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佐藤 和雄

    1


 夜の十二時を過ぎ、日付は五月五日に変わった。橘さくらが亡くなった日だ。

私は道路の端に十五年以上連れ添っている愛車、黒のワンボックスカーを停めて、その日行った同窓会での計画の失敗と十五年前に受け持った二人の不登校の生徒について話していた。その時、鮮やかな黄色の自転車に二人乗りをした男女が勢い良く道路へ飛び出してきた。

「濱、追うぞ。」

その自転車を見た瞬間、私は運転手に指示をした。運転席に座っていた濱という男は慌ててキーを回して、再びエンジンをかけた。そして、少し距離を保ったまま、二人乗りの自転車を車で追いかけ始めた。後続車に迷惑を掛けないように、我々はハザードを点けながら、路肩を走った。

 自転車を運転しているのは十五年前に受け持った男子生徒で、荷台に座っているのは今受け持っている女子生徒だった。私は十五年前の事を思い出しながら、自転車の後を追った。十五年前の五月五日、私は初めて自分の生徒との死別を経験した。優しくて、賢くて、将来が楽しみな生徒だった。そんな生徒の輝かしい未来を奪ったのは私だ。直接では無くても、例え間接であっても、私が未来を奪った事には変わりない。そう思いながら過ごした十五年間、ずっと後悔していた。

あの日も、同じようにすれば良かったのだ。



   2


 「人生設計書 三年一組 佐藤 和雄」


 「十五歳 柔道の大会、団体で優勝。楽しい思い出を作って卒業。南高校に合格。」


 ずっと教師が嫌いだった。

 気に入った生徒を依怙贔屓し、気に入らない生徒に対しては自分の感情で怒り、暴力を振るう。そして、自分の非は一切認めない。教師は聖職者と言われる職業だが、そう呼ばれるのに相応しい教師には会った事など無かった。

私自身、依怙贔屓された記憶も、目の敵にされた記憶も無い。それでも教師達の日頃の行いについては、いつも気に入らなかった。勿論、教師が嫌いだからと言って、校内暴力などは行った事は無い。自分で言うのもなんだが、私は真面目な生徒だったと思う。無遅刻、無欠席。成績は全学年二百名の中で九十位。柔道部に入部し、引退するまで部活を休んだことは一度もない。教師が嫌いな私だったが、学校は好きだった。

友達や後輩や先輩、みんなが好きで仲間には恵まれていた。だからこそ、仲間達が教師から理不尽な扱いをされるのを見たり、聞いたりする度に私は腹を立てていた。そんな話を聞く度に思う。自分が教師だったら、依怙贔屓などしないで、一人一人としっかり向き合うだろう。必要な時以外に体罰は行わない。生徒を叱る時は、感情に任せるのでは無く、冷静に、そして生徒の為に叱る。生徒一人一人の人権を尊重し、命令口調では話したりしない。丁寧に語りかけるよう心懸ける。そんな事を毎日考えていた。

私には親友と呼べる友がいた。濱健一。小学校の一年生の時に同じクラスになったのがきっかけで仲良くなった。少し複雑な家庭環境で育った彼は、所謂不良と呼ばれる生徒だった。朝は遅刻して学校へ登校し、給食を食べて、午後の授業が始まる頃には学校を抜け出す。仲間を引き連れ、煙草を吸いながら道いっぱいに広がって歩き、時には他校の生徒と喧嘩もしたそうだ。それでも濱とは気が合った。部活が無い日は一緒に遊んだ。給食は必ず一緒に食べた。テストの度に勉強を教えてあげた。濱は悪い人間では無い。彼の周りの仲間達も決して悪い人間では無い。みんな寂しいのだ。濱は本当に優しい男だ。私はそれを知っていた。それでも、彼の複雑な家庭環境のおかげで教師から理不尽な扱いを受ける事も多々あった。彼はその度に大人を信じられなくなり、私は教師を信じられなくなっていった。

そんな私の思いが形になるのは、濱達と出掛けた花見の時であった。

私が通っていた王子中学校では三年生の春に立志式が行われる。立志式とは、元服にちなんで生誕十五年を祝い、過去の人生を振り返り、親に感謝し、そして将来の目標を明確にして自立を促す、そんな儀式だ。学年が変わってすぐの四月、立志式に向けて「自分史」と「人生計画書」の二つの宿題が我々には課せられた。「自分史」とは、生まれてからの十五年間、自分がどのように育ってきたのか、自分の年表を作る物だ。「人生計画書」とは、十五歳、二十歳、二十五歳、三十歳という人生の節目に、自分が何をしているか、何になっているかを計画し、そのために何をすべきか考え、纏める物であった。

私は当時、柔道部の部長を任されており、特に目立った素行の悪さも無く、友人も多かった事から教師からの人望も厚く、立志式の実行委員長に選ばれ、五月に行われる式を取り仕切る事になった。そして、立志式の実行委員はそのまま十五年後の同窓会の実行委員もやらなければいけない。当然、立志式の実行委員長は、同窓会でも実行委員長となる。誰よりも教師を嫌っていた私が、十五年先まで教師と関わる事が決定した。

立志式を直前に控えた休日、私は濱やその仲間達と一緒に花見へ出掛けた。

この年は記録的な異常気象だった。梅雨が異常に長かったり、夏の最高気温が各地で四十度を超えたり、初雪が異常に早かったりと、観測史上の記録は大概その年に更新された。私達が住んでいる東海地方では桜の開花にも影響がでた。毎年四月初旬に満開となっていた桜は、その年は五月の初旬に一ヶ月遅れで満開を迎えた。

何故開花が遅れたのか、何故東海地方だけ開花が遅れたのかなど、私には分らなかったが、私があの時、仲間たちと見た桜は例年以上に美しく咲いていた。あの時の桜の美しさは一生忘れないだろう。満開の桜の中、私は濱達と様々な事を語り合った。日頃の不満や好きな女子の話、そして将来の夢についてだ。

その時、濱から言われて、私の道は決まった。

「和雄、そんなに先生が嫌いで、自分だったらどうするかって考えるなら、自分が先生になれば良いだろ。」

自分が教師だったらと想像を繰り返すうちに、私の将来の夢が決まっていった。

私は教師を志すようになった。

それから、私は毎日学校へ行っては、嫌いな教師達の話を一言も聞き逃さないように、集中して授業に取り組み、放課後は部活で汗を流し、帰宅してからその日の授業の復習と翌日の為の予習に励んだ。私は夢を持ち、それに向かって努力する事で人生が輝き始めた。もし私が教師になる事が出来るのであれば、生徒達の人生を輝かせたい。そう思っていた。

一人の教師に対して、生徒が四十名。これで一つのクラスが成り立つが、その関係性というのは一名対四十名という構図で考えてはいけない。一名対一名、それが四十個あるのが一つのクラスなのだ。生徒にとって、教師は一人しかいない。私は生徒一人一人の人生が輝くように、生徒の手伝いをしたい。

私の夢が固まり、人生が輝き始めた。

  

 「二十歳 教育大学に進学。勉強に柔道に全力投球。」


 一年の浪人生活の後、私は無事に県内の教育大学に入学した。

 浪人生としての一年は辛く厳しく不安な時間だった。それでも、努力を続ける事が出来たのは、親友のおかげであった。

 高校卒業後、運送会社の配達員として働き始めた濱は、給料が入ると翌日には私のところに来て、気晴らしに食事やドライブに連れて行ってくれた。

 「大丈夫だ。和雄。お前なら大丈夫だ。」

そんな濱の言葉を胸に、大学入学後も中学生の時からの夢である教師を目指し、手を抜くこと無く、勉学に励んだ。また、高校生の時から始め、自分の最も好きなスポーツとなったラグビーも勉強と並行して続けたくて、入学初日からラグビー部に入部した。

部活に勉強に全力で取り組んだ。

 決して強豪校では無かったが、ラグビー部で知り合った仲間達は私の生涯の友となった。勵まし合い、慰め合い、共に泣いて、共に笑った。そんなかけがえのない仲間が出来た事だけでも私は幸せだった。


「二十五歳 中学校の教師になる。今までの教師とは違い、生徒の為に働く。」


 念願叶って中学校の教師となった私は期待に胸を躍らせていた。

 私は、生徒達の世界がより輝くように導く事こそ自分の生涯を賭けて臨むべき仕事だと思っていた。その為に厳しく接した事もある。規則に細かく、少し過剰な指導もしてきた。それでも、生徒達の夢や野望については精一杯の後押しを惜しみなく行った。生徒から見て、良い教師だったかは分からない。恐れられていた事も分かっている。それでも私は全力で生徒達と向き合ってきた。それだけは自信を持って言える。

また、その頃、生涯の伴侶となる女性と出会う事が出来た。保育園で働く一つ年下の女性で、ラグビー部の仲間の紹介で知り合ったのだが、私は一目惚れをした。一年かけて口説いた。最初は相手をしてくれなかった彼女だが、最後は根負けし、交際に発展した。その後、二年間の交際の後、二十七歳の時に結婚した。その四年後に第一子である男の子を授かり、さらにその二年後に女の子を授かった。夫婦共働きで、子供達には少し寂しい思いをさせてかもしれないが、家庭については順調であった。

付き合い始めた時、結婚式の時、第一子が生まれた時、第二子が生まれた時、いつだって濱は自分の事のように喜んでくれた。結婚式の時には、濱の泣き顔を初めて見た。

 

 「三十歳 教師として働きながら、生徒一人一人の夢を叶える。」


 教師となってから四年目、私は母校である王子中学校に配属された。最初の年は副担任として、二年生のクラスを受け持つ事となった。特に問題がある生徒はおらず、よくまとまった良いクラスだと思っていた。だが、私はまったく気付いていなかった、このクラスの実態に。そして、気が付いた時にはすでに遅かった。

