土田 達郎
1
「たっちゃん?たっちゃんだよね?」
「お、おう。」
「久しぶりだね。元気だった?」
「お、おう。」
「隣、座っても良い?」
「お、おう。」
この女、誰だっけ。僕は適当に返事をしながら、隣に座った女のことを必死で思い出そうとしたのだが、まったく分からなかった。それでも、その女のあまりにも友好的な態度に、「ごめん、誰だっけ?」という言葉を発するタイミングを失ってしまった。
「今は、どんな仕事しているの?」
「会社員だよ。営業。」
「どこに住んでいるの?」
「静岡。」
「結婚した?彼女はいるの?いつからいないの?良い人いないの?」
「僕はモテないから。」
隣の女が矢継ぎ早に質問を投げかけてきた為、僕はうんざりしながら答えた。このようなやりとりもすでに本日三度目だ。つくづく思うが、久しぶりに会った同級生に対して、他に聞きたい事は無いのだろうか。そんな事を考えながら、僕は隣の女を見た。彼女は今時珍しく自然で美しい黒髪で、大きくて丸い目が印象的な整った顔立ちをしている。もしかしたら髪型や化粧のせいで印象が変わっているだけで、昔は仲が良かった女子なのかもしれないと考え、すぐにハッと我に返る。中学生の時、仲が良かった女子などいない。
今、僕は愛知県の北の外れにあるくたびれた居酒屋「極極」で、中学校を卒業してから十五年、今年三十歳を迎える同級生達との同窓会に参加している。僕が卒業した市立王子中学校は一学年に百八十人の生徒がいて、五クラスあった為、顔も名前も覚えていない同級生が大勢いた。今、僕がいる居酒屋も同級生が経営している店らしいのだが、店長の顔も名前も覚えていなかった。ましてや、まともに学校に通っていなかった上、卒業後一度もこの街へ帰ってこなかった僕にとってはほとんどの人が初対面のような状況だった。数人の同級生とは話したが、ほとんど間が持たず、すぐに離れた。
一通り質問を投げかけた後、隣に座っている黒髪の彼女はようやく聞く事が無くなり、鼻の頭を人差し指で擦りながら周囲を見渡していた。次は誰の所へ行こうか、考えているのだろうか。
「実行委員、ちょっと集まって。」
当時の学級委員で、今回の同窓会の実行委員長である渡辺安奈が大きな声で誰かを呼んだ。すると、すぐ真横から返事が聞こえた。
「はーい。」
そう言って、隣に座っていた女は立ち上がった。そうか、この女、同窓会の実行委員なのか。
「呼ばれちゃった。ちょっと行ってくるね。」
「お、おう。」
「また、あとでゆっくり話そうね。」
「お、おう。」
同窓会の実行委員である黒髪の彼女は、渡辺の方へ向かって足早に歩いていった。その後ろ姿を目で追いながら考えていたが、やはり思い出せない。
そもそも、彼女は同い年にすら見えなかった。黒くて光沢のある美しい長い髪、あどけなさが残る大きくて丸い目、透き通るように白い肌、顔にはシミや皺など一つも無く、真っ白なワンピースに身を包んだその姿から、年齢は二十代前半から半ばにしか見えない。渡辺とやり取りしながら並んで立っているのを見ると、尚更だ。
最近は美容院に行けていないのか根元だけ黒く非常にゆるいウェーブがかかった茶色の髪、疲れが見え隠れする眠そうな目、もう水を弾かない残念な肌、よく見ると皺が増え始めてきた顔、灰色のスーツに身を包んだその姿から、ストレス社会で逞しく生きる女性の力強さと疲れが見えた。何だか、渡辺が可哀想に見えてきた。頑張れ、渡辺。
「おい、今の誰だよ。あんなかわいい奴いたっけ?」
正面の席に座った男が興奮気味に話かけてきた。おまえこそ誰だっけ。そう思ったが、僕は愛想笑いをし、首を傾げた。男は「良いじゃねえか、教えてくれよ。」と言っていたが、面倒だったので無視して、グラスビールに口をつけた。許せ、名前も知らない同級生よ。答えようが無いのだ。僕にも覚えが無いのだから。ただ、名前も知らない同級生の意見に僕も同意する。確かに彼女は可愛く、綺麗だ。昔から思い描いていた理想の女性が目の前に現れたような気がした。もう一度、黒髪の彼女の姿を確認しようと振り返るが、そこにはもう彼女の姿は無かった。
時刻は十七時半を過ぎ、飲み会としては早めの十六時から始まった同窓会も開始から約一時間半が経過した頃、貸し切りとなっている居酒屋「極極」では、盛り上がりのピークを迎えつつあった。最初に用意された座席表はまったく意味を持たず、指定された席に座っている者はほとんどいなかった。ビール瓶を片手にあちらこちらへ畳の上を移動する同級生達。テーブルの上に並んだ料理は大半が残っており、食べ物が勿体無いなんて微塵も考えず、彼ら彼女らは昔の友人や教師との再会を喜び、話に花を咲かせ、空のビール瓶を大量生産した。昔は犬猿の仲だった体育教師と不良生徒が乾杯する様子を、昔は教室の片隅で誰からも相手にされてなかった生徒が地位と名声を得て賞賛を浴びる様子を、水商売風の女が辺り一帯を巻き込みながら楽しそうに且つ豪快に酒を飲む姿を、それぞれの職場で戦っている者達が今日だけは十五年前と同じ純粋な心に戻り騒いでいる様子を、僕は一人で見ていた。
「こんばんは!」
入口の襖が横に動き、金色に染め上げた髪を靡かせ、革ジャンに身を包んだ筋肉質の男が大きな声で挨拶しながら入ってきた。辺りの空気が一瞬にして変わる。
「ヒデ!遅えよ!」「ヒデちゃん!久しぶり。」「待ってました。」とそれぞれ歓迎の反応を見せる同級生一同。金髪筋肉質のヒデちゃんは、皆に手を振りながら真っ直ぐ歩き、自分の席を目指した。
「すまん、遅くなった。」
「本当だよ。」
僕は自分のグラスにビールを注ぎながら、皮肉をたっぷり込めて言った。ヒデちゃんは隣の席に座り、上着を脱いだ頃を見計らって僕はグラスを渡した。
「遅かったね、ヒデ!」
そう言いながら同窓会の実行委員長である渡辺安奈も近寄って来て、ヒデちゃんの隣に座った。渡辺がヒデちゃんのグラスにビールを注ぎ、僕らは三人だけで乾杯した。周りを見渡しながら、ヒデちゃんは「みんな変わったな」と呟いた。へえ、そうなのか。僕にとっては誰が誰だかわからず、変わってしまったかどうかも判断ができない。
ヒデちゃんこと木村秀明とは小学生の頃からの親友だった。小学校の三年生の時に同じクラスになったのがきっかけで仲良くなった。彼の持つ大らかで許容範囲の広い性格が、僕にとっては楽だった。趣味が合う訳でも無く、頻繁に会う事も無いが、彼こそが、いや彼だけが、僕にとって親友と呼べる存在であった。
ヒデちゃんは、よほど腹が減っていたのか、テーブルの上に取り残された唐揚げやポテトフライを次々と口へ運びながら、目を合わさずに言った。
「どうだ?十五年ぶりの故郷は?」
手を止めないヒデちゃんに対して、僕も下を向いたまま、目を合わさず答えた。
「新鮮だよ。町並みが変わり過ぎていて、初めて来たみたいだ。」
「土田って本当に中学卒業してから帰ってきてなかったの?一度も?」
渡辺は僕の顔を覗き込んで言った。渡辺に悪意は無いのだろうが、僕にとってその質問自体が悪意に満ちている。
「まあな。色々あったからさ。」
僕は下を向いたまま、目を合わさず答えた。ふうん、とだけ答えた後、僕の態度から察したのか、ヒデちゃんが別の話題に変えた。
「達郎、渡辺はよ、今じゃ社長なんだってよ。舞台設備とかの会社を経営しているんだってよ。」
「え?そうなの?すごいな、渡辺。」
渡辺はビールをくいっと飲み干して、満面の笑みで答える。
「まあね。社員は五人しかいないけどさ。」
それでも立派なもんだ。多分、僕の何倍も稼いでいるのだろうし、僕の何十倍も誰かの役に立っているのだろう。
「舞台設備っていうと、具体的にどんな内容なの?」
「演劇とか、コンサートとかの設備かな。アイドルのコンサートだったら、ステージの上にお菓子の家みたいのを建てたり、ミュージカルだったら、ステージの上にお城を建てたり、あとミュージシャンのライブで花吹雪を演出したり、いろいろよ。」
渡辺の少し自慢気な表情が羨ましくもあり、憎たらしくもある。何故だか、少し複雑な気持ちで渡辺の話を聞いていた。
「みんな席つけー。」
懐かしい台詞が聞こえてきた。チャイムが鳴り、朝のホームルームが始まる時、先生が教室に入ってくる、そんな風景を思い出す。貸し切りとなった居酒屋の座敷、入口付近には、当時僕らの学年を受け持った教師達が集まり、並んで立っていた。三十歳になった生徒達はその光景に一瞬困惑の表情を浮かべたが、それはすぐ笑みに変わった。教師達の意図を察した生徒達は、それぞれの席に座った。
同級生の顔や名前を忘れていた僕でも、教師となると数人は覚えているのだが、教師達も生徒達と同様、大きく変わってしまっていた。当時はマドンナ的な存在だった三組の山端先生は四十歳を迎え、腕や足の太さから貫禄が感じられた。若くて爽やかだった五組の長谷川先生は、大きく突き出たお腹と薄くなった頭部によって、当時憧れていた女子生徒達の夢を打ち砕いた。
僕やヒデちゃん、渡辺の担任である一組の佐藤先生もその中にいた。規則に厳しく、短気な性格、さらに学生時代にラグビーで鍛え上げた体。何故か生徒に対して敬語を使う事で一線を引いており、生徒から好かれていたとはとても言いにくく、むしろ恐れられている存在であった。せめて、ニックネームだけでも可愛いものをということで、決められたニックネームが「サトパン」である。面と向かって言う者は誰もおらず、皆隠れて呼んでいた。しかし今は、大きく突き出したお腹に白髪交じりの頭髪、皺が増えたその体は当時の面影など殆ど無かった。十五年が経ち、ようやくニックネームに本人が追いついた。いや、追い抜いた。
教師達は総勢八名、その中心には体育教師の足立先生がいた。もう五十歳は過ぎている筈ではあるが、当時と変わらぬ健康的な体型で、見慣れたジャージ姿で立っていた。足立先生は辺りを見渡し、口を開いた。
「全員、揃ったな。じゃあ、号令。」
「起立!」
そう言ったのは、生徒会長を務めていた四組の青木君だった。いや、青山君だったかな。あまり覚えていないが、その青山君(仮)の号令に従い、ほぼ全員が一斉に立ち上がる。ヒデちゃんだけが、号令を無視して食事を続けていた。
「礼!」
「よろしくお願いします。」
「着席。」
教師も生徒も懐かしそうに笑っていた。足立も笑いながら、話し始める。
「みんな元気そうだな。どうだ、久しぶりに同級生に会った感想は?歳をとったなとか、変わらないなとか、それぞれ感想があるだろうな。」
「アダッチー、変わんないよ」と元女子生徒が言い、足立が「ありがとよ。」と答え、何故か皆が笑うという無駄な時間にも耐えながら、僕は話を聞いていた。ヒデちゃんはまだひたすら食べ続けている。
「じゃあ、当時の十五歳の頃の君達が、今の君達に出会ったら、どう思うだろうか?理想の自分に会えたと希望を持つのか、こんな筈じゃなかったと涙を流すのか。どう思うかというのは、中学を卒業してから君達が過ごした十五年間次第だ。そこで、十五年前に君達に書いてもらった自分史と人生計画書を返却する。ほら、立志式の時に、未来の自分は何をしていたいか、計画を立てて発表しただろ。今まで自分がどういう人生を送ってきたか、年表を作ったのを覚えてないか?当時の自分の理想と今の自分を比べてごらん。君達の人生はまだまだ先が長い。ここで一つ、自分が何を達成したのか、自分には何が足りないのか、理解し、君達の今後の人生をより輝かせるきっかけになれば良いなと思います。では、それぞれ当時の担任の先生から返却してもらうから、名前を呼ばれたら取りに来なさい。」
「人生設計書」、覚えている。「自分史」、確かに作った。
僕らの中学では、三年生の春に立志式を行っていた。立志式とは、元服にちなんで生誕十五年を祝い、過去の人生を振り返り、親に感謝し、そして将来の目標を明確にして自立を促す、そんな儀式らしい。午後からの授業を二時限分使用し、体育館に保護者や教育委員会の役員達を招き、行う。僕らからすると、授業が潰れることが嬉しかった。
学年が変わってすぐの四月、立志式に向けて「自分史」と「人生計画書」の二つの宿題が我々には課せられた。「自分史」とは、生まれてからの十五年間、自分がどのように育ってきたのか、自分の年表を作る物だ。こっちは比較的簡単だ。面倒なのは「人生計画書」の方だった。
十五歳、二十歳、二十五歳、三十歳という人生の節目に、自分が何をしているか、何になっているかを計画し、そのために何をすべきか考え、纏める。僕は「人生計画書」が上手く作れず、実に五回も作り直しを命じられた。
