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鈴原 咲


   1


 年齢を誤魔化してスナックでアルバイトをしていた中学生の私は、性別を誤魔化して来店した男性教師と遭遇してしまった。

大人の格好をした子供と女性の格好をした男性は、目が合った瞬間に固まった。東海地区最大の繁華街である錦、その外れにある九階建てのレンガ模様のビルの四階、「スナック彩」の真っ赤なドアの前、そこだけ時間が止まっていた。ドアに備え付けた鈴だけが動き、その淡白な音だけが店内に鳴り響いていた。

真っ赤な口紅とつけまつ毛をつけて、眼鏡を外してコンタクトにして、さらさらの黒のロングヘアーの鬘をかぶってみても、わかる人にはわかる。いくら大人ぶってみても、このまま結婚式の披露宴に参加できそうな白いワンピースに身を包んで外見を取り繕ったとしても、中身はどこにでもいるような普通の中学生である。スナックに来る客に対しては童顔の二十二歳で通用したが、ほぼ毎日通っている学校の先生にはわかるようだ。

そして、それはこちらも同じ。真っ赤なハイヒールを履いて、紺色のタイトスカートと真っ赤なセーターを身に付け、小麦色のウェーブがかかったセミロングの鬘をかぶってみても、わかる人にはわかる。髭を入念に剃ってみても、ファンデーションをたっぷり塗りたくっても、中身は中年男性教師である。そのゴツゴツとした体格は隠しようがない。

何十分にも感じる数秒が経過した頃、彼女の、いや彼の口がパクパクと動く。餌を欲しがる鯉のような動きに笑いそうになるが、グッと堪える。

「こんな所で何をやっているのだ」とか「誰にも言うな」とか、何て言ってくるのか不安だったが、女装して街に繰り出した姿を教え子に見られた男性教師が最初に言う言葉は意外な言葉だった。

「げ、げ、げ、元気ですか?」

「いやいや、あんた程じゃないよ」と言いたかったが再びグッと堪えた。同級生に比べて、自分は活発な方だと思うが、女装してスナックへと繰り出す中年の男性教師に比べたら、私なんて意の中の蛙である。

とりあえず、首を縦に振ろうとしたが、体がスムーズに動かなかった。極度の緊張からか、こんなにぎこちなく頷いたのは初めてだった。

 「そ、そ、そ、そうですか。それなら良いです。きょ、きょ、きょ、今日は満席のようですね。また今度にしましょう。」

 女装した事を忘れているかのような、完全に普段通りの口調で目を合わさずに男性教師は言い切った後、こちらの反応を待たずに店を出て行った。真っ赤なドアが閉じると鈴の音だけが店内に響き渡った。その音を聞き、彩さんが店の奥から顔を出した。

 「咲ちゃん、お客さんはどうしたの?帰っちゃった?」

 「満席だから帰るって言ってました。」

 「満席?嘘でしょ?ガラガラじゃん。まだ十人は座れるけど?」

 「…ですよね。でも、帰っちゃいました。」

 彩さんは残念そうな顔はしていたが、せっかく店に来たのにすぐにお客さんが帰った理由については、特に疑問に思ってなさそうだった。

彩さんとは「スナック彩」の店長であり、お客さんからは「ママ」と呼ばれている。三十歳の時に店をオープンしてから九年間、ずっと律子さんという友人と二人で続けてきたそうだ。彩さんは明るく元気で大雑把な性格で、細かい事はあまり気にしない。話題も豊富でノリが良く、カラオケも古い曲から最新の曲まで幅広く知っていて、歌も上手い。そして、いつもお客さんと大きな口を開けて「ガハハ」と笑いながら話をしている。煙草を吸いながら、お酒をクイッと簡単に飲み干す姿は、格好良い大人の姿に見えて、私は憧れていた。彩さんは今まで私の周りには居なかったタイプの大人だった。

 その日、店の中にはお客さんが三人いた。一人はいつも会社帰りに寄ってくれる前田さん。年齢は四十代、職業は某食品メーカーの商品開発をしているそうだ。店に来てもあまり喋らないし、カラオケもまったく歌わない。いつも決まったお酒を、決まった飲み方で、決まった量を飲む。ほぼ毎日来るので、私は勝手に前田さんは彩さんに恋をしていると思っている。残る二人のお客さんは初めて見る顔だ。おそらく年齢は三十代、身につけている作業着は元々ベージュと思われるが、油で汚れ、黒と茶色が混ざり奇抜なデザインとなっていた。彼らの汗が染み込んだ上着をハンガーにかける為、入口の横のクローゼットへ行った瞬間、女装した教師が入ってきたのだった。私はお客さんの上着をハンガーにかけて、カウンターに戻った。

普段の接客は、お客さんと一緒にカラオケを歌い、お酒を奨められたら、焼酎の水割りを作っているように見せかけて、水の水割りを作って飲む。ようするにただの水を飲んでいるだけだ。その後は世間話に花を咲かせ、仕事に疲れたおじさん達の愚痴を聞いてあげる。カラオケは好きだし、おじさん達の話は面白かった。そして、給料まで貰える。何より自分が大人になったみたいで、楽しかった。春休み限定で始めたアルバイトだけど、できるならもっと長く続けたかった。自分の通う中学の教師に見られた今となっては、それは難しいだろうけど。

 「あの、彩さん。スナックって女の人も来るんですか?」

 「え?まあ、たまにね。上司に連れられてとか、男の人と一緒に来ることはあるよ。さっきのお客さん?」

彩さんはカウンターで前田さん用にお酒を作りながら、答えてくれた。

 「はい。その、女性というか。何というか。」

 「ああ、女装していたの?」

 あまりにあっさりと答える彩さんに釣られて、私もつい「そうなんですよ!」と、思わず大きな声が出てしまった。彩さんはそれを聞いて、いつものように大きな口を開けて「ガハハハハ」と笑った。

「え?え?」と困惑している私に、彩さんに恋していると思われる前田さんが代わりに説明してくれた。

 「咲ちゃん、このビルの上の階にね、女装専門の化粧をしてくれるお店があるんだよ。そこで、変な趣味を持ったおじさん達が女装するのだけど、綺麗になれた人は外に出て、誰かに見てもらいたくなるのだよ。だから、この下の階にあるスナックに来るのさ。」

 前田さんの説明に、ようやく笑いが落ち着いた彩さんが補足する。

「うちの店は、男も女も関係なく、みんなで楽しく飲める空間っていうのを目標にしているからさ。だから、上の階にある化粧屋に、女装したおじさんがどっか行きたいって言ったら、うちの店を勧めてもらうようにお願いしてあるの。だから、女装したおじさんが来店しても、驚いたりしちゃ駄目よ。他のお客様と一緒だからね。」

 直接聞いた事は無いが、おそらく彩さんの血液型はO型だと思う。行き当たりばったりで、大雑把な性格だからだ。女装のお客さんが来ることなんて、アルバイトを始めてから一週間が経った今日、初めて聞いた。そういうのは前もって言ってもらわないと。まあ、先程の男性教師に対しては、他のお客さんと同じ対応をしたところで、結果は変わらなかったと思うけど。

 「咲ちゃん、そろそろ帰らないと。」

 彩さんに言われて、壁にかけられた時計を見るとすでに二十一時を過ぎていた。

 「げげ。やばっ。」

 女装した男性教師のインパクトが強過ぎて、時間を忘れてしまっていた。

 「片付けは良いから、早く支度しなさい。もうすぐ、りっちゃんも来るから。」

 彩さんが言う「りっちゃん」というのは、彩さんの友人の律子さんのことだ。普段は錦にある花屋で働いており、深夜だけ手伝いに来るらしい。私自身はまだ会ったことが無い。

 「おやすみなさい。」

 「おやすみ。」と、彩さんだけでは無く、前田さんも一緒に言ってくれた。私はいつも店での仕事を終えると鬘を付けたまま、鞄だけを手に店の外へ出る。鬘を外したり、化粧を落としたりすると、ただの中学生に戻ってしまう。中学生が夜の錦を歩いていたら、間違いなく警察に補導される。家に帰るまでは年齢を誤魔化したままだ。家に帰るまでが、アルバイト。いつも慎重に帰宅する。

 内側は真っ赤だが、外から見ると真っ黒で四角いドアをゆっくりと閉めると、偶然向かいのスナックの扉も開いた。「メンバーズ詩織」の店長である詩織ママがお客さんの男性を見送る為に店から出てきたのだ。「スナック彩」があるフロアにはスナックが三店ある。「スナック彩」、「スナック夢」そして「メンバーズ詩織」だ。たまに、挨拶を交わすぐらいで、目立った交流は無い。

詩織ママは私を睨みながら、客をエレベーターへ案内していた。私はその詩織ママの睨みによって動けなくなりエレベーターには乗れず、詩織ママのお客さんが降りてから、もう一度エレベーターを呼んだ。

 「ごめんなさいね。」と、どこから声が出ているのかわからないぐらい高い声で、そして高圧的な言い方で詩織ママは言った。詩織ママは、彩さんとは違ったタイプの大人の女性で、どこか妖艶で美しい大人の女性だった。身につけているドレスは深い青でキラキラしている。

 「あなた、新人さん?あまり見ないけど。」

 「先週からです。」

 「そう。随分若いわね。」

 私はドキッとして、慌てて答えた。

 「そ、そ、そ、そうですか?こ、こ、こ、これでも二十二歳ですけど…」

 「あら、そうなの?てっきり未成年かと思ったわ。」

 「あ、あ、ああ、よく言われます。童顔なんで。ハハハ。では、失礼します。」

 エレベーターを待ちきれず、私は階段を使って下まで駆け下りた。おじさん達の目は騙せても、夜の女の目は騙せない。私は焦った。このビルを離れたら誤魔化せると思って、とにかく急いでビルを出て、栄の駅へ向かって歩き始めた。途中、酔っ払ったサラリーマンに声をかけられたが、無視して歩いていたら、気付かない内にどこかへ行ってしまった。駅ではホストに誘われたが、無視していたら、気付かない内にどこかへ行ってしまっていた。電車を乗り継ぎ、五十分程かけて家に帰った。

帰り道、女装した男性教師の顔が頭から離れなかった。笑えてくるのと同時に、アルバイトがバレたことで生まれた不安もあった。私がスナックでアルバイトをしている事が公になったら、彩さんの店は無くなるだろう。未成年である私を雇っているのだから。

 そもそも、スナックでのアルバイトは私からお願いしたのだ。中学二年の三学期が終わり、三年生になるまでの短い春休みの間、お母さんが出張でタイへ行く事が決まり、一人で二週間を過ごす事が決まった。彼氏に言ったら、「じゃあ、毎日泊まりに行くよ」って言っていたが、下心が丸見えだったし、せっかくの機会だから普段できない事をやってみたかった。夜遅くなっても、親に怒られない。親には話せない事をやってみたかった。大人がやっている事をしたかった。

そこで駅前のダンス教室で知り合い、某俳優の話題で意気投合し仲良くなった彩さんに相談すると、「試しにうちの店で働いてみる?」と提案してくれた。最初はスナックだとは知らず、普通の居酒屋だと思っていた。勿論、社会勉強の為に未成年を雇うのだから、条件はある。一つは二十二時までには必ず家に帰るという事と、お酒は一滴も飲まないという事。そして、途中で投げ出さないという条件だ。

私は一日悩んだ末、その条件を飲んで二週間限定で雇ってもらった。交通費が出るなら給料はいらないと言ったが、彩さんはちゃんと払うから、必ず受け取りなさいと言った。働いて、お金を稼ぐことを学びなさいとも言っていた。私は働く事で大人に近付けると思っていたし、早く大人になりたかった。そして、その結果、男性教師と遭遇し、とても後悔する事となった。

私が遭遇した男性教師は数学を担当している佐藤という教師で、三年生の学年主任の先生だった。確か吹奏楽部の顧問もしているのだが、私は授業でも部活でも関わりは無かった。それでも彼が有名なのは若い頃の武勇伝の数々があるからだ。学生時代はラグビー部のキャプテンを務め、全国大会にも出場した事があるそうだ。ラグビーで鍛えた屈強な体と運動神経で、生徒達から恐れられていた。当時、他の中学の不良少年達から最も恐れられていた我が中学の番長ですら、佐藤の前では土下座をしたらしい。他にも、ヤクザの組長が佐藤には敬語を使うとか、竹刀一本で暴走族を壊滅に追いやったとか、彼に関する噂は多々ある。すでに年齢は五十歳手前となり、怒った所など見たことが無い。だが、逆にそれが怖い。彼が怒るとどうなるのか、知らないから怖いのだ。

私は佐藤先生の事を考えながら、電車で帰った。春休み明けの始業式の日、おそらく呼び出されるだろう。どんなに怒られるのか、それが怖かった。佐藤先生の姿が頭から離れなかった。怖い。怖いのだが、かなり笑えてくる。周りの乗客が私の顔を不思議そうに見ていた。駄目だ。我慢すればするほど笑えてくる。怖がりながら、笑った。



   2


 私が生まれた年は記録的な異常気象だったらしい。

梅雨が異常に長かったり、夏の最高気温が各地で四十度を超えたり、初雪が異常に早かったりと、観測史上の記録は大概その年に更新された。私が住んでいる東海地方では桜の開花にも影響がでた。毎年四月初旬に満開となっていた桜は、その年は五月の初旬に一ヶ月遅れで満開を迎えた。