その年の二学期、クラスから不登校の生徒がでた。クラス内の虐めが原因だった。その被害者となった生徒は、土田達郎という元気で前向きで可能性を信じる事が出来る男子生徒だった。彼が登校しなくなったその日まで、私は彼が追い込まれていた事実についてまったく気付いていなかった。

私は無力な自分を悔やんだ。理想のみを掲げ、行動が伴っていない愚かな自分を許せなかった。ホームルームの時間を利用し、土田達郎を除くクラスメート全員で虐めについて話し合った。虐めを行った生徒、見て見ぬふりをしていた生徒、まったく気付かなかった教師、すべてに責任がある。そう考えていた。

虐めの主犯格だと思われる生徒に対しては厳しい指導を行った。体罰だと言われても仕方が無いような行動もあった。二度と同じ事が起こらないよう、その生徒自身が行為の重大さについて理解するように徹底的に指導し、話し合った。それは自分自身にとっても間違いを認めなければいけない行為だった。

同じ頃、クラスに転校生を迎える事となった。橘さくらという成績優秀で同級生からの信頼も厚い女の子だと聞いていた。彼女は元々私立中学に通っていたが、虐めが原因で転校する事になったそうだ。転校初日、校門で待っていたが、いつまで経っても彼女は来なかった。どうやら、前の学校での虐めによって受けた心の傷は深く、転校後も学校に通う事が出来なかったのだ。

橘さくらが通っていた私立中学の教師を責めることは私には出来ない。私も同じだからだ。それでも私の生徒になった以上は、私が責任を持って彼女の心の傷を癒す。そう決めた。

 一つのクラスに不登校の生徒が二人。職員会議でも何度か問題になった。学年主任、教頭、校長。皆が私と担任の足立先生を叱責した。だが、そんな事は私にとって問題では無かった。何度怒られても構わない。私の評価が下がるだけなら、それでも良い。ただ、私は土田達郎と橘さくらの二人の世界をそれぞれ輝かせる事が出来ればそれで良かった。その為の方法は学校に来る事じゃなくても良い。学校に行かなくても、素晴らしい人生を送る事は出来る。

 足立先生と話し合った結果、私は土田達郎、足立先生は橘さくらのケアをする事に決まった。

 私は土田達郎と話をする為、時間の許す限り毎日のように彼の家を訪ねた。それでも土田達郎は不登校の生徒にしては珍しく、家を留守にしている事が多かった。会えるのは週に一度あるか無いかではあった。土田達郎の母親に話を伺った。毎日学校に行って、勉強して、友達と遊んで、高校に進学する事が一番の理想ではあるが、自分の息子にはそれが出来なかった。それならば、無理矢理学校へ連れて行くのでは無く、彼がやりたい事を優先してやらせたい、そう考えていらした。息子さんの夢は漫画家になる事だそうだ。彼はたくさんの漫画を読み、たくさんの景色を見に出掛け、絵の練習をして毎日を過ごしているそうだ。私は彼を応援し続ける事を誓った。

その後も私は土田達郎の家に通い続けた。運良く会えた時は決して彼の行動を否定せず、彼の話を真摯に聞く事から始めた。私は土田達郎の理解者になろうとした。

しかし、そんなある日、焦った足立先生が強硬手段を選んでしまった。土田達郎、橘さくらの両方の家を訪れ、脅しに近い説得を行った。明日、学校に来ないと転校しないといけないと。翌日、二人の生徒は学校に向かって家を出たそうだ。それでも、校門で二人を待っていた私の元まではたどり着けなかった。二人は再び学校に不信感を持っただろうか。それとも、学校へ行けない自分達を責めたのだろうか。

しばらくして、足立先生が怪我をしてしまい、入院した。それをきっかけに私は橘さくらの家にも訪問するようになった。勿論、彼女に対しても私の行動は変わらない。無理矢理連れて行くのでは無く、話を聞く為に、そして彼女の理解者になることが目的だった。

最初、橘さくらは何も喋ってはくれなかった。無口というよりは、こちらを拒否しているかのように目を合わせる事すらしてくれなかった。彼女自身、学校や教師だけでは無く、この世の中すべてに失望しているかのように見えた。

しかし、数ヶ月が経った頃、彼女に変化が見られた。徐々に色々な話をしてくれるようになったのだ。今日は何をしていたのですかと聞くと、いろいろな答えが返ってくるようになった。

「桜ライダーっていう漫画を読んでいました。すごい面白くて泣けるんです。佐藤先生、読んだ事ありますか?」

帰りに本屋へ寄って、購入した。後にも先にも、漫画を読んで泣いたのはこの作品だけだった。

「ゲームやっていました。ずっとクリア出来なかったんですけど、いろいろ教えてもらってようやくクリア出来たんです。佐藤先生、ゲームやりますか?」

ゲームはあまりやったことが無かったので、週末に濱の家に行き、やらせてもらったが、私は何回やっても最初の敵機にやられてしまった。

「クッキー焼いていました。友達と食べようと思って。佐藤先生も良かったら一つ食べてください。今日のクッキー、自信作なんです。」

かなり美味しかった。お金が取れるレベルだと思った。

橘さくらの世界は徐々の輝きを取り戻していった。私はそれが嬉しかったのだが、一つだけ疑問があった。彼女はほとんど家から出ないのだが、漫画にしてもゲームにしても、どうやって手に入れたのだろう。クッキーは誰と食べたのだろう。彼女の世界に輝きを取り戻したきっかけとは一体何だったのか、腑に落ちなかった。

その答えはすぐに発覚した。その日、私は職員会議が長引き、橘さくらの家を訪れる時間がいつもより一時間程遅くなった。すると、彼女の家のベランダをよじ登ろうとしている人影を見つけた。強盗かと思い、「何してんだ」と叫ぼうと思った瞬間、ベランダの窓が開き、橘さくらが顔を出した。彼女が笑顔で迎え入れたその相手は強盗では無く、私の生徒である土田達郎であった。私は二人の無邪気な笑顔を初めて見た。そして、二人の笑顔を見た時、私はすべてを理解した。橘さくらの世界を輝かせているのは、土田達郎だ。しかし、それは決して一方通行では無い。お互いを必要としている関係なのだ。

二年生の三学期、土田達郎から相談を受けた。

「すげえ良い奴なんだけど、自分の事を駄目な奴だと思っている奴がいるんだ。」

話の切り出しで、それが橘さくらの事だと分かった。

 「俺はそいつに元気になって欲しい。もっと楽しい思いをして欲しい。学校でみんなと楽しい思い出をいっぱい作って欲しい。あいつは虐められているクラスメートを助けたんだ。何も悪くないのに、誰からも責められる必要が無いのに、あいつは自分を駄目な奴だって責めるんだ。今度は俺が助けたい。でも俺だけの力じゃ何も出来ない。だから…」

 わかっている。生徒が悩んでいれば、私は手を差し伸べる。そう答える代わりに、「橘さんが元気になったら、何をしたいですか?」と、私が聞くと、土田達郎は満面の笑みで答えた。「それは別に。今まで通り。」

 土田達郎が橘さくらを元気にしたい理由。それはあくまで橘さくらの為であって、土田達郎の為では無いのだ。私は感心した。私は全力で応援する事にした。二人を。

 土田達郎は翌日から動き始めた。クラスメートに橘さくらへの手紙を書いてもらうように頼んだ。橘さくらが安心して学校に来られるように、彼女を迎え入れる言葉を書いて、何通も送ってもらった。次に、自分を虐めていた主犯格の生徒と直接話をし、橘さくらが学校に通っても一切関わらないと約束をさせた。そして三学期の終業式を迎え、三年生へと進級したのをきっかけに土田達郎は学校へ再び通い始めた。橘さくらが通いやすい環境は整えた。最後の仕上げは、学校で自分が待つことだと思ったのだろう。

 土田達郎と橘さくらは三年生でも同じクラスになった。そして、そのクラスの担任は私が受け持った。それでも橘さくらは学校に来なかった。

そこで、土田達郎は橘さくらの小学生の時の親友である佐々木詩織を頼った。

佐々木詩織と、土田達郎の友人である木村秀明を連れて橘さくらの家を訪れ、彼女に仲間を作る事で、学校に通いやすくするつもりだった。しかし、土田達郎と橘さくらはその場で初めての喧嘩をしてしまい、計画は失敗に終わる。橘さくらは落ち込み、土田達郎は後悔していたのだが、この喧嘩がきっかけで、橘さくらは自分の意思で学校へと向かう事になった。初日は体調不良で通学が出来なかったが、彼女は土田達郎が自分の為に行動した内容を知り、再び学校に通う事を決意させたのだ。

私はその頃、とても忙しかった。三年生の担任になり、立志式の担当になった事でその準備に追われていた。さらに、自身の同窓会の幹事を務めており、同級生達に案内を送ったり、店を予約したり、細かな仕事が多くあり、橘さくらの家にも毎日はとても通えない状況になっていた。

朝からずっと雨が降っていた、四月の下旬のある日の事だった。真っ白な顔をして、土田達郎が相談にきた。彼は涙を堪えながら、橘さくらと喧嘩をした事を教えてくれた。後悔をしていると、謝りたいと、教えてくれた。「謝って、その後は何がしたいですか?」と聞くと、彼は一つずつ噛み締め、想像しながら答えた。私はそれを笑みがこぼれそうになるのを堪えて聞いた。

さくらの誕生日を祝いたい。さくらの誕生日に自転車でとっておきの場所に連れて行きたい。一緒に学校へ行って、修学旅行へ行って、文化祭や体育祭、さまざまな行事に参加したい。一緒に給食を食べたい。自分が書いた漫画を読んでもらいたい。さくらの人生設計書を見たい。一緒にゲームをしたい。謝りたい。ありがとうって言いたい。さくらの事、大切だって言いたい。土田達郎の口から飛び出してくる願いはすべて純粋な恋心であり、私がそれを応援しない理由は無かった。