「木村君。木村君、いますか?」
サトパンが出席番号順に元生徒達の名前を呼び、「自分史」と「人生計画書」を返却している。元々、当時から立志式の課題は十五年後の同窓会で返却することは決まっていた。我々の一年先輩も、その先輩も、ずっとそうしてきた。我々の後輩達もそうしていくのだろう。
「木村君。」
「ふぁい。」
口の中に食べ物を詰め込んだまま、ヒデちゃんこと木村秀明が返事をした。ヒデちゃんはバツが悪そうに、やや駆け足でサトパンの元へ向かった。一言二言、会話を交わし宿題を返却された。きっと褒められていたのだろう。二人の顔には笑みが見えた。サトパンも笑うのか。久野、小辻、佐々木、澤井、鈴原、高御堂と、出席番号順に生徒達の名前が呼ばれていく。
同窓会実行委員である黒髪の彼女は、サトパンの隣でしゃがみ込んでアシスタントのように働いていた。大きな紙袋から課題が綴じられているファイルを取り出し、サトパンに渡すという単調な作業に、アシスタントなど必要だろうか。僕はそんな彼女をずっと見ていた。同じクラスであんな奴いたか。僕は思い出そうと、彼女を見ながら考えたのだが、やはり思い出せず、そうこうしている内に、名前を呼ばれた。
「土田君。」
僕は黙って立ち上がり、サトパンの元へ向かった。サトパンは表情を変えず、僕には事務的にファイルを返却した。僕は「自分史」と「人生計画書」を受け取った。僕の「人生設計書」は何度もちぎって破り捨てた形跡があった。セロテープで丁寧に繋ぎ直してあった。あの頃を一瞬思い出す。黙って自分の席に戻ろうとすると、背後からドスの効いた低くて思わず背筋が伸びるような声がした。
「土田君。」
「はい。」と僕は答えて振り向いた。
「おめでとう。」
僕は意味が分からず、固まっていると、サトパンが続けて言った。
「誕生日ですよね?今日。」
「あ、ありがとうございます。」
思わぬ相手からの祝福の声に、喜びよりも驚きの方が大きかった。何でサトパンがそんな事を知っているのか。その場で動けなくなった僕を無視して、サトパンは「七々原君」と次の生徒を呼んでいた。七々原君って誰だと思いながら、僕はその場を離れると、先程僕に「あんなかわいい奴いたっけ?」と興奮気味に黒髪の彼女について話しかけてきた男とすれ違った。なるほど、お前が七々原君だったのか。
自分の席に戻る途中、「たっちゃん」と、今度は優しくて可愛らしい声がした。振り返るとそこにはアシスタントの仕事を放棄し、僕を追いかけてきた黒髪の彼女が立っていた。
「たっちゃん、二次会行くよね?」
「え?」
「一軒目はあと十分ぐらいでラストオーダーだって。ここではあんまり話せなかったし、二次会で話そうよ。ね?」
「お、おう。」
彼女は笑って、その綺麗な黒髪を靡かせて振り返り、アシスタントの仕事に戻っていった。僕はそんな彼女の姿を見て、ある事に気付いた。彼女は似ているのだ。僕の知り合いに。それは僕の会社で働いている菊池歩美という後輩で、二十代前半の彼女は白くて透き通るような肌とさらさらの黒い髪を持ち、大きな目が印象的な女の子だった。
僕は周囲を見ながら、自分の席に戻った。すでに立志式の課題を返却された生徒達は、過去の自分が作った理想を見て、ニヤニヤしたり、困ったような表情をしたり、それぞれの反応を見せていた。ヒデちゃんは苦笑いをしながら、「人生設計書」を呼んでいた。渡辺は、自分が呼ばれるのを待ち遠しそうに、サトパンの方をじっと見ていた。
僕は「人生設計書」を見なかった。見ると、当時の事を思い出してしまうからだ。返却されたばかりのそれをテーブルの下に置いて、再びグラスに注がれたビールを飲みながら、菊池歩美によく似た彼女の方を見た。彼女はサトパンのアシスタントの仕事に取り組んでいた。
彼女は一体誰なのだろうか。
2
僕は誕生日が嫌いだった。いつからかは覚えていないが、誕生日やその近辺で必ず良くないことが起きるのだ。
例えば、十年前、大学に通っていた僕は、あまり社交的では無い性格や一年遅れで入学したという状況だった事もあり、なかなか友達が出来なかった。そんな中、たまたま図書館で隣の席に座っていた二年先輩の翔子先輩と知り合った。その時に読んでいた本の話題で盛り上がり、すぐに仲良くなった。真面目で大人しそうな女性であったが、たまには漫画を読むと言っていたので、僕はお気に入りの漫画を五冊貸してあげた。漫画を貸して数日が経った頃、街で翔子先輩を見かけた。四十歳ぐらいの中年サラリーマンと一緒にラブホテルに入っていくところだった。その日が翔子先輩と目があった最後の日になった。その後は電話もメールも無視され、大学で会うと逃げられるようになった。こうなった以上、もう友達には戻れないかもしれないが、漫画だけは返して欲しかった。翔子先輩がラブホテルに入っていくのを目撃した日は、僕の二十回目の誕生日だった。
二十二歳の誕生日は四十度の高熱に襲われ、一日中家で寝ることを余儀なくされた。二十五歳の誕生日は自分の運転ミスで仕事中に車をぶつけ、二十六歳の誕生には仕事中に車に追突された。二十八歳の誕生日に財布を落とし、二十九歳の誕生日にもう一度財布を落とした。そんな僕が、この話を断るのは当然だ。そうだろ、渡辺。
「何で?良いじゃん。久しぶりに皆で集まろうよ。」
電話の向こうで、中学生の時に学級委員を務め、同窓会の実行委員長に任命された渡辺安奈がこちらの事情など関係無いと、己の要求のみを主張した。
「だから、渡辺、今の話聞いていたか?誕生日は良い事無いんだって。三十歳とか、人生計画書の返却とか、そんなの関係無いよ。僕の誕生日にやる同窓会なんて絶対に行かないからさ。案内の葉書も、欠席に丸を書いて送っただろ。」
「だから、そんな理由じゃ納得できないの。ね、同窓会、行こう。行こう、同窓会。」
「嫌だよ。」
「お願い、来てよ。土田が来ないと今までの準備が水の泡になっちゃうの。」
「何だよ、準備って。関係無いだろ。」
ここからしばらくの問答の後、お互いの意見は一向に歩み寄りを見せず、「明日は朝早いから」という理由により、休戦へと持ち込む事に成功した。電話を切ろうと携帯電話のディスプレイを見ると、通話時間が一時間を超えていた。渡辺はよく頑張る女だ。たかが同窓会の為に、ここまで労力と時間と通話料を費やすとは。ただ残念な事に、僕が同窓会へ出席する事は無い。仮にその日が、僕の誕生日じゃなくても地元に帰る事は絶対に無い。
渡辺と話した翌日、僕はいつも通り会社へ出社した。会社に到着し、鞄をロッカーに置き、自分のデスクで仕事の準備を始めた数分後、見計らったかのように携帯電話が鳴った。早朝に鳴る電話は、昨夜に起こったトラブルなどの用件が多く、祈るような気持ちで、恐る恐る携帯電話のディスプレイを見た。そこで緑色に光る親友の名前は僕を安心させ、穏やかな気持ちで通話の釦を押すことができた。
「同窓会、行こうぜ。」
電話の相手は、小学生の頃からの親友である木村秀明ことヒデちゃんだった。「もしもし」も言わず、朝から元気な声が聞こえてきた。彼と電話で話すのも久しぶりのことで、半年は連絡をとっていなかった筈だ。
「だから無理だって。昨日、渡辺にも言ったんだけどな。」
僕は周りに聞こえないよう、声を潜めて会話に応じた。
「聞いたよ。誕生日は良い事無いから断られたって。何を言っているんだよ。一緒に行こうぜ。誕生日のお祝いも兼ねてさ、バカ騒ぎしようじゃないか。誕生日に良い事が無いなら、良い事を計画すれば良いんだよ。」
僕はデスクを離れ、一つ上のフロアにある、今は無人の会議室へ移動し、会話を続けた。
「知ってるだろ。ヒデちゃん。何で僕が地元に帰らないかを。」
「知ってるよ。だから誘っているんだよ。」
僕は彼の直球ど真ん中の要求に、何も答えられなかった。
「もう仕事が始まるからさ、この話はまた今度にしよう。ごめん。」
相手の反応を待たずに、僕は電話を切り、デスクへ戻ると、隣の席に座る菊池歩美という後輩が心配そうに話しかけてきた。
「大丈夫ですか?顔色悪いですよ。」
その声を聞き、周囲の同僚達がこちらを見たので、少し大きめの声で「大丈夫。」とだけ答えて、全力で笑顔を捻り出した。
それからの一週間、ヒデちゃんから五回、渡辺から二回、電話がかかって来たが、用件が分かっていたので、僕は電話に出なかった。一度、知らない番号からの着信だった為、電話をとってしまったのだが、相手は佐々木詩織という女の子からであった。「同窓会、一緒に行こうよ。いろいろ話したい事あるし。」と意味不明な事を言ってきたので、何も答えずに電話を切った。ヒデちゃんか、渡辺に頼まれたのだろう。どうしてそこまで必死で僕を同窓会に連れ出そうとするのか、只々疑問ではあったが、僕の答えは変わらなかった。同窓会が終わり、暫くしてから、ヒデちゃんには電話をしよう。無視してごめんと謝ることにしよう。そう思っていた。
佐々木さんからの電話以降、僕の携帯は静かになった。諦めてくれたのかと安心し、毎日を送っていた。しかし、そうでは無かった。同窓会まで残り四日と迫った四月の最終日だった。その日、僕は仕事を終えて会社を出ると、そこには金髪で長髪、革ジャンを着た腕の太い筋肉質な男が立っていた。男は僕と目が合うと、体をこちらに向けて、深々と頭を下げた。
「達郎、頼む。」
僕はその一言にカッとなってしまった。
「ヒデちゃん、どうしてここまでするんだ。今、職場は愛知だろ。わざわざ静岡まで来るなんて。どうかしているよ。」
ヒデちゃんは顔を上げ、僕の目を真っ直ぐに見つめ、答えた。
「近いもんだよ。名古屋と静岡なんて。」
「何で…同窓会なんかの為に、ここまで…」
ヒデちゃんはニコッと笑い、煙草に火を点ける。「歩きながら話すか」と言い、返事を待たず歩き始めた。会社の前では、同僚に話を聞かれる恐れがある為、この場を離れることには賛成だった。僕らは最寄りの駅に向かって歩いた。
「達郎と飲みたかったっていうのも勿論ある。達郎の地元に対する負のイメージを振り払いたいというのも正直ある。でも一番の理由は別だ。頼まれたんだよ、サトパンに。」
「サトパン?何で?」
「一ヶ月ぐらい前に突然、うちの店にサトパンが来たんだよ。」
店というのは、彼が経営する美容室のことだ。今日みたいな平日に、ヒデちゃんが愛知から遥々静岡まで来られるのは、店が火曜日休みだからである。
「でもよ、足とか腕とかガリガリになっちゃっていて、頬も痩せこけているし、最初はサトパンってわからなかったぐらいだ。で、言ったんだよ、サトパンが。ひょっとしたら、次が最後の同窓会になるかもしれないから、一人の欠席者無く、全員揃って欲しいって。」
ヒデちゃんは一瞬、間を置いて言った。
「多分、サトパン病気だぞ。もう永くねぇんだろうな。俺も当日は仕事だからさ、欠席で返事していたけど、そこまで言われちゃ参加しないワケにはいかないだろ。サトパン、まだ四十五歳だぜ。このまま、未練残したまま逝って欲しくないんだよ。だからさ、意地でも全員集めたいんだ。」
僕は言葉を失い、下を向いたまま喋れなくなった。どうしてヒデちゃんも渡辺も、ここまで執拗に同窓会に誘ってきたのか、その疑問は予想を上回る回答によって解決した。そして、その回答は僕に再び同窓会への出欠席を考えさせるには十分な理由となった。それから十分ほど、黙って歩き続けた僕らは静岡駅に到着した。その間、僕はずっと考えていた。考えて、考えた。迷って、迷った。腹を括った。
「わかったよ。行くよ。僕も。」
そう言った後ですら、まだ迷っていた。ヒデちゃんは驚き、そして満面の笑みで、何度も「ありがとう」を繰り返した。何て答えれば良いのかわからなかった僕は「親友の頼みだからさ。」とだけ答えた。これがサトパン以外の誰かなら、僕は行かないだろう。サトパンの事は大嫌いだが、サトパンだから行くのだ。その理由はきっと僕にしかわからない。
「せっかくだし、ちょっと一杯、行こうぜ。静岡の美味しい店、連れてってくれよ。」
僕らは静岡駅から徒歩五分ほど離れた居酒屋に入った。全国に店舗があるチェーン店であり、何度も来たことがある店なのだが、その日の酒は特別に美味しかった。僕らは思い出話に花を咲かせ、彼が名古屋へ帰る新幹線の終電の直前まで、飲み続けた。
僕は駅の改札までヒデちゃんを送っていき、「じゃあ四日後に」と手を振り、家路に就いた。
