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橘 さくら

    1


 輪廻転生という言葉を知った時、私は愕然とした。

 人間は、いや人間だけに限らず生きとし生けるものすべて、死んだ後四十九日以内に何かに生まれ変わるという地獄のような制度。辛く、厳しい毎日を乗り越え、寿命を全うしたとしても、四十九日という少し長めの休憩を経て、再び辛く厳しいこの世に戻されてしまう。救いなんて、どこにも無い。

 この制度が本当であれば、きっと私の前世は蚊とか蝿とか、何の役に立つかわからないような虫だったに違いない。だから、人間に生まれ変わった今でも、何の役にも立てない毎日を送ることになってしまったのだ。もし私が死んで、四十九日以内に再び生まれ変わらなければいけないのであれば、私は誰も辿り着く事ができない土地に生息する動物や誰も到達する事のできない海の底に生息する深海魚に生まれ変わりたい。だって、今の私は何の役にも立たないのだから、前世でも、来世でも役に立つことは無い。それならば、誰とも関わらず、ひっそりと生きていきたい。

お母さんは、どんな命でもそれぞれ役割があって、どの命が欠けても駄目だと言っていたが、本当だろうか。それならば私の命は何の為にあるのだろう。私は誰の為に生まれて、何をする為に生きているのだろう。「さくら」と名付けられた私が、もし本当の桜だったら、短い間でも目一杯綺麗に咲いて、皆を幸せにできるのに、私は花一つ咲かせる事も出来ず、人一人幸せな気持ちにする事も出来ない。私に生きる価値はあるのだろうか。そして、私自身、生きていく事に対して、まだ不安を、

「さくら、お前が何を言ってんのか知らねえけどさ、そんな事より俺の人生設計書見ろよ。マジでヤバイぜ。」

私の約六畳の広さの部屋の中、ベッドの上で寝転がりながら宿題のプリントに鉛筆を走らせていた学制服を着た少年、土田達郎ことたっちゃんが言った。

「何よ、たっちゃん。そんな事って。人が悩んでいるのに。」

「知らねえよ。前世とか、生きる価値とか、そんな難しい事で悩むなよ。悩んでるくせに、言ってる事が意味不明なんだって。そんな事より、ほれ。」

そう言って、たっちゃんは椅子に座っている私の顔の前十五センチメートル先に、自分が書いた一枚のプリントを突きつけた。そのプリントは、人生設計書という物で、私やたっちゃんが通う王子中学校で三年生の五月に行われる伝統行事の立志式の為の宿題であった。

立志式とは、「元服に因んで、皆さんの生誕十五年を祝い、今までの十五年を振り返り、これからの人生の目標を明確にする為の儀式。」だそうだ。そんな立志式の為に、私達に与えられた宿題は「自分史」と「人生設計書」の二つ。

ちなみに、自分史とは「今までの人生を年表にした物」で、人生設計書は「自分史の逆で未来の自分について書いたもの」との事だ。さっきまでこの家に来ていた担任の先生が言っていた。

私はたっちゃんがベッドの上で書き上げた人生設計書を読んだのだが、徐々に湧き上がる感情を抑えきれず、私は笑ってしまった。

「あはははははは。ちょっと、ちょっと。たっちゃん、これは駄目だって。絶対、書き直せって言われるよ。」

私の反応を楽しみに待っていたたっちゃんにとって、私の反応は予想外だったようだ。少し怒った様子で彼が「ええ?何が駄目なんだよ。」と、言ったが、強い口調で言われても私は意見を変えるつもりは無い。だって、

「だって、この人生設計書、夢が有り過ぎるんだもん。何?この三十歳でハリウッド進出って。二十五歳で女優と結婚?確かにヤバイよ。」

「そうか?夢があった方が良いじゃん。計画なんだから。」

「知らないよ。佐藤先生に怒られても。」

佐藤先生とは、私やたっちゃんの担任の先生だ。数学を担当していて、確か吹奏楽部の顧問もしている。私は授業でも部活でも関わりは無かったのだが、たっちゃんから数々の武勇伝を聞いていた為、佐藤先生の恐ろしさはよく知っていた、佐藤先生は、学生時代はラグビー部のキャプテンを務め、全国大会にも出場した事があるそうだ。ラグビーで鍛えた屈強な体と運動神経で、生徒達から恐れられていた。他の中学の不良少年達から最も恐れられていた我が中学の番長ですら、佐藤の前では土下座をしたらしい。他にも、ヤクザの組長が佐藤には敬語を使うとか、竹刀一本で暴走族を壊滅に追いやったとか。本当かどうかは知らないが、全てたっちゃんが教えてくれた。

「怒られても関係ないって。俺の人生なんだから、やりたい事をやるぜ。出来ないなんて、サトパンに決めつけられたくないって。」

 彼らしい回答に、私は何だか納得してしまった。確かにそうだ。いつも後ろ向きの私と違って、いつも前向きな彼の言葉には、自信が溢れている。根拠が無くても、彼が言った事は実現するような気もする。たっちゃんが私の家に遊びに来るようになってから、約半年が経つが、前向きな彼のおかげで私は少し元気を取り戻せたと思っている。

 ちなみにたっちゃんが言っていたサトパンというのは佐藤先生のニックネームである。勿論、本人に面と向かって言う者はいない。皆、陰で言っている。佐藤先生が怖すぎるため、せめて、ニックネームだけでも可愛いものをということで、決められたニックネームが「サトパン」である。

 たっちゃんは立ち上がり、私の机を覗き込んできた。

 「大体さ、俺の人生設計書を笑うんだったら、さくらの人生設計書も見せてみろよ。」

 「え?私の?駄目だよ。まだ書いてないもん。」

 「じゃあ、書けよ。そして、見せろよ。」

 「…書けたらね。」

 私の自分史と人生設計書には、「三年一組 橘さくら」という自分の名前以外は何も書いていない。自分史から先に書こうと思い、考えていたのだが、自分の人生を振り返り考えれば考える程、自分が無意味な存在に思えてきたのだ。そして、ペンは一向に進まず、考えはどんどん沈んでいき、大袈裟な程に後ろ向きな考えに到達していた。

 その時、突然部屋のドアが開いた。

 「土田君、いらっしゃい。」

 そこには、妊娠八ヶ月の大きなお腹のお母さんが、紅茶とお菓子を持って立っていた。たっちゃんはその場で気を付けの姿勢をとった。

 「お、お、お邪魔してます。」

 「お邪魔しています、は良いのだけどね、土田君、次はちゃんと玄関から入ってきてもらえるかしら?」

 お母さんはテーブルに紅茶とお菓子を置きながら言った。口調は強いが、その表情は決して悪い物では無い。むしろ、お母さんもたっちゃんの事は気に入っている筈だ。

 「つ、つ、つい出来心で…」

万引きした主婦のような回答に私は吹き出しそうになったが、堪えた。

 「そう。じゃあ、次回は玄関から入ってきてね。」

 お母さんも堪えてはいたが、少し笑っていた。

 「は、は、はい。」

 お母さんが部屋から出て行くと、たっちゃんはホッとして、その場に座り込んだ。

 「さくらの母ちゃんって、怒ると怖そうなんだよな。」

 「うん。でも、全然怒ってなかったよ。」

 「いやいや、回答次第じゃ怒ってたぜ、あのかんじだと…ってか、このクッキーうまいな。」と言いながら、早速お母さんが運んできたお菓子に手を付ける彼。私は紅茶を飲みながら、尋ねる。

 「でも、何でいつも玄関から入って来ないの?」

 いつも彼はベランダから入ってくる。庭にある物置によじ登り、そこからベランダに上がってきて、窓をノックしてくる。昔はその度に驚き、寿命が縮まっていたが、今となっては物置を登る時の音でわかるようになってしまった。その音が聞こえると、私は窓の鍵を開けて、彼を待つ。

 「だって、ここに来るといつも家の前に黒い車が停まっているからよ。サトパンが来てると思ってさ。会いたくないだろ、サトパンには。」

 「そうね。」

 「あいつ、毎日来るだろ?鬱陶しいよな。」

 佐藤先生は私を心配してくださり、毎日夕方四時頃に来てくれる。そして、たっちゃんも同じような時間帯にほぼ毎日来る。土曜も日曜も来る。夕方ベランダから入って来て、テレビを見たり、お菓子を食べたり、ゲームをしたりして、夜七時ぐらいにベランダから帰っていく。

たっちゃんは、学校での出来事をいろいろ教えてくれる。

学級委員の渡辺さんはサッカー部の安藤先輩が好きだが、先輩の前では緊張してしまい、いつも思っている事とは逆の事ばかり言ってしまうらしい。渡辺さんの口癖は「安藤、死ね」だそうだ。それでも渡辺さんの一番の悩みは、安藤先輩と結婚できたとしたら、名前が安藤安奈になってしまい、名前の「安」の字が二回も入る事だそうだ。その話を聞いて以来、クラスメートは渡辺さんの事をからかう時には「アンアン」と呼ぶそうだ。床屋の息子の木村君は、給食の牛乳を三秒以内に飲み干すらしい。年内に二秒を切る予定だそうだ。キャップを開ける作業も含めて、だ。野球部の石平君は、野球部なのに、誰よりも卓球が上手い。卓球部よりも上手い。

 私はたっちゃんの話を聞くのが好きだった。嘘か本当か解らないが、彼の話には夢があって、ユーモアがあった。学校が楽しそうに思えた。たっちゃんがいてくれるのなら、学校も楽しいのかもしれない。そう思った。学校にいてくれたら、だが。