「じゃあ、そうしましょう。謝って、彼女の誕生日をお祝いしましょう。とっておきの場所へ行って、君の漫画を見せて、代わりに人生設計書を見せてもらいましょう。ありがとうって言って、大切だって言いましょう。後悔しないように、自分の気持ちに素直に行動しましょう。」

きっと、もう許してくれないと思うと言いながら、土田達郎は涙を堪えていた。私は土田達郎の肩に手を置き、彼を勇気づけた。

「きっと大丈夫です。大丈夫、大丈夫。」

私は彼を応援した。無責任に。無計画に。

四月も月末になり、ゴールデンウィークが目前となった頃だった。受け持っている生徒達の立志式を直前に控え、その準備に追われる一方で、自身の同窓会の実行委員長としての仕事も大詰めであった。この年は十五年振りに桜の開花が遅れていた為、同窓会は桜の名所である小牧山の公園で行う事になった。私達にとって、遅咲きの桜は特別である。あの桜の下で、濱や仲間達と語り合い、自分の進むべき道が決まったのだ。今年も桜の開花が遅れているのであれば、花見をしながら同窓会というのも良いと思ったからだ。

同級生達に案内の葉書を送った後で、ビールやカクテルなどの買い出し、食べ物の用意、そして花見の場所取りなど、同窓会前の準備は多忙を極めた。ゴールデンウィーク中という事で場所取りは前日の夜から始めた。前日の花見客が帰って行ったところへ順番にレジャシートを敷き、二百名分のスペースを確保する予定だった。同窓会の実行委員だけでは人手が足りず、同級生達にも手伝ってもらい、準備に取り掛かった。

場所取り用のレジャシートの用意は濱に頼んだ。濱が勤めている運送会社で借りられる事になっていたからだ。しかし、同窓会前日、待ち合わせの時間である夜の二十二時になっても濱は来なかった。当時、私は携帯電話を持っていなかった為、仲間の携帯電話を借りて、濱に電話をした。最初は電話に出なかった濱だが、二十三時過ぎにようやく繋がった。

濱はこの日も仕事をしていたそうだ。ゴールデンウィーク中の渋滞もあり、配達が遅れていた為、仕事が長引いていたようだ。

「濱、何やっているんだよ。早く来いよ。」

私は少しきつめの口調で、そう促した。濱は何度も誤った後、すぐに向かうと答えてくれた。私は同窓会の実行委員達とガムテープを使い、場所を確保した。そして、濱の到着を待った。

しかし、いくら待っても濱は来なかった。

そして、深夜三時頃、仲間の携帯が鳴った。濱からの電話であった。私は電話をかわると、濱は興奮した様子で喋り始めた。話を聞くと、どうやら濱は急いで小牧山へ向かう途中、慌てて運転していたのもあり、交通事故を引き起こしてしまったという事だった。私はその知らせを受け、慌てて病院へ向かった。

そして、私は愕然とした。

そこにいたのは、頭を抱える濱。包帯を巻かれて、ベッドで眠る土田達郎。そして、もう二度と動かない橘さくらだった。

私はただ、その場に立っている事しか出来なかった。橘さくらの両親が泣き叫ぶ様子を、土下座して謝る濱を、ただ見ている事しか出来なかった。

その日、土田達郎と橘さくらは、私が言ったように自分の気持ちに素直に行動していた。親の反対を振り切り、二人だけで自転車で出掛けていた。夜中の○時、親が眠りについてから家を出た二人は、岐阜を目指して、川沿いの道を走っていた。一方、時間短縮の為に川沿いの道を走っていた濱は信号が無い交差点で、突然飛び出してきた二人乗りの自転車を轢いてしまった。法定速度をオーバーしていた濱は自転車に反応が出来ず、止まれなかった。その自転車に乗っていたのが、土田達郎と橘さくらなのだ。

自転車の荷台に横向きに座っていた橘さくらは後頭部を強打し、亡くなってしまった。事故の状況から判断し、実刑では無く、執行猶予付きの判決が下された濱だったが、その時に負った心の傷は深く、二度と車を運転する事は無くなり、運送会社も辞めてしまった。

花見をしながら、若い二人には話したい事がいっぱいあったのだろう。それなのに、「ありがとう」も「ごめんさなさい」も言えなくなってしまった。それを奪ってしまったのは、私の親友だ。濱は私が頼んだ仕事をしている時だった。私が彼を急かしたからだ。直接では無く、関節だったとはいえ、私が橘さくらの命を奪ったのだ。

私は自分の愚かさを悔やんだ。理想だけを掲げ、何の責任もとれない発言を繰り返していた自分を殺してやりたかった。出来ることなら、橘さくらの身代わりにさえなりたいと思っていた。

それから一か月が経った頃、私と濱は同窓会に参加が出来なかった為、約一か月遅れて「人生設計書」を受け取った。教師からでは無く、同級生が届けてくれた。それでもすぐに読む気にはなれなかった。自宅の机の引き出しにしまい、暫くそれを取り出すことは無かった。

その後、修学旅行や文化祭という行事の対応に追われ、生徒達の受験や進路相談に必死だった。同時期に妻の妊娠が発覚し、学校でも家でも多忙な身となり、私は毎日をこなしていくだけで必死であった。

 そして卒業式の日、卒業証書の授与の為、私は生徒達の名前を順番に読み上げた。卒業後の生徒一人一人の幸せを願い、そして祝福の気持ちを込めた。出席番号一番の石平から順番に、生徒の名前を呼ぶ。久野、小辻、佐々木、澤井、鈴原。そして、高御堂まで呼んだ後、私はそれ以上、何も言えなくなってしまった。

 彼女の名前を呼ぶ事が出来ず、壊れた玩具の様に、ただその場に立ち尽くす事しか出来なかったのだ。

そこから先は学年主任の足立先生が代理で名前を読み上げてくれた。その後、最後のホームルームで本来より二人少ない生徒達に謝罪し、一人ずつお祝いを述べた。何とか卒業生達を送り出した私は失意の中、家に戻ってから、妻と一言も口を利かずに、最愛の娘の顔も見ずに自分の書斎に籠った。私は学校から持ち帰った書類をしまう為、引き出しを開けた。そこにはいつかしまい込んだ私の「人生設計書」があった。私はそれを取出し、ページを開いた。

私は涙を流した。自分の愚かさに腹が立ち、悔しくて、情けなくて、生徒達に申し訳なかった。何が、「今までの教師とは違い、生徒の為に働く。」だ。何が、「生徒一人一人の夢を叶える。」だ。私は生徒を殺したのだ。夢を奪ったのだ。私は「人生設計書」を破り捨て、声を上げて泣いた。


 そして、その時の傷も罪も抱えたまま、十五年の月日が流れた。

 濱は毎年橘さくらの命日に家を訪れ、自発的に慰謝料を払い続けている。当時勤めていた運送会社を辞めて、今は介護の仕事をしている。あれ以来、運転はしていない。正確に言うと、運転が出来なくなっていた。

橘さくらの両親は離婚したらしい。父親はこの地を離れ、関東で別の家庭を築いたそうだ。母親は二階建ての一軒家に残り、仕事に打ち込んでいる。

土田達郎は事故の直後にこの地を離れ、二度と戻ってこなくなった。

先日訪れた理容室で再会した土田達郎の友人である木村英明の情報によると、土田達郎は十五年経った今でも自分を責め続け、この地に戻る事が出来ず、静岡で決して幸せとは言えない毎日を送っているそうだ。

私は毎月五日には橘さくらの墓参りに行き、彼女がせめて安らかに眠れるよう祈っていた。土田達郎や橘さくらがいた学年の生徒達が卒業して十五年が経ち、彼らの同窓会が近づくにつれて、私の心の傷が再び疼きだした。

 生徒達に返却する為に、彼らの「人生設計書」を整理していると、その中に橘さくらの提出した物があった。正確には、彼女の死後、保護者から提出された物だった。思わず私は橘さくらの「人生設計書」を読んでしまった。


 「人生設計書 三年一組 橘 さくら

 十五歳 先生や友達、みんなのおかげで学校に毎日通えるようになる。自転車二人旅、修学旅行、文化祭。楽しい思い出をいっぱい作って、中学を卒業。

 二十歳 教育学部がある大学に通う。私を救ってくれた人みたいになれるように、日々勉強。

 二十五歳 中学校の先生になる。悩んでいる生徒たちの力になりたい。今度は私が誰かを救う。

 三十歳 中学校の先生を続けながら、両親や妹、大切な友達と楽しく過ごす。恩師と一緒に働いて、漫画家と結婚して、みんなずっと幸せ。」


涙が止まらなかった。失った物は彼女の命であり、それは未来である。だから、彼女の計画には成功も失敗も無いのだ。そして、私は彼女の人生計画を読み、ある事に気が付いた。今、私を取り囲む状況は決して橘さくらが望んだ状況では無いという事だ。私も、橘さくらの両親も、橘さくらが大好きだった人も、みんな決して幸せとは言えない毎日を過ごしているのではないだろうか。それはあの日を境に変わってしまった結果とも言える。みんな彼女の事を思いながら、彼女の願いとは真逆の生き方をしている。

 特に土田達郎の人生は大きく狂ってしまった。彼女の願いとはまったく逆の結果だと言える。生徒達の人生を輝かせたいと思い、教師になった私にとって、まったく逆の結果へと導いてしまった生徒が、彼だ。