 何故その年だけ開花が遅れたのか、何故東海地方だけ開花が遅れたのか、私には分からないが、当時の人に話を聞くと、その年の桜は例年以上に美しく咲いたそうだ。その美しさに人々は魅了され、過去最多の花見客が訪れたらしい。その影響は、その年の桜を見ていない者達へも及び、私の同級生には「美桜」とか「桜子」とか桜に因んだ名前の生徒が多かった。

 私の両親も同じで、生まれてくる私に対して当初は別の名前を用意してくれていたそうだが、遅咲きの桜の影響を受け、「咲」という名前に変更したそうだ。桜とか花に因んだ名前など付けて欲しくは無かったが、長い梅雨の最中である六月二十三日生まれの私としては、雨に因んだ名前を付けられるよりは百倍良かった。いや「雨」って名前にしていたら一生恨んでやるところだった。

真面目な父、料理が上手な母、そして優しい姉。どこにでもありそうな平凡で幸せな家庭が、私を迎える筈だったのだが、十五年が経つ頃には大きな一戸建てには、私と母の二人しかいなかった。お父さんは埼玉へ単身赴任し、そこで知り合った女と不倫をした末に離婚。その後、お母さんは産休を消化した後、勤めていた会社に再び働きに出て、女手一つで私を育ててくれた。

お母さんは国立の大学出身で、元々要領が良くて賢い人だったらしく、会社では順調に業績を上げ、女性の社員としては異例の出世をした。おかげで家にはほとんどおらず、授業参観や運動会に来てくれる事など一度も無かった。毎週土曜日と日曜日の夕食は必ず一緒に食べる事と毎日必ずメールか電話でその日の出来事を報告する事が私とお母さんの約束だった。だから、私は早く大人になりたかった。忙しい母に楽をさせる為に早く働きたかった。

ちなみに、スナックでアルバイトした理由はそれだけでは無い。どちらかというと、その理由は姉にある。お母さんは、私に対して怒る時や説明する時、褒める時ですら必ず姉を引き合いに出した。お姉ちゃんならこうだった、お姉ちゃんなら違った、お姉ちゃんみたいに上手に出来たと、私はいつも姉と比べられていた。私は私だ。姉と比べられるのなんて嫌だった。だから、姉が出来ない事をやりたかった。姉はアルバイトをした事が無い。姉より先に働けば、姉より早く大人になれると思い、彩さんにお願いをして、春休み中は毎日アルバイトに励んだ。

アルバイト期間中、常連の前田さんは毎日店を訪れた。アルバイト最後の日、前田さんは私に高そうなワインをプレゼントしてくれた。未成年だと言えず、生まれて初めてお酒を飲んだのだが、まったく美味しくなかった。大人はどうしてあんなに不味い飲み物を、あんなに美味しそうに飲むのだろうか不思議だった。他にも仕事帰りのサラリーマン達が何組も訪れ、それぞれの愚痴をこぼして、それぞれストレスを発散させていった。

途中、一人だけ女装した男の人が店を訪れたのだが、その人はどう見ても女性で、本当に綺麗だった。佐藤先生とは大違いだった。

最後の日の仕事を終えて店を出る時、彩さんは「また、夏休みにおいで」と言ってくれたが、お母さんが家にいるので難しいという事を説明すると、「じゃあ、二十歳になったらおいで。」と言った。「と、言うか…来週のダンス教室で会えるか」と笑った。

ちなみに、あの日以降佐藤先生が店を訪れる事は無かった。

 そして、短い春休みは終わり、私は三年生に進級した。早く大人にはなりたかったが、この日だけはどうしても迎えたくなかった。私は昨日の夜から、いや正確には女装した佐藤先生が来店した夜から、彼女、いや彼からの呼び出しに怯えていた。

 いつもより早く目覚めた私はセーラー服に着替え、去年の誕生日に母からプレゼントしてもらった赤いフレームの眼鏡をかけてテーブルの前に座った。いつも通り、朝食にトーストと牛乳を用意したのだが、心配事で胸が一杯な私には食欲など無く、手が付けられずに十五分が経過していた。どうしても食べられなかったので、上からサランラップをかけてテーブルの上に置いておいた。昨日夜遅くに帰国し、まだ寝室で寝ている母が起きたら食べるだろう、多分。食べといてくれたらいいなという自己中心的な願望を込めて、テーブルに置いておいた。私は姉より気配りが出来るから、母の朝食を用意してから学校へ行くのだ。そういう事にしておこう。

テレビでは、下手なアイドルよりもよっぽど美人な女子アナウンサーが、東京都の花見の様子について特集をしていた。三月末に開花した桜は、四月に入りに満開を迎えていたのだが、女子アナウンサーによると、今年の桜の見頃は短く、今週末の雨で花を散らすのではないかと予想していた。桜や花に因んだ名前を付けられたが、桜が好きという事では無い。むしろ、花には興味が無い。女子アナウンサーの小麦色のセミロングが、女装した佐藤先生を連想させ、余計に憂鬱になった。

 洗面所で入念に歯を磨いて、小麦色の髪を丹念に櫛で梳かした。去年の秋、憧れの大学生への失恋をきっかけにバッサリと切った髪は、ようやく肩まで伸びてきた。

 時刻が七時四十分となった瞬間、家のチャイムが鳴った。親友の倉橋優奈が迎えに来てくれたのだ。小学生の時からずっと、優奈は必ず七時四十分にチャイムを鳴らしてくれる。まるで、時間になるのを玄関の前でずっと待っているのではないかと思う程、時間には正確だった。私は鞄を持ち、慌てて玄関をでた。

 「おはよう。咲、どうしたの?暗い顔して。」

 「おはよう。最悪なのよ。本当。」

 学校へ向かって歩きながら、私は春休み中の出来事を優奈に話した。優奈は笑って、驚いて、そしてドン引きしていた。学校までの十五分間、私は一方的に喋り続けた。

優奈とは幼稚園で知り合い、家も近所ですぐに仲良くなった。優奈は大人しくて、聞き上手で、その上頭の回転が早くて賢い、とても女の子らしい女の子だった。もし私が男だったら、優奈と付き合いたい。ただ一つ、残念なのは優奈が非常に面食いだという点だ。彼女から見て、男というのは性格がどんなに良くても、不細工ならば意味が無いそうだ。部屋には男性アイドルのポスターが何十枚と貼ってあり、テレビの向こうのアイドルに恋をしている。お小遣いの殆どが、アイドルのコンサートのチケット代やグッズ代に費やされている。批判するつもりは無いが、共感は出来なかった。

優奈が佐藤先生に対して嫌悪感を抱き、半径三メートル以内には近寄りたくないと思い始めた頃、学校に到着した。

正門から入るとすぐ右手には体育館があり、体育館のさらに奥にはプールや武道館が並んでいる。左手には運動場が広がっており、その端にはテニスコートが三面あった。正門から真っ直ぐ進むと、先生達の駐車場があり、その先には北校舎があるのだが、北校舎には教職員用の玄関しかない為、私達は南校舎の昇降口まで周らないといけないのだ。私はいつもそれが不満だった。正門から一番近くに教職員用の玄関を置くなんて、この学校の設計をした人は、随分先生に甘かったのだと思う。何故、二、三十人の教職員が楽をし、五、六百人の生徒が余分に歩かないといけないのか。

南校舎の昇降口に到着すると、そこには数名の教師が立っており、通学してきた生徒達に元気に挨拶をしていた。体育の足立先生、英語の山端先生、国語の長谷川先生、社会の竹原先生、そして数学の佐藤先生。今日は女装をしていなかった。当然か。紺色のスーツにベージュのネクタイを身に付けていた。そして女装した佐藤先生を思い出し、笑いそうになる。横を見ると、優奈も笑うのを必死で堪えていた。

私と優奈は下を向き、佐藤先生とは目を合わさないようにして自分の下駄箱へ向かった。上履きに履き替えると、その先にはクラス発表と書かれた紙が窓に大きく貼られていた。同級生達が皆、その用紙から自分や友人の名前を探しては一喜一憂している。私達も自分の名前を探してみる。私はすぐに見つけられなかったのだが、その代わりに優奈が見つけてくれた。

「あ、あった。咲、同じクラスだよ。ほら、三年一組。」

「え?嘘?あ、本当だ。あった。やったー。」

「良かったー。良かったね、咲。」

優奈に教えてもらい、自分の名前を発見した私は優奈と抱き合って喜んだ。中学生になってから、優奈と同じクラスになるのは初めてだった。何といっても今年は修学旅行がある。楽しい一年が始まる。そう思っていた。

「あ…」と言う声を発した後、優奈の表情が曇った。「何?どうしたの?」と何も考えずに聞いた。聞いた直後、嫌な予感がした。

「一組の担任、佐藤先生だって。」

「………。」

絶句。

人間、本当にショックを受けた時は言葉もでない。

 私は放心状態で優奈に介護してもらいながら南校舎の三階にある三年一組の教室を目指した。教室に入り、自分の席に座ると、暫くしてチャイムが鳴り、佐藤先生が入ってきた。私は下を向いたまま、机の木目だけを見ていた。怖くて、しかし笑えてくる為、佐藤先生の目が見られなかった。

 「おはようございます。」と佐藤先生が言うと、クラスメートが大きな声で挨拶を返す。

 「皆さん元気ですね。三年一組の担任になった佐藤です。一年間、宜しくお願いします。部活や委員会で関わった事がある人もいますが、初めての人もいますので、簡単に自己紹介をしましょうか。担当教科は数学、部活は吹奏楽、委員会は放送委員です。運動が好きで、学生時代はラグビー部に所属していました。趣味はジョ…」

 「女装です。」とでも言うのかと思い、私は顔を上げて佐藤先生の方を見てしまった。佐藤先生は顔を上げた私に気付き不気味に笑った。私はゾッとして再び下を向き、机の木目を見る。

 「…ギングです。ジョギング以外では読書も好きですね。まあ、こんなところでしょうか。今年は高校受験や就職活動もあって大変な一年になると思いますが、修学旅行や立志式など楽しいイベントもたくさんありますので、皆さんと一緒にたくさんの思い出を作りたいと思います。」

 数々の武勇伝を持ち、生徒から恐れられているというのに、口調は丁寧。そのギャップが佐藤先生をより一層怖くみせている気がする。

 「鈴原さん、大丈夫?汗がすごいけど。」

 隣の席に座った名前も知らない男子が話しかけてきた。「おまえ誰だよ。ほっといてよ。」と思いながらも「ありがと。大丈夫。」と答えた。私は極度の緊張状態となり、春だというのに顔から頭から大量の汗が吹き出していたのだ。

「咲。これ使って。」と前の席に座っている優奈が、クマの絵が書いてあるハンドタオルを差し出してくれた。私はそのハンドタオルを使い、汗を拭いながら、神様に感謝していた。私の学校ではあいうえお順に出席番号が付けられるのだが、その順番は男女が混合となっている。出席番号一番は赤井君、二番は稲垣さん、三番は内田君、というように男と女も入り混じって出席番号を付ける。そして、その出席番号順に座席は決められており、教室には机が一列に五つ、それが六列、合計三十人分の机が並んでいる。出席番号十五番の私、鈴原咲は三列目の一番後ろの席になる。そして、私の前の席には出席番号十四番の倉橋優奈がいる。

本来であれば、「く」と「す」が順番になる筈が無い。倉橋の「く」と鈴原の「す」の間には、日本で最も多い苗字である「佐藤」や「鈴木」という大きな壁があるからだ。しかし、このクラスには「佐藤」も「鈴木」も、ましてや「近藤」も「佐々木」も「小林」もいない。奇跡だ。優奈と同じ班になれるし、毎日一緒にいられる。それだけが救いだった。

 「じゃあ、さっそくですが始業式が始まりますので、体育館に移動しましょう。」

 ああ、そうか。このクラス、「佐藤」がいたわ。

 佐藤先生の指示に従い、クラス全員が教室から出て体育館へ向かった。私も優奈と一緒に歩き始めた。

 「鈴原さん。放課後、指導室に来なさい。」

 真後ろから聞こえたその声は、先程までの柔らかな声色では無かった。私は振り返ることも出来ず、とりあえず、首を縦に振ろうとしたが、体がスムーズに動かなかった。極度の緊張からか、こんなにぎこちなく頷いたのは初めてだった。いや、二度目か。そして、再び、優奈に介護されながら体育館へ向かって歩き出した。

 「鈴原さん、大丈夫?すごい汗かいているけど。」と、教室では隣の席に座っていた名前も知らない男子が私を追い抜きながら言ったので、「おまえ誰だよ。ほっといてよ。」と思いながら、「ありがと。大丈夫。」と答えるつもりだったが、「お前誰だよ。ほっといてよ。」と言ってしまった。名前も知らない男子が驚いて、顔が固まっていたので、優奈が必死で誤魔化そうとしていたが、もう遅かった。ごめん、名前も知らない君。