ちなみに私とたっちゃんは付き合っているわけでは無い。たっちゃんはただの友達だ。それでも毎日来てくれる彼に、私は心から感謝していた。

 日が沈み、辺りも暗くなってきた。たっちゃんは鞄を手に取り、立ち上がった。

 「俺、そろそろ帰るわ。また明日来るよ。」

 「うん。」

 ベランダに出て、運動靴を履きながら、たっちゃんはこちらを見ずに言った。

「あとさ、あんまり大袈裟に悩むなよ。とりあえず、俺はさくらと遊んでいて楽しいぜ。だから、役に立ってないとか、生きる価値が無いとか、意味不明な事で悩むな。」

私は嬉しかった。涙が出そうになるのを必死で堪えた。

「価値あるよ、めっちゃ。大事だよ、めっちゃ。」

私はめっちゃ嬉しかった。そして、めっちゃ涙が出そうだった。

「大体さ、誰にだって大切な人の一人や二人っているだろ?という事はさ、自分の事を大切に思ってくれている人も一人や二人はいるって事だ。」

もう彼は靴も履き終えたし、鞄もちゃんと持っている。ここで止まる理由も無いのに、なかなか帰らない。私は彼に見つからないように、下を俯いたまま話を聞いていた。

「俺、さくら大切だからさ。」

うん、わかった。

「さくらがいて良かったよ。」

うん。うん。

「だから、そんなに泣くな。」

「誰のせいだと思ってるのよ。」

私は泣きながら、怒った。彼はそれを見ながら笑った。私も釣られて笑ってしまった。

私もたっちゃん大切だよって、今度の花見の時に言おう。そう思った。




   2


 私が生まれた年は記録的な異常気象だったらしい。

梅雨が異常に長かったり、夏の最高気温が各地で四十度を超えたり、初雪が異常に早かったりと、観測史上の記録は大概その年に更新された。私が住んでいる東海地方では桜の開花にも影響がでた。毎年四月初旬に満開となっていた桜は、その年は五月の初旬に一ヶ月遅れで満開を迎えた。

 何故その年だけ開花が遅れたのか、何故東海地方だけで開花が遅れたのかなど、私には分からないが、当時の人に話を聞くと、その年の桜は例年以上に美しく咲いたそうだ。その美しさに人々は魅了され、過去最多の花見客が訪れたらしい。その影響は、その年の桜を見ていない者達へも及び、私の同級生には「美桜」とか「桜子」とか桜に因んだ名前の生徒が多かった。

 私の両親も同じで、五月に生まれてくる私に対して当初は「さつき」という名前を用意してくれていたそうだが、遅咲きの桜の影響を受け、名前を変更したそうだ。その年の桜が満開になった日に生まれたから「さくら」と名付けられた。ちなみに私と同い年で「さくら」という名前の人は、私が会ったことのある人だけでも五人はいる。

 某住宅メーカーに勤務し、全国を飛び回りながらも、出張の時は必ずお土産を買ってきてくれる真面目で優しい父親。大学在学中に父親と出会い、二十歳で私を生んでくれた母親。待望の第一子として、手厚く迎えられた私は両親の愛情を一身に受けて育った。そして、私を生んだ後、大学を卒業し、県内の会社に就職してから必死で働き、十五年振りに授かった第二子、私の妹。今はまだお母さんのお腹の中にいるが、あと二ヶ月もすれば会える私の大事な妹。建ててから、まだ三年しか経ってない白くて綺麗な二階建ての家と少し広めの庭。誰が見ても、幸せな四人家族。そうなる予定だった。半年前までは。

 県内の国立大学で知り合った両親は、私も良い大学へ入れようと幼い頃から教育熱心だった。小学生の頃から、毎日学校の授業が終わると家庭教師の授業が二時間あった。さらに、週に一回は英会話教室へ通い、一回はピアノ教室に通った。私は両親の期待に応える為に、毎日頑張った。結果、中学からは県内でもトップクラスの私立中学に通う事になった。そこまでは順調だった。

 それまでの努力が実を結び、私立の中学では、事情によって転校するまでずっとテストではずっと学年一位だった。進学校ではあったが、一位をとった事で誰かを見下したり、偉そうな態度をとったりした事は無かったつもりだった。吹奏楽部に入部し、毎日部活に励みながら、気の合う友達と、あまり目立つことも無く、ひっそりと過ごしていた。私の私立中学に通った時代は、比較的楽しかった。

それでもたった一度だけの行動がすべてを変える。

髪を金色に染めて、耳にはピアスをいくつも付けて、学校に通ってくる生徒、所謂不良と呼ばれるような生徒達が数人で一人の気弱な生徒を虐めているのを注意した事がある。どうやら、それが良くなかったようだ。人より少しだけ勉強が出来るぐらいで、他の人を注意するなんて、あいつは調子にのっている。そう思われたのだろうか。翌日、ターゲットは私に変わっていた。

 あまり、詳細については思い出したくないが、確か最初は無視や陰口から始まった。次第に不自然に物が無くなり、教科書に落書きが増えた。暴力にまでエスカレートし、最終的には服を脱がされて裸の写真を撮られた。その時の男子生徒が私を見る眼が怖かった。明日は間違いなくレイプされると思った。だから、その日の夜、私はお風呂場で手首を切った。

 あの日、私は一度死んだ。

 いつもより早く仕事から帰ってきた母が、血だらけの私を発見し、すぐに救急車を呼んでくれたおかげで一命を取り止めた。心配させたくない一心で、誰にも相談していなかったのだが、病院のベッドの上で目を覚ました私は初めて両親に相談した。結果、お母さんは私を抱き締めながら泣いて、お父さんは学校へ怒鳴り込んだ。後日、担任の教師が謝りに来たが、私は会わずに病院の玄関で追い返してもらった。翌日、校長と教頭、学年主任の先生が来たが、私は会わずに病院の玄関で追い返してもらった。私を追い込んだ生徒も、その生徒の親も、友達も、虐めから助けてあげた子も、誰も来なかった。

 両親はすぐに転校の手続きを取り、私は市立王子中学校へ転校する事になった。二年生の二学期だった。

 王子中学には、小学校が一緒だった友達がたくさんいる。ここでは大丈夫。だから、もう怖くない。そう何度も自分に言い聞かせたが、駄目だった。また虐められるのでは無いか、また誰も助けてくれないのでは無いか、そんな思いが私の胸を満たす。

 学校へ行こうと思い、前日は早めに寝る。翌朝、起きると何故か頭が痛くなる。明日こそは学校へ行こうと思い、前日は早めに寝る。翌朝、起きると何故かお腹が痛くなる。そうして一週間が経ち、そうして一ヶ月が経ち、そうして半年が経った。結局、転校してから一度も学校へ行ってない。 

 そして、一度も王子中学へ通わぬまま、私は三年生になった。

お母さんのお腹はどんどん大きくなり、姿が見えない妹が私にプレッシャーをかける。駄目な姉だと、情けない姉だと思われるのが怖い。

私が学校へ行かなくなってから、お父さんとはほとんど喋ってない。会社から帰ってくる時間が遅くなり、帰ってこない日も増えた。休みの日、一緒にご飯を食べていても、何も聞いてこない。どこかへ出張の仕事があったとしても、もうお土産は買ってくれなくなった。きっと、私に失望しているのだろう。

お母さんは私の事をあまり褒めてくれない。勿論、褒められるような事をしていない私が悪いのだが、以前は何でもない事も褒めてくれた気がする。そして、何より溜息が増え、何だかいつも疲れているように見えた。

私はただ、朝起きて、ご飯を食べて、寝る。ただ、それだけの生活を続けていた。世の中から、色が消えた。私を取り巻く世界は活動を辞めた。私はあの日、死んでしまったのだ。

たっちゃんと出会ったのは、中学二年生の十二月だった。

その日、私はありったけの勇気を振り絞り、家を出た。頭痛に耐え、腹痛を堪え、制服に着替えて家を出発したのだ。奥歯がカタカタと震えた。自分の足が、まるで他人の足のように力が入らない。鞄が重い。空気が薄い気がする。それでも、これ以上お母さんとお父さんを悲しませたくない一心で、私は学校へ向かった。

学校がもっと遠ければ良いのに。そう思いながら進む。大地震よ、起きろ。大火災よ、起きろ。私が学校へ行かなくても良くなるような事態に、どうかなってくれ。ずっと、そう思っていた。学校へ向かう途中、同じ学校へ向かう仲間達にどんどん追い抜かれていった。それでも一歩、また一歩と進む。その時、通学中の金色に髪を染めた女子生徒が友達と喋るのに夢中で、私に気づかず、ぶつかってきた。「ああ、ごめん。」と言い、すぐに私を追い抜いた。おそらく、その女子生徒は三年生だ。私を虐めた連中とは違う。私を虐めた連中はここにはいない。そう自分に言い聞かせたが、無駄だった。もう一歩が出なくなった。

私のアタマの中で、金色の髪の悪魔達の声が響く。

「ここでも一緒だ。」「死ね。」「消えろ。」「ウザイ。」「もう一度、死んだら?」「調子に乗るな。」

金髪のオールバックの男子、金髪のロングヘアーの男子、金髪のショートカットの女子、金髪のセミロングの女子。皆、金髪。男子は皆、下着が見えるくらいズボンを下げて履いており、女子は皆、下着が見えるくらいスカートを短くしていた。ルーズソックス、二つ目の釦まで開けたシャツ。悪魔達は皆同じに見える。

心を無くした傍観者と成り果てた同級生達の冷たい視線が目に張り付いたように、消えない。死んだ眼の傍観者達は言う。

「ハハハ」「また虐められてる。」「情けねえ。」「調子に乗るからだ。」「だせえ。」

サッカー部のエースストライカーだった男子、お調子者で冗談ばかり言っていた男子、クラスで一番モテる女子、図書委員で本ばかり呼んでいる女子。皆、少しずつ違うのに、皆、眼は同じだった。見下して、見放して、意思を無くした傍観者の眼だった。

悪魔達の声も、傍観者達の声も消えない。学校はすぐそこだというのに、私はもう進めない。

私は近くの公園の青いベンチに座った。怖くて学校へ行けず、情けなくて家にも帰れず、ただ一人で俯いて座っていた。

「お前、どうした?」

声が聞こえた。私はゆっくりと顔を上げる。そこには学ランに真っ赤なマフラーを巻いた、身長百五十センチほどの男の子が立っていた。

「どっか痛いのか?」

私は驚いて、何も返事が出来なかった。ただ、何かを言おうとして、口をパクパクしていたが、言葉は出なかった。その様子を見て、男の子は私の前でしゃがんだ。真っ直ぐ、私の目を見て、笑った。