自分の無責任な発言や行動で生徒を死なせてしまった私の唯一の罪滅ぼしは、彼女の願いを叶える事でしか出来ない。土田達郎の人生を取り戻す事でしか、彼女の願いは叶わない。あの日から狂ってしまった運命は、あの日を成功させる事で正される。

私は橘さくらの墓の前で誓った。せめて、彼女の願いを叶える。



    3

 

 今から話す内容について、私は殆ど記憶が無い。

 過剰なアルコール摂取により、理性も失う程酔っ払ってしまった私は、飲み始めてしばらく経過した頃からある衝撃的な出会いを経験するまでの間の記憶がごっそりと抜け落ちていたのだ。

 その日はラグビー部の仲間の結婚式だった。新郎は我々ラグビー部のムードメーカーだった男だが、女性に対してはかなり奥手で、四十五歳の初婚であった。我々は彼の披露宴を盛り上げるべく、当時のラグビー部の仲間達とこの半年は頻繁に集まり練習に練習を重ね、渾身の余興を披露した。披露宴は大いに盛り上がり、その流れで二次会へ行き、そして今が新郎新婦不在の三次会である居酒屋にいる。あまりの楽しさに私は許容範囲を超えた量の酒を口から流し込んでしまった。

その時の話題は我々が披露した余興についてだ。

「和雄の女装が一番笑えたな。」

そう言ったのは、ラグビー部で一番のプレイボーイ子安だった。子安の一言に、みんなが笑いながら頷く。私はコメントに困り、目の前のビールをぐっと一気に飲み干した。

「一番綺麗だったのは子安だろ。」

「確かに。好きになりそうになったな。」

「新婦より綺麗だったよな。」

「何言っているんだよ。はははは。」

我々の余興は、四十代の中年男子九人で女装し、流行りのアイドルグループの楽曲を完璧に踊り、歌うという物だった。そのアイドルグループはモデルのような体型をした九人組で、ミニスカートにハイヒールを履いて、簡単には真似が出来ないような複雑なダンスを息ピッタリで踊るグループだった。恥を捨て、全力で練習してきた我々の一糸乱れぬパフォーマンスに、最初は失笑していた招待客達も途中から手拍子を送り、曲が終わる頃には立ち上がって拍手を送ってくれた。我々の余興は大盛況で終わったが、少し後悔していた。我々の女装姿は何十人もの人々から写真や動画を撮影され、式場に雇われたプロのカメラマンからも写真を撮られた。私の女装姿は一生残る。こんな写真、生徒に見られたらと思うとゾッとする。

この辺りまでは覚えている。ここから先は後日、仲間から聞いた内容だ。

夜も更け、居酒屋から出た後、元ラガーマン九名はそれぞれ思い思いの場所へ向かったそうだ。

駅に向かい帰宅する者、締めのラーメンを食べに行く者、飲みすぎて酔っ払ってしまった私は子安達に連れられ、スナックへ向かったそうだ。錦の外れにある九階建てのレンガ模様のビルの四階、「スナック夢」のカウンターに並んで座り、焼酎水割りを飲んでいたらしい。私はかなり酔っていて、目は半開きで呂律が回っていない口調。誰かの助けが無いと、まっすぐ歩けない程だったそうだ。

 「佐藤。悲しいのはわかる。後悔しているのも、俺達はよく知っている。」

 そう話し始めたのは、現在は某大手メーカーの部長を務める元ラグビー部の副キャプテンだった男だ。顔を真っ赤にしながら、呂律の回っていない口調で喋り続けたそうだ。どうやら彼に火を点けたのは、私の不用意な発言だったようだ。

 「それでも、過去を変える事なんて出来る筈無いだろ。しっかりしろよ。お前は、自分を責め過ぎだよ。事故だったのだから、お前は悪くない。」

 いや、私が悪いのだ。どんな理由があろうと、子供は親より先に死んではいけない。子供の死に関わった以上、自分に責任が一切無いと思える人間に教師という仕事は務まらない。間違いなく。

 「過去を変えるとか、あの日をやり直すとか、方法なんて無いだろ。諦めろよ。」

 酔っ払ったせいだろうか。強い口調で私を諭そうとする副キャプテンの言葉に、私は思わず言い返してしまった。勿論、覚えてはいないが。

 「過去は変えられる。代役でも、幻でも良い。彼らは、彼らにとってのとっておきの場所に行く。彼はその経験を元にさらに成長し、幸せに暮らす。彼女は自分の願いを叶えて、安らかに天国で眠る。」

 仲間達も、副キャプテンも、スナックのママでさえ私の発言に対して、どう回答すれば良いのかわからず黙り込んでいたらしい。沈黙が続き、重苦しい雰囲気に包まれたスナック夢。どうやら、私の頭がおかしくなったとでも思っていたのだろうか。それでも、私には諦める事など、出来はしない。

 「どうやって、その死んでしまった女子生徒を連れて行くんですか?」

 スナックのママ、夢子さんからの質問に私はテンポよく答えていたそうだ。

 「探します。良く似た女の子を。」

 「似た女の子がいなかったら?」

 「だったら、良く似た男を捕まえて女装させる。」

 一瞬の間の後、みんなの笑い声が鳴り響いた。

 「ははは、和雄、それは無茶苦茶だぞ。」「和雄さんったら、可笑しい。」「キャプテン、飲みすぎですよ。」「女装だったら、キャプテンが一番ですよ。」「それは言える。」「え?女装?見たい、見たい。」「今、衣装ならあるだろ?」「着替えて来いよ。」

 みんな過度なアルコール摂取により、冷静な判断力を失っていた。それは彼らだけではなく、私にも言える。

 「金井、手伝え。」

私は衣装の入った紙袋を持ち、二年後輩の男、金井に支えられてスナックを飛び出したそうだ。ビルの廊下の奥に進み、壁と向き合い、私は何度もよろけて倒れそうになりながら、余興の衣装に着替え、鬘を被った。慌ててファンデーションを塗り、急いでスナックに戻った。戻ろうとした瞬間、金井が「あっ」と声を出したが、時すでに遅し。そして、スナックの扉を開けた瞬間、私は一気に酔いが醒めた。ここからの事は覚えている。

私が入ったスナックは、ラグビー部のみんなが待っている「スナック夢」では無く、その隣にある「スナック彩」だった。ただ、私の酔いが冷める程驚いたのは、店を間違えたからでは無い。

 女装し性別を誤魔化してスナックを訪れた私は、死んだ筈の教え子と遭遇したのだ。

目の前にいた女性は少し大人になった橘さくらにしか見えなかったのだ。

当然、橘さくらは死んだのだから、この場にいる筈が無い。私の思考はフル回転で作動し、ようやく言葉を絞り出した。

 「元気ですか?」

 ぎこちなく伝えたその言葉に対して、彼女はゆっくり頷いた。まるで、橘さくらが答えてくれたような気がして、私は涙が零れそうになった。動揺していた私は意味不明な発言を残し、その場を去った。扉を閉めたその瞬間、私は呼吸を整えようと必死だった。いる筈が無い。それでも、そこには橘さくらがいた。ちなみに一部始終を見ていた金井は腹を抱えて笑っていた。

 翌日、私は橘さくらに会いたくて、再び「スナック彩」を訪れた。しかし、店には入らずに、入口の様子を少し離れた場所から観察していた。すると、そこに現れたのは、あの頃の橘さくらによく似た少女だった。その少女は店に入ると、化粧と着替えを済ませて、看板を持って再び入口から外に出てきた。そこにいたのは、昨日の女性だったのだ。

 橘さくらによく似た少女は、橘さくらが成長したらと想像した姿にそっくりだ。あの日がもっと良い日だったらと想像する時に想像する橘さくらの姿こそが、スナック彩で働く少女の姿なのだ。私は考えていた。この少女と土田達郎の二人で、自転車二人旅を成功させる。それが、あの日をやり直し、成功させる唯一の方法だ。私に希望の光が射した。

私は橘さくらによく似た少女の仕事が終わるのを待ち、少女を尾行した。まずは少女の正体を知りたかった。もし、このタイミングで警察に職務質問をされていたら、私は教師を辞める事になっていたかもしれない。ストーカー行為だと言われても、反論が出来ないからだ。それでも、少女の正体を突き止めたかった。栄の駅から地下鉄に乗り、さらに電車を乗り換えて進む。次第に景色は見慣れた物へと変わり、私の自宅の近くにある駅で降りた。駅から歩いて帰る少女を尾行する事、約十分。少女の家に到着し、私は愕然とした。いつもの倍以上の速さで心臓は動き、喉の奥が熱くなり、足が震えた。少女が帰って行った家は橘さくらの家だったのだ。私は思い出す。橘さくらの家を訪れると、大きなお腹の母親がいた事を。彼女は橘さくらの妹だ。

橘さくらの妹は鈴原咲という王子中学に通う二年生だった。

彼女については、同じ学校に勤務する葛城先生から情報を収集した。葛城先生は鈴原咲の一年と二年の時の担任であった。葛城先生によると、鈴原咲という生徒はとても活発で明るく、よく喋る元気な性格だそうだが、彼女は母親から頻繁に姉と比較され、姉の存在を嫌っていたそうだ。会った事も無い筈だが、姉妹の間には大きな亀裂があった。そんな妹の想いとは裏腹に、この姉妹の間には偶然とは思えないような縁があった。

鈴原咲は、橘さくらの四十九日に生まれた。

橘さくらを失い、失意のどん底にいた両親や親戚達は、鈴原咲を姉の生まれ変わりとして迎えた。蕾のまま、その人生を終えてしまった橘さくらという花は、新しい人生では花を咲かせて欲しいという思いを込めて名前を付けたのだろう。鈴原咲の母親は、次女の人生が蕾のままで終える事が無いよう、精一杯の愛情を注いだ。だが、やがてそれは裏目に出てしまい、過度な姉との比較として、鈴原咲を苦しませたのだろう。