 始業式のことは覚えていない。気が付いたら終わっていた。

そして、その日のホームルームのことも覚えていない。気が付いたら終わっていた。

 放課後、といっても今日は始業式があった為、授業は無くまだ昼の十二時にもなってなかった。私は優奈に付き添ってもらい処刑場、いや指導室へ来た。

指導室は四階建ての南校舎の四階の一番奥にあった。その雰囲気は独特で、ここに来ると過去の悪事を暴かれる気がして、極力近付かないようにしていた。勿論、過去に悪事など働いた事など無いが、この場所で問い詰められると、悪い事をやってなくても、「やった」と言ってしまいそうだ。指導室の扉の前、立ったまま動けずにいると、優奈が「頑張れ」と声に出さずに口だけ動かした。私は勇気を振り絞って、扉をノックする。

 「失礼します。」と言って、指導室の扉を開けるとそこには机が二つ並んで置いてあり、その横には本棚が二つ置いてある。そして何故かカーテンは閉め切ったままだった。薄暗い部屋の中、佐藤先生は一人で椅子に座っていた。

 「入りなさい。」

 私は一歩だけ進み、指導室へ入った。私は立ったまま、何も言えずにいた。

 「扉を閉めてください。」

 「は、はい。」

 扉を閉めるのと、ほぼ同時。佐藤先生は初球からど真ん中に直球を投げる。

 「アルバイト、していますね?」

 「いえ、してないです。」

 「しかも、夜のお店で。」

 「いえ、してないです。」

 「正直に言いなさい。」

 「いえ、してないです。」

 私が優奈と相談して決めた作戦は、何を言われても絶対に認めないという作戦だった。あの一瞬しか会っていないのだから、証拠などある筈が無い。認めなければ、絶対にバレたりしない。私はあの日、家にいた。春休み中、私は錦へは行っていない。自分にそう言い聞かせた。

 「嘘はつかない方が良いですよ。君の成績も、内申書も、私の思うままですから。高校受験を控える大事な時期に、成績を下げたくないでしょう?」

 「…意味がわかりません。」

「君もお母様を悲しませたくは無い筈です。認めないのであれば、それなりの対応をさせてもらいますよ。」

「やってないって言ってるじゃないですか。」

 「良いのですね?成績も、内申書も。どうなっても…」

 成績なんてどうでも良い、内申書に何をされても構わない。ただ、教師という立場を利用し、生徒を脅そうとする態度に対しては腹が立ち、つい大きな声で反論してしまった。

 「だから…私はアルバイトも、女装もしていません。」

 廊下で「ゴン」という音がした。おそらく、優奈が驚いて鞄でも落としたのだろう。その音を聞き、私は我に帰った。今の発言は、あの日あの場所にいた事を認めているような物だった。佐藤先生の表情はまったく変わってない。私を真っ直ぐ見ていた。

 「認めましたね。」

 「認めていません。」と言ってみたが、まったく意味が無い事はわかっていた。

 「鈴原さん。もしかして、あなたは私と対等だと思っていませんか?校則に反して行ったアルバイトと、私の誰にも迷惑をかけていない趣味と。法律に反して行った未成年による酒類提供飲食店での労働と、毎日汗水垂らして働く健気な公務員の週末に行うささやかな楽しみと。社会の荒波に揉まれて苦しみ、そのストレスの捌け口を探し歩き、ようやく見つけたスナックという名のオアシスに月一万円の小遣いを涙と一緒に注ぎ込んでいく中年男性から金品を巻き上げるような行為と、心優しきおじさんが描いた儚い夢の叶え方とが対等だと、思っていませんか?私と君はお互いの秘密を握り合った対等な状態だと。」

 丁寧な口調で、敬語を崩さず、説明をする佐藤先生の目は笑っていない。私はその迫力に何も言えなくなった。ただ、言っている事は非常に気持ち悪い。

 「証拠、あるんですか?」

 「証拠ですか?」

 一瞬、佐藤先生の顔が変わった。明らかに一瞬怯んだ。私が絞り出した一言で形勢は逆転した。ここで一気に流れをこちらに引き寄せたい。

 「証拠も無いのに、生徒を疑うのは辞めて下さい。もっと生徒の事を信用して…」

 「証拠ありますよ。」

 おや?

 「化粧したまま、鬘も外さずに家まで帰るのは偉いと思います。でも、まだまだ詰めが甘いですね。帰りはそれで良いですけど、行きも気を付けないといけませんよ。化粧は、スナックのママにやってもらっていたのですか?鬘も付けずに家を出て、そのままスナックへ入っていくなんて、誰かに見られたらどうするのですか?」

 そう言って、佐藤先生は鞄から写真を数枚取り出し、私に差し出した。そこには家を出る私、錦へ着き「スナック彩」へ入っていく私、化粧して鬘を付けて働く私、その格好のまま家に帰る私の姿が写っていた。

 「私がこれを持って警察に行けば、困るのは鈴原さんだけではありません。親切心であなたを雇ってくれたママにも迷惑がかかる。間違いなく、あの店は営業停止になります。親からは怒られ、あなたはクラスの中でも噂話のネタにされ、友達も恋人も出来ず、一年間を過ごすことになるでしょう。いや、一年で済めば良い方でしょう。この辺りに住み続ける限り、その噂は広まり、高校に進学してからも、それは続くかもしれません。」

 詰んだ。完全に詰んだ。王手だ。チェックメイトだ。ゲームセットだ。完全に勝負あった。証拠があるのであれば、こちらに勝機は無い。こちらには女装の証拠が無いのだから。認めて、謝るしかない。それが最も穏便に本件を回収する方法だ。

 「これでも、まだ対等だと思っていますか?」

 「いえ。」

 「これでも、まだアルバイトをしてないと言いますか?」

 「いえ。」

 「反省していますか?」

 「いえ。…じゃなくて、はい。反省しています。」

 佐藤先生は私に向かって歩いてきた。

 「もし、私の趣味の事を誰かに話したら、その時はこの写真を警察に持っていきます。良いですね?」

 廊下から「ゴン」と音がした。優奈がまた鞄を落としたのだろう。

 「そして、もう一つ。条件があります。」

 「へっ?」声が裏返ってしまった。

 「あなたに、やってほしい事があります。それは…」

佐藤先生がその条件について説明を終えると同時に、廊下ではもう一度「ゴン」という音がした。

 「倉橋さん、静かにしなさい。」



   3


 体育館の裏に隠れて教職員用の玄関の様子を伺い続けて、そろそろ三時間。私と優奈は二人で、佐藤先生が出てくるのを待っていた。勿論、一緒に帰る為では無い。相談したい事も無いし、用事も無い。用事があるとすれば彼にでは無い。彼女にはある。私達は佐藤先生を尾行する事にした。女装の証拠を掴む為に。

 指導室を出てからすぐにわかった。持つべきものは賢くて几帳面な親友であり、憎むべきは変態教師だ。うなだれる私に優奈が策を与えてくれた。こちらも証拠写真を手に入れるべきだと。それにより、私達と佐藤先生の関係は対等になる。私達にはその手しか残ってないのだ。

 市立王子中学校、その正門を出てすぐ目の前の道路を挟んで、正面に石田屋というパン屋がある。まずは石田屋でパンと牛乳を買い、そしてすぐに体育館の裏、教職員用の玄関が見える場所に隠れる。最初は春休みの出来事を話したり、佐藤先生の悪口を言い合ってみたり、同じクラスになった仲間達について批評をしたりしながら私達は待ち続けた。そして、三時間も経つと話題も無くなり、何となくスマートフォンを取り出し、メールをチェックしようとしたその時だった。

 「咲。来たよ。」

 教職員用の玄関から、佐藤先生が出てきた。

 「来たな、変態教師!」

 私は気合を入れ直した。そして、必ずや証拠写真を手に入れると固く心に誓った。その時、少し離れて停まっている黒のワンボックスカーのライトが点滅した。まさか、と言うべきか。いや、当然か。

 「優奈…これって…」

佐藤先生は車に乗った。黒のワンボックスカーは颯爽と走り出し、正門から出て行った。

「やっぱり、車で帰るよねー。」

「優奈の言う通りだったわ。良かった、あいつ呼んでおいて。」

私はスマートフォンを操作し、電話帳から栫遥斗の名前を探し出し、電話をかけた。遥斗はすぐにワンコールで電話にでた。優奈の案で、佐藤先生が車通勤だった可能生を考え、スクーターも持っている遥斗を石田屋の駐車場で待機させていたのだ

「遥斗、今、正門から出た黒のワンボックスよ。追っかけて。」

「わかったけどよ。俺はまだ、お前がスナックでバイトしていたって話、納得してないからな。詳しく聞かせろよ。」

「わかったから、早く追ってよ。」

返事の代わりに石田屋の駐車場から二台のスクーターが飛び出して行った。どうやら遥斗は友達を呼んでいたようだ。とりあえずは彼らを信じて待つしかない。佐藤先生の行き先がわかったら、連絡が来るだろう。

ちなみに、栫遥斗は一応私の彼氏である。一年先輩である遥斗とは、去年の体育祭の時に知り合った。私が百メートル走で一位になったのを見て気になり始め、クラス対抗リレーでアンカーを務めて四人をごぼう抜きしたのを見て恋をしたらしい。それから三回告白され、二回は断ったのだが、三回目で根負けし、渋々今年の二月から付き合い始めた。

遥斗はサッカー部のキャプテンをしていて、一歳年上というのもあり、もっとしっかりした人かと思ったが、付き合い始めて、いかに彼が幼い男かよく分かった。自己中でわがまま、短気で怒りっぽい、気分屋、責任感が無い。あとナルシスト。それでも、顔はそこそこ男前で、元気で盛り上げるのが上手くて、一緒に遊んでいると楽しい。だから、まだ付き合っている。

彼は高校の入学式を終え、石田屋に駆けつけてくれた。その事には感謝しているが、スナックで働いていた事は言わなければ良かった。どうやら彼はスナックを如何わしい店だと思っているみたいで、私が中年のおじ様達と浮気をしていたのではないかと疑い始めた。愚か過ぎて、疲れてしまう。

遥斗からの連絡を待つため、私達は学校を出て、近くのファーストフードにでも行こうと歩き始めた時、後ろから声がした。

「何しているのよ?あんた達。」と、声の方を振り返ると、そこには先生がもう一人いた。

「アズポンじゃん。」

「コラ。誰がアズポンよ。先生に向かってあだ名で呼ぶな。」

葛城梓先生、通称アズポン。私の一年と二年の時の担任の先生だ。年齢も若く、見た目も大学生のように幼い。まだ二十代というのもあり、生徒からは友達のように扱われている。アズポンというのは学生時代のあだ名だそうだが、私達もそれを使っている。担当教科は国語、部活はソフトボール部。

「あの、先生って、もう帰るんですか?」

「そうよ。職員会議も終わったし。」

「先生の家って、この辺りですか?」

「春日井よ。隣の市だけど、車で十五分ぐらいかな。そんなに遠くは無いけど。」

優奈が何故、それを聞いたのか私はすぐにわかった。優奈はアズポンとはあまり接点が無かった為、まだ少し距離があり図々しい事は聞けないようなので、私が代りに聞いてあげる。

「アズポン、車で帰るの?」

「そうよ。」

私は優奈と顔を見合わせて笑った。運が良い日なのか、悪い日なのか。

「車、ちょっと乗せて。」

「は?」

「送って欲しい所があるの。」

「…は?はあ。別に良いけどさ。あんた達、どこに行きたいのよ。」

答えるかわりに、二人で微笑んだ。アズポンは困惑した表情だったが、私達を車へ案内してくれた。アズポンの車は真っ赤に染まった軽自動車で、車内には熊のぬいぐるみがいくつも置いてあり、教師の車というよりは大学生が乗っていそうな雰囲気である。

 「ちょっと待っていて。片付けるから。」と言って、アズポンは上半身を車に突っ込んで、荷物やぬいぐるみを移動させている。その時、私のスマートフォンに遥斗から着信があった。

 「もしもし?」

 「咲?一応、尾行しているけどよ。よくわかんねぇんだよ。ジャスコで葉書買ったり、ジャスコの花屋で草買ったり。あと、ジャスコで…」

 「要するに佐藤先生はジャスコにいるってことでしょ?とりあえず、私達もジャスコ行くわ。」

 敵は大型スーパー、ジャスコにあり。私は電話を切って、優奈を見ると、微妙な表情でアズポンを見ていた。どうやら、私達の会話を聞いていたようだ。

 「何よ、あんた達。佐藤先生の所に行きたいの?」

 その問いに、何て答えるべきかわからず、黙っていると、アズポンは続けて言った。

 「私、知っているわよ。行き先。」

 すまぬ、遥斗。すまぬ、その友達。あなた達の苦労はその一言で水の泡となった。私と優奈は真っ赤な軽自動車の後部座席に乗り込んだ。

 王子中学からジャスコまでは歩いて十五分ほど。車なら、おそらく五分以内の距離だ。だが、アズポンの運転する真っ赤な軽自動車は速やかに発進。一直線にジャスコへ向かったかと思えば、そのままジャスコを通り過ぎ、さらに進んでいった。アズポンは慣れた様子で運転をしていた。スナックで働く事よりも、車を運転する事の方がよっぽど大人に見えた。

