3 サン・バルテルミの爪痕
いつでもどこかへらへらしていて今風のギャグでレアやロマンヌを笑わせているパパ、ロジェ・ヴェルレーヌその人のちょっとかっこいいところ、皆さんは見たくはないでしょうか。
お話は今からざっと10年ほどさかのぼって、ママとパパがレストラン“スピルト”を始めた頃を見てみることにします。もちろんふたりはまだ結婚前。気になるラブロマンスをお伝えすれば、それこそ本一冊出来上がってしまうので、それはここでは割愛して、プレヌママをおとした若き日のロジェパパのすてきなところ、その片鱗が伺えるようなお話をしてみますね。
その日、レストランで使うからお魚買ってきてーとプレヌに頼まれて出かけた先で、面倒なことになったと、ロジェは思いました。
所はラロシェルのとある市場。魚や野菜の並べられたワゴンを前に買い物に興じているはずの人々は、今やワゴンの前に整列してこちらえを眺めています。中でも物好きな人々が彼と、そしてもうひとり――今、彼の目の前にいる相手、その名をブレーズとか言ったでしょうか――をぐるりとすぐ近くで取り囲んでいます。
ブレーズは、ロジェに決闘を申し込んできたのです。
「一つ聞こう」
決闘前だというのに上着の襟を整えながら、ブレーズは言いました。
「あの娘とは、どこまでいったのかな」
「……へ?」
ロジェはまぬけな声を出してしまします。どこまでっつったって、そりゃ…。
どこまででもありませんでした。自分とかの女性との中は、ただの仕事仲間なのですから。
ロジェが返答に窮していると、ブレーズは嫣然と微笑みました。
「ほう。答えられないというわけか。では貴様はもうあの娘を押し倒しでもしたということかな。フッ。それほど安い関係だということか」
ロジェの中で、なにかが切れました。
「だったらどうした。手軽で、ますます欲しくなったってとこか」
「……なに」
「さっきから言ってるように、プレヌはオレのものなんかじゃないが」
ロジェは手に持っている剣の切っ先をスッとブレーズの方へと向けます。
「安く扱われてるのを笑って見てられるような奴には渡せないな」
その一言で戦いの火蓋が切って落とされました。
ブレーズの剣は冷静に相手の痛いところをついてきますが、ロジェの剣も負けてはいません。ブレーズの剣を次々に弾き返していきます。
群衆は専らブレーズを応援しています。ところがそれに反してロジェの方の件が徐々に優勢になっていきます。もはや勝敗が決すまであと一歩というところでした。
「カミーユ!」
「あわっ!」
一人の中年の女性が、目の前に躍り出て、ロジェは慌てて剣をよけました。群衆がざわめきました。試合中断です。
女性はロジェに向けて切々と語ります。
「カミーユ、おやめ。戦うっていうことは、人を殺すことになるかもしれないんだよ。神様はこんなこと、望んでやしないよ」
目をぱちくりさせながら、ロジェはじっとその女性に見入りました。くたびれくすんだエプロン。黒髪も振り乱され、彼女の瞳には心配と、恐怖の気がありました。そして、ひとかけらの勇気も。
女性をひどく気の毒に思いました。自分は、この女性の求めているカミーユという男性ではありません。
「この女、気がふれているらしいな」
一方で、劣勢だった争いを中断されることとなったブレーズは、上機嫌で叫びます。
「どうだろう。この女を気絶させた方が、この決闘の勝者になる、というのは――」
ブレーズはなおも言いかけましたが、その言葉は続きませんでした。ロジェの剣が、彼の顔面に触れるか触れないかのところをかすめたのです。ブレーズは、自分自身が恐怖で気絶させられることになったのでした。
「ったく、さっきから黙って聞いてりゃとんでもない野郎だぜ。プレヌの奴、こんなのさっさと切り捨てろっつーの」
ロジェはぶつぶつ言いながら女性に近づくと、屈み込んで言いました。