その日以降、熟睡できる日は無く、夜中に何度も目が覚めた。僕は地元へ帰りたくなかった。あの場所には、嫌な思い出が多過ぎる。行くと決めたことを後悔しない日は無かった。それでも、ヒデちゃんが喜んでくれた事、サトパンが喜ぶだろうという事だけが救いであった。僕が誰かを喜ばせるなんて事はずっと無かった。むしろ、悲しませたり、迷惑を掛けたりする事の方がずっと多かったからだ。
眠れない夜は一人で酒を飲みながら考えていた。人生の終わり方について。ヒデちゃんの情報によると、サトパンは四十五歳という若さで病気にかかり、逝ってしまおうとしているのだが、はたして彼の人生は不幸だったのだろうか。幼い頃からの夢だった職業に就いて、結婚もしたし、子供もいた筈だ。生徒に慕われていたとは言えないかもしれないが、ヒデちゃんや渡辺のように、同窓会に全生徒を集めるという最後の願いを叶えようとしてくれる教え子がいるのだから、教師としては悔いが無いのではないだろうか。孫の顔を見たいとか、校長になりたいとか、希望を言えば限がないだろうが、それでも、サトパンは幸せな人生を送っていると思う、僕よりは。
僕の人生には何の意味も無い。サトパンの人生と比べると、それは明確である。結婚はおろか彼女すらいない。友人も一人だけだ。祖父も祖母も死んでしまった今、両親が死ねば、この世に留まる必要など無くなる。両親を悲しませたくないから、生きているだけの人生だ。自殺する勇気が無くて、死ぬときの痛みや苦しみが怖いから生きているのだ。仕事では皆に迷惑を掛けて、誰の役にも立たない。営業職だが売上が目標に達する事はほぼ無い。特別仲が良い同僚もいない。特別目をかけてくれる上司も、特別慕ってくれる後輩もいない。そして誰からも必要とされない、大切にされない人生なのだ。僕は、ただ淡々と、黙々と生きるだけだ。たった一人で。いつか死ぬ、その日まで。できれば、もう誰にも迷惑を掛けないようにしたい。ただ、それだけが願いだ。必要とされない事や大切にされない事にはもう慣れた。弱い心を出来る限り殺して、生きていく。僕の人生は十五年前を境に、夢も希望も無くなったのだから、仕方がないのだ。
毎日のように深酒をして三日間を過ごした。
そして、五月四日、土曜日。みどりの日。天気は快晴。同窓会、当日。僕の三十回目の誕生日。
同窓会など出席した事が無い僕は、何を着ていけば良いのか分からず、それでもスーツでは堅苦しいと考え、紺色のジャケットにベージュのパンツを合わせた。バックには一泊分の着替えと洗面用具を入れ、静岡駅へと向かった。大型連休の後半というのもあり、駅は混雑し、家族連れやカップルで溢れかえっていた。
静岡駅から名古屋駅まで新幹線に乗り、名古屋駅からは地下鉄に乗り換え、その後さらに名古屋鉄道に乗り換え、最寄りの駅から徒歩十五分ほどで実家へ到着した。
十五年振りの故郷は大きく変わっており、故郷というよりは初めて訪れた土地のようだった。商店街のシャッターは昼間でも閉まっており、大型スーパーが三つも出来ていた。畑は工場に変わり、公園はパチンコ屋に変わっていた。変わっていないのは、学校と市民病院ぐらいだった。
「ただいま。」
慣れ親しんだ実家の玄関を開けると、十五年前の面影などまったく無く、当時は飼っていなかったハムスター、誰が描いたかわからない絵画などが置いてあった。
「おかえり。」
今年、還暦を迎える母親が出迎えてくれる。毎年、両親は正月とお盆休みに静岡まで様子を見に来る為、あまり久しぶりという感覚は無いのだが、実家に帰ってくるのは十五年振りだ。そのためか、母親の目には涙が浮かんでいた。ようやく息子がトラウマを克服したと思っているのだろうか、それとも単純に息子が十五年振りに家に帰ってきた事を喜んでいるのだろうか。どちらにしても、母親は帰省の理由を深く追及してこなかったので、何も答えなかったが、残念ながらこの地に戻ることに対して平気では無いし、戻って来たくはない。だが、戻れないという事では無い。愛知県に来ると、過呼吸になって立っていられなくなるとか、実家の半径五キロ以内に入ると奇声を発してしまう事も無い。ただ、戻ってきたくなかった。ただ、それだけだ。
そのまま、夕方まで実家で過ごし、辺りが暗くなった頃、妹が普段通勤に使用している元は水色の年季の入った自転車を借りて、同窓会へ出発した。無難に一次会は乗り切ったのだが、問題は二次会にあった。やはり誕生日は良い事が無い。必ず、悪い事が起きる。
時刻は十八時を過ぎ、青山君(仮)の中締めの挨拶と三本締めにて同窓会一次会は幕を閉じた。しかし、十五年振りの再会で興奮の頂点に達している同級生達は一向に帰る素振りを見せず、クラス毎の二次会へと向かう運びとなった。僕ら元三年一組の生徒達は、このような展開を事前に予想し渡辺が予約してあったレストランカラオケへ歩いて向かった。ヒデちゃんも実行委員の黒髪の彼女も名も無き同級生達も、サトパンも勿論来た。
まずは渡辺が、学生時代に流行っていたアイドルグループの楽曲を入力し、歌い始めた。同級生達が手拍子と合いの手で盛り上げる。僕とヒデちゃんはその様子を半笑いで見ながら、ビールを注文し、飲み直すことにした。
十五年も経てば、それぞれの生活がある。あの頃、無限の可能性を秘めていた種達が、どんな花を咲かせていてもおかしくはない。
「休み時間も勉強ばっかりやっていた山田は医者になって市民病院で働いているらしいし、野球部の石平なんか東京で俳優やっているってさ。全然売れてないけど。佐々木はバツイチで二人の子供を育てる為に錦のスナックに勤めているし、高御堂なんて十六歳も年上と結婚したのに、十八歳も年上の女と不倫してるらしいしな。十五年も経つと、みんな変わるよな。」
ごめんよ、ヒデちゃん。山田と高御堂って誰だ。まったく覚えていない。今、この空間にいるのかもわからない。石平は覚えているが、話した記憶は無い。佐々木については、どこで何をしていようが、まったく興味が無い。
曲が変わり、歌声が聞こえてきた瞬間、僕は思わずステージの方を見てしまった。そこでは、マイク片手に踊りながら楽しそうに歌う菊池歩美似の彼女がいた。会場にいた同級生達は皆耳を傾け、手拍子を送った。選曲は若く、国民の誰もが知っているアイドルグループの昨年百万枚以上のCDを売り上げた大ヒット曲であった。
「なあ、ヒデちゃん。菊池…あの、歌っているあいつってさ、今何してるの?」
「ああ、俺もよく知らないな。」
ヒデちゃんは煙草に火を点け、深く吸い込み、煙を吐きながら答えた。ヒデちゃんでも分からないのであれば、渡辺に聞いた方が良いかと思い、周囲を探した。渡辺はすぐに見つかったのだが、僕にとってはその近くにいたサトパンの方が気になってしまい、目が離せなくなっていた。サトパンの様子が、いやサトパンが纏っている空気が微妙に違う。
これは僕の勘だが、サトパンはステージ上の彼女を真っ直ぐに見つめながら、おそらくだが、泣いていた。遠くて涙は見えなかったが、泣いているようにしか見えなかった。教え子達の楽しそうな姿に、当時の思い出が蘇ったのだろうか。それとも、志半ばで死んでしまう自身の運命を呪ったのか。いずれにしても、サトパンが泣いている姿など、初めて見た。
その曲を最後まで歌い上げた偽菊池歩美を、皆からの拍手と歓声が包んだ。「歌うまいな。」とか「最近の曲なのに、よく知っているね。」とか「振り付け、完璧じゃん。」など、それを聞いた彼女は照れくさそうに、周囲に何度も会釈をしていた。ステージを降りようとした時、その様子をじっと見ていた僕は彼女と目が合った。彼女はこちらの視線に気付き、笑顔で僕に向かってピースサインをしてきたので僕は思わず目をそらし、ビールに口を付けた。ステージを降りた彼女を、数人の男女が囲み、楽しそうに会話をしているのが見えた。
次の曲が始まり、坊主頭で小柄な男がステージへ上がり歌い始める。皆の合いの手で知った。あれが高御堂か。男だったんだな。その曲のサビが始まると数名のクラスメートがステージに上がり、肩を組んで歌い始めた。
「ヒデ、お前も来いよ。」
ステージからの呼びかけに、ヒデちゃんは返事もしないで笑顔でステージへ駆け上がり、皆の輪の中に入っていった。ヒデちゃんは元々クラスの人気者で、ムードメーカーだったのもあり、ステージには人が集まった。特にやる事が無くなった僕は、一人で飲み続けた。おそらく、ヒデちゃんはここには戻ってこないだろう。ステージはヒデちゃんを中心に盛り上がっていたからだ。次の曲も、その次の曲も、ヒデちゃんはビールジョッキ片手にステージで騒ぎ続けていた。そんな中、一人ぼっちの僕に気付き、周りの同級生達に謝りながら、群れから離れ、こちらに歩いてきた人物がいた。
「たっちゃんは歌わないの?」
「お、おう。あんまり得意じゃないし。」
「良いじゃん、別に下手でも。私、たっちゃんの歌聞いてみたいな。」
先程までヒデちゃんが座っていた席に彼女は座り、会話を続けた。
「やめとくよ。恥かきたくないし。それにリモコンの取り合いになっているから、僕が曲を入れる隙なんてないよ。」
「そっか。」
ふと残念そうな表情で、下を向いている彼女にこちらから質問をしようと思い、話しかけようとしたのだが、直前で思い留まる。何て呼べば良いのかがわからなかった。学生の時、僕が彼女と友人関係にあったのであれば、ニックネームの一つもあると思うのだが、まったく思い出せない。彼女は、本当に知り合いだろうか。いや、クラスメートなのは間違い無いのだが、友人関係にあっただろうか。
「たっちゃんは、今日はこの後どうするの?」
「どうするって?家に帰るだけだよ。」
「そうなんだ。じゃあさ、一緒に帰ろうよ。」
突然の誘いに対して、僕は考えることも無く、条件反射で答えてしまった。
「い、いいよ。勿論。」
これだから中小企業に勤めている達成率の悪い営業マンは駄目なのだ。相手の依頼に対して、安請け合いをしてしまう。悪い癖だ。
「良かった。どうやって来たの?」
彼女はホッとした様子で聞いてきた。僕は承諾した事を後悔しながら答える。
「自転車だよ。妹の。」
「丁度良いね。後ろに乗せてよ。」
「お。おう。」
「わーい。たっちゃんと二人乗りするの久しぶりだ。昔は二人乗りで出掛けたよね。懐かしいな。」
僕が同年代の女子と、自転車二人乗りで出掛けるなんてできる筈が無い。僕はようやく理解した。彼女は、僕を他の誰かと勘違いをしているのだ。間違いない。「たっちゃん」というニックネームを付けられる可能生がある人間、つまり「た」が付くクラスメートこそが彼女が探している人物なのだ。僕は黙って席を立ち、渡辺の元へ向かった。
「何?怖い顔して。」
近づいてくる僕に気付いた渡辺は不機嫌そうな顔でこちらを向いた。
「名簿ある?今日の。男子の方だけでいいからさ。」
「あるけど。」
渡辺から名簿をもらい、苗字か名前の頭に「た」が付く人物を探した。そして僕は愕然とした。「た」が付く人物は僕を除くと一人しか存在しなかったのだ。
「僕は高御堂じゃない。」
渡辺が「は?」と言いながら、心配そうな顔で僕を見てきたが、そんなの関係無い。問題なのは、高御堂がすでに十六歳も年上の女と結婚してしまったという事だ。もしも彼女が、僕は高御堂では無く、本物の高御堂は既に熟女と結婚していると知ったなら、彼女はどう思うのだろうか。本物の高御堂は妻よりさらに年上の熟女と不倫をしていると知ったら、彼女の清い思い出に水を差すのではないか。彼女は家に帰るなり、夫に泣きつくのだろう。同窓会なんて行くのではなかったと。彼女は家に帰るなり、出迎えてくれる子供の前で気丈に笑って、同窓会楽しかったと嘘を言うのだろう。夫がいるか、子供がいるか知らないが、結果的に僕は腹を括った。
「彼女を送り届けよう。高御堂として。」
それが誰も傷つかなくて済む、唯一の方法だ。
渡辺が「あんた何言ってるの?大丈夫?」と聞いてきたが、そんなの関係無い。
記念すべき三十回目の誕生日の不運は、高御堂となった事だ。
ステージからは再び賑やかな音楽が鳴り始めた。五年ほど前、ある映画の主題歌となり国民の誰もが口ずさめる程ヒットした曲だった。勿論、僕も知っている。ステージではヒデちゃんが皆を盛り上げ、その横では実行委員で黒髪の菊池歩美似の彼女がその美声を披露していた。
彼女の横の横には高御堂がいる。そして、ここにも。
僕は彼女とその横の横にいる男の清い思い出を守る。