 「で、佐藤先生に何の用事?」

 アズポンは前を向いたまま、いきなり核心に迫る質問を投げてきた。またしても、何て答えるべきかわからず、黙っていると、優奈が機転を効かして「数学でちょっとわからない事があって。」と代わりに答えてくれた。「本当に?真面目だね。」とアズポンは呟いた。その後、しばらくアズポンは喋らなくなってしまった。何だか嘘がバレてる気がして、私も何も喋れなくなった。

 真っ赤な軽自動車はひたすら進む。多分、この辺りでは最も高い建物である一昨年完成したばかりの高層マンションを右に曲がり、ケーキ屋、ガソリンスタンド、電気屋を横目に見ながら走り続ける。やがて駅前の商店街に差し掛かる。商店街には、小牧城築城四百年の幟がいくつも並んでおり、記念グッズなどの販売が行われていた。商店街は小牧山の麓まで続き、近づくにつれて人は多くなり、花見客を狙った出店で賑わっていた。たこ焼き、いか焼き、チョコバナナ、様々な出店に夫婦、カップル、親子、様々な人達が並んでいた。

 「あの、どこに向かってるんですか?」

 車内の沈黙に耐えかねて、優奈が口を開いた。

 「もうすぐ着くよ。」

 山の麓、アズポンはウィンカーを点けて、左折。舗装されてない駐車場に入った。

「え?ここ?」

「そうよ。ほら、佐藤先生の車あるでしょ。」

そこには真っ黒のワンボックスカーが停まっており、その横には遥斗とその友達が立っていた。私と優奈はアズポンにお礼を言い、車を降りた。

 「待っていてあげるから。早く行っておいで。」と、アズポンは運転席に座ったまま言った。

 遥斗はヘルメットを取り、髪型をせっせと直していた。私とはまったく目を合わせなかった。スナックで働いていた事をまだ根に持っているのだろうか。その横でお友達は一言も喋らず、その場に立っていた。彼は、おそらく切り忘れたのか、前髪が長過ぎて、目がこちらからは見えない。お友達が私に向かって、合図をくれた。あんたが追っている人物はこの先にいると、階段を指差した。

「あら?栫君と前原君?何やっているの?」

アズポンが遥斗達に気付き、話しかけていた。遥斗はつい一ヶ月前まで王子中学の生徒だった。アズポンは再会を喜び、「高校はどう?」と話しかけていた。

 私達は駐車場を出て、階段に向かって進む。看板には「小牧山霊園」という文字がある。いや、看板なんて見なくてもわかる。私はここに来た事がある。私達はコンクリートで出来た階段をゆっくりと上がる。上がった先には何百という数のお墓があった。道路の側にある墓から順番に山の麓の墓まで順番に見渡すと、山の麓の墓に人影があった。その人影には見覚えがあった。

 私達は特に打ち合わせもせず、ゆっくりと山の麓の墓へ向かい歩き始めた。柄杓で墓に水をかけている人影が佐藤先生だと理解できた頃、墓までの道にも見覚えがある事に気付いた。

 「ダメだよ、咲。先生、女装して無いんだから、ここで会っちゃうと今後尾行しにくくなっちゃう。一旦戻って、遥斗君達と尾行を続けた方が良いよ。」

 優奈の正論に対して、私は何も言わなかった。この霊園に到着してから、ずっと感じていた違和感の正体がまだ解らなかったからだ。

 「葛城先生には適当に言い訳してさ。まだ、佐藤先生とここで会っちゃダメだよ。」

佐藤先生はお墓の前に立ち、手を合わせている。私はゆっくりと近付いた。

「咲!」

私は優奈の静止を無視した。

 「佐藤先生、ここで何してるんですか?」

 私は声を抑えて、そして感情を抑えて聞いた。佐藤先生はこちらを向き、特に驚いた素振りも見せずに答える。

 「毎月、来ています。今日は四月五日、月命日ですから。」

 優奈は状況が飲み込めず、私と佐藤先生の顔を交互に見て、様子を伺っていた。私自身動揺していて、優奈に説明する余裕が無かった。

 「私は彼女の担任でした。」

 佐藤先生がいたのは、私の姉が眠る墓の前だった。

 


   4


 私の姉は死んだ。

 成績優秀で、大人の言いつけをきちんと守る立派な姉は両親の期待を一身に背負い、すくすくと育ち、そして十五歳の時に死んだ。姉の死によって両親が受けた影響は大きく、その深い悲しみを癒すために、父は単身赴任先で不倫をし、母は仕事に打ち込んだ。結果、少しずつ二人の距離は広がってしまい、離婚した。

 幼い頃から姉と比べられて育った私にとって、姉とはライバルであり、決して超えることができない壁であった。私は姉に勝ちたかったのだが、成績も性格も女の子らしさも姉には勝てないと思っていた。勝目が無いのだから、比べられるのは嫌だった。

 今年、私は姉と同い年になる。それでも追いついたという感覚は無い。同い年の姉は、ずっと年上に思える。

「私を尾行しても無駄ですよ。もう女装は辞めましたから。」

 佐藤先生は姉の墓に手を合わせたまま、はっきりと言った。優奈は残念そうな顔をしていたが、私にとってはすでにあまり問題では無かった。私の興味は他の事に移っていた。

 「佐藤先生が担任の時に、姉は死んだんですか?」

 立ち上がり、佐藤先生はこちらを向いてゆっくりと頷いた。

 「お姉さんの死因を知っていますか?」

 「交通事故ですよね?」

 「そうです。」

 佐藤先生は空を見上げて、少し黙った。言葉を選んでいるのかと思ったが、おそらく違う。当時の事を思い出しているようだった。

「あの日から、ずっと後悔しています。私はあの事故を防がなければいけなかった。あの事故は防ぐべきだった。あの事故は防げた筈だと、あの事故が起きた日からずっとそう思っています。」

 私と目を合わせた佐藤先生は今にも泣き出しそうな顔をしていた。私は大人が弱音を吐く所を初めて見た。五十歳手前になっても、生徒達から恐れられていても、心はみんなと同じだ。そんなに強くは無いのだ。

 「でも、事故は事故ですよ。佐藤先生に防げる事では無いですよね?」

 「確かに事故自体はどうしようも無かった。でも、きっかけを防ぐ事はできた筈です。物事には必ず原因があるのです。お姉さんの事故の原因の一つは私です。」

 「…どういう事ですか?」

 佐藤先生は困ったような顔で笑った。それ以上は聞かないでくれ、それ以上は勘弁してくれ、そう言っている気がした。

 「帰りましょうか。」

そう言って、佐藤先生は駐車場へ向かって歩き始めた。私達はすぐにその後を追った。駐車場に着くと、アズポンと遥斗達が大笑いしながら談笑していた。私達とアズポン達の温度差に少しイラっとした。

「数学、教えてもらえた?」

アズポンが言っている意味が一瞬解らなかった。そういえば、アズポンには佐藤先生に数学を教えてもらいたいから探していると説明していたのだ。私達は声も無く、ただ頷いた。それを見て、アズポンはニコッと笑った。

「熱心な生徒達ですね。」

「ええ、本当に。」

佐藤先生は黒のワンボックスカーに向かって歩き出し、数歩進んで立ち止まり、振り返った。目が合った私は固まり、佐藤先生の口から出る言葉を待った。

「鈴原さん。数学の補修は来週の土曜日にしましょう。」

一瞬で理解した。数学の補修なんて無い。佐藤先生が、アルバイトの事を黙っておく代りに、私に出した条件。私にやらせたい事。それをやらせる日が、来週の土曜日という事だ。

「良いですね?」と笑顔で言った佐藤先生の目は決して笑っていなかった。私の返事を待たずに佐藤先生は黒のワンボックスカーに乗り込んだ。呆然と立ち尽くす私の背中を優奈が優しく撫でながら、アズポンの車へ連れてってくれた。

私達は再び真っ赤な軽自動車に乗り込み、アズポンに家まで送ってもらった。先に優奈の家に行き優奈を降ろした後、アズポンは私に「鈴原さん、ちゃんと佐藤先生の言う事聞きなさいよ。」と言った。

私は家に帰ると、すぐに二階の姉の部屋に入り、古いアルバムを開いた。写真の中の姉は白いワンピースを着ており、さらさらの黒い髪を風に靡かせ、こちらを向いて微笑んでいた。目が悪い私と違って、姉は眼鏡をしていない為、二重瞼の大きな目が印象的だった。悔しいが、姉は美人だ。私の学校には、姉以上に美人の生徒などいない。いや、私自身、姉以上の美人には会ったことが無い。

写真が撮影された場所は、この部屋だった。姉の横には制服を着た同級生の女の子と男の子が一人ずつ、満面の笑みでピースしていた。さらにその奥にもう一人男の子がいたのだが、なんだか照れくさそうに横を向いていた為、表情は解らなかった。

私には姉の友人の名前など誰一人わからず、写真に映っている同級生達が今どこで何をしているかもわからない。さらにアルバムを捲ると、姉は急に若返った。中学生の頃の写真はあまり無く、小学生の頃の写真がほとんどであった。卒業アルバムも見てみたが、姉は中学を卒業していない為、小学校の物しか無かった。

結局、姉の事故についてわかる物はここには無い。当時を知っている人に聞くしかないのだが、私は姉の交友関係をまったく知らない為、佐藤先生にもう一度聞くか、両親に聞くしか方法が無かった。

ただ、今わかっているのは、姉の死に影響を受けたのは両親だけでは無く、他にもいたという事。そして、私は姉の事を知っているようで、何も知らないという事だ。

姉の部屋を出て、すぐ隣の自分の部屋に戻ると鞄に入れてあったスマートフォンが鳴った。アズポンの車に乗っている時から、何度か鳴っていたのだが、頭がいっぱいで無視していたのだ。ディスプレイを見ると、「新着メール 十六件」の表示があり、思わず「げっ」と声を出してしまった。メールはすべて遥斗からだった。

私は恐る恐るメールを開いた。

「今から会える?」「今どこにいる?」「メールの返信まだ?」「メールの返信くれ。」「無視するな。」「スナックの件で話したい。」「浮気してないよな。」「ス」「ナ」「ッ」「ク」「!」「おい、返信くれないなら別れるぞ。」「もう別れるからな。」「本当に別れるつもり?」「俺別れたくない。」以上、十六通である。メールじゃなくて電話してくれば良いのに。面倒だったが、私は遥斗に電話した。

「もしもし、遥斗?」

「咲。何で返信くれないんだよ!」

「ごめん。今、メール見たの。で、何?スナックの事?」

「そうだよ。突然、電話してきて、先生にスナックでのバイトがバレたから尾行してって。勝手過ぎるんだよ。意味わかんねえし。スナックってあれだろ。おじさん達と酒飲んで、一緒にホテル行って、金とかプレゼント貰ってよ。浮気してんだろ?」

普段ならきちんと説明をするのだが、姉の事や佐藤先生の事で気が立っていた私はつい言い返してしまった。

「遥斗さあ、スナックについて調べてみた?インターネットで検索した?勝手なイメージで人を疑わないでよ。子供なんだよ、遥斗は!」

「さ、咲、怒るなよ…俺だって…その…」

まだ何か言っていたが、私は電話を切った。今は彼の相手なんてしている余裕が無い。よく考えてみれば、遥斗にも弱みを握られたことになるが、あまり危機感は無かった。彼が騒いだところで、証拠も掴まれてないのだから大勢に影響は無い。そんな事を考えていると再びスマートフォンが鳴った。遥斗からのメールだった。「咲、ごめん。」と書いてあった。「普通、こういう時は電話してくるんじゃないの?反省の色が見られません。」と返信し、スマートフォンの電源を切った。

私はセーラー服から長袖のTシャツとジャージに着替えて、ベッドに横になった。頭がいっぱいで何から考えたら良いのか、まったく解らなかった。考え込んでいる内に眠ってしまい、目覚めたのは夜中だった。起きてすぐにスマートフォンの電源を付けると、「新着メール 三十五件」とあった。今から返信するのは面倒だし、どうせ全部遥斗からだと思い、朝まで眠る事にした。どうせ明日は土曜日だし、明日返信すれば良い。

翌朝、目が覚めて一階へ降りると、お母さんが朝食の用意をしていた。

「おはよう。お母さん、今日仕事は?」

 「おはよう。咲ちゃん、昨日いつから寝てたの?起こしても全然起きないから。」

 「色々あってさ。疲れちゃって。起こされた事すら気付かなかったけど。ねえ、仕事行かなくて良いの?」

 私は冷蔵庫から牛乳を取り出し、テーブルの前に座った。そういえば、昨日テーブルの上に置いておいたトーストが無くなっていた。きっとお母さんが食べたのだろう。

 「今日は仕事、午後からなのよ。咲ちゃんもご飯食べる?」

 「うん。食べる。」

 お母さんは冷蔵庫から卵を取り出し、目玉焼きを作り始めた。顔をこちらに向けず、料理をしながらお母さんは言った。

 「学校はどうだった?」

 「優奈と同じクラスになったよ。」

 「本当、良かったね。担任の先生は?まさか、またアズポン?」

 「ううん。佐藤先生。最悪だよ。」

 お母さんは少し間を置いてから、「そう。」とだけ答え、それから何も喋らなくなり、黙々と料理をしていた。やはり、姉の死と佐藤先生は関係がある。そう確信した。それでもお母さんには姉の死については聞けなかった。まだ、お母さんの心の傷は癒えてない気がしたからだ。