「何だ、お前。鯉じゃねぇんだからさ。パクパク、パクパクさ。あははは。」

「し、し、失礼な。」

私は考えるより先に言葉が出てしまった。

「あはははは、ごめん、ごめん。」と言いながら、男の子は私の隣に座った。私は少しだけ横に移動し、彼との間に距離を作った。彼は坊主頭であどけない顔をしており、学生服を着ていなかったら小学生に見える。

「王子中だよな?何年?」

「二年。」

「マジで?一緒じゃん。」

「え?そうなの?あなた、同級生なんだ。てっきり、年下かと思った。」

「し、し、失礼な。」

さっきの私の言い方を真似たのか、たまたま同じ言い方になったのかわからないが、彼の言い方に驚いて、私は彼の顔を見た。彼と目が合い数秒、私達は顔を合わせて笑ってしまった。

久しぶりに笑った。

特別、面白い事では無い。それでも数ヶ月もの間、笑い方を忘れていた私は、溜め込んだものが一気に吹き出すように、しばらく笑いが止まらなかった。

「学校、行かねぇのか?」

 私の笑いを止めるには十分な直球過ぎる質問に、私は驚き、俯いてしまった。

 「じゃあ、どっか行こうぜ。」

 「え?」

 キョトンとする私に向かって、彼は当然のように言い切った。

 「どうせ学校行かねぇなら、他の事しようぜ。もっと楽しい事とか、やりたい事とかさ。ここに座っていても楽しくないだろ?」

 「でも…」

 「じゃあ、ずっとここにいるのか、お前。」

 私は黙り込んでしまった。黙ったままの私に痺れを切らし、男の子は立ち上がり私に向かって言った。

 「良いんだって。学校だけが正しいって事ないじゃん。学校に行きたくないからって、何もしちゃいけないって事じゃないんだからさ。どこに行ったって関係ない。行きたい所に行けば良いんだよ。」

立ち上がり、私に向かって手を差し出す彼の姿は、何だか少し大きく見えて、ずっと私が差し伸べて欲しかったものに思えた。一瞬の間の後、私はその手を掴んだ。

「うん。」

「よし、行こう。」

勿論、目の前の男の子に対して、警戒心が無かったわけではない。それでも、同じ学校の生徒で、私より背が低い事が私に安心感を与え、体の割には大きなその手が私を今のどん底からどこか別の場所へ連れて行ってくれるような期待感を与えた。

「どこ行くの?」

「どこ行きたい?」

私達は手を繋いだまま、駆け足で公園の出口へ向かった。

「広い所に行きたいな。山とか、景色が良い所。」

「了解、了解。じゃあ、俺のとっておきの場所に連れてってやるよ。」

「うん。」

久しぶりに家族以外と喋った。久しぶりに走っている。久しぶりに生きている、私。

公園を出て、右に曲がり、学校とは逆方向に向かう。その瞬間、私達の足が止まった。目の前にはいたのは、我が国に暮らす庶民の正義の味方。自転車に跨ったヒーロー。通称、お巡りさん。

「おはようございます。」と私達は優等生のように、揃って挨拶したが、

「待ちなさい。君たち学校はどうした?」

やはり、予想通りの展開だった。五十歳ぐらいのベテランのお巡りさんは、すぐに私達の家に連絡をし、家まで送り届けた。私達は、自転車を引いて歩くお巡りさんの後ろをトボトボ歩いた。

「ごめん。偉そうな事言って、公園から五歩ぐらいしか進めなかった。」

男の子は唇を尖らせながら、小声で謝った。

「いいよ。今度、行こうよ。」

「おう。今度、必ず。」

私の家に着くと、玄関の前にお母さんが立っていた。怒っているのか、呆れているのか、無表情でこっちを見ている。私は何て言えば良いかわからず、俯いて歩いた。玄関の前、最初に口を開いたのはお巡りさん。では無く、お母さんでも、私でも無かった。

「すみません。おばさん。俺が無理矢理、学校をサボろうって誘っちゃったんだ。だから、この人は悪くなくてさ。普段は真面目に授業を受けてるんだよ。ちゃんと。悪いのは俺なんだよ。本当にごめんなさい。すいません。」

「何だ、君が唆したのか?確かに変だと思ったんだ。真面目そうな女の子だし、学校をズル休みするような子には見えないからな。駄目だぞ、こんな可愛い子を平日に連れ回しちゃ。まあ、お母さん。彼も反省していますから。」

事情を知らない二人のやり取りを、事情を知っている二人はただ黙って聞いていた。

「まあ、いいわ。さくら、家に入りなさい。」

私はお母さんの言う通り、家に入る。その直前、彼が言った。

「俺、土田達郎。また、遊ぼうな。」

 私は驚き、一瞬答えられなかったが、無理矢理言葉を絞り出した。

「う、うん。私、橘さくら。またね。」

土田達郎君は満面の笑みで、頷いた。

「何だね、君達、名前も知らなかったのかい。まったく最近の若者は…」

玄関が閉まり、再びいつもの閉鎖された世界に戻る。それでも、心はいつも通りでは無かった。学校へ行く挑戦には失敗したが、久しぶりに私は生きた気がする。

そして、再び私の世界が色付き始めた。これが、たっちゃんとの出会いだった。




   3


 たっちゃんと知り合ってから、もうすぐ四ヶ月が経つ。

たっちゃんは、考え方が子供で、天然で、無鉄砲で、前向きで、話が上手で、絵が上手くて、優しい。そんなたっちゃんは、私の閉じた心をちょっとずつ開いていく、のでは無く、どちらかというと人の心に土足で踏み込んでくる。

私が登校しようとして失敗した翌日、当時の担任の先生だった足立先生が様子を見に家に来てくれていた。私の部屋で、足立先生と話をしている最中、突然窓を叩く音が聞こえ、振り返るとそこにはたっちゃんがいた。足立先生を見つけた瞬間、「ヤバイ」という顔をして逃げ出した彼だが、すぐに捕まって、かなりきつく怒られていた。

翌日、恐る恐るベランダから登場したたっちゃんは、「昨日はマジでビビった。」と言いながら、当然のように部屋に入ってきた。何だか可笑しくて、「何してんの?」とか「勝手に入ってこないで。」って言う気も無くなった。

それから、たっちゃんは毎日来た。

最初は「土田君」から始まった呼び名も、「達郎君」に変わり、一ヶ月も経たない間に「たっちゃん」に変わった。たっちゃんは最初から一貫して「さくら」だった。

たっちゃんは絵が上手い。誰よりも、という程では無いが、私よりはずっと上手い。将来の夢は漫画家になる事だそうだ。一度、彼が書いた漫画を見せてもらった事があるが、普段、漫画を読んだ事が無い私には、よく解らなかった。それでも、「絵、上手だね。」と言うと、満面の笑みで、独自の漫画理論を展開してきた。いつもは七時には帰るのに、その日は一方的なお喋りに夢中で、なかなか帰ろうとしなかった。今は新人賞に応募する作品を描いているそうだ。完成したら、最初に見せてくれると約束をしてある。私はそれがとても楽しみだった。漫画が楽しみというより、彼が一生懸命取り組んだ事を、最初に見られる事が嬉しかった。もうすぐ完成するらしい。

私の部屋に来る時、たっちゃんは自分のおすすめの漫画を持ってきてくれる。おかげで私の漫画に対する知識も増えてきた。その漫画の中で、あるシーンが気になった。

「桜ライダー」というあまりにダサいタイトルの作品は、商業的に成功した作品では、どうやら無さそうだが、私の心には強く残った。難病に侵され、余命僅かとなってしまった女子大生のヒロインと、うだつの上がらない中年サラリーマンの恋愛物語を単行本二冊で表現をしている。サラリーマンががむしゃらに頑張る姿は、時に笑えて、時に心に響き、女子大生のピュアで強い心は涙を誘った。特に満開の桜を見に、二人で病院を抜け出すシーンは涙を堪える事は難しい。

「その桜って、一応モデルになった場所があるんだけどさ、この近くなんだよ。」

たっちゃんがゲームをしながら、顔をこちらに向けずに言った。

「え?そうなの?どこ?教えてよ。」

「岐阜の方だよ。確か車で一時間半から二時間ぐらいかな。そんなに有名じゃないし、木の数は少ないんだけど、密集して植えられているから、辺り一面桜に囲まれているように見えるんだよな。公園なんだけどさ、正式名所は誰も知らないんだよ。漫画のファンは皆、漫画の中の設定のまま光ヶ丘公園って読んでるけど…あ、クソッ、負けた。」

テレビの画面では、たっちゃんが操作していた赤い戦闘機が墜落していった。彼はゲームの電源を消し、コントローラを置いた。

「へえ、光ヶ丘公園か。」

漫画の設定では、光ヶ丘公園はヒロインの女子大生にとって憧れの場所であり、満開の桜の中で願いは必ず叶うという伝説の場所だった。主人公のサラリーマンが、夜の病院に忍び込み、末期癌患者の女子大生を連れて光ヶ丘公園に行き、桜の中で「元気になれ。元気になれ。」と叫ぶシーンで私は涙を堪える事は出来なかった。

