ジェネレーションYの挑戦
どこからだろう。
アパートの窓をあけると、やわらかな風に運ばれた清楚な香りが私を包んだ。
子供のころから大好きな匂い、どんな高級香水も及ばない沈丁花の香りだ。
春が来たのだ。
少し霞んだ青い空の眩い陽ざしに、私は目を細めた。いや、眉をひそめた。
やはり、今年も春服の新調は見送ろう・・・。
通帳の残高を見れば選択肢のない決定だ。母の遺言の謎解きになるかもしれない古都奈良訪問の出費が優先だ。ましてや、私の長年の夢である海外生活を実現するための定期預金は絶対に解約しない。
目標を果たすまでは、無駄使いは一切しない。生活費を徹底的に絞る、そう、合理化標語の「乾いた雑巾を絞る」ように。
今の会社に勤めてから4年が経つ。不安定な派遣社員。仕事ぶりの評価はすこぶる良いが自分のやりたいことではない。よって、自分本来の能力を出していないから自己評価はゼロ。会社の業種は時流のインターネット関係だが、競争が激しく業績はパッとしない。というわけで大手企業の女子社員ほどの収入には、はるかに及ばない。いわゆる若年貧困層。
でも、「政治が悪いからだ」と人生を他人任せにするほど自分を見失ってはいない。将来の夢はハッキリ持っている。世界に飛び出し、国境を持たない心で、たくさんの人々と接することだ。こんなわけで、日々、世界の出来事には人一倍強い関心を持っているが、情報源の新聞は取っていない。とても月4000円など払う余裕はない。
世間の情報は無料のネット新聞と通勤電車の週刊誌吊り広告で十分。むしろネット新聞の方がペーパー全国紙より人間中心の記事で面白い。特に海外記事は私の心を昂ぶらせ自己啓発されるものが多い。記事の真偽を嗅ぎ分ける勘も最近付いてきた。もちろん、元女子アナ第2子誕生なんて記事は読まない。皇族でもあるまいし。
今日のネット記事は、イギリスから寄稿されたものに強く共感した。『欧米のジェネレーションY』という見出しのものであり、寄稿者が評論家でなく、在英日本人の一般女性保育士であることも気を引かれた。ジェネレーションYと言うのは1980年代から2000年にかけて生まれた人たちを指し、現在、その多くが生きるための最低限の収入を得るために喘いでいる若者達だ。将来性のない仕事、華やいだ結婚や教育費のかかる子供なんて望めないという受難の世代だ。記事は、日頃、私が自分の世代におぼろげに感じていたことをハッキリと断定して活字に著していた。―【今日の若者たちの将来の生活水準は、前の世代よりも低くなっているだろう。努力をすれば成功するというこれまでの考えは、もはや過去のものとなった】―この記事に特に衝撃を受けたわけではない。やっぱりそうだったのか、若年貧困は日本だけでなく欧米でも進行していたのか。私の人生このまま押し流されてたまるか。たった一人でも、ジェネレーションYの受難に挑戦だ。
私は母娘一人の母子家庭育ちだ。母の思い出と言えば生け花をよく行い、
「あなたの『美和』と言う名前は、生け花の心を表した言葉からとったものだ」
と言った。私も自然と花に手を伸ばしたが、初めての稽古の日から母は、
「美和はとてもセンスがよい。いつか、美和の心が分かる大切な人の前で花を生ける日が来るでしょう」
と言った。
また、母は歌がとても上手でよく歌っていた。『その日から』という曲をよく口ずさんでいたが、歌謡曲ではなくどこか外国の曲だったと思う。私はそばで毎日聴いていたので自然にメロディも歌詞も覚えた。母は私に、
「美和がいつかこの曲を、愛する人の前で歌う日が来るでしょう」
と語りかけた。
そんな母を私は15歳の時に亡くした。亡くなるまえに、たいへん美しい古代織物のような布の『物入れ袋』を私に差出した。袋は帯らしきものを裁って、母が袋に作り変えたように見えた。中に何が入っているのか言わなかったが、
「あなたが困った時にこの袋を開きなさい」