「咲ちゃん、昨日はお風呂も入らずに寝ていたの?だらし無い。お姉ちゃんは、そんな事は一回も無かったのに。」

 聞こえてはいたが、無視してお風呂へ入った。悪気は無いのだろうが、お母さんのこういう一言が嫌だった。私はシャワーを浴びて、髪を乾かしながら、スマートフォンのメールをチェックした。三十五件中三十四件が遥斗からのメールだった。「ごめん。」「許して。」「電話が繋がらない。」「お願い、許して。」「許してくれなきゃ、俺死んでしまいます(涙)」「ごめん、死ぬのは嘘。重いよね?」「返信欲しい。」「お願いします(涙)」などなど。相変わらず面倒な男だ。遥斗は。全部読むのが面倒だったので、私は途中まで呼んだ後で「許す。こちらこそごめん。」とだけ返信しておいた。

 三十五件目のメールは優奈からだった。「明日、会える?作戦会議しよう。」とあった。持つべきものは優しい親友だ。面倒な彼氏では無い。「ありがとう。今日は四時以降なら大丈夫。」と答えた。

 時間は昼の十一時を過ぎた。私はデニムのジーンズを履き、お気に入りのシャツを着て、リュックを背負って部屋を出て玄関へ向かった。玄関ではお母さんが見送ってくれた。

「夜ご飯、何が食べたい?」

 「何でも良いよ。あ、お魚食べたい。」

 「わかった。帰りに買っていくわ。車に気をつけてね。」

 「いってきます。」

 自転車に乗って、駅前のダンス教室へ向かった。五年前から毎週水曜日と土曜日はダンス教室に通っている。小学四年生の夏、母に連れられて行った某ミュージシャンのコンサートで、私はそのミュージシャンよりもバックダンサーに心を奪われた。ステージの演出により照明が目まぐるしく点滅する中で見えたキレのある動きと楽しそうな表情に魅了され、そのコンサートの帰り道の途中で、私はお母さんにお願いをして、ダンスを始める許可を貰った。五年間、毎週休まず通い、今は半年に一度の発表会を目標に練習を続けている。

 駐輪場に自転車を停めて、「ダンススタジオAX」の入口へ向かった。

 「おはようございます。」そう言って中に入ると、既にインストラクターの先生と数名の生徒が準備運動を始めていた。私は皆に挨拶しながら、更衣室へ入った。特に決まっているわけでは無いのだが、私は必ず一番右端の上の段を使用していた。ロッカーにリュックを入れ、中から練習着を取り出して着替えていると、後ろから声を掛けられた。

 「おっす。咲ちゃん。」

ダンス教室で知り合った年上の友達で、「スナック彩」のママ、彩さんだった。

 「彩さん、おはようございます。」

 彩さんはダンス教室が終わった後スナックへ向かう為、真っ赤なスカートと真っ白なシャツを着ていた。でも化粧は薄めで、髪も一つに結んだだけだった。

 「昨日、咲ちゃん目当てのお客さんが来てさ、咲ちゃんは辞めたって言ったらショック受けていたよ。二週間でお客さんを作るなんて大したもんね。」

 「あの…その二週間で起きたトラブルで相談があるんですけど…」

 私達は二時間のレッスンを受けて汗を流した後、更衣室でシャワーを浴びて、彩さんが化粧して髪型を整えるのを三十分程待った後、二人で喫茶店に向かった。彩さんはダイエット中らしく、コーヒーしか注文しなかった。私はナポリタンを注文した。

 「で、相談って?」

 私は佐藤先生とのやり取りをすべて話した。最初は穏やかだった彩さんの表情は徐々に曇り、話し終える頃には真っ青になっていた。

 「やばいわね…それ。最悪、私の店も潰れちゃうって事じゃない…」

 「ごめんなさい。私のせいで…」

 「ううん、咲ちゃんは悪くない。でも、手は打たないと…来週の土曜日までよね。」

 彩さんは煙草に火を点け、ゆっくりと吸い込み、ゆっくりと煙を吐いた。

 「結局、そいつの弱みを握るしかないわね。私は、前に話した女装専門の化粧屋の店長に話を聞いてみるわ。写真とか、顧客情報とか残っているかもしれないし。」

 「お願いします。」

 女装の証拠を掴む方法としては、他に手が無いだろう。この件については彩さんに任せるしかない。

 私はナポリタンを食べ、彩さんはコーヒーを二度おかわりした。喫茶店での食事代はすべて彩さんが払ってくれた。三時半になり、喫茶店を出て、駅まで彩さんを送った後、私は自転車に乗って優奈の家に向かった。

 優奈の家は私の家から徒歩三分ほどの場所にある。私の家の前の道を南へ進み、最初の交差点を左に曲がると茶色の三階建てのアパートと黒の四階建てのアパートが並んでいる。その奥にある白い大きな家が優奈の家だ。ガレージには高そうな外車が二台停まっており、玄関を開けると二匹のポメラニアンが迎えてくれる。

 「こんにちはー。優奈、来たよ。」

 「あがってー」と優奈が二階から答えてくれた。私は階段を上がり優奈の部屋へ向かった。優奈の部屋は白とピンクの家具や雑貨が溢れている。壁に貼ってある男性アイドルのポスター含め、女の子らしい部屋だと思う。

 優奈は一階へ行き紅茶とお菓子を用意し、運んできた。ピンク色のテーブルに紅茶とお菓子を置きながら、目を合わさずに言う。

 「咲のお姉さんの事故、詳しく知っている人っていない?」

 私は驚き、答えられなかった。すると、そのまま優奈が続ける。

 「佐藤先生がもう女装しないんだったら、咲のお姉さんの件で弱みを握るしかないと思うんだ。咲にとっては、あまり調べたくない事だと思うんだけどね、でも、佐藤先生の条件なんて聞く事できないでしょ。だから…。佐藤先生もお姉さんの事では、自分の失敗を認めているんだし、証拠さえあれば佐藤先生と取引できると思うんだ。」

 優奈は言葉を選びながら、今度は私の目を見て話してくれた。私は嬉しかった。優奈はきっと、昨日の夜も必死で考えてくれたのだろう。自分は関わらなくても問題無いのにも関わらず、私の為に、佐藤先生と取引する方法を考えてくれたのだ。そして、切り出しにくい話題だが、私の為に切り出してくれた。本当に良い女の子だ。こんなに素敵な女の子に好かれている男性アイドルは幸せだと思う、壁のポスターを見て、思った。

 「ありがとう、優奈。」

 優奈は紅茶を飲みながら、黙って微笑んだ。

 「でもね、事故を知ってる人はお母さんとお父さんぐらいしかいないと思う。でも、聞けないよ。さすがに…」

 お母さんは、まだ姉の死のショックを引きずっている。お父さんとは、もうずっと連絡を取ってない。他に、姉の事を知っていそうな知人はいない。でも、私は思う。佐藤先生の事は関係ないとしても、姉の事故の事は知りたい。いや、知らなければいけない。そんな気がする。

 「今、わかっている事は、お姉ちゃんが死んだのは中学三年生の五月五日、交通事故で、原因は運転手の不注意。当時の担任は佐藤先生だったって事ぐらい。いつもお姉ちゃんと比べられて、お姉ちゃんみたいになりなさいって言われていたけど、私はお姉ちゃんの事、全然わかってない。私と同い年のお姉ちゃんが、何を考えていて、何に夢中で、どんな人が好きで、将来どうなりたかったのか。私、知りたい。頑張るから。頑張って調べるから、優奈応援してね。」

 私は優奈に伝えるのでは無く、自分自身に言い聞かせるつもりで、その言葉を発した。女装の証拠については、彩さんに任せるしか無い。私は、私にできる事をやる。それが私を救う事になる筈だ。

 「勿論、応援するよ。一緒に頑張って、佐藤先生をギャフンと言わせようよ。ね、咲。」

 優奈は華奢な手で私の手を握り、真っ直ぐ目を見て、力強く言ってくれた。その時、私のスマートフォンにメールが届いた。

 「咲、許してくれてありがとう。色々、細かく聞いてしまって悪かった。これからはもっと咲の事を信じようと思う。咲が俺の事を信じてくれたように、俺も咲の事を信じる。俺は咲の事が好きだし、咲の事を愛しているって自信を持って言える。だから、これからも二人で愛し合って、付き合っていこう。思えば、俺たちの出会いは…」ここまで読んで辞めた。遥斗のメールは相変わらず面倒だ。そして文章がダサい。

 持つべきものはやはり賢くて几帳面で、優しい親友である。



   5


 丸焼きにされた鯛と目が合った。

 「どうして、そんな事を聞くの?」

 土曜日の夕食。必ずお母さんと一緒に食事をする約束の時間、我が家で唯一の家族団欒の時間だが、その空気は私の不用意な発言によって不穏な物と変わっていた。テーブルには白米やサラダ、南瓜の煮物、コロッケ、そして鯛の丸焼きが並んでいる。お母さんが手間暇掛けて作ったそれらの料理が、無言で私を攻める。私はじっと下を向き、鯛の丸焼きを見ていた。

 「そんな事を聞いて、どうするの?詳細も理由も無いわ。交通事故なんだから。運が悪かったとしか言えない。」

 私は鯛に向かって言った。

 「本当にそれだけ?ただの事故?」

 「それだけよ。もう、早く食べなさい。」

 鯛が言ったのでは無い。正面に座っているお母さんが少し苛立ちながら言った。私も今まではそれで納得していた。姉は交通事故で死んだ、それは紛れのない事実。姉を轢いた運転手は毎年命日に謝罪に来るから、その顔も知っている。髭は生やした五十歳ぐらいの不真面目そうなおじさんだ。

今までは、少しも疑ってはいなかった。しかし、今は違う。姉の死には佐藤先生が関わっている。事故の原因を作り出した事を後悔している。ただ、姉は運が悪かっただけとは、今は思えない。姉の死には私の知らない秘密があると、今は確信を持っている。

 「どこに行く時?一人で?友達と?自転車?歩き?詳しく知りたいの。」

 「だから、知ってどうするのよ。咲ちゃんには関係ないでしょ。」

 私はその一言にカッとなり、思ったまま言い返してしまった。

 「お母さん、何かある度に私とお姉ちゃんを比べて怒るクセに、嫌なことを聞いたら関係無いなんて都合良すぎじゃない?お母さんは、私をお姉ちゃんみたいな人間にしたいんでしょ?だったら、死んだ理由まで全部、ちゃんと教えてよ。私もお姉ちゃんと同じようにしたいんだったら、死ぬ時の理由も同じかもしれないじゃん。」

 お母さんは食事を続けながら、「そんな事無いわよ。咲ちゃんは、同じ事にはならないわよ。絶対。」と呟いた。目を合わさず、ずっと下を向いていた。

 「わからないよ、そんなの。」

 「わかるわよ!」

 お母さんはそう言い切った後も、ずっと下を向いていた。きっと、後悔していたのだと思う。その表情を見られたくなくて、下を向いていたのだ。でも、私はその失敗を逃すつもりは無い。

 「わかるって、どういう事?やっぱり、ただの事故じゃなくて理由があるんだよね?教えてよ。都合の良い事ばっかりじゃなくて、都合の悪い事も全部。」

 お母さんは俯いて、黙ったままだった。そして、深い溜息の後、私の目を見て言った。

 「いつか、話せる時が来たら話すわよ。」

 「いつかっていつ?」

 「いつかよ。話せる時が来たら話すわ。それじゃ駄目なの?」

 「今、知りたいの。」

 「どうして、そんな我儘ばかり言うの?お姉ちゃんは、お母さんを困らせる事なんて言わなかったわ。これ以上、お母さんを困らせないで。お姉ちゃんの事故の事なんて、まだ冷静になんて話せないし、思い出したくも無い。話したくないのよ、どうしても。お母さんはお姉ちゃんが死んだっていう事が…」

 ここまで聞いて、私は席を立った。「もういい。」とだけ言って、私は自分の部屋へ向かった。私が頼んだから、母が買ってきてくれたであろう鯛の丸焼きの視線を背中に感じたが、もう二人で食事する気分では無かった。

 私は焦っていた。夕食の前に彩さんからメールがあり、女装専門の化粧屋では情報が得られなかったと書いてあった。女装した中年が未成年を脅している、このままでは大事件に発展するかもしれないと、大袈裟に話して協力を仰いだが、顧客のプライバシーの保護は徹底しており、化粧屋の店長は一切口を割らなかったそうだ。そうなると、佐藤先生と対等の立場になるには姉の事故の情報を掴む以外に方法が無くなる。しかも、その事故の情報は来週の土曜日までに掴まなければいけない。もう私には時間が無いのだ。私は焦っていた。

 私はベッドに寝転がり、「失敗した」とだけ入力し、優奈へメールを送った。佐藤先生との取引の事、彩さんの店に迷惑が掛かるかもしれない事、この二つが私の解決しなければいけない問題だ。それでも、私の頭の中心に居座るのは姉だ。