以上の葛城先生の話が全て真実であれば、私の計画への参加要請に対し、鈴原咲は安易には受けてくれないだろう。そのため、翌日、私は鈴原咲を再び尾行し、証拠写真を何枚も撮影した。橘さくらの妹にお願いをするに当たって、重要なツールになると思ったからだ。

また、その日は思いもよらぬ再会を果たす事が出来た。階段の柱の影に隠れて、カメラを構えていた私はある人物に見つかった。それは「スナック彩」と「スナック夢」の向かいにある「メンバーズ詩織」から出てきた人物だった。

「え?サトパン?」

そう言った彼女は橘さくらの友人であった佐々木詩織だった。どうやら私は当時の生徒からサトパンというあだ名で呼ばれていたらしい。私は再会を祝して、「メンバーズ詩織」で祝杯を上げた。佐々木詩織の人生もまた決して平坦な道のりでは無く、現在は女手一つで二人の子供を育てているそうだ。

私は佐々木詩織に計画を打ち明けた。橘さくらの願いだけでも叶えたい。橘さくらと土田達郎の自転車二人旅を成功に塗り替えたい。無謀で意味不明と思えるような計画だが、佐々木詩織は賛同してくれた。この計画に初めての協力者が出来た。

佐々木詩織は、土田達郎の友人である木村秀明や同窓会実行委員長の渡辺安奈と連絡を取り、彼らも計画の協力者に招き入れた。そして、我々の計画はより具体的な物でと変わっていった。

計画の実行は十五年前のあの日と同じ、五月四日に決まった。その日は同窓会が企画されており、土田達郎をこの地に呼び戻す口実になる。そこで橘さくらと再会させ、二人で自転車に乗せる。彼の性格や心境を考え、あらゆるパターンを検討した。

土田達郎は、私が考える以上に橘さくらの死の影響を受け、自身の幸せを放棄し、この地へ戻る事を拒絶していた。土田達郎がこの地に戻ってこない事には、計画は進まない。土田達郎をこの地に呼び出す事は計画の肝となる部分ではあったが、木村秀明を始め、同級生である彼らを信じて任せる事にした。私は鈴原咲の説得に当たる事にした。

結局、土田達郎が同窓会に出席する事が決まったのは、同窓会の三日程前だった。交渉が難航し、悩みに悩んだ末、彼らは「サトパンが病気になり、余命僅か」だと嘘をついた。それを信じた土田達郎は十五年振りにこの地に戻る事を決意した。嘘をついた事は決して褒められる事では無いが、私は内心嬉しかった。

 ある晩、私は駅前にある居酒屋で濱と二人で飲んでいた。適当な世間話と近況報告を終えた後、本題に入る。

「お前、正気か?」

濱は煙草を吸いながら、私を憐れむかのように言い放った。私は目の前にある芋焼酎のロックを飲み干して、勢いをつけてから答える。

「勿論だ。あの日をやり直そうと思う。土田達郎と橘さくらの二人旅を成功させる。」

濱はもう一度煙草に口を付け、ゆっくりと吸い込んだ。

「土田達郎も、橘さくらも、そうする事でしか救えない。私も、そして濱、お前も。」

濱はじっと固まったまま、動かなかった。考え込んだ後、ゆっくりと口を開き、煙と一緒にその思いを吐き出した。

「十五年も経って、大人になった土田達郎君と橘さくらさんの生まれ変わりが一緒に旅して何が変わるというんだ。何も変わらない。あの日に事故は起きなかった、そんな思い出に変わる筈が無い。ただの自己満足、ただの現実逃避だ。向き合うしかないんだよ。あの時の事故と。この旅がうまくいったら、あの日から起きた事がすべて変わる。そんな奇跡や夢物語でも想像しているのかよ。漫画やドラマじゃないんだ。あるワケないだろ、そんな事。」

徐々にその口調に熱が篭り、その声量は大きくなり、店内での我々への注目度も高くなっていった。

「濱が言っている事は正しい。」

濱は短くなった煙草を口に付け、再びゆっくりと吸い込んだ後、その煙草を灰皿に押し付けた。

「それでも、私はやる。」

濱は呆れたように笑った。お前は昔から頑固だったなと。

「わかったよ。もし、それがお前や土田達郎君、橘さくらさんとその家族の為になるなら、俺はどんな協力でもするが、当日だけは駄目だ。あの日をやり直すのであれば、俺はあの日車に乗るべきでは無かった。当日、俺は家にいるから、結果だけ教えてくれ。お前が本気なら、準備は徹底的に手伝うさ。」

「それでは駄目だ。」

「は?」

「濱、お前は当日、運転手をしてくれ。濱はあの日、車を運転し、事故を起こさずに無事に帰宅した。お前の過去も塗り替えたい。」

濱も救いたいという言葉に、それ以上、濱は何も言わなかった。


四月になり、新学期が始まった頃から橘さくらの妹、鈴原咲との交渉を始めたのだが、交渉は困難を極めた。正攻法では答えてくれないと考えた私は、少し脅迫にも似た取引から入った。写真で脅し、権力で脅した。だが、予想以上に反発され、夜の学校で競争し、最終的には橘さくらの「人生設計書」を見せながら、正直に話した。そして、鈴原咲の協力を得る事が出来た。

そして、鈴原咲とその友人である倉橋優奈を交え、佐々木詩織や渡辺安奈、木村秀明達と作戦会議を行った。

佐々木詩織は鈴原咲を見て、「やっぱりね。二十代には見えないなって思っていたのよね。」と話しかけていた。どうやら二人は面識があったようだ。おそらく、鈴原咲がアルバイトをしていた頃だろう。

鈴原咲は佐々木詩織達が話す橘さくらの情報を一言も聞き漏らす事の無いように熱心に聞いていた。鈴原咲にとって姉とは比較された対象でしか無く、完璧な存在だったのだが、姉の友人の話を聞いて、ようやく血の通った人間に変わっていったのだ。作戦会議が終わる頃になっても、まだ話を聞き足りなかったのか、鈴原咲は佐々木詩織や渡辺安奈と携帯電話の番号を交換していた。

計画に必要な事はすべて揃った。あとは当日を待つのみとなった。

私は、あの日に帰る。あの日からすべてが変わる。いや、変える。



    4

 

 五月四日、土曜日。みどりの日。天気は快晴。同窓会、当日。

 朝一番で木村秀明が経営する理容室を訪れた私は、髪を切りながら鏡に映る自分に言い聞かせていた。きっとうまくいく。きっと大丈夫。そんな私の思いを察したのか、木村秀明は私の髪を切る手は休めずに、鏡越しに「先生、表情固いよ。橘さくらに笑われるぜ。」と茶化してきた。橘さくらとはどっちのことを指しているのだろうか。死んでしまった姉の方か、それともこれから変装する妹の方か。「大丈夫。上手くいくよ。」そう言い切る木村秀明の姿がたくましく思え、生徒の成長が垣間見えたような気がした。少し嬉しく思った。

髪を切った後、私は濱と待ち合わせをし、鈴原咲を迎えに行った。濱は毎年命日に橘さくらの家に訪れていた為、鈴原咲とは面識があったのだが、二人は軽く会釈だけを交わし、特に目立った会話は無かった。一言だけ、「明日、また来るけど、お線香だけ良いかな?」と濱が尋ねると、鈴原咲は「どうぞ。」と目を合わせずに言った。「今、母いないので。」

濱は毎年そうしているのだろうが、鈴原咲の家に上がり、すぐ左手の和室に向かい、橘さくらの仏壇の前で手を合わせていた。私も隣に並び、一緒に手を合わせた。仏壇の前には橘さくらと土田達郎が並んで写った写真が飾ってあった。照れくさそうな土田達郎の隣で橘さくらの幸せそうな表情を見て、私は当時の彼女の喜びがわかり嬉しくなったのと同時に、奪ってしまった物の大きさを再認識した。

鈴原咲の家には、彼女の親友である倉橋優奈も来ており、二人を乗せて錦へと車を走らせる。車中、鈴原咲と倉橋優奈は遠足にでも来たかのように、目に見える景色や昨日見たテレビ、友達の話などをしながら、二人ではしゃいでいた。

「お母さんとはどう?まだ気不味い?」倉橋優奈のその一言に、私はつい聞き耳を立ててしまった。

「普通だよ。普通だけど、お互いあの件には触れないね。喧嘩してから、仲直りしないで、喧嘩した事自体を無かった事にしようとしているような感じかな。だから、普通に喋るし、一緒にご飯を食べたりするけど、なんか少し距離がある。」

そっか。と呟く倉橋優奈だったが、私はその喧嘩の原因を作った責任もあり、心中穏やかではなかった。だが、この件については続きがある。

「でも、今日がうまく終わったら、お母さんに謝ろうと思ってるよ。お姉ちゃんの事、ちゃんと理解出来たら、私の中でもお姉ちゃんへの気持ちが変わるだろうし。だから、今日のことは私にとっても大事なんだよ。」

そうだよね、先生。と鈴原咲は私に同意を求めた。今日がうまく終わったら、母親と仲直りするというのは、私と鈴原咲との約束だった。

「そうですね。あと、人生設計書も提出する約束でしたよ。」

鈴原咲にとっても、今日の事は姉や母と向き合い、そして自分と向き合う為の事なのだ。姉の生まれ変わりとして生まれ、姉と比較されて育った彼女の自立。もしかしたら、彼女は同級生より一足先に立志式を行うのかもしれない。

一方、運転席に座る濱は約十五年振りの運転という事もあり、額から大粒の汗を流していた。私は彼の邪魔をしないよう、あまり話しかけることはせず、二度と事故が起きないように周囲の車や通行人、自転車を気にしながら助手席に座っていた。