と言った。母は、更に1枚の和紙を広げて奇妙なことを言った。和紙には簡単なデッサンの女性の顔が描かれていた。母は、化粧は美しさの装いのためではなく魔除けのためだと言い、私が大人になってからのメイクの仕方を、デッサンを示しながら丁寧に話し出した。眉はタレ気味、目は目じりをぼかしたドングリ眼、口のまわりには、若者には見られない‘ほうれい線`まで書かれている。一目見て、美形ではないフケ顔だ。私は強い戸惑いを感じたが、母はこの化粧が美和を守ると言い、
「美和が大切と思う人に出会うまでは、この化粧方法を必ず続けるように」
と言い置いた。ただし、
「もし古都奈良を訪れるような時があったら、聖地のため化粧をしてはいけない」
とも言った。
その後、私は縁者に預けられ高等学校を卒業して社会へ出た。今日まで多少の困りごとは何度かあったが、母の形見の物入れ袋を開けるようなことはなかった。また、母が示した化粧は当初、自分の顔に馴染まず違和感を覚えたが、母の言葉を信じ、初出勤の日から実行した。
会社に勤めてからの8年間、特に彼は出来ていない。化粧のせいか、道行く人に振り返えられたことなど、一度もない。合コンに参加もしたが、いつも引き立て役ばかり。趣味を聞かれて、まさか「海外記事の読み解き」なんて言えないし。男性の視線もほとんど集まらない。たまに視線を向ける人は奇妙なものを見る目つき・・・。
「化粧を変えたら」
と忠告してくれる友達もいたが、変える気は毛頭ない。私を守ってくれているのだから。
八月の夏休みに入り、春先に予定を組んだ奈良行きの日が来た。
観光旅行ではない。子供の頃に母から渡された物入れ袋の古代模様が気になり、古都奈良に行けばなにか手がかりがあるかもしれないと思ったからだ。
母の「もし、奈良に行く時は化粧をしてはいけない」という言葉も実行した。今日は全くのスッピン顔だ。なにかをし忘れたような気がしたが、肌はいつもよりツルツルで気持ちがよい。
奈良に向かう新幹線の車中で、私は予期しない状況に置かれ戸惑いを感じた。通路を通る人々は男女を問わずことごとく、私の顔に目を見張り、眩いものでも見たような視線を向けた。特に若い男性たちは立ち止まり、あるいは何度も振り返り、
「まさしくヴィーナスだ」
と驚嘆の呟きをもらした。
奈良に着き興福寺、東大寺を参観した後、隣接の二月堂に廻った。季節外れの八月のせいか広い境内に参観者は私と若い男性一人だけだった。ここでは、やっと人々の、フラッシュを浴びせるような視線から解放された気がした。早春にここでおおぜいの人が集まり、火の粉をまき散らす『お水取りの行事』が行われるとは信じられない静寂だ。
私は回廊の端にたたずんで誰もいない境内をゆっくりと眺めていた。先ほどから居合わせた男性は少し離れたところでしきりと屋根を見上げていた。そのうち、屋根の構造についてなにか口にしている。始めは独り言かと思ったが、ほどなくして私への語りかけと気づいた。私の了解をとることもなく建築美について手振りを入れて長々と話した。学究的なものではなく直観的な美の賞讃だったので私も共感するところがあり、突然の語りかけにも不快ではなかった。
堂を一巡したあと2人で境内の小さな茶店に立ち寄ったが、ここでも客は私たち二人だけだった。イスは木製の古びた長イスだったが二月堂に融和しており、知り合ったばかりの私たちは美について共感の余韻をもったまま、並んで腰かけた。私は並んで座ったことが、ごく自然に思えた。
男性、これからは「彼」と表現する。彼は女性の一人旅を訝り、奈良にはよく来るのか、寺院のどこに惹かれたのか、古代史に興味があるのかなど立て続けに問いかけてきた。私は、寺院参観はついでであり、
「訪問目的は別のこと」
と話し、ちょっと躊躇したあと脇に置いてあったバッグを引き寄せ、中から古代模様の袋を取り出して彼の前にそっと置いた。
さて、今日は予期しないことばかり!!