私は姉と比べられたくない。私は姉よりももっと大人になりたい。そして、姉の事をちゃんと知りたい。そんな事を考えながら、そのまま眠ってしまった。

翌日の日曜日、私は初めてお母さんとの約束を破った。

昼から家を出て、遥斗と一緒に小牧山へ桜を見に行った。朝から降り続けている強い雨の為か、花見客は少なく、足元は散った花弁で埋まっていた。傘を叩く雨音だけが響く中、私はただ、雨によって散らされていく桜を見ていた。私の名前の由来となった桜を見ていた。

遥斗はそんな私を見て、そっと肩に手を置き、突然キスをしようとしてきたのだが、私は反射的に顔を背けてしまった。一瞬の空白の後、「ごめん。今はまだ。」と言うのが精一杯だった。遥斗は落胆した表情を見せたが、すぐに元の明るい表情に戻し、「俺もごめん。突然すぎたよな。腹減らない?メシ食おうぜ。」と言って、私の返事も待たずに山の麓にあるファミリーレストランに向かって歩き始めた。

私は遥斗と付き合ってから約二ヶ月間、一度も体を許してはいない。キスもしてなければ、手を繋いだことも数える程しか無い。友達の延長、極めて健全な中学生らしい付き合いをしているが、遥斗はもう一歩進んだ大人の付き合いをしたいのだろう。だが、それに答えられる覚悟はまだ無い。

遥斗の事は嫌いじゃない。勿論、嫌な時も多々あるが、別れようとは思わない。でも、好きかどうかもわからない。付き合い始めた時は、付き合っていくうちに好きになっていくだろうと思っていたが、まだそれは来ない。私は悪い女だ。私は体も心も許さず、私への愛情だけを得たいのだ。等身大の私に向けられた愛情が欲しいのだ。

遥斗とファミリーレストランでご飯を食べた。先程の気不味い空気を忘れる為に、意味のない会話を大笑いしながら続けた。虚しい気持ちが襲ってこないように、会話の空白を恐れ、喋り続けた。

家に帰ったのは夜の十一時過ぎだった。お母さんに怒られると思って、私は恐る恐る玄関を開けたが、母は怒鳴る事も無く、一言「あんまり心配かけないで。」と言われただけだった。冷蔵庫には、私の好きなロールキャベツが入っていた。

その夜、私はスマートフォンの電話帳を開いては消し、開いては消した。姉の事故について知っているもう一人の人物に電話をする為だったのだが、結局電話は出来なかった。ずっと会ってなければ、話してもないからだ。緊張して、何て言えば良いのか、まったく解らなかった。血が繋がっているのに。

翌朝、私はセーラー服に着替えて、朝食も食べずに七時三十分には玄関を出て、家の前で優奈を待った。十分後、優奈はいつもの時間通りにやってきた。

「おはよ。どうしたの?今日は?」

「お母さんと喧嘩しちゃって。気不味いから、早く出てきちゃった。」

「原因って、もしかしてお姉さんの事?」

「当たり。」

私達は歩いて学校へ向かった。いつもなら楽しく話しながら歩くのだが、今日は何故か会話が盛り上がらず、学校が遠く感じた。楽しそうに喋りながら登校している中学生を見ると、何だか能天気に思えて無性に腹が立った。

学校に到着して、席に座り、窓の外を眺めていた。

暫くすると、チャイムが鳴り、佐藤先生が教室に入って来た。今日は一時限目から四時限目までずっとホームルームの時間となっている。たくさんのプリントが配られ、たくさんの教科書が配られ、委員会や係などの役割を決め、今後のスケジュールなどが発表された。そのスケジュールの中、今月末に行う立志式が私達にチャンスを与えた。

黒板の前に立ち、佐藤先生が説明をした。

「先輩から聞いた事がある人もいるかもしれませんが、この中学では三年生の一学期に立志式という行事が行われます。今年も例年通り、五月の連休明けに行う事が決まりました。立志式という言葉は、あまり聞き慣れない言葉かもしれませんので、説明します。」

優奈がハッとした顔で振り返り、私を見て小声で言った。

「咲、チャンスかもしれないよ。これ。」

俯きながら、佐藤先生の話を聞き流していた私には理解が出来なかったが、優奈を信じて佐藤先生の話に耳を傾ける事にした。

「元服という言葉は知っていますか?奈良時代以降、十五歳ぐらいの時に行う大人になる為の通過儀礼の事です。昔の人達は、皆さんと同じ年齢の頃、元服の儀式を行い、一人前の大人と認められたのです。」

黒板には大きな字で元服と書かれた。そして=の記号で結ばれた先には、立志式と書いてある。

「元服に因んで、皆さんの生誕十五年を祝い、今までの十五年を振り返り、これからの人生の目標を明確にする為の儀式、それが立志式です。今年は連休明けの五月七日、五時間目と六時間目の授業を使って、保護者の方や来賓の方も招いて行います。」

何故、優奈がチャンスと言ったのか、私にはまだ解らなかった。

「立志式を行うに当たり、皆さんにやってもらいたい事があります。」

佐藤先生が黒板に大きく書き出した二つの課題。「自分史」と「人生計画書」だ。

「皆さんには、この二つの課題を、立志式までに作ってもらい、当日発表してもらいます。まず、自分史というのは、簡単に言いますと皆さんの今までの人生を年表にした物です。いつ生まれて、どのように生きてきたのか。どんな出来事があって、どんな人達に支えられて生きてきたのか。どう思い、どう感じて生きてきたのか、周りの人からどう想ってもらって生きてきたのか。一人だけで生きた人は歴史上一人もいません。皆さんの周りの人達に話を聞いて、自分だけの年表を作って下さい。では、書いてもらう用紙と見本を配りますので、後ろに回してください。」

佐藤先生は一番前の席に座る生徒にだけプリントを渡し、受け取った生徒は自分の分を手元に置き、残りを後ろの生徒に渡す。それを繰り返し、一番後ろに座る生徒までプリントが届く。私の前に座る優奈が、プリントを私に渡す時に小声で聞いてみた。

「ねえ、優奈。私、まったくわからないんだけど。これって、何のチャンスなの?」

「もうちょっと待ってて。私が先輩から聞いた話が本当なら、うまくいけば、佐藤先生の弱みを握ることができるかもしれない。」

「わかった。」そう言って、私はプリントに目をやった。A3サイズのプリントの一番上には大きく「自分史」と書いてあり、0歳から14歳まで十五個の枠が作られていた。枠の中には「主な出来事」や「お世話になった人」について書くように指示がされていた。

「プリントは行き渡りましたか?無い人はいませんね。」

誰からも反応が無いのを確認し、佐藤先生は説明を続ける。

「では、皆さんプリントを見てください。皆さんには、0歳から14歳までの枠に主な出来事やお世話になった人の事を書いてもらいます。例えば、12歳の枠には小学校を卒業したとか、担任の先生にお世話になったとかが記入できると思います。勿論、内容は何でも構いません。親友ができた、習い事を始めた、引越しをした、何でも良いので、皆さんの人生を振り返り、最も印象に残った事を一つの枠に二個か三個、書いてください。当然、生まれてすぐの事はわかりませんから、お父さんやお母さん、兄弟や親戚に話を聞いて、書いてください。」

どう書くか、考えながら聞いていた。初めてダンスを踊った日の事、優奈と仲良くなった日や喧嘩した日、去年の失恋、女装した中年男性を初めて見た日の事、いやこれは書けないが、印象的な出来事はたくさんある。いつ、どんな出来事があったのか、楽しい事も嫌な事も全部が今の私に繋がっている。ちゃんと、自分と向き合って正直に書こう。そう思った。その為には、まずはちゃんと謝らないといけない人がいる事も理解していた。

佐藤先生は再びプリントを手に取り、配りながら話を続けた。

「次に人生設計書を配ります。これに自分史の逆で未来の自分について書いてもらいます。十五歳、つまり今年の事。それから二十歳、二十五歳、三十歳と、五年ずつ自分がどんな事をしているのか、予想して書いてください。結婚をしている、子供を育てている、会社で働いている、どんな事でも良いです。これからの目標ですから、自分がなりたい姿を正直に書いてください。」

「人生設計書」と大きく書かれたA3サイズのプリントにも、十五歳、二十歳、二十五歳、三十歳の四つの枠が作られており、「どうなりたいか」と「そのために何をするべきか」の二つを書くよう指示があった。

「この二つの課題を来週の月曜日までに書いてきてください。来週の月曜日のホームルームの時間に、それを年表にする作業に入り、さらに翌週に原稿用紙に清書して完成させます。あまり時間がありませんので、必ず来週までにプリントをやってきてください。ちなみに、この自分史と人生設計書ですが、返却は十五年後になります。」

私は二枚のプリントを眺めながら考えていた。「自分史」は書ける。だが。「人生設計書」については、まったく思いつかなかった。友達や彼氏と遊んで、ダンスを踊って、姉と比較されないように頑張って、そんな毎日を生きているだけで、将来の事など想像が出来なかった。ましてや、佐藤先生によって私の未来は大きく変わるかもしれない、そんな時なのだから尚更だ。その時、目の前に座る優奈の肩が一瞬動いた。その肩から先では小さな握り拳を作っていた。

「自分史に関しては、コピーは立志式が終わり次第皆さんのご両親宛で送りますが、原紙と人生設計書は十五年後、皆さんが三十歳になった時に行う同窓会で返却します。今、これから皆さんが描く人生設計書の通りに生きてこられたのか、結果を自分自身で採点するのです。何が出来なかったのか、何は出来たのか。今、この歳で描く人生設計書は、必ず未来の皆さんを助けると思います。それまでは学校できちんと保管します。今まで、皆さんの先輩達もずっとそうしてきました。今年の五月の連休には、十五年前の卒業生達の同窓会があります。そこで人生設計書を返却します。今までずっと、そうしてきたのです。これが、この王子中学の伝統なのです。」

「お前、何て書く?」とか「どうする?」、「書きたくない。」など、皆が近くの席の友人達と喋り始め、教室がざわつき始めた。だが、佐藤先生が言った「過去は変えられます。」という発言を受け、一気に静まった。

「過去は変える事ができると思います。勿論、事実は変えられませんが、自分自身の中の真実は変える事ができると思います。辛い思い出や悲しい思い出が皆さんの足を引っ張るなら、それらの思い出を良い思い出に、記憶を塗り替えてしまえば良いのです。記憶を塗り替えられるような行動をすれば良いのです。」

クラス全体がポカンとしていた。佐藤先生の発言は意味不明で、理解出来なかった。ただ、私と優奈には少しだけ心当たりがあった。あれは、私の姉の事故について言っているのかもしれない。だが、過去は変わらない。死んだ姉は生き返らない。

「そういうのも意識しながら、課題に取り掛かってください。」

「は、はあ…何言ってるんですか?」と、誰も口にはしなかったが、誰もが同じ気持ちだっただろう。

「では、続いて立志式の実行委員を決めたいと思います。各クラスから二名ずつ選出する事になっていますが、立候補はありますか?」

 「はい。私やります。」

 真っ先に手を挙げたのは優奈だった。

 「私と鈴原さん、二人でやりたいです。」

 私は驚き過ぎて、何も言えなかった。

「他に立候補はありますか?無さそうなので、倉橋さんと鈴原さんで決定にしましょう。一ヶ月間、宜しくお願いします。」

今日は午後の授業が無い為、ホームルームが終わってすぐ私はいつも通り優奈と下校した。帰り道、周りに人がいなくなってから、優奈はその行動の意味を教えてくれた。

「人生設計書と自分史、十五年後まで学校で保管してるんだよね。これってチャンスだと思わない?お母さんにもお父さんにも、当然佐藤先生にも聞けないんだからさ。」

「ごめん、優奈。どういう事?」

優奈は立ち止まり、真っ直ぐ私の目を見て言った。

「咲のお姉さんが亡くなったのって、五月五日でしょ。しかも、中学三年の時。担任は佐藤先生。お姉さんは立志式の直前に亡くなったって事は、自分史や人生設計書を作り終えてから事故で亡くなったのよ。亡くなる直前のお姉さんが、どんな夢を持っていたか、自分の人生をどう考えていたか、それを見ればわかるんじゃない?」

優奈は自信いっぱいの表情で、確信を持っていた。

 「佐藤先生が、お姉さんの事故のきっかけに関わりがあるんだったら、人生設計書か自分史にヒントがあると思うんだ。いや、もうそこにしかヒントは無いと思う。そして、人生設計書も自分史も、まだ学校に保管されている。実行委員になれば、それを探すチャンスがあると思うんだよね。そこには、佐藤先生とお姉さんの繋がりを紐解くヒントがある筈よ。ううん。あるとすれば、そこだけよ。」

 私は驚きと喜び、そして感謝の気持ちが混ざり、優奈に抱きついた。

 「優奈、ありがとう。流石です。」

 「いえいえ。親友の為ですから。」

 私達に舞い込んだ最後のチャンス。あの頃の姉に会いにいく。



   6


 「自分史と人生設計書、書いた?」

 「自分史は書いたけど、人生設計書が全然駄目。まったく思いつかなくて書けない。優奈は?」

 「私は書いたよ。一応。」

 姉と比較されるのが嫌で、姉より先に大人になる事ばかり考えていた私には、自分自身の目標が欠けていたのかもしれない。将来の自分の姿などまったく想像が出来ず、宿題の終わりが見えなかった。そんな話をしながら、私と優奈は石田屋の駐車場で、その時を待った