3
時刻は二十時三十分、レストランカラオケの駐車場に屯しているほぼ三十歳の男女が約三十名。かつて同じ学び舎で青春を過ごし、共に勉学に励んだ仲間達と過ごす懐かしく楽しい時間は終わりを告げようとしていた。
「もう一軒、行こうよ」とか、「また遊ぼうな」とか、「私、錦で働いているの。良かったら今度私のお店来てよ」とか。皆、それぞれ別れを惜しんでいた。
高御堂と実行委員の彼女の良き思い出に迷い込んでしまった僕は、皆の輪から離れ、同級生達の様子を見ながら、腹を括ろうと自分に言い聞かせていた。僕は高御堂だ。あと十分か十五分か、自転車で彼女を送っていくだけだ。難しいことなど、何一つ無い。無事に彼女を送り届けたら、明日の朝の新幹線で静岡に帰ろう。この辺りにはもう居たくない。もう戻ってくる事も無い。
カラオケで最新の曲を踊りながら歌い、皆を巻き込んで盛り上げていた菊池歩美似の同窓会実行委員の彼女は、店を出た後も名前の知らない男女に囲まれていた。その中で楽しそうに笑っていた。
僕は自転車置き場へ向かった。自転車の鍵を開け、返却された立志式の課題が綴じられたファイルを自転車の前かごに放り込み、ハンドルを握り、自転車のスタンドを蹴り上げた。そして、深く呼吸をする。目を閉じて、地元に戻ってきてからずっと頭に付き纏っていた嫌な思い出を消そうと試みるが、意識すればする程難しくなる。自転車にはあまり良い思い出は無い。元は水色の年季の入った自転車を押しながら、皆の元へ戻った。
名前も知らない女が山田を次の店に誘い、石平が野球部の仲間と次の約束を交わし、佐々木が数人の男に名刺を配り、本物の高御堂がある女を口説き、ヒデちゃんはサトパンと喋っていた。ヒデちゃんはペコペコ頭を下げており、サトパンの表情はこちらからではよくわからなかった。できれば笑っていて欲しい。昔、サトパンに庇ってもらった恩を、今回の同窓会に全員が揃った事で少しでも返せていたら幸いだ。
僕に気付き、サトパンに会釈をしてから、ヒデちゃんはこちらに走ってきた。
「達郎、帰るのか?」
「うん。また飲もうぜ。ヒデちゃん。」
「そうだな。また、静岡行くよ。」
「ちなみにさ…」
そう言って、僕はサトパンを見た。ヒデちゃんも僕の目線に気が付き、サトパンを見る。
「サトパン、痩せたか?ヒデちゃんが言う程、ガリガリじゃないぜ。」
「いや、痩せただろ。確かに腹は出ているけどよ。腕とか脚とか、かなり細くなったぞ。」
そうだろうか、どこか腑に落ちないが、無理矢理自分を納得させ、皆の方を向いて、「帰るよ」と呼んでみた。すると菊池歩美似の彼女はこちらを見てから、周囲を取り囲んでいた同級生達に別れを告げた。
「え?帰るの?」「もう一軒、行こうよ。」「メールアドレスか電話番号教えてよ。」に対して、笑顔で「ごめん。またね。」と言い、同級生の間をすり抜け、こちらに駆け寄ってきた。
「たっちゃん、お待たせ。」
「お、おう。」
ヒデちゃんは僕と彼女を交互に見て、目を丸くして驚いていた。
「え?お前ら。え?何?どういう事?そういう事?」
と、一人で楽しそうに呟いている。彼女の小さなピンク色の鞄と立志式の課題が綴じられたファイルを自転車の前かごに放り込み、僕はサドルに座って両手でハンドルを握った。彼女は後輪の上に付いている荷台に腰を降ろし、脚を揃えて横向きに座った。ちゃんと座ったのを確認し、僕は地面を蹴り、ペダルを漕ぎ始めた。
「じゃあね、バイバーイ。」
彼女はヒデちゃんだけで無く、クラスの皆に聞こえるぐらいの大きな声で言った。それを聞いて、ヒデちゃんは親指を立てて、大きな声で言った。
「避妊はしろよぉぉ。」
「ハハハ。ばーか。」
僕の代わりに彼女が答えてくれたので、僕は右手を軽く挙げて別れを告げた。僕らは二次会の会場となったレストランカラオケの駐車場を出て、右へ曲がった。
「家、どの辺だっけ?」
「え?忘れちゃったの?」
「久しぶりだからさ。戻ってくるの。あんまり覚えてないんだ。」
「そっか、そっか。大丈夫、合ってるよ。このまま真っ直ぐ。」
言われた通り、僕はひたすら真っ直ぐ進んだ。久しぶりに自転車に乗った上、あまり経験が無い二人乗り、転ばないように細心の注意を払いながら、僕はハンドルを握った。片道一車線の小さな道路の端っこを、ゆっくりゆっくり進む自転車と約三十歳の男女。車の交通量は比較的多く、交通事故に合わぬよう周囲に目を配った。
「今日は楽しかったね。」
「うん。」と話を合わせながら、僕はその声の主の方へ振り返った。ワンピースの裾から伸びる白くて長い脚、風に吹かれて靡く美しい髪、僕はドキッとしてすぐに前を向き直した。彼女の右肩が僕の背中に当たる。彼女はそのまま僕の背中に少しもたれる。僕と触れ合ってくれる人がいる、しかも無償で。静岡で長年一人暮らしを続けて、長年彼女もいない寂しい青年にとってはそれだけでも嬉しかった。
「そこのマンションの先を右に曲がって。」
「了解。」
彼女の指示通りに進もうとして、ある街の変化に気が付く。
「あれ?カトブンって無くなったの?」
「カトブンって何?昆虫?」
「加藤文具店。通称カトブン。小学生の時とか行かなかった?文具店なのに駄菓子とかゲームとか置いてあってさ。確かここだったと思ったけど。」
「へえ、そうなんだ。私、中学生の時にこっちに引っ越して来たからわかんない。」
僕がこの街を離れた十五年前は確かにあったカトブン。今はおそらく十階以上の高さがあるマンションに変わっていた。カトブンは月曜日に発売する漫画雑誌を前の週の土曜日から売り始めるという違法行為を行っていた為、近所の子供で知らない者はいなかった。子供好きだった爺さん。もう会えないかと思うと少し寂しかった。
「このまま、しばらく真っ直ぐね。」
指示通りマンションを超えた所を右に曲がり、僕は自転車のペダルを漕ぎ続ける。カラオケを出発してから、まだ十分も経っていないのだが、額から汗が流れ始めていた。二人乗りは意外に疲れる。
「どうだった?人生設計書は。」
「…見てない。どうせ何一つ予定通りにはなってないし。逆に…そっちはどうだった?」
何て呼べば良いのか判らず、ちょっと愛想が無い言い方になってしまった。
「私もまったく予定通りじゃないよ。なかなか難しいよね。」
僕は大きく頷いた。まったくその通りだ。
「でも、予定通りじゃないけど、今の方が良いってパターンもあるよね。夢なんて変わるし、向き不向きもあるし。今が充実しているなら、それは成功だよ。」
「そうだな。」と言ってみたものの、続きの言葉が思いつかなかった。今の方が良いなんて思えないし、充実しているとは言い難い、向き不向きすらわからない。僕の人生が成功か失敗か、どちらかと聞かれたら、僕は大失敗だと答えるだろう。夢も希望も無い。そんな毎日を送っております。
「やっぱり、僕にはわからないな。」
彼女は「そっか。」と呟き、話を辞めた。
ケーキ屋、ガソリンスタンド、電気屋。十五年前には無かった店が並ぶ通りを進み、市内有数の大企業の工場の横へと差し掛かった。
「何か、たっちゃんって変わっちゃったんだね。昔はもっと勢いがあったし、もっと前向きだった。明るくて、お話も面白くてさ。大きな夢を持っていたのに。一体いつから?そんな後ろ向きになっちゃったのは。」
「…。いつからだろう。」
僕が変わってしまったとして、でもそれは仕方がない事だと思う。自分の可能生とか現実の厳しさを知って、人は大人になっていくんだ。いつまでも前向きだとか、夢だとか言ってはいられない。そして、ふと思う。そもそも僕は高御堂では無い。変わるも何も、最初から別人なのだ。
つい黙り込んでしまい、無言のままペダルを漕ぐ音だけが夜の街の中に響いていた。十五年間住んだ街。でも見慣れない風景。そして、後ろには名前も知らない女。その時、ピピピピと携帯が鳴り、後ろの見知らぬ女が「ごめん。鞄取って。」僕は右手で彼女の鞄を取り、そのまま渡した。彼女は鞄から携帯を取り出し、誰かから届いたメールを見ていた。そして暫くしてから、突然話し始めた。
「ねえ、覚えてる?花見のこと。」
「花見?」
「遅咲きの桜。見に行ったじゃん。」
「ああ。」
僕らが生まれた三十年前は記録的な異常気象だったらしい。梅雨が異常に長かったり、夏の最高気温が各地で四十度を超えたり、初雪が異常に早かったりと、観測史上の記録は大概その年に更新された。僕らが住んでいる東海地方では桜の開花にも影響がでた。毎年四月初旬に満開となっていた桜は、その年は五月の初旬に一ヶ月遅れで満開を迎えた。
何故開花が遅れたのか、何故東海地方だけ開花が遅れたのかなど、僕には分らないが、当時の人に話を聞くと、その年の桜は例年以上に美しく咲いたそうだ。その美しさに人々は魅了され、過去最多の花見客が訪れたらしい。その影響は、その年の桜を見ていない者達へも及び、僕らの同級生には「美桜」とか「桜子」とか桜に因んだ名前の生徒が多かった。
それから十五年が経ち、僕らが十五歳の年。今から十五年前。その年も桜の開花は遅れた。十五年前と同じように四月末に咲き始め、五月の大型連休中に満開となった。遅咲きの桜によって、桜に因んだ名前を付けられた子供達は、その年に初めてその美しさを目にした。同級生達だけでは無く、皆が花見に足を運び、各地の花見スポットでは来場者数の記録を塗り替えた。僕らの世代で、十五年前の桜を見ていない者など、殆どいない。ただ、僕は見ていない。見ようとしたが見られなかった。
「綺麗だったよね。」
「ああ。」
彼女の話に対して、僕は想像で答えるしか無い。
「そうだ。花見行こうよ。咲いてるかもよ。」
「咲いてないって。今年の桜は例年通りに咲いて、例年通りに散ったよ。」
「もう!少しぐらい話を合わせてくれても良いじゃん。つまんない。」
「ごめん。」
「たっちゃん、やっぱり変わっちゃったな。」
変わるさ。変わらない人などいない。変わることは悪いことでは無い。変わらないという事は、何も成長していないという事だ。同じ過ちに、同じように傷つき、同じように悲しむという事だ。僕はそうでは無い。
少し間を置いて、彼女は言った。
「十五年前。花見へ一緒に行った時。あの時さ、本当はね。たっちゃんに告白するつもりだったんだよ。」
「え?マジで?」
僕はドキッとして、思わず大きな声を出してしまったが、すぐに冷静になる。その言葉は僕、土田達郎に向けて送られた言葉では無い、高御堂某への言葉だ。
「マジよ。マジ。結局、言えなかったけどね。」
「そうか。告白するのって勇気がいるもんな。十五歳だろうが、三十歳だろうが。断られるのは怖いしさ。」
「え?何?三十歳でも?それってどういうこと?もしかして、たっちゃん、良い人いるの?告白したい人がいるってこと?」
僕は彼女のあまりの鋭さに、つい黙ってしまった。信号が赤に変わり、僕はブレーキを強く握った。自転車が停止すると、彼女は荷台を降りて僕の横に立った。
「誰?どういう人?ね、言いなさいよ。ほらほら。白状しなさい。」
彼女は肘で僕の脇腹の辺りを数回つついた。僕は自分の失敗を悔やんだ。今の僕は高御堂だからだ。高御堂と彼女の関係に水を差してしまった。
僕は呼吸を整えながら、額の汗を手で拭った。
「ねえ、たっちゃん知ってる?渡辺さんは十五年前の花見の時に告白したんだよ。で、その時の相手が今の旦那さんなんだって。」
「え?マ、マ、マ、マジ?」
「でもね、その場ではOKもらえなくて。当時、相手の男の人は高校生でね、甲子園目指して野球漬けの毎日。部活が忙しくて、遊ぶ暇なんて無かったんだって。それから何年かして、偶然再会してね。それから付き合うようになったんだって。」
そうか。話を聞いて、僕はホッとした。相手の男は知っている。あの時の渡辺の気持ちも知っている。
「だから、勇気をだして告白すれば、良い結果が待っているかもしれないってことだ。たっちゃんも頑張ってよ。さあ、相手を教えて。どんな人?応援するから。」
僕は菊池歩美の事を考えた。菊池歩美似の女の応援を受け、菊池歩美に告白したらどうなるかを何度考えても、菊池歩美の心の中に僕がいない事はわかりきっていた。
「無理だよ。」
信号が青に変わり、彼女はもう一度荷台に座った。僕は再び自転車を漕ぎ始めた。
「それでも、好きならアタックするべきだと思うけどね、私は。相手の事情なんて関係無いもの。大切なのは自分の気持ちでしょ。迷惑かどうかなんて、相手が決める事よ。たっちゃんが決める事じゃないわ。」