彼はまず、袋を見るより先に、私の差し出した指先をじっと見入り、
「観音の御手か、見たことのない美しさだ」
とつぶやいた。
それから彼は袋を手に取ると驚いた様子で目を見張り、
「これは東大寺正倉院に保管されている錦の織物と同形模様だ、おそらく江戸時代あたりに複製されたものだろうが、古代の織法が伝わっていないため、めったに織れるものではない。名匠の織物職人が年月をかけ、試行を重ねて帯として再現したものにちがいない。その後、由緒ある家系に引き継がれたのであろうが、この袋はどこで手にいれたのか」
と真剣な眼差しを向けた。私は母が帯らしきものを裁ち直して作ったものだと話した。更に、母が魔除けの化粧をするように言い置いたこと、奈良では化粧をしてはいけないことも話した。彼は私のスッピン顔をしげじげと見つめ、
「このように美しい切れ長の目は見たことがない、今日はラッキーだった」
と言い、魔除けの化粧はこれからも「しばらく、続けてください」と懇願するように言った。
私は、‘しばらく‘という言葉をなぜか素直に受け入れ、深く頷いた。
私たちは奈良からもどったあと、たびたび会った。当然、私はいつも化粧顔。あの新幹線での経験はその後まったく起きない。でも、彼は会うたびにまばゆい目つきで私を見つめた。
二人の会話は当初、彼がリードするかたちで古代から現代に至るまでの建築デザインの話題が多かった。そのうち、私はデートの話題としては不適切と思ったが、国際社会への想いを少し話してみたが、彼は予想外に強く反応した。回を重ねるごとに、彼も海外の話題を人生観と結びつけて話すようになった。私の心の中には、大切な人という存在がはっきりと芽吹き出していた。もちろん日常の話も深めていった。勤め先は建設系で父がオーナーであること、母も健在である、兄は二人いるが父の会社の役員であり、いずれも結婚していること、東京生まれであることなど。
あとでわかったことだが、次兄の嫁様が私と彼が歩いているところを偶然見かけ、「義弟が冴えない服装の不美人と仲睦まじく連れ立っていた」
と彼の母に告げた。
「あのような品のない女と義弟が結婚して、将来義姉妹の関係になるのはお断り」
と言ったとのこと。
彼のお母様はこの話を聞いてたいへん驚き、これは我が家の嫁にするには不似合と思い、阻止の一計を案じた。そして、不美人の女を、美しく優れた兄嫁たちに引き合わせれば、その身の劣りを恥じて身を引くであろうとの策である。
彼はお母様たちが、私たちを別れさせる策とは知らずに、お母様の‘嫁合わせ‘の要望を入れ、私は一週間後に彼の家族と会うことになった。この話を聞いて私は大切な日が来たと思い、躊躇することなく了解した。
彼は、来訪はいつもの服装でよい、ただし、
「美和が私を大切な人と思うならば、魔除けの化粧はしないでスッピンで来ること」と言った。また、なんの品物でもよいから、父に贈り物をひとつ持ってきて欲しいと言った。
私は、心が弾んだものの前日になっても、贈り物はなにがよいか思い浮かばず、また、服装も量販店の吊るし服ではと気後れした。
これで彼の家族に会えようか・・・。
私は困り果てたが、ふと、母が「困ったときには袋を開けなさい」と言ったことを思い出した。
衣装箱の奥から袋を取り出し、初めて紐を解いた。中には大きなスカーフと小箱が一つ入っていた。スカーフは、どこの国のものか分からないが、これまで見たことのない喩えようもなく美しい優雅なものだった。私は、瞬間、これを上に羽織って行こうと決めた。さらに、小箱を取り出しフタを開けると、木片か樹脂の塊りのような黒っぽいものが一つ入っていた。フタの裏には『越南』と書かれベトナムの古称と思ったが黒片が何かは分らなかった。しかし、母が遺したのであるから、価値あるものにちがいないと思い、これをお父様への贈り物に決めた。