 夜の九時、王子中学校の職員室の照明はまだ消えない。

 優奈は双眼鏡を使って、ずっと職員室の様子を見ていた。私も優奈も黒い長袖のTシャツと黒いジャージを履いている。冷静に見ると、二人で同じ格好をしているのはかなり怪しい。

正門から赤い軽自動車が出てきた。

「葛城先生、帰った。多分、職員室にはあと一人か二人しかいないと思う。咲、そろそろ行っても良いと思う。」

「うん。行こうか。」

私と優奈は学校へ向かって歩き始めた。荷物は携帯と財布、懐中電灯のみ。

「遥斗、行くよ。」

「おう。」と言って、吸っていた煙草を慌てて消し、遥斗と前原君が追ってきた。本当は遥斗達を呼ぶつもりは無かったのだが、見張りがいた方が良いという優奈の意見を尊重し、来てもらった。まさか遥斗の友人の前原君も来ると思わなかったが前原君は相変わらず前髪が長く、切ってしまいたくなる。美容室で何て注文したら、あの髪型になるのだろうか。そんな事を考えながら、石田屋の駐車場を出た。そして、私達は正門の塀の裏や黒のワンボックスの陰、花壇の横など、物陰に隠れながら、足音を消し、少しずつ職員用玄関へ近付いた。

今週の月曜日、私と優奈が立志式の実行委員に決まり、同じ週の木曜日には第一回目の立志式実行委員会が行われた。実行委員には、生徒会長の三組の別所君、テストで毎回学年一位という噂の四組の土屋君、去年バレーボールで県選抜に選ばれた五組の七條さんなどよく目立つ人ばかりで、優秀な人達の中に私みたいな一般人がいても良いのか不安になったが、二組の実行委員でありサッカー部のエースストライカー亀崎君の表情を見て、少し安心した。

スポーツ万能、身長が高く、顔もそこそこ良い為、女生徒から絶大な支持を受ける亀崎君は二年の二学期、優奈に「俺の女にしてやるよ。」というかなり上から、いや真上からの告白をした末、「ちょっと無理。ごめんなさい。」と壮絶に断られている。彼もまさか、ここで優奈と再会するとは思ってなかったのか、気不味い表情を浮かべ、こちらを見ていた。彼のことを見下していたつもりは無いが、同じ時期に憧れの大学生に振られた私としては、どこか親近感の湧く同級生だった。遥斗と同じサッカー部で、遥斗の後輩というのも、私を安心させた理由の一つかもしれない。ちなみに、後で優奈に「何で亀崎君、断ったの?顔をそこそこ良いじゃん。」って言ったら、「そこそこじゃ嫌なの。」との事。

 「みんな揃った?」と言いながら。ドアからアズポンこと葛城梓先生が入ってきた。

 「立志式、アズポンが担当なの?」と喜びと驚きのあまり、思わず尋ねると、「だから、先生をあだ名で呼ぶな。」と返ってきた。立志式の担当がアズポン。私達にとって、これが一番の幸運だった。

 今後のスケジュールの発表、資料作成などの役割分担を終え、その日の会議は終わった。会議を終えてすぐ、私はアズポンに聞いた。

 「自分史や人生設計書は同窓会で返却されるまでの十五年間、どこに保管されているんですか?」

 「そんな事聞いてどうするのよ。」と最も反応が返ってきた。私は「変態女装教師と取引する為に、お姉ちゃんの書いた自分史と人生設計書を見たいからです。」とは言えず、黙ってしまうと、後ろから優奈がフォローしてくれた。

 「私達、うまく課題が出来なくて。参考に先輩達の作った物を見てみたいなと思って」

「駄目よ、それは。自分史なんて特にプライバシーの塊だからね。過去の卒業生が作った物は、他の生徒から見られないように、十五年間しっかり指導室で保管されているの。返却する日まで、生徒だけじゃなくて教師も見ないようにしているのよ。」

私と優奈は顔を合わせて微笑んだ。私はいつも優奈の機転の早さに助けられている。

「それにね、自分史も人生設計書も自分自身について書くのだから、他人の作った物を見ても参考にはならないわ。あなだ達だけの、あなた達にしか作れない物を作らないと。」

「はい、わかりました。」と、二人で声を揃えて言って、鞄を持って教室を出た。

意外な程あっさりと保管場所がわかり、私達は笑みさえ浮かべながら、廊下を歩いた。希望の光が見えてきた。私と優奈は帰り道、作戦を練った。指導室など、特別教室の鍵は職員室の入口の横のキーボックスの中にある。職員室に人が少ない状態なら、その鍵を誰にも見つからずに取る事ができるかもしれない。

「佐藤先生に呼び出されているのって、明後日でしょ。明日、やるしか無いね。」

「うん。」

「お姉さんの自分史か人生設計書にヒントが無かったらアウト。ヒントがあれば、対等な関係に持ち込める。勝負。」

「うん。」

翌日、昼休みに学校の廊下を歩いていると佐藤先生とすれ違った。佐藤先生は私を発見し、立ち止まった後、「明日、朝十時に正門の前に来てください。」と呟いた。私は佐藤先生を睨みつけ、「変態教師。」と言ったが、そんな事は位にも介さず、「良いですね?」とだけ念押しをし、その場を去った。

授業が終わり一度下校してから、夜の八時に石田屋で待ち合わせをした。そしてアズポンが帰宅し、職員室に数人の先生しかいない状態になってから、私と優奈、遥斗、前原君の四人で職員室に向かった。

前原君には校舎の裏に廻ってもらい、窓から職員室の様子を探ってもらった。私、優奈、遥斗の三人は職員用玄関の下駄箱の陰に隠れていた。数分後、前原君から遥斗にメールが届いた。遥斗はその画面を私達に見せた。「足立と竹原だけいる。机にいる。鍵とれる。」と書いてあった。職員室には足立先生と竹原先生の二人しかいない。その上、二人とも自分の机で仕事をしているので、キーボックスから鍵がとれる。つまり、作戦続行の指示。

私達は足音を消し、ゆっくりと職員室の扉の前へ近付いた。到着した後、廊下に膝を付けて屈んだ。職員室の扉は引き戸となっている。私はゆっくりと少しずつ、その扉を開けた。

職員室の扉の隙間から中の様子を伺うと、前原君の言う通り足立先生と竹原先生の二人しかいなかった。さらに幸運だったのは、二人とも机の前に座り、こちらに背中を向けて仕事をしていた。私は優奈と目を合わせて、扉を開ける速度を少しだけ上げた。

体一つ、通れる所まで扉を開けて、屈んだまま体を職員室へねじ込んだ。優奈と遥斗は職員室の外に残し、単独での潜入を試みた。足音を消し、息を潜め、机の陰に身を隠した。キーボックスは扉のすぐ横の壁に取り付けられていた。私は机の陰から片手だけを上に伸ばしてキーボックスの蓋を外す。その時、「ガタッ」と音がした。私はすぐに伸ばしていた手を引っ込め、机の陰で身を小さくした。どうやら足立先生が急に立ち上がった時の音だったようだ。

「竹原先生、コーヒーでも飲みますか?疲れたでしょ?」と足立先生。

「いえ、ありがとうございます。でも結構です。もうすぐ終わりますし。」と竹原先生。

「休み無しで作業を続けると、逆に効率が悪くなる。休憩しなさい。コーヒーを入れてあげよう。」と言い直し、備え付けのコーヒーメーカーへ向かう独身の足立先生。確か五十歳ぐらい。

「いえ、本当に。大丈夫ですので…。」と、本当に迷惑そうな女教師の竹原先生。二十四歳、けっこう可愛い。

「もうどうでもいいから、じっとしてなさいよ。」と心に思う私、鈴原咲。十四歳。

足立先生は職員室の端へ移動し、コーヒーを入れ始めた。足立先生はこちらに背中を向けている。竹原先生は迷惑そうに、その背中をじっと見ていた。

今、動いてしまうと竹原先生に見つかる気がして、じっとしていた。すると、竹原先生は一瞬、怒ったような表情をして、机の前に再び座り、仕事に戻った。「足立、鬱陶しいな」とか思っているのだろうなと考えていたが、すぐにハッとした。今なら見つからずにやれる。足立先生はまだコーヒーメーカーの前、竹原先生は完全にこちらに背を向けている。私は立ち上がり、キーボックスから指導室の文字を探した。右上から順番に探すと、すぐに見つかった。一番上の段の右から三番目のフックにかかっていた。私は音が鳴らないように鍵を取り出し、再び机の陰に隠れた。見つかっていないか確認しようと、二人の先生の方を見ると、先程と変わらず足立先生はコーヒーメーカーの前に立っており、竹原先生は先程以上の速度で書類を片付けていた。さらにその奥、窓の向こうでは前原君がこっちを見ながら、親指を立てていたので、私は「バカ。しゃがんで。」と、音は出さずに口の動きだけで言った。

指導室の鍵を握りしめたまま、再び職員室の扉の狭い隙間を通り抜けた。優奈と遥斗もこちらも見て親指を立てた。はやる気持ちを抑え、私達は職員室の目の前にある階段を音が鳴らないようにゆっくりと登った。

北校舎、南校舎ともに四階建てとなっており、指導室は南校舎の四階の一番西側に位置する。職員室は北校舎の一階の一番東側にあり、学校の中でも最も離れた位置関係となっている。階段は西側と東側の両方にある為、東側の階段を四階まで登り、四階から渡り廊下を歩き、南校舎へ移動する予定だった。

私達は懐中電灯の灯りだけを頼りに四階まで上がり、渡り廊下へ続く扉を開けようとした。その時に三人とも同時に気が付いた。南校舎の三階、西側に一番端にある教室。三年一組の教室の灯りが点いていたのだ。

「何で、こんな時間に灯りが点いてるのよ。誰よ。」

「そんなの、佐藤先生に決まってるわ。生徒がこんな時間にいる筈が無いもん。」

私達は躊躇して立ち止まっていたが、やるべき事は変わらない。

「行こう。時間も無いし。」

私と優奈は目を合わせて、覚悟を決めた。遥斗は「やばいだろ、流石に。」と言っていたが、私達の後について、一緒に渡り廊下を渡った。

渡り廊下を、前かがみになりながら、ゆっくりと歩いていると、優奈が遥斗の方を振り返り言った。

「遥斗さん、お願いがあるんですけど…」

「うん?何?」

「遥斗さん、三階で佐藤先生の見張りをしてもらえないですか?今、学校に残っている先生の中で、指導室に用事があるのって佐藤先生ぐらいだと思うんです。私達、佐藤先生に見つかったら、今までの苦労がすべて水の泡なの。良いですか?すいません。お願いします。助かります。」

遥斗が返事をする前に、優奈の中では決まったようだ。

「もし、佐藤先生が教室から出てきて、階段を上に登ろうとしたら、咲の携帯に電話してくださいね。すぐに。」

「わかった。じゃあ、三階の男子トイレの所から教室の方を見張っとくよ。」

「それなら女子トイレにしてください。もし、佐藤先生がトイレに行ったら、鉢合わせしちゃう。」

「そ、そうか。わかった。」

どっちが年上かわからないぐらい、優奈はしっかり者で頭の回転が早かった。まだ何も終わっていないが、私は優奈の存在に感謝した。優奈がいたから、ここまで来られた。それは間違いない事実。

「行こう。咲。」

「うん。」

私達は渡り廊下を渡り終えて、二手に分かれた。遥斗は三階の女子トイレへ。私と優奈は指導室へ向かった。

指導室の扉の前に立ち、私は職員室で調達した鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。一週間前にここを訪れた時とはまったく違う感情で、私はここにいる。

音が鳴らないように、鍵穴に差し込んだ鍵をゆっくりと右へ回す。ガチャという音が鳴り、鍵が空いた。引き戸をゆっくりと横に滑らせ、私達は指導室に入った。

懐中電灯の灯りを頼りに、私達は二手に分かれて、順番に棚を探した。優奈には事前に、姉が死んだ年代を教えていたから、もし資料が見付かったとしたら、すぐにわかるだろう。

指導室に入ると、正面に机が二つ並んでおり、その横に本棚が二つ。前回ここに来た時は気付かなかったが、入ってすぐ右側にはパーテーションで仕切られた場所があり、中を覗くと机が一つと椅子が二つ並べてあった。おそらく、ここで指導を行うのだろう。進路指導、生徒指導。私も、どうしても指導されないといけないのであれば、ここで指導されたかった。どうして、土曜日に変態教師と学校の外で会わなければいけないのか。

本棚を上から順番に見ていると、高校の情報を纏めた資料や就職先についての資料などは多数あったが、立志式に関するものは出てこなかった。

私の中に、少しずつ焦りが芽生えてきた。ここで見つからなかったら、私は佐藤先生の言う事を聞かないといけない。そして、姉への手掛りも失うのだ。母から比べられて、母から愛されながら、貶される日々に戻るのだ。