彼女の言う事は一理ある。それでも無理だ。僕は誰にも愛されない。愛されるような人間では無い。愛されてはいけないのだ。
「そうだな。で、このまま真っ直ぐで良いの?」
「うん。もうちょっと進んでから右かな。」
僕は無理矢理、一旦この話を終わらせた。
少しの沈黙を経て、再び彼女は喋り始めた。昔からそうだったのだろうか、彼女はよく喋る。花見や渡辺の話以外にも、他の同級生や教師、この街の話。まるで、暗記した内容を、忘れない内に一気に吐き出しているかのように、立て続けに話した。十分も十五分も、彼女の話は続いた。彼女の話は面白いが、僕にはその話を遮ってでも、そろそろ聞かなきゃいけない事があった。
「家、遠くない?とっくに中学の校区は過ぎてるよ。」
「あれ?知ってるでしょ。私、引っ越したの。」
「ああ、そうか。」
僕は額から、首から、汗をポタポタと落としながら、それでも自転車を漕ぎ続けていた。高御堂と彼女の為に。
「どこに引っ越したんだっけ?」
「岐阜だよ。通称、光ヶ丘公園の近く。」
甲高いブレーキ音が夜の街に鳴り響いた。急ブレーキをかけて止まった為、彼女は驚き、僕の背中にしがみついた。そんな彼女の方を向いて僕は言った。言ってしまった。
「お前、バカじゃねぇの?自転車で行ける距離じゃ無いだろ!」
高御堂だって同じことを言うだろう。光ヶ丘公園というのは、岐阜県にある公園の呼び名で、正式名称では無い。「桜ライダー」という漫画の舞台となった事から、この辺りに住んでいる人達は、漫画の設定のままに呼ぶ。光ヶ丘公園は岐阜県の中でも、山の方にあり、僕の地元からは三十キロ、いや四十キロ以上離れており、自転車で行こうとするなら、一人乗りでも五時間はかかるだろう。
「何考えてんだよ。ちょっと考えたらわかるだろ。行けるわけ無いって。」
僕は自転車を降りて、携帯電話を取り出した。光ヶ丘公園へ行く方法を調べようと思ったからだ。その様子を、彼女は荷台から降りてじっと見ていた。辺りには街灯が無く、彼女の表情はわからない。驚いているだろうか、それとも高御堂は変わってしまったと悲しんでいるのだろうか。ただ関係無い。無理なものは無理なのだ。
「辞めだよ。辞め。公園の近くって具体的にどの辺り?最寄り駅は?何線?JR?そもそも終電ってあるのか?最悪、タクシー使うか。それとも漫画喫茶でも行って、翌朝帰るかだな。明日は仕事あるの?休み?どっち?もう最悪だな。行けるわけ無いんだからさ。」
僕が一方的に喋るのを彼女はただ黙って聞いていた。
「渡辺の家とかに泊まらせてもらうか。いや、待てよ。誰か酒を飲んでない奴いないかな。車で送らせるか。一回、ヒデちゃんに連絡をとってみるか。」
僕は携帯電話のアドレス帳の釦を押し、木村を探す為に「か行」のページを開いた。すると、背後から細い手が伸びてきて、携帯電話を僕の手から奪っていった。僕は怒りに満ちた表情で振り返る。彼女が僕の携帯を持って立っていた。
「返せよ。」
「連れてって。」
「は?」
僕は一瞬、彼女の発言の意味が理解できなかった。
「約束したでしょ。連れてってくれるって。十五年前に。」
その時、黒塗りのタクシーが横を通過していったが、もう呼び止める気力も無かった。心臓の動きが急激に早くなり、頭の回転が急激に遅くなった。僕は彼女の発言によって混乱していたのだ。目の前の女は、誰だ。この女は僕を知っている。高御堂を知っているのでは無い。この僕を、土田達郎を知っているのだ。さっきの発言は、ほぼ間違いなく僕に向けられたものだ。
「君って一体…」
彼女は自転車の荷台の横へ移動し、腰掛けながら言う。
「連れてってくれたらわかるよ。」
躊躇う僕を待たずに、彼女は続けて言った。
「行けるよ。きっと。」
彼女は笑っていた。僕はその笑顔を知っている。
「今度こそ、連れてってよ。たっちゃん。」
4
僕が国道沿いのコンビニエンスストアのトイレに篭ってから、既に十分が経過していた。体調が悪いのでは無い。気分が悪いのでも無い。誰も電話にでないからだ。
僕の地元では二十二時を回ると、電車もバスも無くなり、公共交通機関を使っての移動は不可能となる。今から駅まで向かったとしても、二十二時までには到着しないだろう。タクシーもほとんど走っておらず、駅まで行かないと捕まえられそうにない。そうなると、頼るべきは数少ない友達。僕は彼女を家まで送り届ける為、ヒデちゃんと渡辺に電話したが、二人共電話にでなかった。二人共、三次会に行ったのかもしれない。ヒデちゃんに十三回目の電話をかけようとしたが、ふと思いとどまる。
僕は意を決して、トイレのドアを開け、コンビニエンスストアの店内に戻った。彼女は雑誌コーナーの前に立ち、若者向けの雑誌を読んでいた。彼女はこちらに気付いて雑誌を棚にしまい、僕に近寄って来た。
「何か飲み物でも買う?」
「お、おう。」
帰れないのであれば、漫画喫茶に泊まるという選択肢もあったが、まだそれを選ぶのは辞めようと思う。彼女の正体を知りたい。行ける所まで行こう。
彼女はミネラルウォーターを買っていた。僕はこの先のことを考えて、この店で一番高い栄養ドリンクを買い、店を出てすぐ一気に飲み干した。彼女はその姿を見て「頑張れ、頑張れ」と笑っていた。
店の駐車場にはもう深夜だというのに、高校生ぐらいの若者達が五、六人で屯していた。煙草を吸い、炭酸飲料を飲み、楽しそうに喋っていた。その横には、おそらく彼らが乗ってきたであろうスクーターが四台。彼らの内の一人が彼女の美しさに気付き、周りの仲間達にその存在を教えていた。「何で、あんな美人が、こんな所にいるんだ。何で、あんな美人が、くたびれたおっさんと一緒にいるんだ。」とでも言っているんだろう。彼らの気持ちはよくわかる。僕も同じ気持ちだ。彼女は何で僕と一緒にいるのか。彼女の目的は何なのか。それは僕にもわからない。
僕らは再び自転車に乗り、走り始めた。コンビニエンスストアを出て、国道沿いの歩道を走る。ゴールデンウィーク中というのもあり、国道の交通量は多く、車の音が五月蝿すぎて僕らは会話が出来なかった。いや、車の音が五月蝿すぎるおかげで会話をしなくて済んだ。彼女に聞きたい事は山程あるが、何から聞けば良いのか解らなかった。
それから暫く、無言のまま僕らは走り続けた。十五分は走っただろうか。ようやく市内を脱出できるという所まで来た。その間、彼女は自分の人生設計書を読んでいた。ずっと。自転車の荷台に座って、書類を読むなんて器用な人だ。ましてや、この三十分間で彼女の携帯が十回は鳴っていた。友人や彼氏とメールのやり取りでもしているのだろうか。
「ねえ、たっちゃん。たっちゃんの人生設計書、見せて。」
唐突で無茶な要求に対し、僕の答えは当然「NO」である。人に見せられるような物では無い。そう思い、前かごに目をやったが、そこには人生設計書など無かった。驚き、振り返るとすでに彼女が読み始めていた。なるほど。さっきの発言は要求では無く、宣言だったのだ。先程、コンビニエンスストアに立ち寄った際、すでに盗られていたのか。
僕は判決を待つ被告人のような気持ちで、彼女の反応を待った。
「あはははははっ。これ、なかなか凄い内容だね。」
やはり、予想通りの反応。だから見せたくなかったのだ。
「たっちゃん、これサトパンに怒られなかった?」
「怒られたよ。五回ぐらい書き直しさせられた。」
「だよね。夢があり過ぎだもん。書き直してこの内容という事は、初期版はかなり期待できるわね。」
さてと、漫画喫茶を探そう。そこにこの女を置いて、自分は帰ろう。そう思った。
「実は私も、三回は書き直したんだよ。あんまり自分の将来に現実味が無くて、うまく書けなかったんだ。」
その時、再び彼女の携帯が鳴った。彼女は「もう!」と言いながら、音を止めた。すると、数秒の間を置いて、再び携帯が鳴る。
「電話でたら?旦那さんから?」
僕はかまをかけながら聞いた。
「え?旦那じゃないよ。ただの友達。」
そうか。僕は結婚しているかどうかを知りたかったのだが、うまく聞き出せなかった。ここまですでに数時間、一緒に過ごしているのに彼女の事がまったく分からない。彼女は誰なのか。彼女は何故、十五年前の約束を知っているのか。そして、僕を岐阜へ連れて行く目的は何なのか。僕には見当もつかない。
気が付けば、彼女の携帯電話の着信音は鳴り止んでいた。結局、彼女は通話に応じ無かった。
金が目当てなら、会社経営している山田を狙った方が良い。ただ、タクシー代が勿体無いから送って欲しいということなら、野球部の石平の方が自転車を早く漕げるだろう。金では無いとなると、恨みだろうか。僕はもう我慢できず、ストレートに聞く事にした。これ以上、一人で考えていても仕方ない。
「あのさ。」
「何?」
「名前、教えてよ。」
「え?たっちゃん、まさか私の事忘れちゃったの?」
「ごめん。忘れているかもしれない。というか、誰だかわかってないんだ。」
「ええ?酷いなぁ。たっちゃんは。」
その発言に続く言葉を僕は待ったが、それ以降、彼女は黙ってしまった。僕は前を向いたまま、先程より強い口調で督促をした。
「教えてよ。頼むからさ。」
彼女は溜息をつき答えた。
「一人しかいないでしょ。自転車で岐阜に行くって言ったら。」
その言葉で僕は確信した。彼女は知っている。十五年前の今日の事を。何故、僕は誕生日が嫌いなのか。何故、十五年間地元に帰ってこなかったのか。彼女はすべてを知っている。そして彼女は僕を恨んでいる。
僕の奥歯がカタカタと震えてぶつかった。目の奥が熱い。呼吸が荒くなり、喉の奥は乾ききっていた。滴り落ちる大量の汗を拭いながら、自転車を漕ぎ続けた。
「あいつの友達か?僕を恨んでいるんだな。いや、仕方ないと思う。僕には弁解の余地も無い。」
彼女への発言だが、自分自身へ言い聞かせるつもりでもあった。
「すべて僕が悪いんだ。無謀で、無力で、無責任だった。許してくれなんて言うつもりは無い。許される筈なんて無いんだから。いいさ、気の済むようにやってくれ。どんな罰でも受ける。受けなければいけないんだ。君の恨みは当然なんだから。さあ、僕はどんな罰でも…痛っ!」
ゴンという音と同時に、僕の頭部に痛みが走った。僕は後ろを振り返り、彼女の方を見た。彼女は人生設計書のファイルの端っこを持っており、おそらくそのファイルの角で僕の頭部を強打したのだろう。
「あのさ、一人で何を言ってるの?私、何にも言ってないよ。」
「お、おう。すいません。」
僕の謝罪に対して、彼女からは何の反応も無く、再び無言でのサイクリングが始まってしまった。僕は冷静になろうと、深く呼吸をした。それでも心臓の鼓動は早くなるばかりだった。そうして五分ほど経った頃、ようやく彼女が口を開いた。
「あのね、たっちゃん。」
「はい。」
彼女は先程までの明るい元気な声では無く、こちらの機嫌を伺うかのように恐る恐る喋り始めた。
「今は何も聞かないで。ただ、ちゃんと話すから。正直にすべて話すから。今はただ、このまま光ヶ丘公園まで行って欲しいの。そこで、すべて話すから。」
すべては目的地に到着してからという彼女の要求に納得はしていないが、すでに三分の一は進んでいる上に、近くに宿泊ができる施設も見当たらないのだから、ここで断る事も出来ない。何より、彼女の要求に対して、僕は断る事が出来るような立場では無い。
「お願い。」と彼女はこちらの返事を待たずに続けた。僕は振り返り彼女を見たが、彼女は俯いたままで、その表情はよくわからなかった。それでもカラオケの時の彼女とはまったく別人のように、あの明るさは身を潜めていた。
「わかった。」
「本当?」と急に元気になる彼女。
「本当。だけど、ちょっと休憩する。疲れたよ。」
光ヶ丘公園へは行く。体力的に行けるかわからないけど、行ける所まで行ってみる。そう決めた。僕はそのまま進みながら、コンビニエンスストアを探した。そろそろ休憩をしないと体力がもたない。
国道の交通量はかなり少なくなり、スクーターが2台走っているぐらいで、辺りも静かになってきた。そのスクーターの運転手の一人がこちらを向いて、何かを言っている。何を言っているのか、全くわからなかった。すると、スクーターはこちらに近寄って来た。横並びに走る二人乗りの自転車と一台のスクーター。さらにその後ろにはもう一台のスクーター。並んで走りながら、運転手はこちらに何かを伝えようと必死で叫んでいるが、それでも運転手の君が言っている事は、理解出来なかった。