「ねえ、たっちゃん。今度、行ってみようよ。桜が咲いたらさ。」

もしも願いが叶うなら、私にも叶えたい願いがある。

「そうだな。あの日、結局行けなかったし。」

「ん?ちょっと待って。あの日って?」

「初めて会った日。」

私は一瞬、言葉を無くした。

「たっちゃんのとっておきの場所って、そこの事なの?」

「いや、秋だったら紅葉も綺麗だし、山の上だから景色も良いからさ。前は親父に連れてってもらったんだけど、なかなか良かったからさ。」

たっちゃんは無鉄砲と言うか、ちょっと先の事を考え無さ過ぎる。私は一息ついて、冷静に、ゆっくりとした口調で諭すように話す。

「良い?たっちゃん。岐阜って三十キロから四十キロはあると思うんだけどね。なかなか、あの時勢いで一緒に走って行ける距離じゃないと思わない?」

「そっか。前は親父の車だったから早く着いたのか。じゃあ、自転車で行くか。」

彼なら、本当に自転車で行けるような気がして、反論するのを辞めた。

ちなみに今年の桜も開花が遅れている。四月の上旬である今日現在、まだ桜の花は咲いていない。テレビでは連日、十五年振りの桜の遅咲きについて放送されている。大人達は今年の花見を例年以上に楽しみにしている。そして私にも楽しみができた。今年の花見はたっちゃんと一緒に岐阜へ行く。そして、願い事をするのだ。そう決めた。できれば、自転車以外で。できれば、電車とか車で。

「とりあえず、桜が咲いたら行こうね。花見、連れてってよね。」

「おう。連れて行くよ。必ず。」

「約束だよ。」

「約束だ。自転車で連れていくよ。」

最後の部分は聞いてないことにした。そもそも、私は自転車を持っていない。去年、駅で盗まれてから買ってない。盗まれてからすぐに家から出なくなったから。

ちなみに、たっちゃんが私の家に来るようになってからすぐ、来客が二人になった。担任の先生だった足立先生が怪我で入院してしまった為、副担任だった佐藤先生が来るようになった。

足立先生は、三週間に一度ぐらいのペースでしか来なかったのだが、佐藤先生は毎日来た。黒いワンボックスカーに乗って、毎日来た。私はたっちゃんから嫌という程、彼の噂を聞いていた為、最初はずっと怖かった。「早く学校に来い。」とか「何で健康なのに何日も休んでいるんだ。」などと言われるのだろうか。それとも、問答無用の鉄拳が飛んでくるのだろうか。最初の数日は、まともに目を合わすことも出来なかった。それでも、数日が経つと、佐藤先生の人柄が伝わってきた。

佐藤先生の口癖は「大丈夫、大丈夫。」私は、何度もその言葉に励まされた。

「大丈夫、大丈夫。橘さんが学校に来られるようになったら来なさい。焦らなくて良いですから。」「大丈夫、大丈夫。私が付いていますから。」「大丈夫、大丈夫。大丈夫、大丈夫。」

佐藤先生は元ラグビー部だけあって、体格が良くて、声も大きい。よく笑う。そして、丁寧な言葉遣い。私がたっちゃんから聞いていたサトパンという人物とは違うのではないかという疑惑すら浮かんだ。たっちゃんに聞くと、「大体、一番悪い奴っていうのは、口調が丁寧なんだよ。例えば、敵がたくさん出てきて、その中に小さくて口調が丁寧な奴がいたら、そいつが悪の親玉っていうのが王道だ。」と言っていた。思わず、「それ、何の話?」と聞くと、「つまり、さくらの家に来ているのはサトパン。で、サトパンが一番悪い奴なんだって。」と焦りながら、必死で説明してきた。

「明日はきっと良い日ですよ。だから、大丈夫です。」

そう言ってくれた先生の言葉をよく思い出す。夜眠る前、朝頭痛や腹痛で辛い時、その言葉が私を支えてくれた。私にとって、佐藤先生は小さくて丁寧な正義の味方だった。

さらに変化がもう一つあった。佐藤先生はたまに私に手紙を持ってきてくれた。佐藤先生が書いた物では無い。私のクラスメートが書いてくれた手紙だ。学級委員の渡辺安奈さんは、キャラクターがたくさん描かれている便箋に、ピンク色のボールペンで可愛い丸文字をたくさん書いてくれた。小学校の時に仲が良かった佐々木詩織さんは、大人顔負けの綺麗な字を便箋に少しだけ、木村秀明君は枠をはみ出す程の大きな文字でたくさんのメッセージをくれた。

「待ってるよ。」とか「また遊ぼうね。」とか「一緒に頑張ろう。」とか、それぞれのメッセージが私の背中を押す。

きっと佐藤先生が、私が学校に通いやすい環境を作ってくれているのだ。そう気付いてから、私は机の前に座り教科書を開く回数が増え始めた。徐々に予習を開始した。それは、学校へ行く為に。

勉強には自信があった。時々、たっちゃんにも勉強を教えてあげた。授業にはちゃんと付いていけると思う。頼りになる先生もいるし、迎え入れてくれるクラスメートもいる。残る問題は私の勇気だけ。

そう思いながら、勇気が出ないまま時間は流れた。

たっちゃんと出会ってから四ヶ月。異常気象の長い冬が終わり、桜が咲かないまま春を迎えた。私達は三年生に進級した。義務教育というのは、学校へ通ってなくても進級できるようだ。クラス替えで私は三年一組になった。学級委員の渡辺さん、小学校の時に仲が良かった佐々木詩織ちゃん、クラスの人気者の木村秀明君、皆同じクラスだ。さらに担任は佐藤先生。そして、たっちゃんも同じクラスになった。

明日こそ、明日こそ。そう思いながら、学年が変わっても学校へ行けないまま過ごしていた、そんなある日の事だった。

その日は四月の後半で、ゴールデンウィークの長期連休を来週に控えた平日だった。

連休が終わると、すぐに立志式が行われる為、「自分史」と「人生設計書」の提出期限は今週中だった。その為、私はその日宿題を完成させる為に机の前で作業に励んでいた。佐藤先生は来なかった。それでも、たっちゃんはいつものように私の家を訪れ、物置の上に乗り、ベランダによじ登ろうとしたのだが、どうやら、その姿を見られてしまったらしい。突然、我が家のチャイムが鳴った。お母さんが出掛けていた為、私が玄関に向かうと、そこにいたのは俯いたたっちゃんとあの日のお巡りさんだった。

 「この男、君の家に不法侵入をしようとしとった。ほれ、ボウズ、謝らんか。まったく最近の若者は何を考えているのか。」

 顔を真っ赤にして怒るお巡りさんと、顔を真っ赤にして恥ずかしそうに俯くたっちゃんのツーショットが何だか笑えた。

 「いらっしゃい、たっちゃん。」

お巡りさんは驚き、私とたっちゃんの顔を交互に見た。

 「何だ?君達は知り合いなのか?だったら、あんな所から入らずに玄関から入れば良いのに。」

 仰る通りです。

 たっちゃんは初めて、私の家の玄関で靴を脱ぎ、二階にある私の部屋へ上がった。

 「まさかの展開だったぜ。」

 「でも、そりゃあ知らない人が見たら、不審者だと思うよね。」

 私の部屋に入ると、たっちゃんは当然のようにベッドに横になり、辺りをキョロキョロと見渡した。何だかそわそわしているようだった。

 「今年の修学旅行、東京に決まったんだよね?」と聞いても、「お、おう。」としか返ってこない。

 「漫画は順調?」と聞いても、「お、おう」としか返ってこない。

 「桜、そろそろ咲くかな?花見、楽しみだね。」と言うと、今度は返事すら無かった。

 何だかたっちゃんの様子がおかしい。不思議に思っていた私の疑問はすぐに解ける。

再び、我が家のチャイムが鳴った。お巡りさんが様子を見に来たのだろうか。私は玄関に向かった。階段を降りていると、後ろからたっちゃんが付いてきている事に気付いたが、特に何も言わなかった。

玄関を開けると、そこには学生服を着た男の子と女の子が立っていた。

 私は突然の事態に何も言葉を発する事が出来なくなった。私は知っている。目の前の二人を。背が伸びて、少し大人っぽくなってはいるが、彼女を知っている。大人顔負けの筋肉質で大きな体、子供のようなあどけない表情、会ったことは無かったが、話に聞いていた通りの彼を知っている。

 「覚えてる?」と彼女が言った。

 「忘れないよ。」と私は言った。

思いもよらぬ突然の再会と気心知れた存在が与える安心感によって、私の目からは涙が溢れた。目の前の彼女も同じだった。その目からは大粒の涙が零れ落ちた。

「大変だったね、さくら。」

「しーちゃん。」

私達は抱き合って泣いた。約二年振りの再会。その距離を埋めるように、ただ抱き合って泣いていた。

佐々木詩織ちゃん。通称しーちゃん。小学校の五年生と六年生の時に同じクラスになった私の一番の友達。中学が別々になってから、私は通学と塾に多くの時間を奪われていた為、自然と会わなくなってしまっていた。その隣にいたのは、木村秀明君。通称ヒデちゃん。会うのはこの日が初めてだが、話はよく聞いている。たっちゃんの小学生の時からの親友だそうだ。

私の部屋に三人も同級生が来るなんて初めての事だった。私としーちゃんはベッドの上に座って、たっちゃんは私の勉強机の椅子に座り、木村秀明君は座布団の上に胡座をかいて座った。

授業の話、先生や同級生の話、最近見たテレビの話、面白いお笑い芸人の話、カッコ良い俳優の話、誰と誰が付き合っていて、誰が誰の事を好きかという噂話。たくさん、たくさんお喋りをした。笑って、驚いて、また笑った。

ただ、たっちゃんはあんまり喋らなかった。その理由について、見当は付いていた。

「三年振りの記念に」と言って、しーちゃんが鞄から取り出したのは、使い捨てのカメラだった。最初は私としーちゃんの二人で写真を撮った。次にしーちゃんと木村秀明君を撮って、その後でたっちゃんと木村秀明君を撮った。私はたっちゃんとのツーショットを撮りたかったのだが、なかなか勇気が無くて言い出せなかった。

突然、ドアが開き、いつの間にか帰宅していたお母さんが入ってきた。「こんにちは。ゆっくりしてってね。」と、紅茶とお菓子を持ってきてくれたのだ。木村秀明君は「お邪魔してます。」と言った後、「あの、おばさん。ちょっと写真を撮ってもらえないですか?」とお母さんに言った。勿論、お母さんは引き受けてくれた。