机の引き出しもすべて探したが、立志式の資料は無い。指導室に入って、十分は経過していただろう。それだけ探しても見つからない。

「どうしよう、優奈。見つからないよ。」

「うん…。十五年分ある筈だから、目立つと思うんだけどな…」

「保管場所が変わったってことかな…」

優奈は何も答えなかった。それでも、机二つと棚二つしかない小さな部屋の中、十五年分の資料が見つからないという事は、もうここには残っていないという可能性が高い。

「職員室かな…だったら最悪だ。」

優奈が俯きながら呟いた。指導室に無いのであれば、職員室ぐらいしか保管場所は無い。私達は少しの沈黙の後、指導室を出た。

階段をゆっくりと降りた。三階に降りた瞬間だった。

「お姉さんには会えましたか?」

そして、その声とほぼ同時に私のスマートフォンが鳴った。遥斗からの着信だろうが、もう遅い。

目の前には佐藤先生が立っていた。



   7


 「お姉さんには会えましたか?」

昼間、教室で見た時と同じ格好で、佐藤先生は階段の上にいる私達を見上げながら言った。私と優奈は蛇に睨まれた蛙のように、固まって動けなくなっていた。その間、ポケットの中のスマートフォンが震え続けていた。黙っている私達を見て、佐藤先生は少し笑って言った。

「あなたのお姉さんは、あまり行動的な人では無かったのですけどね。まさか、妹はここまでやるとは、流石に予想出来なかったです。姉妹って、あまり似ないのかもしれませんね。」

「佐藤先生が、咲に変な条件を出さなければ、ここまでやらなかったんですけど。」

私の代りに優奈が佐藤先生を睨みながら言い返してくれた。

「もう一度年齢を誤魔化して働いてください。今度はスナックでは無く、別の場所で。」

これが、佐藤先生が私に出した条件だった。スナックでアルバイトしていた事を内緒にする代わりに、私に要求した用件だ。スナック以外の店で、大人じゃないと働けない店というのはどんな店があるのか、よくわからないが、如何わしい店なのは間違いない。遥斗が想像したスナックのように、気持ち悪い中年とお金目的でいやらしい事をさせる気なのだろう。私の純潔を売り物になんてさせない。絶対に。この条件を叩きつけられた時、強く心に誓ったのだ。

「おそらく、立志式の資料の場所は葛城先生に聞いたのでしょう。彼女は知らないのだと思いますが、去年の年末に立志式の資料はすべて北校舎の資料室に移動させました。もう指導室にはありません。」

アズポンの奴め、もっとしっかりしなさい。アズポンを攻める気持ちはあるが、恨む気はまったく無い。恨むべきは、変態教師、ただ一人。憎むべきは、目の前の中年教師、ただ一人だけなのだ。

「ついてきなさい。家族ですから良いでしょう。見せてあげます。お姉さんの自分史と人生設計書。」

目の前の変態講師はこの期に及んで、まだ私と取引がしたいのだろうか。私達が夜の学校に忍び込んでまで見たかった物を簡単に出すなんて。こいつは、本当に人間の屑…

「あれ?」と思わず声に出てしまった。この変態教師、良いのか?取引の材料を与えてしまって。

「先生、本当に良いんですか?」

ついつい、思った事をそのまま聞いてしまう馬鹿な私。

「良いですよ。むしろ、ここで見せなかったら、また忍び込むでしょう、あなた達は。この学校は警備会社と契約していますから、もし誰かに見つかったら大問題になりますからね。それを考えると、素直に見せた方が良いと思います。」

佐藤先生は歩き出した。階段を降りていく。私達は慌てて、その後を追った。

「それに…どちらにしても、明日見せるつもりでしたから。」

佐藤先生は前を向いたまま言った。私はどういう意味なのか理解出来ず、またしても、そのまま聞いてしまった。

「佐藤先生って、何を考えてるんですか?もう気付いてると思いますけど、私達はお姉ちゃんの自分史や人生設計書から佐藤先生の事故への責任を調べるつもりだったんですよ。それを渡しちゃったら、場合によっては取引に応じませんよ。私。」

一定のリズムで響いていた足音が止まり、佐藤先生がこちらを振り返る。

「鈴原さん、あなた得意科目は体育だそうですね。足立先生が絶賛していましたよ。」

「それが何の関係あるんですか?話を逸らすのは辞めてください。」

「私も若い頃はラグビーをやっていました。走るのには自信があります。」

「だから、それが何の関係が…」

「勝負しましょうか?廊下の端から端まで。どっちが早く走れるか…」

「は?」私も優奈も呆然としてしまった。

「もし鈴原さんが勝ったら、私が女装した写真を渡します。もし私が勝ったら、鈴原さんは私の贖罪に協力してください。お姉さんへの贖罪に。」

ショクザイの意味もよく解らなかったし、それがもう一度年齢を誤魔化して働く事に繋がるのかも解らなかったが、こちらとしてはこの勝負、受けない理由が無い。勝てば得る物はある。負けても今と状況が変わらない。

「私、けっこう早いですよ。」

私が承諾の返事の代りにそう言うと、佐藤先生はニヤリと笑って、「受けて立ちましょう。」と言った。

王子中学校、南校舎の二階の廊下が勝負の舞台となった。幅は二メートルぐらいか。長さはおそらく百メートルも無いと思う。スタート地点は東の端である一年六組の教室の前だ。西の端まで行き、壁に手を付いたらまた東の端まで戻ってきて、ここがゴール地点となる。スタートの合図も、ゴールの判定も優奈が行う。他に誰もいないのもあるが、これは私にとって有利に働く。僅差の場合は、優奈は私の勝ちと判断してくれるだろう。

佐藤先生は一度職員室へ戻った。足立先生と竹原先生を帰らせる為と、姉の自分史と人生設計書を持ってくる為だ。私はその待ち時間を利用し、一年六組の教室の前で入念な準備運動をした。この勝負、絶対に負けられない。

「おかしいと思わない?佐藤先生の行動。」優奈が窓から外を眺めながら言った。

「思う。この勝負も佐藤先生にとってメリットってあるのかな?もし、メリットがあるとすれば私達がこれで大人しくなる事?」

「うん…。でも、私達がこの事を公にするのを嫌がってるようにも見えるし、それだけじゃない気もするのよね。」

「…お姉ちゃんへのショクザイって言ってた事?ショクザイってなんだろう。」

「結局、佐藤先生が咲に出した条件って、私達が想像する程、無茶苦茶な内容じゃないのかもしれないよ。」

窓から外を見ると、足立先生と竹原先生が玄関から出てきて、それぞれ自分の車に向かっていくのが見えた。

「どちらにしても、まずは勝つ事よ。そしたら、全てを喋ってもらう。それだけよ。」

階段から佐藤先生が上がってきて、二階の照明が一斉に点灯し、私達が知っている廊下の姿へと変わった。

「準備は良いですか?」という佐藤先生はジャージに着替えており、靴もスリッパでは無く、運動靴に変わっていた。こちらも長袖のTシャツとジャージ、そしてスニーカーのまま校舎に上がっている。条件はほぼ同じ。

「いつでもオッケーです。」と力強く答えておいた。

佐藤先生は一年六組の教室の一番廊下に近い所に置いてある机の上に、おそらく姉の自分史と人生設計書と思われる資料を置いた。そして、私と佐藤先生は校舎の西の端に横並びに立った。優奈は一年六組の教室の廊下側の窓から顔を出している。

「倉橋さん、スタートの合図をお願いします。」

佐藤先生がそう言ったのを聞き、私はぐっと握り拳を作り、少しだけ腰を落とし、右足を一歩後ろに下げた。目は優奈の目を真っ直ぐに捉え、集中力を高めていた。短距離走はスタートが大事だ。勝負は一瞬で着く。

「私の女装ですけどね。」と佐藤先生が呟くが、無視、無視。優奈には佐藤先生が何か喋っているのが聞こえないのか、聞こえたけど無視したのか、かまわず「用意…」と言った。

私の緊張は最高潮に高まった。

「私の女装、あれはあるアイドルのつもりだったのですけどね。」

「は?無理でしょ!」と思わずツッコミを入れてしまった、

その瞬間、優奈の「スタート」という声が聞こえた。

二人一斉にでは無く、佐藤先生のスタートに半歩遅れて私がスタートした。ツッコミなんてするんじゃなかったと後悔したが、既に遅かった。私は全力で追ったが、流石は元ラグビー部だけあって、佐藤先生の足はなかなか速かった。この一瞬で体一つ分のリードを許してしまった。

スタートした瞬間、優奈の目の前を通り抜ける。「咲、頑張れ!」の声援を背中に受けながら、全力で走る。

一年五組、四組、西階段、三組の教室を一瞬で超えて、渡り廊下へ続く踊り場を超えて、給食室、トイレ、一年二組、東階段、一年一組、多目的教室を超えた所が校舎の東の端となる。

全力で走っているのだが、私達の速度はほぼ変わらないのか、差は開きもしないが縮まりもしない。さらに廊下の幅が狭く、佐藤先生は私が横から追い抜くのを防ぐかのように、常に私の進路にコースを取り続けた為、追い抜く事も出来なかった。

東の端に到着し、壁にタッチして、折り返すその瞬間、佐藤先生の表情を見えたが、かなり息があがっているようだった。後半、望みはあるかもしれない。私は再びギヤを上げて、全力で追う。

 その時は突然訪れた。

 「ぎゃあああああ!」

 突如、叫びながら佐藤先生は廊下で躓いて、体勢を崩した。何とか倒れないように、持ちこたえようと必死でバランスをとろうとしていたが、その努力虚しく、ゆっくりと廊下に倒れ込んだ。その動きはスローモーションのように見え、佐藤先生のとても悔しそうな表情まではっきりと見えた。

 倒れた佐藤先生を飛び越えた。その瞬間、私の視界に飛び込んできたのは、真っ暗闇に浮かぶ口だった。

よく見るとそれは真っ暗な階段に立つ男の子の幽霊のようで、鼻と口しか見えず、口はニヤリと頬まで大きく開いていた。突然、こんなのが出てきたら、そりゃあ驚くわ。

 「前原君、そこにいたんだね。」

私は前原君に親指を立てて、ウインクした。前原君も親指を立てて返してくれた。

 そういえば、遥斗の事も忘れていた。まだ三階の女子トイレにいるのかなと思いながら、残りの道を駆け抜けた。後ろから、佐藤先生が追ってきていたが、これだけの差を逆転するのは不可能だ。私は勝利を確信した。不良にもヤクザにも屈しないという噂の先生も、幽霊には弱いのかもしれない。

 ゴール直前、一年六組の窓から顔を出す優奈とハイタッチをした。

 「あははははははははは。写真、ゲット!」

 私はゴール地点である西の端の壁を思い切り、平手で叩いた。


土曜日。朝十時。私と優奈は王子中学校の正門の前にいた。

「拓海君がね、すごい量の花びらが舞っている中を飛ぶんだけど、その時の表情がすごい格好良いのよ。」

拓海君というのは、優奈が好きなアイドルで、中世的な顔をした二十歳ぐらいの男の子である、たしか。歌もダンスも演技も得意で、ミュージカルにも多く出演している、らしい。

「あとね、最後のシーンなんだけど、ステージの上で雨が降ってさ、その中で拓海君が日本刀でゾンビを斬る姿が本当に素敵で。咲も絶対見た方が良いよ。今日、私の家おいでよ。一緒にDVD見ようよ。」

花びら舞う中を飛ぶ男の子がゾンビを日本刀で斬る、そんなミュージカル。アイドルに興味は無いが、少し見たくなってきた。

「拓海君は象の妖精の役なんだけど…」

と、俄然興味が湧き、今日は優奈の家に行き、DVDを見ようと心に決めた瞬間に黒のワンボックスカーが道路から正門へ入ってきた。停車し、エンジンはかけたまま佐藤先生は運転席から降りた。

「おはようございます。」

「おはようございます。」と私達も笑顔で挨拶を返した。

佐藤先生はニコッと笑って、手に持っていた封筒を差し出した。私はそれを受け取って、封筒の中に入ってあった一枚の写真を取り出した。

「あははははは、ちょっと待って。これヤバイでしょ。あははははは。」

私と優奈はその写真を見て、腹を抱えて笑った。写真を見て笑い、優奈と顔を見合わせて笑い、佐藤先生を見て大笑いした。写真には、真っ赤なハイヒールを履いて、紺色のタイトスカートと真っ赤なセーターを身に付け、小麦色のウェーブがかかったセミロングの鬘をかぶった佐藤先生が写っていたのだ。数名の笑顔の男達に囲まれて、中央で俯いて笑う佐藤先生の女装姿は私の十五年の人生の中で最も面白い写真だった。

私達が大笑いしている様子を、少し複雑な表情で、佐藤先生は見守っていた。それを見て、再び笑う。お腹が苦しい。顎や頬が痛い。涙が止まらない。

「これで良いですか?」

「はい。良いです。」

これで私と佐藤先生の関係は五分となった。私は佐藤先生の女装写真を大切に鞄にしまい、黒のワンボックスカーに乗り込んだ。

「さてと、じゃあ全部説明してもらいましょうか。佐藤先生。」

私と優奈を乗せて、佐藤先生は黒のワンボックスを走らせた。そして、ゆっくりと語り始めた。姉の事を。


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