「遥斗?」
彼女が急に叫んだ。何を言っているのかわからず、彼女を見て、運転手を見た。そんな時、運転手が叫んでいた言葉がようやくわかった。
「ふざけんな!この野郎!」
スクーターはそのまま僕らとの距離を詰めて、自転車に体当たりをしてきた。
「きゃっ」と、彼女が叫ぶと同時に、バランスを崩した僕らは自転車ごと倒れてしまった。大きな音とともに、地面に叩きつけられる僕と彼女と妹の自転車。左足、左腕、腰、右手、頬。体の様々な箇所に激しい痛みが走る。地面に倒れ込んだ僕はゆっくりと顔を上げる。すると、目の前で彼女も同じように倒れ込んでいた。ただ、彼女はまったく動かなかった。横向きに座っていた為、彼女は後頭部から倒れてしまったのだろう。頭部を強く打ったのか、気を失っていた。
「お前、人の女に何してんだよ!」
そう叫びながら、運転手は僕の腹を蹴った。二回、三回。僕は激しい痛みに耐えながら、「おい」とか「大丈夫か」と彼女に呼びかけたが、彼女は答えなかった。
運転手は興奮してしまい、周りが見えていない。そんな彼に、後ろを走っていたスクーターの運転手が言う。異常に前髪が長い男だった。
「おい、遥斗。お前の女、やばいって。さっきから動かないぞ。」
「何?」と言いながら、遥斗と呼ばれた人物は僕をもう一度蹴った。遥斗は彼女に近寄り、抱き上げた。「おい!起きろ!おい!」と彼女を揺らすと、彼女の頭部から美しく長い黒髪がごそっと抜け落ちた。
「ぎゃあ!」と僕も、遥斗も、もう一人の運転手も思わず叫んだ。だが、すぐに気付く。黒髪が抜け落ちたのでは無く、よく見るとそれは鬘だった。頭部には茶色のセミロングが残っていた。
「お前ら、何してんだ!」
その声の方を見ると、黒塗りのワンボックスカーがハザードを点けて止まっており、そこから金髪で筋肉質の男が降りてきたところだった。金髪筋肉質はまず後ろを走っていたスクーターの運転手の腹部に蹴りを一発。ズシンという音と同時に、運転手は倒れこみ動けなくなってしまった。そして遥斗の前に立ち、「邪魔だ。どけ。」と睨みつけ、言い放った。彼女をゆっくりと地面に戻し、立ち上がった遥斗の顔面へ金髪筋肉質は右ストレートを叩き込んだ。遥斗は殴られた頬を抑え、倒れ込んだ。そして、金髪筋肉質は僕の前に立った。
「大丈夫か?達郎。」
「何でヒデちゃんがこんな所にいるの?」
男を二人退治したのを確認してから、黒塗りのワンボックスカーから二十代前半ぐらいの大学生のような女性と高校生ぐらいの女の子が降りてきた。
「鈴原さん?しっかりして。」
「咲!咲!」
二人は彼女に近寄り、呼びかけていた。僕はその様子を見ていた。だが何一つ理解出来なかった。
「鈴原?咲?」
ヒデちゃんは何も答えなかった。しばらくすると、彼女の意識が戻り、周囲の女達が安堵の表情を見せた。「鈴原さん。」とか「咲。」とか、意識が戻っても、戻る前と同じ発言を繰り返していた。
「一度、車に乗りなさい。計画は中止にしましょう。」
僕は再び驚いた。そこには佐藤先生ことサトパンが立っていた。サトパンは彼女に近付き、「大丈夫ですか?計画は中止です。諦めましょう。」と声を掛けていた。彼女は涙目で首を横に振っていた。「中止です。」とサトパンは強い口調で言った。
僕は地面に座ったまま、皆の様子を見ていた。黒のワンボックスを運転していた髭を生やした中年男性に抱えられて車に運ばれていった鈴原咲と呼ばれた彼女を。今まで見たことがないような優しい表情で彼女に話しかけるサトパンを。二人のスクーターの運転手に説教をする大学生ぐらいの女を。僕にハンカチを差し出し、頬や肘にバンドエイドを貼ってくれたおそらく女子高生を。僕の元へ近寄ってくるヒデちゃんを。
「その、何て説明すれば良いんだろうな。」
ヒデちゃんは目を合わさない。下を見たまま喋り始めた。僕はそんな彼にストレートに、そして最も知りたい事を聞く。
「彼女は誰だ?知っているのか?」
ヒデちゃんは少し困った表情をした後で、下を向いたまま答えた。
「知っている。」
一瞬の静寂が僕らを包む。
「橘さくら。」
僕はそんな返答を望んではいなかった。この期に及んで、人を馬鹿にした回答をされ、僕は我慢できなかった。
「ふざけるなよ。そんな訳が無いだろ。」
「ふざけてなんか無い。彼女は橘さくらだ。」
「馬鹿か、お前!」
僕はヒデちゃんの目を見た。ヒデちゃんも僕の目をじっと見ていた。
「だって、さくらは死んだだろ!」
さくらはもうこの世界にいない。僕が殺したからだ。
5
茶色の屋根。真っ白なタイル。駐車場には真っ赤な軽自動車。表札にはローマ字で鈴原と書いてあった。僕はこの家を知っている。何度もここに来た事がある。あの大きな茶色の玄関も、庭にある物置も、ベランダも、その先にある部屋の中も、ほとんどがわかる。僕はここに来た事が何十回もあるのだ。
二階建ての大きな家の茶色のドアが開き、五十代ぐらいのマダムが出てきた。マダムはこちらを見て叫ぶ。僕は思わず目を逸した。そのマダムを僕は知っている。
「咲ちゃん!何時だと思っているの!」
「ごめんなさい。」
「もう、心配かけて!」
僕とヒデちゃんは、彼女を自宅まで送ってきた。サトパンは教師という立場の為、彼女を送り届ける役には適していないという判断で、車内に残った。鈴原と表札に書いてある家から少し離れた場所に車を停めて、女子高生や中年の運転手とともに我々を待っていた。
彼女はマダムに連れられ、家の中へ入っていった。彼女は時々、僕の方を振り返った。ドアが締まる、その瞬間でさえ、僕を憐れむような表情で、こちらに視線を送り続けていた。
彼女の家は岐阜では無く、僕らが同窓会を行った居酒屋「極極」の近くにあった。
すでに時刻は二十三時を過ぎていた。数時間ぶりに、この辺りに戻ってきた事が僕には不思議だった。大冒険をしていた筈なのに、まだどこにも行けてなかったような、そんな感覚だ。
再び家のドアが開いた。今度はマダムが一人で出てきた。
「あなた達は、うちの娘とどういう関係なの?どこへ連れて行っていたの?」
マダムは顔を真っ赤にして、僕らに詰め寄った。
「我々はお嬢さんの友人でして。今日は祝日というのもあってですね、遊んでいるうちに時間を忘れ…」とヒデちゃんは弁解をしようとしたが、「友人なんて嘘でしょ。咲はまだ十四歳よ。あんた達みたいなおじさんと仲良くなる訳ないでしょ。」というマダムの正論に沈黙した。僕は同級生だと思っていた女性が、まだ十四歳だったという衝撃の事実発覚にも動じず、誠心誠意謝った。目を見て、謝った。マダムの目を見た時、マダムは気付いてしまった。
「土田君?あなた、土田君でしょ?」
「あの…その…」
間違いない。僕はマダムの事を知っている。マダムも僕を知っている。忘れるはずがない。忘れられるはずがない。マダムは橘さくらの母親だった。
「また、あなたなの?あなた、ウチの娘に恨みでもあるの?もう二度とウチの娘に近づかないで!」
マダムは僕への恨みを露にし、僕に怒鳴った。僕は思わず、その場から逃げ出した。ヒデちゃんも僕を追い、鈴原家の玄関を離れた。停めてあった黒塗りのワンボックスに乗り込もうとした時に背後から聞こえた「この人殺し」という言葉が、しばらく頭から離れなかった。僕とヒデちゃんが車に乗り込んだのを確認し、運転手は車を動かした。僕は恐る恐る鈴原邸に目をやった。マダムはこちらを睨みつけ、その様子を二階の窓から見ている女の子もいた。
五分程走ると、目的地に到着する。そこは川沿いのアパートだった。駐車場には白のミニバンが停まっており、そのボディには「株式会社渡辺舞台設備」と書いてあった。誰が住むアパートなのか、すぐに理解した僕とヒデちゃんはここで降りた。一緒に乗っていた大学生ぐらいの女性は一度アパートに入り、すぐに鞄を持ってきて、再び車に乗り込んだ。そして、サトパンと運転手は女子高生に見えた女の子と、大学生ぐらいの女を車で家まで送って行った。ちなみに、その女子高生に見えた女の子というのは、実行委員で黒髪の菊池歩美似の十四歳の彼女の学校の友人だそうだ。そして、もう一人の女は大学生ではなく、その二人の元担任教師だった。
「女性陣を送ったら、サトパンがその後で俺達も送ってくれるってよ。とりあえず俺らは休憩しよう。手当てもしないと。」
ヒデちゃんの声は聞こえていたが、僕は返事をしなかった。さくらの母親の言葉が頭から消えない。スクーターの運転手に蹴られた腹と殴られた頬が痛む。「連れてって」と笑った彼女の笑顔が離れない。心が静まらない。
ヒデちゃんはそんな僕の様子を見かねて、煙草の煙を空に吹き出しながら言った。
「話すよ。達郎。全部。」
とりあえず、部屋行こうぜ、そう言うヒデちゃんに連れられ、アパートに入った。アパートの階段の前では作業着を着た中年男性の二人組とすれ違った。煙草を吸いながら、缶コーヒーを片手に談笑している彼らを見て、何故だか無性に苛立った。自分が楽しくない時に楽しそうな人物を見ると、苛立つ。まるで子供のような自分に気付き、さらに苛立った。
二階に上がり、廊下を突き当りまで進むと、安藤と書いた表札を発見した。玄関を開けると、
「おかえり。」
と、女性の声がした。そこに立っていたのは、渡辺安奈と佐々木詩織だった。
「お前らも絡んでいたのか。」
「まあね。メイクとか、衣装提供とか。」
「あと、段取りとかも。」
自慢げに答える二人に、少しイライラしていた。
「入って良いよ。ここ私の家だからさ。」
そう言ったのは渡辺だった。僕は返事を省いて、黙って靴を脱いで部屋に入った。渡辺は、いや安藤と呼ぶべきか、素早く台所へ向かい、お湯を沸かし始めた。
「今日は旦那が泊まり勤務で帰ってこないから、ゆっくりしていて」
と、こちらを見ずに言った。
「渡辺。お前、安藤先輩と結婚したんだな。本当にアンアンになったのか。」
「懐かしいな、それ。」
笑顔になって答えたのはヒデちゃんだった。渡辺はただ笑うだけで、何も答えなかった。
「本当は私達も一緒に車に乗って、そっち行きたかったんだけどさ。定員オーバーでね。大人しくお留守番していたのよ。」
佐々木詩織はまるで自分の家のようにくつろいでいる。
「佐々木は男に囲まれていたから、連れて行けなかったんだよ。」
と、ヒデちゃんのツッコミに佐々木詩織は申し訳ないという意味で一瞬舌を出した。僕はテレビの前のソファに座った。ヒデちゃんは立ったまま、申し訳なさそうにこちらを見ている。
「妹か。さくらの。」
「そうよ。そっくりでしょ?」
答えたのは、佐々木詩織だった。彼女はテーブル用の椅子に座ったまま、当然のように言う。僕は徐々に事実を理解した。つまり、今日同窓会に来ていた女の子は、さくらが死んだ後に生まれた実の妹だったのだ。おそらく年齢はまだ三十歳どころか十五歳にもなっていない。佐々木詩織の手によって、服を変え、髪型を変え、化粧をし、年齢を誤魔化して同窓会に送り込まれたのだ。
「復讐か?」
「誰に?」
答えたのは、その場にいた全員だった。
「橘さんの妹、鈴原咲ちゃんって言うんだけど、彼女とサトパンが中心になって考えた事なのよ。今回の事は。二人が計画して、私達がそれに協力をして、今日を迎えたの。」
渡辺がコーヒーを配りながら、言った。僕の目の前にはウサギのキャラクターの絵が描かれたマグカップが置かれた。そのウサギの無責任な笑顔が、少し僕を苛立たせた。
「特に鈴原咲ちゃんはサトパンやサトパンの友達も助けようと、橘さんの事を一生懸命調べて、どうすれば皆が幸せになれるか考えて、いっぱい準備して…」
サトパンの友達って誰だ。そんな奴が何の関係があるのかもわからないし、何か関係があったとしても、僕にはどうでも良いことだ。
「そんな事をして、何が変わるというんだ。何の為に。」
「さくらと土田の為に決まっているじゃない。そんなの。」
佐々木詩織はコーヒーを飲もうとした手を止め、言い放った。少しだけ、声が震えているような気がした。怒っているような、でも泣いているような声だった。
佐々木詩織はその続きについては口を閉ざし、黙ったまま窓を開け、健康サンダルを履いてベランダに出た。そして慣れた手つきで煙草に火を点け、深く吸い込み、煙をゆっくりと吐いた。彼女の口から出る白い煙が風の中に消えていくのを、ただ見ていた。
「みんな心配なんだよ。俺も、佐々木も、渡辺も、サトパンも。」
そう言うヒデちゃんはずっと同じ場所に立ったままだった。