「はい、チーズ。」の声に合わせて、笑顔を作った。思えば、久しぶりだ。写真なんて。そんな事を思い出していた。

「じゃあ、次。さくらと土田君の二人で撮るよ。二人共、近寄って。」

何故か、いつも以上に燥いでいるお母さんの突然の指示に私は戸惑った。木村秀明君としーちゃんはニヤニヤしながら、見守っていた。「な、な、何で?」とたっちゃんは言っていたが、「だって、さっき君だけ俯いていたから。ほら、今度はちゃんと正面向きなさいよ。」とお母さんに言われ、渋々従っていた。肩が当たりそうで、当たらない距離で横に並び、「パシャ」という音が鳴り止むと、すぐに離れた。

私はどんな顔をしていたのだろう。たっちゃんはどんな顔をしていたのかな。その時の写真を現像してもらったら、写真立てに入れて机の上に飾ろう。勝手に決めた。

お母さんが部屋を出て行き、みんなで紅茶を飲みながら、お菓子を食べて、約十分が経った頃、少しの沈黙の後、しーちゃんが切り出した。

「どうして、学校行かなくなったの?」

「え?」と言ったきり、私は固まってしまって、何て言えば良いのか分からなくなった。そんな私に、木村秀明君が補足して説明してくれた。

「あのよ、俺達、橘さんにも学校に来て欲しいんだ。だからさ、考えたんだけどよ、前の学校に行けなくなった原因を聞いてよ、それを取り除こうって思ったんだ。原因が分かれば、何かできるだろ。きっと。」

私はたっちゃんの方を見たが、たっちゃんは下を向いたまま、一切目を合わせてくれなかった。少しイラっとした。

「もうすぐゴールデンウィークでしょ。今週はあと三日来たら、すぐに休みあるしさ。来週は水曜日が祝日で休みだし、再来週は土曜日から火曜日まで四連休でしょ。だから、他の時期に比べてまだ行きやすいかなと思ってね。連休が終わったら立志式もあるし。一回、学校に行っとくと、その後も行きやすいでしょ?」

「俺達、明日の朝迎えに来ても良いぜ。一緒に行こうぜ。」

皆、優しい。でも、優しすぎて痛い。

私が学校に行けなくなった理由、同級生達から受けた虐めについて、まだ誰かに詳しく話せる程、心の傷は癒えていない。時間が経てば癒えるのだろうか。あの頃の辛さを忘れる日など来ない気がする。声に出して、当時の事を説明しようとすると、涙が出そうになる。辛くて、話したくない。それに、虐めの事を話してしまうと、周りからどう見られるかが怖い。協調性の無い人間だと、弱い人間だと、虐められる側にも原因があって、虐められても仕方ない人間だと、レッテルを貼られるのが怖い。

「私が悪いの。それだけだから。心配してくれてありがとう。」

そう絞り出すのが精一杯だった。俯いたまま、顔を上げる事が出来なかった。しーちゃんや木村秀明君の顔を見ると涙が出そうになるからだ。それに、目を合わせると、嘘を見破られてしまうような気がした。

「本当に?本当にそう思ってるのか?」

そう言ったのは、たっちゃんだった。

「思ってるよ。」

下を向いたまま、答えた。何故、そんな事を聞いてくるのか疑問に思いながら。

「後悔してるって事?」

「うん。後悔してる。」

「ふざけんな!何で、そんな事言うんだよ!」

部屋の中に突然、怒鳴り声が響いた。「おい、達郎。」と木村秀明君が注意しても、それを無視して、たっちゃんの怒りは収まらず、続けた。

「お前に助けてもらった奴が聞いたら、どう思うか考えろよ!お前、そいつの事、助けるんじゃなかったって後悔してるのかよ!」

たっちゃんは知っている。何故か、どこで聞いたのかは分からないが、私が学校へ行けなくなった理由を知っている。

それでも、私もカッとなって言い返してしまった。

「当たり前でしょ。人を助けたつもりだったのに、まったく立場が変わっちゃって、自分が代りに標的にされて。後悔しない日なんて無かったわよ。」

「ガッカリしたぜ。マジで。」

人を見下した言い方に私は腹が立った。それに加え、自分は被害者だと思い込んでいた事に対して、まさか自分が責められるとは思いもしなかった。しかも相手はつい先程までは一番の味方だと思っていた相手だった。それが最も私の機嫌を害した。だから、思ってもない事まで言ってしまったのだ。

「たっちゃんだって、同じじゃない!たっちゃんも学校行ってないんでしょ!偉そうに言わないでよ!たっちゃんなんて嫌い。」

私は顔を上げて、たっちゃんを睨みつけた。そこには、顔を真っ赤にして、怒りに震ええる表情があると思っていたのに違った。困り果てたような、悲しみに満ちた表情のたっちゃんがいた。彼の目からは大粒の涙が流れ落ちていた。その涙は、少し前から流れていたと思う。頬から顎にかけて涙の通り道が見えたからだ。

たっちゃんは「もういいや。」と言いながらすっと立ち上がった。

「今までありがとう。楽しかった。」

そう言って、部屋を出て、帰っていった。玄関から帰っていった。帰り際のたっちゃんは、今までに見た事の無い真っ暗で寂しい表情をしていた。




   4


翌日も、その翌日も、さらにその翌日も、たっちゃんは来なかった。

翌日も、その翌日も、さらにその翌日も、私は学校へ行けなかった。

あの日、たっちゃんと喧嘩をしてしまった日からずっと私の心は沈んだままだった。まるでそれは一度死んだ後の私。たっちゃんと出会う前の私に戻ったようだった。

しーちゃんと木村秀明君は、部屋を飛び出していったたっちゃんを慌てて追って行き、戻ってこなかった。よって、翌日に学校へ行くという話は無くなり、誰も迎えには来てくれなかった。

たっちゃんが学校に行ってない事、実は佐藤先生から聞いていた。同じクラスにもう一人不登校の生徒がいるという事。そして、それは土田という苗字で、私の一つ後ろの席の男の子だと言う事。彼も学校へは行っていないのだ。だからあの日、しーちゃんと木村秀明君が話していた学校の話題には乗ってこなかった。乗ってこられなかった。たっちゃんがいつも話してくれた同級生達の話題は、かなり古い情報ばかりで、彼がまだ学校へ通っていた頃の物だった。佐藤先生はいつもたっちゃんの家に行った後で、私の家に来るのだ。何で、前向きで元気いっぱいなたっちゃんが学校へ行かないのか、理由は分からない。何であの日、彼が怒り出したのか、泣き出したのか、理由は分からない。考えても、考えても分からなかった。考えても、考えても私には後悔しか残らなかった。

佐藤先生が来たのは、翌週の火曜日だった。

いつも通り、佐藤先生と私、お母さんの三人で居間のテーブルを囲んだ。コーヒーを飲みながら話をしていた。

「橘さん、自分史は既に提出をしてもらっていますが、人生設計書の方はどうですか?完成しましたか?」

「はい。自分の部屋にあるので、取ってきます。」

立ち上がり、二階にある自分の部屋に向かおうとすると、佐藤先生が呼び止めるように言った。

「今日は来てないのですか?」

私は立ち止まり、振り向いて答えようと思った。来てない。もう来ない。そう言おうとすると、もう本当に会えない気がして、言葉に出来ない。耐える間も無く、私の目から大粒の涙が零れ落ちた。

「ちょっと、さくら。どうしたの?」

心配してくれるお母さんには申し訳ないのだが、もうこの涙は止まらなかった。

「橘さん、ある一人の生徒の話をしましょうか。」

 私の返事を待たずに佐藤先生は話をし始めた。

「その生徒は、とても無邪気で前向きで、明るく元気いっぱいの生徒でした。しかし、その発想は同年代の生徒と比べるとやや幼く、悪く言えば幼稚でした。彼は漫画が大好きで、夢物語ばかり語っていましたからね。彼の話は夢があって、面白くて、その独特の発想は小学生の頃はクラスでも受け入れられていましたが、中学生になり、周囲も大人に少しずつ近付くにつれて、周りから笑われ、からかわれ、馬鹿にされるようになっていきました。その行動は徐々にエスカレートしていき、彼の存在はクラスの中で浮いてきました。そして、クラスメート達は彼を見下し、ストレスの捌け口にしていきました。イタズラ、悪口のみに留まらず、暴力へと発展していきました。すでにその時、学校には夢も無ければ、楽しみも無かった。さらに彼には味方がいなかった。彼を虐めていたグループの主犯格の生徒は体が大きく、迫力もあって、同級生から怖がられるような不良生徒でした。皆、主犯格の生徒を恐れ、彼を守れなかった。彼は学校へ通うのを辞めました。中学二年生の二学期でした。」

私はたっちゃんが不良達に虐められる姿を想像してしまった。苦痛に歪む表情を、悲しみに暮れる姿を、一人ぼっちの彼を想像し、あの時私が助けた同級生の姿と重ねてしまった。私の肩に手を置き、話をじっと聞いていたお母さんが口を挟む。

「先生方は、その時何をしていたのですか?」

佐藤先生はお母さんではなく、私の目を見て答えた。

「本当に情けないのですが、我々が気付いたのは、彼が学校に来なくなってからでした。クラスメートからの相談によって初めて発覚したのです。これは絶対にあってはならない事です。我々は彼を守る事が出来なかったのですから。」