「大丈夫ですか、怪我は」
女性ははっとしました。ロジェの背後に、先月のサン・バルテルミの祭日に殺された息子――カミーユの顔が映っていました。
夢から覚めた心地がしました。目の前にいるこの人と、息子は別人だ――。
女性は大声で泣き始めました。ロジェはそれを支えて、そこからふたりは、どこへともなく姿を消したと言います。
これが、ロジェとミランダとの出会いでした。
ミランダは近頃ボーッとしています。いつもはテキパキとしてふっくらしたラロシェルのレストラン”スピルト”の料理長が、一年のうちでこの時期が近付くと、いつもこうなるのです。気分は暗鬱としていて、まるで青空に暗雲がたちこめたようです。
ところが、どうしたことでしょう。調理室の窓辺でお皿を拭いていた彼女がふいにくすり、と笑みをこぼしたのです。
「ボケーっとした次には思い出し笑いか?なんか、恋する乙女みたいだぜ」
その声を聞くと、ミランダは含みのある笑顔になり、
「ロジェかい。年寄りをからかうもんじゃないよ。けど、そうだねぇ、あたしがあと2、30年若かったら、考えてやらないこともないよ」
「おいおい、誰が考えてくれ、なんて言ったよ。一応妻子ある身なんだからな」
「そりゃこっちもだよ。もっともあたしの方は、両方死んじまったけどね」
ミランダの物言いがおもいのほかさっぱりしていたので、ロジェは聞き辛かったことを、口に出すことができました。
「息子さんのこと、思い出してたのか」
「まぁね。けど途中からどういうわけか、あんたと出会った時のことに回想が傾いちまったのさ」
「……あのさミランダ。悪い。もしかして辛いこと聞くかもしれないけど」
「なんだよ畏まって。あんたらしくもない」
「そういう経験した後って、やっぱ考えたか。仇討ちとか」
「そうだねぇ」
ミランダはそれまで顔を向けていた窓辺から視線をそらさずに答えました。
「大昔のことだ。忘れちまったね。でも、いいのさ。あたしはね、人はいったん沈み込んだら、それを糧にして何倍も高いとこへ行けるって、そう思ってるんだ。だからいつまでも憎いだなんだって、尻を地面につけてらんないよ」
「……そうか」
「奴隷船のことかい」
「……!……あぁ」
ロジェは戸惑いつつも頷きました。
彼はかつて奴隷船で働いていました。そのことで、自分を責めてもいました。
「その仕事をしてたことで、あんたは恨まれたり、誤解を受けたりすることがあるかもしれない。けどね、ロジェ。あんたには、あんたのことちゃんとわかってくれる人もいる。だからそのときの苦しみをばねにして、高みにいきな」
「……行ける、かな」
「なーにを弱気になってる、プレヌと結婚して、こうして立派にロマンヌとレアだって育ててるじゃないか」
ミランダは、ロジェに向き直りました。
「風貌はあたしの息子そっくりでも、中身はまるで違う。カミーユは理想があった。でもあんたは、極度に現実的だね」
ミランダはうっすら微笑しました。なんだか彼女らしくない笑い方でした。
「今だから言うけど、プレヌと一緒んなる前は、時々かわいそうになったもんだよ、あんたが」
ミランダは顔を歪めてそう言いましたが、すぐに表情を和らげて、
「でも今じゃ安心だね」
「……あぁ。今はプレヌも、ロマンヌもレアもいる。自分が夢見なかった分、娘達には、たくさん夢を見てほしいと思う」
「バカ言っちゃいけないよ。あんたも見るのさ。人が物みたく殺されてくこの時代、死んだ人たちが見続けるのを叶わなかった夢をね」
「……」
ロジェは天を仰ぎました。そんな贅沢が、かつて殺人享楽者と言われた自分に許されるのでしょうか。答えは出そうにありませんでした。しかし。
もしも許されるとしたら、自分はどんな夢を描くでしょうか。答えは案外、手の届くところにありそうでした。