「そして…橘さくらも。」
何故か、無性に苛立ち、ヒデちゃんを睨み付けた。
僕はさくらを殺したんだから、さくらが心配している筈が無い。恨んでいるとしか思えない。さくらも、さくらの母も、さくらの父も、佐々木詩織も、サトパンも、さくらの妹も、恨んでくれた方が良い。
「土田さあ…いつまでそうしているの?」
佐々木詩織の発言に、僕は驚いた。
「いつまで、さくらの事を引きずるの?」
「引きずってない。」
「嘘。」
条件反射のように、僕は佐々木詩織の問いに答えた。だが、それ以上の速さで佐々木詩織も対応してきた。確かに嘘だ。
「引きずってないなら、こっちに帰ってこれば良いのに。お墓参りしてあげたら?堂々としていたら良いのに。」
その通りだ。
「あんた、まだ辛いんでしょ。さくらの事、引きずっているんでしょ。罪悪感に悩んでいるんでしょ。自分なんて駄目な奴だって、自分は幸せになっちゃ駄目だって、人の幸せを奪った大馬鹿野郎だって決めつけちゃっているんじゃない。恨まれているとでも思っているんでしょ?」
喋っている内に、佐々木詩織は泣き出した。そして、ベランダから部屋に入り、僕の鞄からファイルを取り出して、僕に投げつけた。
「それ、もう一回見てみなさいよ。全然違うんじゃないの?もっと、幸せになろうとしなさいよ。そうじゃなきゃ、さくらが可哀想でしょ。いつまで経っても、成仏出来ないじゃない。」
目の前には、人生設計書が転がっていた。
「あんた、さくらに失礼過ぎるわよ。」
子供のように泣きじゃくる佐々木詩織を渡辺が抱き締める。ヒデちゃんは僕の方を同情しているかのような、哀れむかのような眼差しで見ていた。僕は人生設計書を拾って、渡辺の家を出た。ヒデちゃんに引き止められたが、一人にしてくれと言ったら、尊重してくれた。俯くヒデちゃんに一つだけ確認した。
「サトパンの体調が悪いっていうのは本当なの?」
ヒデちゃんは僕の目を見て、「すまん。」とだけ答えた。
僕は渡辺の家を出て、アパートの階段をゆっくりと降りた。階段の前には、作業着を着た中年男性二人が煙草を吸いながら缶コーヒーを片手に談笑していた。僕に気付き、道を開けながら、興味深そうに僕の表情を見てきた。僕は特に気にすること無く、目の前を通り過ぎた。中年二人など、どうでもよいのだ。
アパートの駐車場、月灯りの下で人生設計書を開いた。順番にページをめくり、当時の僕に、今の僕は再会した。
6
「人生設計書 三年一組 土田達郎」
「十五歳 漫画を完成させ、新人賞に応募して大賞受賞。将来の職業への道が開ける。修学旅行や運動会、文化祭、自転車二人旅、たくさんの楽しい思い出を作り、中学卒業。」
十五歳の最初の記憶は市民病院のベッドの上から始まった。目を覚ました瞬間に飛び込んできたのは、泣いている両親と妹だった。その表情は喜んでいるようにも、悲しんでいるようにも見えた。目を覚まし、両親と話してから、約十五分後、
「さくらは?」
そう聞いた瞬間、両親と妹の顔から笑みが消えた。その瞬間、僕は目を覚ました事を後悔した。正確に言うと、自分だけが生き残った事を後悔した。
自分の誕生日の夜、僕はある女の子を誘って、岐阜県へ自転車で花見へ出掛けた。自分の誕生日の翌日は女の子の誕生日だった。彼女が生まれた日に、彼女の名前の由来となった桜を見せてあげたかった。彼女を傷つけてしまった事を謝りたかった。彼女のおかげで自分が救われたという事を伝えたかった。彼女をモデルにした漫画を見せて、笑って欲しかった。彼女の幸せを願いたかった。「ごめん」とか「ありがとう」って言いたかった。「好きだ」って言いたかった。でも叶わなかった。向かう途中、車に轢かれてしまった。
僕は生き残り、女の子は死んだ。即死だったそうだ。
激しく後悔をした。自分自身が許せなかった。泣いて、泣いて、泣いた。怒って、病室で暴れて、また泣いてから、感情が無くなった。それ程の深い傷を残す出来事だった。
入院していた僕は通夜にも葬儀にも参列出来ず、「さよなら」も言えずに、女の子と別れた。それから夏休みまで、僕は一言も喋らなかった。らしい。正確に言うと覚えていない。交通事故による体の傷は比較的早く治っても、心の傷は深く、完治しなかった。病院のベッドと自宅のベッドの上で約四ヶ月を過ごした。食事をしても、それを便所で吐いてしまった。眠っても、彼女の夢を見て目が覚めてしまった。寝ても覚めても、自分の愚かさを嘆き、後悔しているだけだった。僕は自分が大嫌いだった。
退院後、両親とサトパンに連れられて、女の子の家に行った。僕は二発、女の子の父親に殴られた。それでも二発で済んだのは、サトパンが僕の代わりに土下座をしてくれたからだと思う。土田は悪くない、二人はお互いを必要としていた、そう涙ながらに力説してくれた。今回の件は事故だったと説明した後、女の子の父親に何十発も殴られていた。二人は前に進む為に、あの日が必要だった。そう言ってくれたサトパンの言葉をその先十五年間、ずっと覚えていた。その言葉が僕をこの世に留めるきっかけとなった。その言葉が無かったら、僕は首を吊るか、手首を切っていたのだろう。
ただ、当時の僕は自分が犯してしまった過ちを受け止めきれず、僕自身が僕を許す事が出来なかった。
僕は夏休みから浜松の祖父母の家に引っ越した。自分の責任を受け止められず、街から逃げたのだ。そして、転校の手続きも取らず、その後一度も学校に通わずにその一年を過ごした。そして、僕の世界は終わってしまった。
僕の十五歳は、修学旅行にも行けず、運動会も文化祭も参加出来ず、自転車二人旅では取り返しのつかない事故を呼び起こしたという最悪の一年だった。新人賞に応募した漫画も努力賞に終わり、その後二度と漫画を書けなくなってしまった。
人生設計書は一歩目で躓いた。修正不可能な程に。
「二十歳 高校を卒業後、プロの漫画家のアシスタントになり修行。そして漫画家としてデビューする。同じ志の仲間に囲まれ、漫画界に新しい風を巻き起こす。」
成人式の案内の葉書は破って捨てた。
二度とあの街には戻りたくない。僕にとっては殺害現場である。
事故の後、浜松の祖父母の家に逃げた僕は、その後一度も地元には帰っていなかったのだ。もうこの先、あの街に帰る事は無いだろう。
浜松の家ではずっと布団の上で過ごした。生きているのに、死んだように過ごしていた僕を救ってくれたのは、変わらず優しく接してくれた祖父だった。
中学を卒業した春、祖父に連れられて新聞配達のアルバイトを始めた。知り合いがいない土地で、誰にも会わずにできる仕事だった為、何とか続ける事が出来た。
祖父、祖母、新聞配達店のおじさんやおばさん達に囲まれ、社会復帰を果たした僕は一年遅れで浜松の高校に通い始めた。
朝は新聞配達、その後は学校に行った。一年遅れでの入学というのもあり、友達は一人も出来なかった。一人で弁当を食べ、一人で休み時間を過ごした。一人でいるのが楽だった。自分は一人でいるべきだと思った。人を殺してしまった僕は、人と関わるべきではない。そう思っていた。
高校卒業後、祖父の奨めもあり、大学へ進学した。特にやりたい事が無かった僕は、唯一興味があった文学部を受験し、入学した。合格発表の日、誰よりも喜んでくれたのは祖父だった。盛大にお祝いをしてもらい、入学式には袴を着て出席してくれた。
そして半年後、癌で亡くなった。
彼女も友達もいない僕は大学でも高校と同じように一人で過ごし、勉強に励んだ。朝の新聞配達はずっと続けていた。
「二十五歳 漫画家としてヒット作品を連発。発行部数十億冊突破。テレビや雑誌にも出て、有名人になる。書いた漫画が映画になり、大ヒット。」
あの女の子が生きていたら、どんな女性になっていただろうか。
どんな髪型をしていただろうか。どんな服を着て、どんな仕事を選ぶのだろうか。友達は多いだろうか。どんな友達がいただろうか。どんな本を読んで、どんな音楽を聞いて、どんなギャグで笑うのだろうか。どんな俳優に憧れて、どんな男に恋をするのだろうか。唇は柔らかいだろうか。胸は大きいだろうか。足は長いだろうか。どんな食べ物が好きで、どんなお酒を飲むのだろうか。どんな時に泣くのだろうか。僕はあの女の子の何になれただろうか。友達だろうか、彼氏だろうか、夫だろうか。
街を歩いている時、満員電車で通勤している時、レストランや居酒屋にいる時、周囲の女性を見ると、想像してしまう。あの時の女の子の成長した姿を。自分が奪ってしまった未来を。僕の片思いと後悔は十年間続いていた。
大学卒業後、静岡市にある某電機メーカーの代理店に就職をした。営業職として採用してもらい、黙々と働いた。毎日上司や先輩に怒られ、お客に怒られ、それでも歯を食いしばって働いた。仕事が楽しいとは思えなかったが、忙しい毎日が、自分の罪を忘れさせてくれた。
そして入社二年目、二十五歳の春、仕事にも慣れてきた頃、後輩が出来た。森田涼平という背が高くてお調子者の男と、菊池歩美という大人しそうな女だった。
森田は何故か僕に懐いてくれた。時々、仕事帰りに一緒に飲みに行くようになった。今までずっと一人でいた僕は、最初は慣れなかったのだが、徐々に居心地が良くなっていった。その年の暮れには、彼と飲みに行くのが唯一の楽しみとなっていた。
菊池とは最初はまったく会話も無かったが、僕が誕生日に車をぶつけたのをきっかけに少し話すようになった。入院していた僕の病院までお見舞いに来てくれたのだ。やさしい子だと思った。何故か少しずつ彼女に引かれていった。そしてある夜、初めて菊池歩美を食事に誘った。会社に近くの居酒屋へ行き、お酒を飲みながら約二時間、語り合った。綺麗な黒髪、優しい口調、大きな目、菊池歩美に惹かれた理由に気が付いた。昔、菊池歩美によく似た女性に恋をしていたのだ。初恋の少女に似ているから、菊池歩美に惹かれたのだ。
その後、一度も菊池歩美に想いを伝える事は無かった。拒絶される事が怖かった。幸せになる事も怖かった。
僕は目の前の仕事をこなすだけで精一杯だった。結婚はおろか、まともに恋愛も出来ず、未だに童貞で、キスすらした事が無いような誰からも愛されない大人になっていた。
「三十歳 連載を十本抱える人気作家になる。書いた漫画がハリウッドで映画化する。その映画の主演女優と結婚。二人の子供と奥さんと四人で楽しく幸せに過ごしている。」
入社七年目、会社が生活の中心になり、忙しい毎日に慣れてきた。上司の怒鳴り声も、お客の我儘も、生活の一部となった。
僕を慕ってくれていた後輩の森田は、僕より先に主任に昇進し、僕を追い抜いていった。それから、一緒に飲みに行くことは無くなり、再び一人に逆戻りした。想いを寄せた菊池歩美には告白も出来ないまま、菊池歩美に彼氏が出来てしまった。彼氏の話を聞かされる度に、悲しい気持ちを隠した。
怒られても、惨めな思いをしても、ただ淡々と黙々と毎日を過ごしていた。そんな三十歳を目前に控えた三月の終わりのある日、同窓会の案内の葉書が届いた。
すぐに欠席に印を付けて、送り返した。
人生設計書をゆっくりと閉じて、思う。計画通りに人生を進める事なんて難しい。こんな突飛な計画ならば尚更だ。僕は何一つ叶える事が出来なかった。それでも、叶える事が出来なかったという事実に対しては、特に落胆は無い。あの時、自分の可能性を信じていた僕が、今ここにはいない。それが残念であった。あの日から自分の可能性など信じられなくなっていた。自分の可能性を信じられなくなっていた理由も、何一つ叶えられなかった原因も、今は理解している。すべて僕が悪い。
「あんた、さくらに失礼過ぎるわよ。」
佐々木詩織の言葉を思い出した。まったくだ。
さくらを理由にして、自分を不幸にし続けた。幸せを諦める事が償いだと思っていた。諦め続けた結果、僕の中のさくらを供養する事が出来ず、十五歳の時から引摺り続けて十五年が経ってしまっていた。
僕は渡辺の家には戻らず、そのまま道路へ向かって歩き始めた。向かった先で、何をするか、何て言うかは分からない。それでも、今日中にもう一度会っておきたかった。一歩ずつ進む僕の頭の中では佐々木詩織の言葉が何度も何度も繰り返し再生されていた。
十分程歩くと、目的地に到着した。茶色の屋根。真っ白なタイル。駐車場には真っ赤な軽自動車。表札にはローマ字で鈴原と書いてある家。広い庭の隅にある物置の上に登り、そこから手を伸ばしてベランダの手摺を掴んだ。マダムに見つかることを恐れ、物音がしないように細心の注意を払いながら、ゆっくりと腕に力を入れて、自分の体を持ち上げた。当時はもっと楽にベランダに登れた筈なのに、今の体は重くて仕方ない。歯を食いしばって体を持ち上げ、ベランダの柵を乗り越えた。