そう言って、佐藤先生は深く頭を下げた。それは、教師を代表して私に謝っているかのようだった。

「佐藤先生、話を続けてください。」

佐藤先生は顔を上げ、再び話始める。私は手の甲で涙を拭いて、その話に耳を傾けた。私はちゃんと知りたかった。たっちゃんのことを。

「彼が学校に来なくなってから、我々は虐めに関与した生徒達の指導を徹底しました。時には少し過激な指導をしながら、皆が安心して通える学校を目指して、改善に取り組んでいます。それは今も続けています。しかし、それでも彼は学校へは来ませんでした。しかし、ある日、当時の担任教師が彼の家を訪ねました。その担任教師は、前日の職員会議で自分のクラスに不登校の生徒が二人もいる事を指摘され、指導力不足という事で教頭先生からきつく叱責されました。焦った担任教師はまず彼の家に向かいました。彼の両親を交え、明日学校へ来るように説得をしました。いや、脅しに近い説得だったと聞いています。そして、担任教師は彼の家を出た後、この家にも来ましたね?明日、学校に来ないと転校しないといけないと脅されましたね?」

覚えている。だから、あの日、私は勇気を振り絞って家を出たのだ。

「彼は勇気を振り絞って、家を出ました。しかし、行っても楽しい事なんて無い。彼は迷っていました。そうやって歩いていると、途中の公園で同じ学校の女子生徒に会いました。彼は女子生徒に話かけ、意気投合します。あっという間に仲良くなりました。それから、彼は毎日のように女子生徒の家に遊びに行きました。」

思わず私はその話に合わせて頷いていた。

「彼が何故、毎日のように女子生徒の家に行ったのか。趣味が合うのか、話が合うのか、恋をしたのか、理由はたくさんあるでしょう。本当の理由については知りませんが、ただ、一つだけ、知っている事があります。彼にとって、女子生徒はヒーローだったのです。」

「え?」と思わず声がでた。

「彼は、女子生徒に初めて会った日、お巡りさんに補導をされます。そのお巡りさんに家まで連れて行かれる時に、女子生徒の事を知ります。そのお巡りさんは地域密着型で、その町内の情報は大体掴んでいたのです。お巡りさんは、知らないふりをしていましたが、本当はその女子生徒の事を知っていたのです。彼女は学校に行ってない事、前の学校で何があったのかも、すべて知っていて、それを彼に話しました。」

「すべてっていうのは…?」

私が聞くと、「すべてですよ。」と佐藤先生は即答した。

「女子生徒はとても努力家で、その努力が実り私立の中学に通っていた事。そこで同級生の気弱な男の子が虐められているのを助け、自分が身代わりになってしまった事。すべて聞いたのです。彼にとって、それは衝撃でした。自分が虐められている時、助けてくれる同級生などいなかった。誰かに助けて欲しかったのだが、手を差し伸べてくれる人など、一人もいなかったのに、その女子生徒はそれをしたのだから。」

何故、あの時たっちゃんが怒ったのか理由が分かった。たっちゃんは、あの時助けた同級生と自分を重ねていたのだ。

「彼が今、書いている漫画の主人公、その女子生徒がモデルだそうです。」

そう言って、佐藤先生はコーヒーを飲み干した。

「ただ、勘違いして欲しくないのは、彼が女子生徒の家に通うのは、漫画の為ではありません。彼は言いました。彼女といると楽しい。彼女を助けるなんて偉そうな事は言えない。俺はただ、彼女といると楽しいってだけ。そう言っていました。」

お母さんは、佐藤先生のコーヒーカップが空になったのを見て、「おかわりいかがですか?」と聞き、コーヒーを注いだ。

「彼には新しい悩みが出来ました。それは、ヒーローだと思っていた女子生徒がとても落ち込んでいた事でした。学校に行ってない自分には何も価値が無いと思い込んでいる事が、彼はとても嫌でした。彼は、女子生徒が学校に行ける環境を作る事にしました。まず、担任教師に相談をし、同じクラスの生徒に手紙を書くようお願いをしました。そして、彼の親友に相談をし、二人で虐めの主犯格であった男子生徒の所に行き、話をつけました。彼の親友は、彼を守れなかった自責の念から、様々な格闘技の練習を始めており、めきめきとその世界では頭角を表していましたから、話は比較的すぐに終わりました。その時、彼と主犯格の男が交わした約束は一つ。橘さくらには一切、関わらないという事でした。そして彼は最後の仕上げとして、三年生に進級したのを機に、学校へ通い始めました。」

私の呼吸は荒くなっていった。そんな事、信じられない。でも、きっと本当だと思う。たっちゃんは優しいから、たっちゃんこそが本当のヒーローだから。私はそんなヒーローにひどい事を言ってしまったのだ。私は激しい後悔と、彼の優しさが嬉しすぎて、止まった筈の涙が絶え間なく流れてしまった。

「彼は同じクラスの皆に話しました。その女子生徒の事を。そして、暖かく迎えるよう、クラスの体制を整えました。そして、女子生徒の友達、クラスの人気者である親友を連れて、女子生徒の家を訪ねたのでした。」

心臓の鼓動が早い。涙で前が見えない。鼻水を啜っても啜っても流れてくる。呼吸が難しくて、うまく喋れない。たっちゃんに会いたい。

その先は知っていますよね、と佐藤先生は話すのを辞めた。お母さんは私にハンカチを渡し、私の背中を撫でてくれた。私は勇気を振り絞って、尋ねた。

「人生設計書ですけど、明日でもいいですか?」

佐藤先生は穏やかな笑みを浮かべながら、「今週中に提出してもらえれば大丈夫ですよ。」と答えた。私は両手をグッと握り、心を奮い立たせた。

「じゃあ、今週中に提出します。提出しに行きます。」

お母さんが背中を撫でる手が止まった。佐藤先生はゆっくりと頷いた。

私はたっちゃんに何も返せていない。まだ何も伝えていないのだ。このまま、終わりになんて出来ない。ここで終わったら、私は本当に死んでいるも同然だ。

二杯目のコーヒーを早々に飲み干した佐藤先生は立ち上がり、玄関に向かった。私は追いかけて、佐藤先生の背中に伝えた。

「ありがとうございました。」

佐藤先生は靴を履きながら、こちらを振り返らずに答えた。

「彼は、その女子生徒と一緒に出掛ける約束をしているそうです。とても楽しみにしていました。」

私は佐藤先生の大きな背中をじっと見つめた。眼の奥が熱い。油断すると、もう一度涙が出そうになる。

「彼の人生計画の十五歳のページには、その女子生徒と一緒に出掛ける事が書いてありました。」



   5


 「お花見なら駄目よ。来年にしなさい。」

 夕飯のカレーを食べながら、お母さんが言った。当然、私は「何で?嫌だ。絶対行く。」と答えたが、さらに強い口調で被せてきた。

 「危ないでしょ?子供だけで岐阜まで行くなんて。もっと近い所で良いじゃない。小牧山にだって桜はあるのよ。岐阜まで行くなら来年にしなさい。」

 「でも…佐藤先生は行けって言ってるから…」

「佐藤先生も、まさか岐阜まで行く気だなんて知らないのよ。行き先を知ったら、反対するに決まっているでしょ。今年はお父さんがお仕事忙しくて、休みも無いから難しいけど、来年なら車で送ってくれるわよ。心配なのよ、お母さん。」

 すでに大きな心配をかけてしまった私としては、これ以上反論出来なかった。光ヶ丘公園には絶対に行きたい。花見を諦めたくない。それでも、もうお母さんには心配をかけたくない。私が黙り込んでしまった事が、承諾の意味だと思われたのか、お母さんはそれ以降、この話はしなかった。

カレーを食べ終え、お皿やコップを洗っていると、お母さんが背後から私の髪を触りながら言った。

 「さくら、髪切ってあげようか?大分、伸びてきたし。」

 私は生まれてこの方、美容室にはほとんど行ったことが無い。基本的には毎回お母さんに切ってもらっている。お母さんは手先が器用で、本物の美容師さんのように上手だ。それでも学校に行かなくなってから半年、切ってもらう機会はかなり減っていた。もう三ヶ月か、四ヶ月は切っていない。

「明日、学校行くんでしょ。久しぶりに土田君に会うんだから、可愛くしないと。」

久しぶりと言っても、たっちゃんに最後に会ってから八日しか経ってない。それでも、お母さんに髪を切ってもらえるのは嬉しかったので、「うん。」とだけ答えた。

カレーを食べて、食器を洗ってから、一度自分の部屋に戻って、半年使ってなかった王子中学指定の真っ黒の長方形の形をした通学鞄に明日の時間割表に合わせて教科書を詰めた。クローゼットからセーラー服を出して、ベッドの上に置いて、汚れてないかチェックした。最後に、「人生設計書」を机の上から取り、以前たっちゃんからもらった猫と侍が描かれたクリアファイルに挟んでから鞄に入れた。そして、お母さんに呼ばれてお風呂場に行き、美容院にあるような白いクロスを身につけて、首元をマジックテープで止めた。

「ねえ、お母さん。バッサリ切っちゃおうかな。」

「バッサリってどれぐらい?」

お母さんは左手で霧吹きを使い、私の髪の毛を濡らしながら言った。右手には軽くて使いやすそうなはさみを持っている。

「う~ん、肩ぐらいまで。」

今は胸まで伸びた長い髪。気に入ってはいたが、これを機に気分一新、新しい自分として再出発したかった。一度死んで、たっちゃんが生き返らせてくれた新しい私として、会いに行きたかった。今日ですべてが変わる。明日、すべてが始まる。いや、始める。

「良いじゃない。似合うわ、きっと。」と言いながら、お母さんは肩の長さに合わせて一太刀目を入れた。ジョキという音と同時に十センチぐらいの長さの髪の毛が落ちた。

「男の子はね、女の子が急に髪をバッサリ切ると、ドキッとするのよ。土田君もドキッとするかもね。」

たっちゃんは、そんなタイプじゃないような気がする。想像してみる。何だか照れくさくて笑えてきた。

「土田君に会えて良かったね。」

突然、お母さんが言った。

「お母さんね、土田君には本当に感謝しているのよ。」

作業は止まらない。チョキチョキ、チョキチョキ。

「土田君が、さくらの笑顔を取り戻してくれた。そうでしょ?」

クロスに髪の毛を落ちてくる。パサパサ、パサパサ。

 「お母さん、さくらが学校でどんな目に合ってるのか、全然気付いてあげられなかった。そのせいで、さくらにたくさん辛い想いをさせちゃったでしょ。先生もクラスメートも絶対に許せないけど、一番許せないのは自分なの。大事な、大事なさくらを守ってあげられなかった。」

