配しないで……」
エルネスト先生は、恥ずかしさから徐々に消え入るようになっていくロマンヌの語尾を、優しく包み込むように答えました。
「もちろん、君が元気なのはわかってますよ。でも、用心しないわけにはいきませんね。疲れっていうものは本人に自覚があるものとばかりは限りませんから」
そこまで言うとエルネスト先生は、その必要もないのに声を潜めて、
「ほら、君のパパを見てればわかるでしょう」
「……はい」
ロマンヌは神妙に頷きました。
ロマンヌのパパは、疲れ知らずだ、と自分で言っていますし、周りから見ていても、そんな風に思えます。
“スピルト”という名のレストランのオーナーをしていて、誰よりもくるくると働き、それでいて周りの従業員への気配りも忘れないときているのですから百点満点のオーナーと言えるでしょう。
しかしロマンヌは知っていました。
夜レストランで一人になったとき、パパの表情に現れる疲れと、そして寂しさを。強がりなパパのこと、お仕事でも一番家の立場だし、弱みを見せられる人がいないんじゃないか―誰の前でも完璧なオーナーでいて、パパは大丈夫だろうかと、ロマンヌは時々心配になるのでした。
「でも今は、ママが帰って来てるから、大丈夫だと、思います」
そう。ロマンヌのママは、てんかんという病気のせいで、ヴァンセンヌの病院に入院しているのですが、一時退院と称して、たまにこうして長く帰って来てくれるのでした。
「そうでしたね」
エルネスト先生はそこで話を打ち切りました。今問題にしているのはロマンヌのことです。
「じゃ、ちょっと胸の音を聞かせてください」
「はい」
ロマンヌは素直に上着を脱ぎました。不思議です。繊細な彼女は他の人の前で着物を脱ぐのは苦手なのに、エルネスト先生が開いてだと、それが平気なのですから。
「異常はないようですね」
エルネスト先生はまた考え込んでしまいました。
「しばらく様子を見ましょう。なにかあったら、すぐにパパかママに言うこと。約束できますね」
「はい。ありがとうございました」
ロマンヌはぺこりとおじぎをして、診療所を出て行こうとしました。ところが。
「あ、先生」
再びエルネスト先生のところに走り寄ると、
「借りていた本、お返しします。ありがとうございました」
ロマンヌはその本の感想をたくさんお話ししました。エルネスト先生は優しいまなざしで聞いていました。
「それなら、続きが書庫にあるから、持っていくといいですよ、ロマンヌ」
「はい!」
ロマンヌは勇んで書庫に足を踏み入れました。