ベランダに立ち、辺りを眺めてみる。その場所は懐かしく、十五年前に毎日のように通った場所だった。当時、新築だったこの家は十五年の歴史を感じさせる程、所々に汚れが目立っていた。二つの窓が並んでおり、どちらもカーテンが閉まっていたので、中の様子は分からなかった。僕は十五年前と同じように、向かって左側の窓の前に立った。
緊張のあまり震えが止まらない手で軽く握り拳を作り、ゆっくりと窓をノックした。二回した。その瞬間、勢い良くカーテンが右に動いた。
そこには鈴原咲が立っていた。
化粧を落として鬘を外し、セミロングの髪と白いワンピースを着ているその姿は、どう見ても中学生で、成長したさくらでは無く、十五年前のさくらに似ていた。さくらの実の妹である鈴原咲は大きな目をさらに大きく開いて驚いていたが、すぐに窓のロックを外して、窓を開けた。
「今日はすみませんでした。何か騙してしまったみたいで。おまけに怪我までさせてしまって。明日、佐藤先生と謝りに行こうと思っていたんだけど…」
そう話し始める鈴原咲の後ろには、さくらの部屋が十五年前と変わらぬ状態でそこにあった。まじまじと部屋の中を見ている僕に気付き、
「お姉ちゃんの部屋、十五年前のままらしいんです。見覚えありますか?」
と、鈴原咲が尋ねてくる。僕は黙って頷いた。あの白いベッドも、濃い茶色の机も、キャスターと肘掛けが付いている高そうな椅子も、今はもう廃盤になってしまったゲーム機も、僕が貸したままになっていた漫画「桜ライダー」も、全部あの頃のままだった。
「私、実はたっちゃんと会うの初めてな気がしなかったんです。」
無意識の内にさくらの部屋に上がり込んでしまった僕の背中越しに聞こえた。
「一階の和室に仏壇があって、そこに何枚かお姉ちゃんの写真が飾ってあるんです。その中の一枚に、この部屋で撮ったお姉ちゃんとたっちゃんが二人で写った写真があるんです。だから、前から知ってるんです。たっちゃんの事。」
鈴原咲はこちらの反応を待たずに続ける。
「その写真のお姉ちゃん、すごく良い顔してるんです。本当。」
振り返ると、鈴原咲は笑っていた。僕は勇気を振り絞って聞いた。
「恨んでないの?僕のこと。」
「恨むも何も、私はずっとお姉ちゃんがどうして死んだか知らなかったんです。だから、たっちゃんを恨んだ事なんて無いですよ。勿論、お姉ちゃんが死んだ時の話を知った今でも、それは変わりません。」
そう言い切られてしまい、これ以上追求するのを辞めた。鈴原咲の発言が真実だとすれば、今日の行動についても理解が出来るような気がする。サトパンも鈴原咲も、佐々木詩織が言った通りだ。僕とさくらの為に今日の事を計画したのだ。
「どうして、さくらの振りをしてまで同窓会に参加したの?」
鈴原咲はニコッと笑って答える。
「佐藤先生が立志式の宿題について説明をしている時に言ってたんです。過去は変えられるって。辛い思い出は良い思い出に塗り替えれば良いって。」
僕は思わず呆れた顔をしてしまった。サトパン、何を言っているんだろうか。鈴原咲は僕の顔を見て、「私も多分、そんな顔していたと思います。」と言って笑っていた。
「このおじさん、何を言ってるんだろう。頭、おかしいのかなって思っていましたけど、ちゃんと佐藤先生から話を聞いて、お姉ちゃんの同級生の渡辺さんや佐々木さん、木村さんから話を聞いて、お母さんから話を聞いて、たっちゃんの事もお姉ちゃんの事も知ったら、私もそうしたいと思うようになっていました。過去を変えたいって。」
失敗しちゃいましたけど、と言いながらおどけてみせる鈴原咲だが、その気持ちは伝わった。鈴原咲もサトパンも本気だ。本気で過去を変えようとしているのだ。さくらを安心させる為に、僕の後悔と償いを終わらせる為に、あの日の二人旅をやり直そうとしていたのだ。
「…変えたい。僕も。」
僕は鈴原咲の目を真っ直ぐ見て言った。鈴原咲は一瞬驚いたが、すぐに表情を戻し、僕の言葉を待った。人生設計書やヒデちゃんや渡辺、佐々木詩織、そしてサトパンの事を考えた。鈴原咲に対してだけではなく、あの頃の自分に、そして、さくらに伝えるつもりで言った。
「行こう。今度こそ、君を連れて行く。」
時刻は夜の十二時。あの日、さくらを迎えに来た時間と一緒だ。
7
「私の誕生日、六月二十三日なんです。」
僕は鈴原咲を後ろの荷台に乗せて、再び自転車で光ヶ丘公園を目指した。妹の自転車は先程スクーターの二人組に襲われた場所に置きっ放しになっている為、今回は鈴原咲の自転車を使った。鮮やかな黄色の自転車で、変速切り替えが三段階となっていた。三段階の内の最も重い1速に切り替え、僕らは進む。
昔、カトブンがあった場所に建てられたマンションを左に曲がり、ケーキ屋、ガソリンスタンド、電気屋を越えて進む。さくらと初めて出会った公園はもう無い。駐車場に変わった。王子中学の正門の前を通過し、僕らは進む。早くも額からは汗が噴き出していた。そして、さくらが眠る墓地を超えた頃、一度目の二人旅とは一転、ずっと無言を貫いていた鈴原咲の口が開いた。
「で、お姉ちゃんが死んだのが五月五日。私はお姉ちゃんの四十九日に生まれたんです。だからずっと、皆からはお姉ちゃんの生まれ変わりだって言われていました。」
僕はペダルを漕ぎ続けた。ちなみにスクーターの二人組は鈴原咲の彼氏とその友達だそうだ。勘違いして襲ってきたのだ。鈴原咲はそのことを何度も謝ってきたが、僕は特に気にしていなかった為、抵抗無く許した。それに被害者は僕だけでは無く、鈴原咲も被害者の一人だと思ったからだ。
「お母さんからはずっとお姉ちゃんと比べられていました。お姉ちゃんはもっと勉強が出来たとか、もっと言いつけを守る子だったとか。比べられるのが嫌で、だからお姉ちゃんの事もあまり好きじゃなかったんです。実は。」
僕はひたすら進む。信号は赤だったが、車は一台も通っていなかった為、無視して進んだ。ただ、事故には細心の注意を払っている。それは当然だ。あの時の思い、もう二度と繰り返したくは無い。
「それでも、お母さんを責める気持ちはあまり無くて。お姉ちゃんが死んですぐにお父さんは埼玉に転勤になって、そこで不倫して、離婚しちゃったから。私は幼稚園の時に苗字が橘から鈴原に変わってさ。きっと、お母さんも寂しかったんだと思うし。」
時折、ポケットから携帯電話を取り出して、道順を確認する。時間も体力も余裕は無い。最短距離を進む。
「中学二年の春休みに佐藤先生との衝撃的な出会いがあって、お姉ちゃんの事故の本当の話を知りました。佐藤先生から話を聞いて、お姉ちゃんの自分史と人生設計書を読んで、お姉ちゃんがあの頃、どんな気持ちだったかが分かったんです。」
携帯電話が震えた。メールが届いたようだ。すぐに開くと、それはヒデちゃんからだった。「気をつけてな」とだけ書かれていた。こちらの行動などお見通しという事だ。返信はしないで、僕は携帯電話をポケットにしまいこんだ。返信は光ヶ丘公園に到着してからにしよう。そう思った。
「私はお姉ちゃんの事が分かって、お姉ちゃんの事、好きになりました。ピュアで、優しくて、綺麗で。お姉ちゃんが生きていたら、きっと仲良くなれたって思います。だから、今はお姉ちゃんの生まれ変わりって言われる事は決して嫌じゃないです。ただ、姉を知った事で、その気持ちが報われていない事もわかってしまいました。」
僕は返事をしないで、ただひたすらにペダルを漕ぐ。
「だから、佐藤先生と計画しました。お姉ちゃんの気持ちが報われるように。だから、鬘を被って、知り合いに化粧してもらって、ワンピースで体型を隠して、昔のことを勉強して、みんなに協力してもらって、同窓会に忍び込んだんです。お姉ちゃんが安心して眠れるように。お姉ちゃんの大切な人が幸せになれるように。そして、それが私自身の為にもなると思ったから。」
国道沿いにコンビ二があったが休憩はしないで進んだ。とにかく進み続けた。
「たっちゃんとお姉ちゃんのあの日をやり直したかった。失敗した過去を、成功した過去に変えたかったんです。辛い過去が、辛い今を作っているのなら、辛い過去を楽しい過去に塗り替えたい。だから…」
僕は国道をひた走る。やがて小さな脇道に入り、川沿いの道に出た。川の流れを見ながら進む。再び、国道と交わる為、川沿いの道は下り坂となった為、僕はブレーキを効かせながら、減速してゆっくりと国道の下のトンネルに入った。真っ暗なトンネルを抜ける。トンネルを抜けた瞬間、僕は強くブレーキを握り、止まった。自転車を停めて、辺りも見渡す。
「あの日、ここで僕らは事故に合った。」
鈴原咲も荷台から降りて、辺りを見渡した。あの頃は無かった筈だが、今は信号機が設置されている。きっと、僕らの事故がきっかけで設置されたのだろう。
「さくらの人生はここで終わった。僕が終わらせてしまった。あの日からずっと後悔していた。」
鈴原咲は小さなピンク色の肩掛けの鞄からハンカチを取り出し、僕の頬を拭いた。先程まで自転車を漕ぎながら、ずっと涙が止まらなかった。喋ると、泣いているのがバレてしまいそうで、まったく相槌も打てなかった。拭いても、拭いても、涙は止めどなく流れてくる。
「死んで欲しくなかった。ごめんとかありがとうとか、言いたい事もいっぱいあった。学校一緒に行こうとか、よく頑張ったとか、修学旅行の事とか。たくさん喋りたかった。人生設計書、まだ見せてもらってなかった。誕生日プレゼント、渡したかった。僕が書いた漫画を見て欲しかった。感想を聞きたかった。一緒に願い事をしたかった。尊敬していた。酷い事言ってごめんって言いたかった。好きだった。ずっと一緒にいたかった。さくらが大切だった。誰よりも。」
鈴原咲の目からも涙が流れ落ちた。
「さくらは生まれ変わる事を恐れていた、輪廻転生なんてしたくないって言っていた。自分みたいな人間は生まれ変わっても役に立たないって自信を無くしていた、だから僕は言いたかったんだ。どうしても、さくらが大切だって、言いたかったんだ。さくらのこの先の人生が幸せな人生になりますようにって、輪廻転生してもずっと幸せでありますようにって願うつもりだった。だけど…」
自転車を支えたまま、その場に立っている僕を鈴原咲は抱きしめた。
「お姉ちゃんは幸せです。きっと。」
僕はその言葉を聞き、何も言えなくなってしまった。本当にそうだったならば、どんなに幸せか。そんな事を思っていると、鈴原咲が僕の背中に回した手にも力が入る。きっと、鈴原咲もそう思いたいのだろう。姉は幸せだったと、そう思いたいのだ。
「君は君だ。さくらはさくら。だから、君達は別人であって、同一人物では無い。」
鈴原咲は黙って聞いていた。僕は声が震えていたが、構わず続けた。
「それでも、君がさくらの生まれ変わりだったなら、どんなに嬉しいか。」
少し困った表情で、でもどこか嬉しそうに鈴原咲が言った。
「行きましょう。お母さんが起きる前に帰らないと。」
まったくだ。三十歳にもなって、マダムに怒られたくない。
「ここからは未知の領域ですね。頑張って行きましょう。」
あくまで明るく、元気に喋る彼女に合わせて、
「よっしゃ。行くぞ。」
そう言った声はまだ少し震えていた。鈴原咲が自転車の荷台に横向きに座ったのを確認してから、僕は再びペダルを漕ぎ始めた。下り坂の後は勿論上り坂が待っている。僕は出発してすぐにサドルからお尻を離して、立ち漕ぎに変更した。
「頑張れ、たっちゃん、頑張れ、たっちゃん。」
即興でリズムを作って、まるで歌っているかのように鈴原咲は言った。あの日、僕らがこの交差点を越えて上り坂に差し掛かったら、さくらも同じように僕を応援してくれただろうか。僕はそんな事を考えながら、ハンドルを握る手に、体を支える腕に、ペダルを漕ぐ足に力を入れて、全力で進む。それでも、
「ごめん、一回降りて。」
鈴原咲は笑いながら、「残念」と言って荷台から飛び降りた。僕は自転車を押して、鈴原咲は歩いて、その坂を上がった。
「まあ、仕方無い。そういう事もありますよ。」
十四歳に慰められる僕。
「ここからもう一回頑張りましょう。」
少しでも威厳を保とうと思い、少し偉そうに言ってみた。
「お、おう。」
今日、そればっかりですねと、笑ったその顔はさくらにそっくりだった。