 無事に錦に到着すると、駅から近くのコインパーキングに車を停め、車から降りた。まだ昼前だったが、ゴールデンウィーク中というのもあり、多くの人がいた。東海地区最大の繁華街である錦に中年二人と女子中学生が二人。周囲からどう見えるのか不安で、足早に目的地を目指した。

 見覚えのある九階建てのレンガ模様のビルの前に到着すると、鈴原咲と倉橋優奈が私を見て突然笑い出した。濱は不思議そうに二人に女子中学生を見ていたが、私にはその理由が分かっていたので、何も言わなかった。きっと、私の女装姿を思い出していたのだろう。そのまま私は黙ってビルの四階へ上がり、「メンバーズ詩織」のドアを開けた。

 「遅かったわね。」

 そう言って迎えてくれたのは、佐々木詩織と坊主頭で耳や鼻、瞼にピアスをした女性だった。体のラインがはっきりとわかるようなサイズがぴったりのジーンスと黒いタンクトップを着ているから女性とわかったが、顔だけ見ると性別の判断が出来なかった。佐々木詩織は、坊主頭の女性を指して、この子ね、と紹介を始めた。私にではなく、鈴原咲に対してしているようだった。

 「上の階で女装専門の化粧屋をやっているの。名前はアキラ。こんな見た目だけど、とっても良い人よ。チワワ飼っているし。」

 チワワを飼っていると、何故良い人なのかは私には理解不能だったが、どうやら倉橋優奈も犬を飼っているらしく、我が生徒二人はそれをきっかけに話が盛り上がり始めていた。

 「アキラが、あなたを三十歳に見えるように化粧するからね。いいわね。」

 「はい。宜しくお願いします。」

 という二人のやりとりをじっと見ていると、佐々木詩織はストレートに申し出た。

 「先生。着替えもありますので、出て行ってもらっても良いですか?」

 返事をするのも忘れ、私と濱は慌てて部屋を飛び出した。

 ビルを出て、私は濱と二人で缶コーヒーを飲みながら、鈴原咲の準備を待った。すると、私の携帯電話に着信があった。渡辺安奈からだった。

 「佐藤先生?渡辺です。今、確認しました。土田、戻ってきました。」

 渡辺安奈は、土田達郎がちゃんと同窓会に参加するよう、小牧駅で彼の到着を見張っていたのだ。時間になっても彼が来なければ、自ら静岡まで出向き、強引にでも連れて来ようとしていた。私は「わかりました。ご苦労様です。」とだけ答えて、電話を切った。計画は順調である。

 私達が「メンバーズ詩織」を出てから、三十分程が経った頃だった。

 「お待たせしました。」

 ビルから出てきた三人の姿に、私は驚いた。倉橋優奈と、同窓会用にチェックのジャケットに黒のスカートは履いた佐々木詩織はともかく、その中心の人物の姿に息をのんだ。黒く美しい長い髪、真っ白なワンピーズから伸びる白くて長い脚、キュッと締まったウェスト、黒いハイヒール、ピンク色に潤んだ唇、大きな瞳。そこには、橘さくらがいた。あの頃の橘さくらではなく、今も生きていたらと想像させる姿でそこに立っていた。

 「あははは。先生、何泣いてるの?」

 鈴原咲は私を見て、再び笑った。それでも私の涙は止まらなかった。倉橋優奈と佐々木詩織は困ったような表情をして、濱は私の肩をポンポンと叩いた。

 アキラさんにお礼を言い、我々は車に乗り込んだ。来た時よりも一人多く、佐々木詩織を加えた五人で小牧を目指した。帰りの車中では、佐々木詩織が当時の事を中学生二人に話していた。鈴原咲はクラスメートのように振る舞う必要がある為、最低限の当時の情報が必要だからだ。

 「そういえばあなた、お母さんには何て言ってあるの?さくらのお母さんって、確か厳しそうな人じゃなかったかしら?」

 佐々木詩織の問いに対して、私が変わりに答える、

 「彼女のお母さんに心配をかけないようにする為に、同窓会の開始を夕方の四時にしました。そうすれば六時には同窓会が終わり、そこから自転車で出掛けたとしても、土田君と橘さんがどこへ行こうとしていたのかにもよりますが、九時頃には帰れますから。」

 佐々木詩織は納得していたのだが、鈴原咲と倉橋優奈は唖然としていた。

 「佐藤先生、お姉ちゃん達がどこに行こうとしていたか知らないんだ。」

 「え?」」

 「たっちゃんって人、かなり無謀な人みたい。お姉ちゃんもだけど。」

 倉橋優奈が自分のスマートフォンを操作し、地図を開き、我々に「この辺りだそうです。」と言いながら見せてくれた。今度は私が唖然とした。

 「お母さんから聞いたんだけど、お姉ちゃん達、桜ライダーっていう漫画にでてくる光ヶ丘公園って所に行こうとしていたんだって。自転車で。だから、もっと遅くなると思うけど。」

 倉橋優奈のスマートフォンに表示されたのは岐阜県の山奥で、自転車で行くのであれば三時間から四時間はかかると思われる。土田達郎と橘さくらに自転車二人旅の目的地は、同窓会当日に鈴原咲から土田達郎から聞き出させるしか無いと思っていた。ただ、自転車で行ける範囲と考えていた為、甘く考えていた。

 「今日はダンスの発表会で遅くなるって言ってあるから、十時ぐらいまでに帰れば良いと思うけど。」

 相変わらず私の考えは甘い。今日の計画に暗雲が立ち込めた。

 途中、ファミリーレストランで昼食を済ませ、鈴原咲の化粧を直し、再び出発した。途中、車内の人数が一人増える。生徒の為という事で、葛城先生も駆けつけてくれたのだ。彼女は鈴原咲と倉橋優奈の味方として、この計画に協力しようとしてくれた。そして、私達六人が渡辺安奈の自宅に到着したのは、十四時を過ぎた頃だった。鈴原咲の着替えなどの荷物を渡辺安奈の家に置かせてもらい、代わりに生徒達の「人生設計書」を積み込んだ。

 「一応、三年一組の女子全員とまだ地元に住んでいる男子には、鈴原さんの事は話してあるから、みんな協力してくれると思う。他のクラスの子にも何人かには言ってあるし。」

 鈴原咲は少し緊張してきたのか、大人しく話を聞いていた。

 「基本的には、あんまり私から離れないようにしなさい。実行委員の一人ってことにしてあるから、その方が目立たないわ。」

 はぁいと間の抜けた返事をした鈴原咲は、自分を落ち着かせる為か、何度も深呼吸をしていた。

 十五時過ぎ、卒業生が店長を務める居酒屋「極極」に到着した。濱と倉橋優奈、葛城先生は近くの喫茶店で待機してもらった。鈴原咲の事は、ここから先は渡辺安奈と佐々木詩織に任せる事にし、私は一度王子中学へと戻った。他の先生方と合流する為だ。今回の計画、詰めが甘かったかもしれないが、もう始まってしまったのだ。あとは成功を祈るだけだ。

 王子中学の正門の前、私は十五年前に同じ学年を一緒に担当していた先生方と合流した。今も王子中学に勤める足立先生やほかの学校に転勤になってしまった山端先生や長谷川先生など、この年の生徒と関わった教師達八人で歩いて同窓会の会場に向かった。世間話や仕事の話をしながら歩き、会場である居酒屋に到着したのは十六時五分前だった。

 居酒屋「極極」の入り口で、同窓会実行委員が皆を待ち構えていた。名簿を片手に、受付の役割も兼ねていた。我々教師も同じで、受付を済ませてから自分の席へ案内された。私も自分の席に向かおうとすると、鈴原咲が慌てた表情で駆け寄ってきた。

 「どうしよう、先生。たっちゃん、来てない。」

 状況を理解するまでに二秒程かかった。

 「今、渡辺安奈さんが何度も電話してるけど、全然繋がらなくて。」

 私はどうするべきか思考を全速で回転させ、対応策を検討したが、答えが無い事はわかっていた。

 「小牧には帰ってきているのです。信じて待ちましょう。」

 結局、土田達郎が到着したのは、開始から三十分が経過した頃だった。

 最後に会った十五年前より背は少し伸びたような気がするが、体重は減ったのではないだろうか。頬が少しこけている。目に力が無く、俯いているその様子は十五年前とは比べ物にならないぐらい活力が無い。私は土田の姿を見た時、今日の計画を成功させなければいけない使命感のような物を感じていた。

緊張した面持ちで宴会場に入ってきた彼を迎えたのは渡辺安奈さんと当時彼を虐めていた岩城勝次という生徒だった。土田達郎と岩城勝次は二人で少し談笑し、グラスビールで乾杯をしてから、離れていった。二人の笑顔に、少しほっとした。

 土田達郎の元へ鈴原咲を向かわせ、二人の間にきっかけを作ろうとしたが、鈴原咲は三十歳の男達に囲まれ、話しかけられ、身動きが取れない状態だった。生徒達から見ても、鈴原咲は美しく見えるのだろうか。鈴原咲が土田達郎に話しかけたのは、同窓会が始まって一時間と二十分が経過した頃だった。土田達郎の隣に座り、質問攻めにしながら会話を続けていた鈴原咲だが、途中から鼻の頭を頻繁に指で擦り始めた。実は鈴原咲と決めておいたブロックサインの一つで、鼻の頭を指で擦るというのは、助けてという意思表示であった。すかさず渡辺安奈が助け舟を寄越した。鈴原咲を呼び、どうしたのかと聞くと、「たっちゃんの態度が素っ気無さ過ぎて会話が続かない」と答えた。このままでは土田達郎と鈴原咲の距離が縮まらず、一緒に自転車に乗る事が出来なくなる。