 チョキチョキ、パサパサ。

 「さくらが学校に行かなくなって、お母さん、何て声をかけてあげたら良いか分からなかった。どうすれば良いのか、自信が無くて、お父さんも全然帰ってこないし、相談も出来ないし。」

 チョキチョキ、パサパサ、ポタポタ。

 「ごめんね、さくら。ごめんね。」

 もうはさみは動いていない。切った髪の毛も落ちてこない。お母さんの目から大粒の涙が流れている。お母さんは私の頭に自分の頭をくっつけて、謝りながら泣いた。

 「もう良いよ。終わった事だし。それに私、お母さんの事、恨んだことも憎んだことも一回も無いよ。私の方こそ、ダメな娘だった。迷惑かけたし、心配かけた。でも、もう変わる。明日で、すべてが変わる。再来月にはお姉さんになるんだから、私。だから、大丈夫。大丈夫、大丈夫。」

 佐藤先生の言い方を真似てみた。佐藤先生もそう言ってくれているような気がした。お母さんも「そうね。大丈夫、大丈夫。」と言って、私の頭を撫でて、その手で大きくなったお腹を撫でた。

 「ダメなお母さんの代りに、土田君がさくらを助けてくれた。感謝しても、感謝しても、まだ足りないぐらい、土田君には感謝しているの。」

 お母さんは再びはさみで髪を切り始めた。

 「土田君に会えて良かったね。」

 私も本当にそう思う。


髪を切ってもらった後、そのままお風呂に入った。湯槽の中で明日の事を何度も何度も想像した。学校までの道のり、迎えてくれるクラスメートと先生、教室で待っているたっちゃん。不安を揉み消そうと、何度も何度も想像した。

夜、十時過ぎに入ったベッドの中でも何度も何度も不安な気持ちと戦った。電気を消して、目を閉じれば浮かんでくるのは、金色の髪の悪魔と死んだ眼の傍観者達。何時間もベッドの中で目を閉じているのに、まったく寝付けない。怖い。明日が来るのが怖い。明日ですべてが変わる、変えるという意気込みとは裏腹に、不安に押しつぶされそうになる。お腹が痛くなってきた。頭の奥が痛い。喉が乾く。呼吸が落ち着かない。結局一睡も出来ないまま、時計の針は五時を指していた。

私は一階のリビングに降りて、テレビを点けた。ニュース番組を見ながら、ソファに座った。暫くするとお母さんが起きてきて、「おはよう。やっぱり、その髪型良いね。可愛いよ。」と言ってくれた。さらにその後でお父さんも起きてきたが、私の顔を見て、一瞬驚いた顔をして、「大丈夫か?」と言ってくれたので、「うん。勿論。」と少し強がって言ってみた。「そうか。頑張ってな。」と、お父さんは笑って言ってくれた。約半年振りに家族三人で朝食を食べた。フレンチトーストと目玉焼きがテーブルの上に並んだが、結局フレンチトーストを二口食べた後、どうしても食欲が出ず、朝食を辞めた。

歯を磨いて、顔を洗って、髪を梳かした。前日にクローゼットから出しておいたセーラー服に着替え、ベッドの上に座って、時間が経つのを待った。心臓の鼓動はいつもの倍以上に早かった。喉の奥から何かが込み上げてきた。何度も吐き気に耐えながら、心を落ち着かせようとした。さらには、大人しくしていた筈の頭痛と腹痛が再び襲ってきた。それでも痛みに耐える。心が挫けそうになるのを必死で堪えた。

あっという間に出発予定時刻の七時四十分になっていた。私は一度、深呼吸をしてから立ち上がって、鞄を手に取り、玄関に向かった。階段をゆっくりゆっくりと一段ずつ降りる。玄関にはお母さんがいて、私を待っていてくれた。

「大丈夫?」

そう優しく聞いてくれたお母さんに、

「ごめん。やっぱり無理。」

 と、言いたかったが、「うん。大丈夫。」とだけ答えた。玄関の靴箱の横に置いてある木製フレームの全身が映る鏡を見る。そこには、真っ青な顔をした私がいた。

「大丈夫、大丈夫。」

鏡に映った私に、そっと伝える。

ほとんど履いた事がない、真新しい白い運動靴を履いた。振り返ると、お母さんの後ろのリビングのドアからお父さんも顔を出して、こちらを見ていた。

「いってきます。」

「いってらっしゃい。」

約半年振りのやり取りに懐かしさを覚えながら、お父さんとお母さん、そして、まだ見ぬ妹に見送られて家を出た。春の朝、暖かいけど澄んだ空気、忙しなく動く人々、どれも何年間も見ていなかったと錯覚する程、懐かしい。

私は懐かしさに向かって、一歩踏み出す。足が重い。もう一歩踏み出す。体全部が重たくて、額には早くも汗が出てきた。さらにもう一歩踏み出していく。橘家の門を出て、道路の端を歩き始めた。

ふと顔を上げて、学校までの十五分の道程を進み始めようとすると、視線の先には金色の悪魔達が立っていて、私をじっと見ていた。獲物を狩る肉食動物のように、いつ飛びかかろうか探っている。あるいは、獲物を見下して、嘲笑い、強者の余裕に浸っている。私は勇気を振り絞り、悪魔達の間をすり抜ける。悪魔の一人が耳元で囁いた。「死ねよ。」と。私は頭を振って、その言葉を消そうとした。胸を張って、通り抜ける。それでも、後ろから悪魔達が付いてきているような気がした。振り向くと、そこにはきっといる。だから、振り向かずに私は進んだ。

横断歩道を渡って、五つの自動販売機の前を通り、田圃の横を歩いて、全長五メートルほどの小さな橋を渡った。

橋の上には死んだ眼の傍観者達がいて、私を見ていた。ただ、ただ私を見ているだけだった。私の弱い心を見透かしたように、見下すように、同情するように、憐れむように、傍観者達は瞬き一つしないで私を見続けていた。苦しむ私の姿を見て、自分が人より上だと思っている。虐められる私の姿を見て、自分はまだマシだと思っている。金髪の悪魔達の事、恨んでも、恨んでも、まだ足りないぐらいだが、この傍観者達も同じぐらい嫌いだった。「消えろ。」と言った人がいた。誰だか分からなかったが、確かに聞こえた。彼らは姑息だから、安全な場所からしか攻撃しない。自分の姿を見せずに、弱いものを攻撃する。歯を食いしばって、私は橋を渡りきった。それでも傍観者達は付いてきているような気がした。振り向くと、そこにはきっといる。傍観者達も、悪魔達も。だから、振り向かずに私は進んだ。

建設中の本屋の横を進み、加藤文具店、通称カトブンの駐車場を横切る。店長であるお爺さんが掃除をしながら、手を振っていた。私も手を振り返してみる。お爺さんは顔をくしゃくしゃにして笑っていた。前の中学に通っていた時は毎朝こうやって手を振っていた事を思い出した。

周囲に中学生の姿が増えてきた。学生服を着た人物を見る度に、心臓が痛んだ。みんなの反応が怖い。「何でいるの?」「何で来たの?」そんな声が聞こえてきそうで、下を向いて歩いた。気が付けば、あの日たっちゃんと初めて出会った公園の横にいた。たっちゃんが話しかけてくれた場所、青いベンチ。そこには、一人の生徒が俯いて座っていた。

「助けて。」

青いベンチに座っている生徒は、背が低くて、大人しそうな男の子だった。よく見ると、着用している制服は王子中学校の物では無かった。その制服は、私が中学二年生の二学期まで通っていた私立中学の制服だった。その生徒を知っている。その生徒は私の人生を変えたきっかけ。後悔の最初のシーンにいる人物。忘れるはずが無い。忘れようが無い。私は彼を助けたから、虐めのターゲットになったのだ。

「僕の身代わりになってよ。」

彼は私の目を見て言った。

「でも、君は、私が助けても、その後であっちの皆と一緒になるでしょ?」

私は後ろに付いてきていたのであろう彼らの方を指す。

「僕の代りに虐められてよ。」

私は何も答えなかった。

「そして…」

彼は立ち上がり、私の前に立って言った。

「もう一度、死んでよ。」

彼の髪は金色に染まっていた。金色の悪魔達の端にいつもいた男だった。そうだ。だから、後悔したのだ。私が助けた虐められっ子は、虐めた相手のグループの仲間になる事で生き延びたのだ。私が服をはぎ取られ、裸の写真を撮られた時、最も怖かったのは、何かを企んでいたのであろう彼の眼だった。

両目から大粒の涙が絶え間なく溢れた。体中に鳥肌が立った。寒い。膝ががくがくと震え、立っていられない。もうダメだと思った。

「俺、さくら大切だからさ。」

突然、耳の奥で、いや心の奥で聞こえたその声は、涙も、膝の震えも止めた。考え方が子供で、天然で、無鉄砲で、前向きで、話が上手で、絵が上手くて、優しい、そんな私のヒーローの声だった。ここにはいない彼の言葉は、私の心の奥に残っているのだ。そうだ、私はもう一人じゃない。もし、もう一度虐められたとしても、きっと結果は違うと思う。いや、間違いなく違う。

私は目の前の彼に向かって言う。

「私はまた、君を助けるよ。だから…」

金色の髪の隙間から、彼の表情が見えた。私のヒーローの顔に見えた。

「君も誰かを助けてあげて。」



   6


私の挑戦は失敗に終わった。

学校へ行こうと家を出た筈だったのだが、辿り着いたのは前回と同じ公園だった。金髪の悪魔、死んだ眼の傍観者、そして、あの日の彼。様々な幻に心身ともに疲れきってしまった私は、公園の青いベンチの上で意識を失った。らしい。公園で倒れている所を、巡回中のお巡りさんに保護され、病院まで送り届けてもらったのだ。 

結局、過度の緊張や疲れ、食事を摂っていなかったのもあり、体調を崩してしまった私は二日間も寝込んでしまった。そして、学校へ通えないまま、四連休を迎えた。

お母さんもお父さんも落胆した様子も見せず、表面上は明るく接してくれた。学校の話題は一切出さなかった。佐藤先生はすぐにお見舞いに来てくれた。「無理しなくて良い。自分のペースで良い。大丈夫、大丈夫。」と言ってくれた。

でも実は、私はそんなに落ち込んではいなかった。確かに挑戦は失敗に終わった。それでも心の中は晴れやかだった。四連休の後、私は学校へ行く。不安は特に無く、根拠は無いが、今度は間違いなく行けると思っていた。あの日、私は過去の後悔に打ち勝った。そう確信している自分がいた。

ベランダの窓がノックされたのは、そんな四連休の初日、そろそろ眠ろうとしていた夜の十二時前だった。

「ずっと、校門で待っていたんだけどな。俺。」

パジャマ姿で、突然の登場に驚いている私に向かって、たっちゃんはそう言った。私はたっちゃんが来てくれた事が嬉しくて、すぐにベッドから飛び起きて、窓を開けた。たっちゃんは部屋には入らず、ベランダから話す。私はたっちゃんの顔を見た一瞬の内に涙腺が壊れた。

 「たっちゃん、私、私…」

 伝えたい事、ある筈なのに言葉にならない。

 「良いんだ。ちゃんと分かってるからさ。よく頑張ったよ。」

 たっちゃんは私の眼を真っ直ぐ見ながら話しかける。一瞬も眼を逸らさずに。

 「五月五日、誕生日だよな。」

覚えていてくれた事に驚いた。嬉しかった。

 「さくらの誕生日をお祝いしたいんだ。」

 私は頷く。

「五月四日の夜中の零時に迎えに来るよ。だから…」

私はもう一度頷く。

「花見に行こう。二人で。」

私は何度も頷く。

 五月の風が窓から入ってくる。涼しくて、気持ち良い。

 「さくらに言いたい事、いっぱいあるんだ。」

 うん。

 「花見の時に言うからさ。」

 うん、うん。

 「だから、そんなに泣くな。」

 「無理だよ。」

 私の両目からは大粒の涙が絶え間なく流れていた。たっちゃんに会えた事やたっちゃんの優しさが嬉しくて、もう彼の表情が涙で見えない程であった。

 私達を穏やかで暖かな空気が包んでいた。その後、言葉は無くても、優しい時間が流れていた。再び風が吹いて、暫くして風が止んだ時に、たっちゃんはニコッと笑って、「じゃあ、明後日」と言って帰っていった。

たっちゃんが久しぶりにベランダに現れた翌日、私の家に佐々木詩織ちゃんことしーちゃんが来てくれた。一緒にテレビを見ながら、お茶を飲んで、いろんな話をした。夜、そろそろ帰ろうかなと立ち上がったしーちゃんは、四連休明けの月曜日の朝、迎えに来ようかと提案してくれたが、私は丁重に断った。しーちゃんは目を丸くして、「なんで?」と言ったので、

 「大丈夫だから。教室で待ってて。」

 とだけ答えておいた。

 五月四日。四連休の三日目。その日は朝からお母さんと買い物に出掛けた。駅前に新しく出来た大型スーパーへ行き、お母さんは妊婦用の洋服を買って、それから明日の私の誕生日用にケーキを予約してくれた。食料品売り場で買い物用のカートを押しながら、「明日の誕生日会は何が食べたい?」と聞かれたので、「カレー。」と答えたら、「それ、一番得意な料理。」とお母さんは笑った。

 食料品を買った後、私は文房具売り場へ移動し、「書きやすくて疲れにくい」というキャッチコピーが書いてあるシャープペンシルを買った。黄色で、可愛いカバの絵が書いてある、五百円もする品物だった。店員さんに頼み、それをプレゼント用に梱包してもらった。

 家に帰ってから、プレゼント用に梱包したシャープペンシルと立志式の宿題である自分史と人生設計書を用意し、肩から斜めに掛けられるブラウンの小さなバックに入れた。白いワンピースとベージュのカーディガンをクローゼットから取り出し、カーテンのレールに吊るした。夜に備えて二時間程昼寝をした。

 夕食にはハンバーグとサラダを食べて、お風呂に入ってパジャマに着替え、自分の部屋に戻ってから再びワンピースに着替えた。お父さんが帰ってきて、二人が寝室に入ったのを確認してから、一階へ降りて、玄関の靴箱からお気に入りの黒のパンプスを取り出し、二階のベランダに運んだ。

お母さんが寝てから出発して、お母さんが起きる前に帰って来れば良い。そう思ったので、お母さんには何も言わなかった。花見は駄目だと言われていたが、今回だけはどうしても行きたかった。どうしても、たっちゃんに伝えたい事があった。

 時計の針は夜の十二時を指した。

 窓を開けて、黒のパンプスを履いてベランダに出た。辺りを見渡すと、丁度のその時、家の前に黄色の自転車に乗ったたっちゃんが到着した。たっちゃんは手を挙げて合図をしてくれたので、私も手を振り返した。

 私はベランダの柵に登って、柵を跨いだ。ゆっくりと、音が鳴らないように細心の注意を払いながら、ベランダから物置の天井に降りた。さらに物置から、庭を囲んでいる塀に降りてから、地面に着地した。そして、家の前に向かった。

 「いつもの俺とは逆だな。あれじゃ不審者だ。」とたっちゃんが笑っていたので、私も釣られて笑ってしまった。

 「おまたせ。行こうか。」

 私はたっちゃんの黄色の自転車の荷台に跨った。

 「さくら。マジか。そうじゃなくてさ、横向きだろ。二人乗りの時は。」

 「横向き?ああいう乗り方、慣れてないから怖いんですけど…」と言いながら、たっちゃんは意見を曲げるつもりは無さそうなので、私は彼の言う事に従い、荷台に横向きに足を揃えて座った。漫画「桜ライダー」の主人公とヒロインもこのような乗り方で花見へ行った。

「よし、行くか。光ヶ丘公園。」

 たっちゃんはそう言って、自転車を前に進めた。五月の夜は風が涼しくて、気持ち良かった。自転車は軽やかに進む。

横断歩道を渡って、五つの自動販売機の前を通り、田圃の横を進んで、全長五メートルほどの小さな橋を渡った。さらに、建設中の本屋の横を進み、加藤文具店、通称カトブンの駐車場を横切る。当然、シャッターは閉じていた。

 「朝までに帰って来られるかな?」

 「大丈夫さ。きっと。」

 「お母さんが起きる前に帰らないと、怒られちゃうんだ。」

 「最悪、一緒に謝ってやるよ。」

 「満開かな?桜。楽しみだね。」

 「おう。願い事、考えてきたか?」

 「勿論。たっちゃんは?」

 「決まっているさ。俺の願い事は。」

 私達が出会った公園の横を通り、王子中学校も正門が見えてきた。あんなに遠くて、届かなかった学校がこんなに近いなんて。何だか不思議な気分だった。学校を前にして、私達は一瞬言葉を失った。様々な想いが胸を過る。あの場所には、恐怖も、残酷も、優しさも、尊敬もある。不思議な空間だ。それでも、今は早くあの場所に戻りたい。私は運転手の暖かい背中にもたれかかった。

 そのまま、黄色の自転車は駅前の商店街を超えて、小牧山の麓を通り、墓地を横目に北へ向かう。徐々に、たっちゃんの背中が熱くなり、呼吸が荒くなる。

 「たっちゃん、大丈夫?休憩する?」

 「いや、まだ大丈夫。行ける所まで行く。」

 「うん。わかった。でも無理しないでね。疲れたら変わるからね。」

 「いいよ。俺が連れていくって約束したんだから。後ろに座っててよ。」

「そんな。悪いよ。」

「俺が連れて行きたいんだ。」

 それ以上、反論するのを辞めた。

 「ありがとう。」

 「かまわん。」

 そのまま、国道沿いを走り始めた。十二時を過ぎているというのに、車の交通量は多く、その騒音は会話に支障をきたした。

 「連れてってくれる事だけじゃなくて。」

 「うん?」

 「たっちゃんへの恩は、私死んでも忘れない。死んでも感謝の気持ちは忘れない。」

 「何?聞こえない。」

 「明後日、学校行くからね。教室で待っててね。」

 少しの間の後で、「おう。待ってるよ。」とたっちゃんは言った。いや、叫んだ。

 いっぱい喋りたい事があった。私が学校に行きやすいように、クラスメートに声をかけてくれた。私を元気にしようと、毎日会いに来てくれた。私の事、大切だって言ってくれた。感謝しても、感謝しても足りない。そんな気持ちをどう伝えたら良いのか分からず、

 「出会ってくれて、ありがとう。」

 とだけ伝えた。

 「何て?」

 と、たっちゃんは言っていた。聞こえてなかったのかもしれないし、彼なりの照れ隠しかもしれない。どちらでも良い。それでも、これからも気持ちを伝えよう。学校で、修学旅行で、文化祭で、家で、高校で、大学で、会社で。

 こんなにも誰かに感謝できて、こんなにも誰かを大切に思う事が出来るのなら、人生もそんなに悪くない。死んでも、また生まれ変わって、また誰かに恋を出来るのであれば、輪廻転生も悪くない、今ではそう思う。

 やがて国道から小さな脇道に入り、川沿いの道に出た。川の流れを見ながら、軽やかに進む。再び、国道と交わる為、川沿いの道は下り坂となり、一切減速しないで、国道の下のトンネルに入った。真っ暗なトンネルを抜ける。トンネルを抜けた瞬間、私の背中から眩しすぎる光が差した。あまりの眩しさに振り返ったが、何も見えなかった。

 その光が、車のヘッドライトだと気が付いたのは、意識が途切れる直前だった。


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