 我々は計画の変更の決断をした。土田達郎を二次会に連れて行く事に目的変更し、二次会の場で二人の距離を縮め、一緒に自転車で出掛ける約束をさせるのだ。その決断は辛うじて成功した。鈴原咲は二次会で一緒に帰る約束を取り付けてきた。だが、家まで送ってとしか言わなかったそうだ。二次会の会場から自宅まで、十分から十五分程の距離と思っていたのに、まさか岐阜まで行くことになるとは、土田達郎は思いもよらなかっただろう。

 二次会が終わり、土田達郎と鈴原咲が自転車二人乗りで帰って行ったのを確認してから、我々は濱が運転する私の愛車、黒のワンボックスカーに乗り込み、彼らの後を追った。もし、道中で何かあった場合、土田達郎と鈴原咲を乗せなければいけない為、定員七名の車に五人で乗った。私と運転手の濱、葛城先生と倉橋優奈さん、そして同窓会の途中から合流した木村秀明の五人だった。渡辺安奈と佐々木詩織には留守番をしてもらった。彼女達が一番酔っぱらっていたからだ。あとは彼らが無事に目的地に辿り着くのを祈るのみだった。

 そして、約二時間のドライブの後、この挑戦は失敗に終わった。

 原因は、鈴原咲の彼氏が、彼女が浮気していると勘違いをし、二人に暴行を加えた為であった。後頭部を強打した鈴原咲の体調を考え、計画の中止を決めた。鈴原咲は涙目で私に続行を訴えたが、私はそれを許す事が出来なかった。

 予定時刻を大幅にオーバーしていた為、急いで鈴原咲を家まで送ったのだが、そのあとで鈴原咲の荷物を渡辺安奈の家に忘れていた事に気付いた為、再び渡辺安奈の家に寄り、荷物を取って再び鈴原咲の家に向かった。携帯電話のメールで鈴原咲を呼び出し、倉橋優奈から荷物を渡してもらった。その後、倉橋優奈を自宅へ送り届け、葛城先生もその近くにある自宅へ送った。そして、私と濱は道路の端に車を停めた。

濱は無言のまま煙草に火を点けた。私は夜空を見ながら、指で鼻の頭を擦ってみた。その時だった。目の前を二人乗りの自転車が通過した。運転しているのは土田達郎、後ろに乗っているのは鈴原咲だった。

 「追うぞ、濱。」



    5

 

満天の星空の下、一台の黄色の自転車と、それを追う一台の黒い車。

 「懐かしいな。ここ。」

 加藤文具店。通称カトブンの跡地に建設されたマンションを自転車は右に曲がった。深夜という事もあり、辺りには一台も車が通っていなかった為、土田達郎は周囲を何度も確認した後、信号を無視して進んでいった。我々の車は同じようにする事は出来ず、その交差点の信号に捕まり、マンションを眺めながら濱が言った。

 「あのじいさん、まだ生きているかな。」

 我々が中学に通っていた時ですら、六十歳は過ぎていただろうから、もし生きていたとしても九十歳になっているだろう。子供が好きで、優しいおじいさんだった。信号が青に変わり、自転車に遅れること約五分、我々もマンションを右に曲がった。

歩道を走っている彼らに対して、我々の車はよく信号に捕まった。それでも離されては追いつき、追いついては離され、その繰り返しをしながら、目的地を目指した。

ケーキ屋、ガソリンスタンド、電気屋の横を自転車は快適に進む。心無しか、同窓会が終わってすぐの時よりも自転車の速度が速い気がする。車の窓を開けると、土田達郎の荒い呼吸が聞こえてきそうだった。小牧山が近付き、頂上にある城の形が明確にわかるようになった頃、自転車の荷台に横向きに座っていた鈴原咲が我々の車に気付いた。鈴原咲は私と目が合った後、何事も無かったかのように、再び前を向いた。我々はそのまま、ハザードを点灯させながら自転車の速度に合わせて路肩を走行した。

左手に見覚えのある墓地を眺めながら進む。運転している土田達郎も墓地を眺めながら自転車を漕いでいた。彼もわかっているのだろう。あの日から、この墓地に橘さくらが眠っている事を。

「今度、お墓参り行きませんか?」

そう言ったのは鈴原咲だ。後ろから追いかけている状態とはいえ、窓さえ開ければ助手席に座る私の位置まで二人の会話は聞こえた。

「今日、無事に辿り着いたらで良いので。」

土田達郎は何も答えなかった。いや、何も答えられなかったのだろう。彼は橘さくらの死の責任をすべて受け止めようとしてきた。自身の幸せなど放棄して生きてきた彼にとって、墓参りに行く事すら、自分には許されないと考えているのだろう。暫く、無言で走行を続けた自転車と自動車。その無言を打ち破ったのは再び鈴原咲だった。

「私の誕生日、六月二十三日なんです。で、お姉ちゃんが死んだのが五月五日。私はお姉ちゃんの四十九日に生まれたんです。だからずっと、皆からはお姉ちゃんの生まれ変わりだって言われていました。」

 驚いたのか、言葉にならない音が濱の口からも漏れた。「そうなのか?」と私に確認を取りに来たので、「そうだ。」とだけ答えた。「そうか。」と答えた後、濱はそれ以上何も言わなかった。

 国道に出ると、交通量が増え、大型トラックやゴールデンウィーク中というのもあり旅行帰りと思われる家族連れの車が目立つようになった。車の音に搔き消され、二人の会話はもう聞こえなかったが、鈴原咲の口はずっと動いていた。

 信号で停まった時、濱はポケットから箱が潰れてしまった煙草を取出し、火を点けた。十五年振りの運転に慣れて、余裕が出てきたのかと思い、濱を見るとその額から大量の汗が流れており、手は小刻みに震えていた。そうか、落ち着かせようと思って、煙草を手に取ったのか。

 「大丈夫だ、濱。大丈夫だ。」

 国道を進み、自転車はやがて小さな脇道に入っていった。川沿いの道を進むためだ。その脇道は自動車では通行出来ない為、我々は国道をそのまま進む。少し進むと、橋の手前で自動車も通れるような脇道が出現する。その脇道を進んだ先が事故現場だ。

 「何百回も、何千回も後悔した。俺の失敗は二度と消えない。こんな事をしても、過去は変わらない。」

 濱が呟いた。

 事故現場はT字の交差点だ。川沿いの道から国道の下をくぐる為のトンネルを抜けた先にあり、国道から川沿いの道を進むために降りてきた車と交わる場所だ。国道から降りてきた交差点では一時停止の標識があり、普段であれば起こる筈が無い事故だったのだ。運転手が慌てていなければ、自転車が二人乗りで無くて、トンネルの先の上り坂に備えて減速を怠らなければ、そして自分勝手な男が無責任に背中を押さなければ。

 「それでも…」

 そう言う濱の声は震えていた。

 「笑顔が見られて良かった。」

 我々の視線の先には、上り坂の途中で笑い合っている土田達郎と鈴原咲がいた。二人の笑顔を見ながら、濱は泣いていた。

 「まだ早いぞ、濱。まだ半分も来ていない。」

 そうだなと言いながら、濱はシートに座り直した。坂を上り切った自転車を追いかける為、交差点でしっかり停止した後、ゆっくり右折し我々も進み始めた。

 それにな、濱。過去は変わる。きっと変える。口にはしなかったが、心の中で濱に語りかけた。

 川沿いの道を進む。途中、土田達郎が振り返り、我々に気付き、鈴原咲と何か話をしていたが、その内容までは聞き取れなかった。途中で自転車は橋を渡り、街中に入った。

ふらつき始め、速度が落ちてきた頃、自転車の二人はコンビニエンスストアの駐車場に入っていった。我々も同じ駐車場に入り、自転車とは少し距離も置いて停車した。土田達郎は自転車を停めると、両手を腰に当て、呼吸を整えていた。鈴原咲は慌てて店内に入って行き、ペットボトルのスポーツドリンクを購入し、戻ってきた。

土田達郎がスポーツドリンクを一気に飲んでいる姿を見ながら、鈴原咲は心配そうな表情をしていた。我々も同じ気持ちではあるが、「大丈夫か?」とか「頑張れ」とか言う事は出来ない。これは二人旅なのだ。我々は本来ここにはいないのだ。

十分程の休憩の後、再び自転車は走り出した。

再び街中を通り、いくつもの駅を超え、再び大きな川の上の橋を渡り、城を見ながら、線路を超えた。その後、もう一度の休憩を挟み、進み続けていくと、道は徐々に緑が増え、次第に坂道が増えた。山道に入り、ゴールが近付いてきた。土田達郎はよろけながらも、必死で自転車を漕ぎ続けた。その姿に濱は涙目で「頑張れ、頑張れ」と届くはずが無い程小さな声で呟き続けた。鈴原咲も「頑張れ、たっちゃん、頑張れ、たっちゃん。」と懸命に声を上げ、たまにハンカチで汗を拭いてあげながら応援していた。

橘さん、見てくれていますか。君のヒーローは約束を守ろうとしています。十五年遅れて、君の十五歳を祝おうとしているのです。だから、どうか君も彼を応援してあげてください。それが、最も彼の力になるのです。

時刻は深夜四時を過ぎた。

 土田達郎はサドルから腰を上げ、最後の力を振り絞って、ペダルを漕いだ。彼の周囲だけ温度が違う。激しい息遣いが聞こえてきそうだ。水の入ったバケツを頭の上で逆さまにしたのかと思うほど、土田達郎の髪や顔は汗で濡れていた。

 体力の限界を迎え、二人は自転車を降りた。土田達郎はハンドルを握り、鈴原咲は荷台を手で押しながら歩いて進んだ。辺りの木々は静かに二人を見守り、二人の息遣いと自動車のエンジン音だけが響いていた。

 そろそろ目的地である通称光ヶ丘公園は近いと思い、少し先を見た私は目を疑った。先程までは真っ暗で山の輪郭しか見えなかった筈の私の視線の先には、ぼんやりとピンク色に光る部分があった。徐々に近付くにつれて、ピンク色の光の正体が明らかになっていく。下を向き、歯を食い縛りながら自転車を必死で漕ぐ土田達郎も顔を上げた瞬間に気付いたようだった。

 「嘘だろ。五月だぞ、今。」

 そう漏らした濱と同じ気持ちだった。だが、鈴原咲は身を乗り出して、土田達郎の腕と体の隙間からそのピンク色を見たのだろうが、特に動じている様子は無く、ただ、その髪を風に靡かせていた。まるで、彼女は最初から知っていたかのように。

 光ヶ丘公園は公園というにはかなり小さく、端から端まで三十メートル程の正方形だ。あまり遊具は無く、砂場とブランコがあるぐらいだ。ベンチが二つ並んで置いてあり、その上の屋根である筈の板は穴だらけで、最早役割を果たしていない。中心には高さ三メートルほどの時計、公園を囲むフェンスの内側には名前も知らない植物が並んでいる。周囲にはあまり人気が無く、白いミニバンが一台、駐車してあるだけだった。それはある生徒のアパートの駐車場で見たミニバンだった。

 公園の入り口から自転車で入って行った二人に対して、我々は車をフェンスの横に慌てて停車し、一歩ずつ、何かを確かめながら公園に入る。

 公園の中心にある時計の向こうには、二十本ほどの桜が円のように並んでいた。

 「間違いない。なあ、和雄。見ろよ。」

 満開の桜だった。

 自転車で辿り着いた二人を中心に、これまで見た事が無い程の美しい花を咲かせた満開の桜達は花びらの雨を降らせていた。その雨は優しく、二人を祝福するかのように包み込む。数秒の間に何百枚の花びらが降っても、桜の屋根は一向に薄くならない。

 時計の横に黄色の自転車は乗り捨てられ、横たわっていた。

 桜達の中心で、土田達郎はただ上を見上げ、花びらの雨を浴びながら立っていた。

私と濱は時計の向こうへは行けず、ただその夢のような光景を眺める事しか出来なかった。そして、両手を広げて、笑いながら、花びらを浴びて踊る少女。

 「約束、守ってくれたね。」

 そう言った少女に違和感を覚えたのは、私だけでは無いようだ。先程までは上を見上げていた土田達郎は驚いた表情で、少女を見据える。

 「ありがとう。たっちゃん。」

 その少女は、ここにいる筈が無い。ここにいる少女では無い。

 「たっちゃん、大好きだよ。十五年前も。今も。ずっと。」

 声にならない声を上げて、土田は泣き崩れた。堰を切ったように溢れ、零れ落ちる涙。それでも目の前の少女の目を見て、「ごめんな、ごめんな。」と泣き叫ぶ姿に、私は胸を締め付けられた。その言葉は私が言わなければいけないのだ。

 「俺、さくらが大切だった。誰よりもさくらが大好きだった。さくらといると楽しかった。さくらに謝りたい事、いっぱいあったけど、ありがとうって言いたい事もいっぱいあったんだ。なのに、全部、俺が壊してしまった。謝っても、許してくれないだろうけど、本当にごめん。」

 泣き叫ぶ土田達郎に少女は近付き、優しく抱きしめた。

 「もういいんだよ。」

 「でもよ…俺…」

 「私、たっちゃんが大切だよ。死んでしまった今でも変わらない。誰よりも、何よりも。私の世界を輝かせてくれた私のヒーローだもん。たっちゃんがいて良かった。たっちゃんに会えて良かった。」

 涙で前が見えない。満開の桜の中に、彼女がいる。

 橘さくらがいるのだ。

 「もし、私が生きていたら、きっと女優にはなってなかっただろうけど、結婚してくれた?」

 土田は何度も何度も首を縦に振っていた。

 「たっちゃん、私を幸せにしてくれて、ありがとう。これからは、たっちゃんが幸せになって。天国からたっちゃんの幸せを願ってるからね。」

 少女はそう言った後、顔を上げてこちらを見た。目には涙が見えるが、にっこりと笑った顔はあの日の橘さくらだ。

 「運転手さん。」

 私の隣で桜と二人を見守っていた濱が驚き、体が脈を打った。

 「もう、あなたの気持ち、伝わりましたから。もう大丈夫です。」

 濱は膝から崩れ落ちた。

 「あとは、あなたの人生を歩んでください。私の家はもう大丈夫なので、出来たらで良いので、今後は別の誰かを助けてあげてください。」

 号泣する濱は、やっとの思いで言葉を絞り出す。

 「俺…許されたんですか…」

 答える代りに、少女は笑顔を見せる事で回答をした。

 私は鈴原咲の優しさに心から感謝した。彼女は自身のトラウマである姉と向き合い、姉の心を理解しようとしたのだ。彼女が発した言葉は橘さくらの言葉となり、土田達郎へ、そして濱へ届いたのだ。

「先生。」

 私は生徒の前だという事を思い出し、慌てて涙を拭った。

 「何ですか?」

 もう一度、笑った少女は大きな声で私に向かって叫んだ。

 「ありがとう。」

 私は右手を挙げて答える。

 「先生の生徒になれて、私幸せだったよ。」

 その右手で私は目を隠した。仕方ないと思う。涙が止まらなくなってしまったのだから。何故なら、すべてはその一言が聞きたかったから。例え、本物では無かったとしても。

「…はい。」

 満天の星空の下、満開の桜が降らせた花びらは風に乗ってどこまでも舞い上がった。公園の周囲に設置された照明器具、木の上に登り、花びらを降らせる作業員が二人、公園のフェンスからさらに二メートル程高く設置されたビニールシートのカーテン、白いミニバンの影に隠れて二人を見守る土田達郎と橘さくらの友人達。この奇跡にような風景は、奇跡では無い。友人達の愛情と橘さくらの想いが作り出した人工の世界。それでも、温かくて、優しい世界。現実か幻かもわからない。それでも、この場で泣き崩れる三人の男にとっては、どちらでも構わない。ただ、ここに彼女がいる事だけで十分だった。

 「たっちゃん、一つ言い忘れてた。」

 ただ、彼女の笑顔があるだけで良いのだ。

 「誕生日、おめでとう。」

 

 私達は真夜中の高速道路を走った。四時間以上かけて到着した公園を出発し、帰ってくるのに一時間もかからなかった。その間、後部座席で鈴原咲は眠り続け、土田達郎は私が渡した橘さくらの人生設計書を読んでいた。泣きながら。

鈴原咲の家の目の前に車が停車したのは午前六時前だった。眠っていた鈴原咲の肩を揺すり目覚めさせると、彼女は目を擦りながら、車から降りた。私は彼女の背中に声をかけた。

「お母さんに謝れますか?」

鈴原咲は振り返って、顔の横にピースサインを作った。

 「人生設計書、提出しますね。」

 「楽しみにしていますよ。」

 鈴原咲は玄関には向かわずに、庭の物置へ行き、その上に登った。母親に見つからないようにする為だろう。私達はその姿を見守った。濱も、土田達郎も一言も喋らずに。物置からベランダによじ登り、鈴原咲は私達に手を振ってから、自分の部屋へ入って行った。

その後、土田達郎を家まで送り、そして濱を送り届けた。そして、そこから自分で車を運転して自宅へと帰った。朝日を浴びて、周囲は既に明るくなってきた。新聞配達のバイク数台とすれ違った。

私は築十二年の一軒家である我が家へと帰宅した。長い、長い一日だった。



    6

 

五月五日、日曜日。子供の日。天気は快晴。橘さくらが亡くなった日だ。

結局、私達の計画によって、何かが変わったのだろうか。それとも、何も変わっていないのだろうか。そんな事を考えながら、私は愛車である黒のワンボックスカーを走らせた。

「あの桜、鈴原咲ちゃんのアイディアなんですよ。」

そう教えてくれたのは、渡辺安奈だった。私は計画の締めとして、皆で橘さくらのお墓参りに向かう道中でその事実を聞かされた。木村秀明も佐々木詩織も、鈴原咲の気持ちに心打たれ、彼女の計画に手を貸したそうだ。過去を塗り替える事しか考えていなかった私に対して、鈴原咲は土田達郎も濱も、みんなを救おうとしていたのだ。

前日の徹夜が影響し、昼過ぎまで眠っていた為、既に時間は昼の三時を過ぎていた。私と渡辺安奈、木村秀明、佐々木詩織の四人を乗せた黒のワンボックスカーは小牧山霊園に到着した。私は仏花を手に、コンクリートで出来た階段をゆっくりと上がる。上がった先には何百という数のお墓があり、その奥の方には橘さくらが眠るお墓がある。

 「あれ?誰かいる。」

 橘さくらの墓の前で手を合わせている人物が一人。私達のいる位置からでは距離が離れすぎている為、誰なのか判断がつかなかった。その時、その人物はお墓の前から立ち去ろうと、こちらに向かって歩き始めた。その歩き方を見て、私を含め皆がその人物の正体を理解した。昨晩の過度な運動によって筋肉痛となってしまった為か、蟹股で痛みに耐えるかのような歩き方だったからだ。

 木村秀明は彼の元に駆け寄ろうと走り出した為、慌てて私は彼の服を掴み、止めた。木村秀明はこちらを振り返り、疑問に満ちた顔をしていた。

 「大丈夫、大丈夫。」

彼は痛みを堪え、一歩ずつ一歩ずつゆっくりと歩いていた。


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