嫁合わせの日が来た。行き先地は明かにされていないが、彼とは東京駅で待ち合わせをした。もちろん、私はスッピン顔。彼は私を見つけ、近づくと瞳だけを見て、
「まばゆい」
とほほ笑んだ。そしてスカーフに見入り、
「人の心を和ませるこれほど優美な模様は見たことがない。このような高貴なものを持っていたのか」
と聞かれ、私は、
「昨日、母の物入れ袋を開けたところ、中に入っていました」
と告げた。
行先は長野県と言われ新幹線に乗車したが、通路を通る人々は私を見て、
「これほど気高くなれるものか!!」
とささやいた。
新幹線で降り立ったのは軽井沢だった。駅には彼の家の使用人らしき人が車で出迎えに来ており、すこしの乗車の後、降り立ったところは高い木立に囲まれた大きな別荘風の建物だった。私は彼に付き従がって、応接間と思える広い部屋に入った。
ご両親、長兄夫妻、次兄夫妻が席についており、待ち構えていたように一斉に私に視線を向けた。
お母様、兄嫁、次兄嫁は一瞬キツネにつままれたような顔をして、私を見つめたが、不美人と吹聴していた次兄嫁は、
「違う!!」
と狼狽した。
私は緊張しなかった。自分が輝いているのが自分でもよく分かった。
もちろん、この輝きは私の心から出ているものだ
「はじめまして、山野美和です。お招き頂きありがとうございます」
と挨拶した。長兄が、
「ファッション誌から抜け出したようだ」
と言った。次兄が
「声もたいへん美しい」
と言った。私が末席に着こうとすると、お父様はお顔をにこやかにくずされ、
「なんと気高いことか」
とおっしゃり、お母様の左席にお呼びになった。
私は彼に促されて、お父様の前に贈り物の小箱をそっと差し出した。お母様は私のしぐさを注意深く見ていたが、私の伸ばした手指をしげじげと見て、ご自分の手をおずおずとテーブルから引き下げた。
お父様は小箱のフタを開け、驚きの様子で目をしばたかせ、黒片を手のひらに取り、「これは貴重だ、さっそく明日の茶会で使おう」
と言った。長兄が脇から覗き込むと、お父様は、
「ベトナム産の極上伽羅だ。今は入手が難しい香木だ」
と言い、満面の笑みを浮かべた。
次兄の嫁は音大卒であり、夫が私の声を褒めたのが腹立たしいらしく、意地悪く、
「美和さんは声が美しいから歌を披露していただきましょう」
と言った。彼は手振りで私に制止のしぐさをしかけたが、私がスッと立ち上がるのを見て手を降ろし、心配顔で私を見た。私は彼にかすかにうなずき、その後、お父様にゆっくり会釈したのち、歌い始めた。
澄んだ柔らかいソプラノが天井の高い広間に響き渡った。
あなたにすべてをあげたその日から
まるで私の運命は花に飾られているみたい
私、魔法の世界で夢見ているような気がして
心もまだあなたの初めての口づけに酔っていてよ
なんて素晴らしい生活なの!
私の夢は夢でなかったのね!
私が歌い終わると、全員が肩から力を抜き長い拍手をした。次兄が、
「スバラシイ、感動した」
と言った。次兄の嫁は、只々、茫然としていた。
海外勤務の経験がある長兄が、
「日本ではあまり歌われないが、イタリアのボローニア歌劇場で聴いたことがある。シャルパンティエ作曲の歌劇ルイーズの『その日から』だ」
と言った。
私は母が「あなたが大切と思う人の前で、この歌を歌う日が来るでしょう」と言ったことを思い出し、胸が熱くなった。
次に長兄の嫁が長い欧米生活を鼻にかけて、海外事情を話しかけてきた。
内容は観光やショッピング、グルメ、パーティだった。私は、受け答えのイントロに嫁の話を引用したが次第に政治、経済、社会の分野に発展させ、現状の問題点については、簡潔に自分の考えを話した。そう、私は自分で考えるのが好きなのだ。
嫁は口をつぐんでしまったが、長兄が適格に応じ、話のキャッチボールも進み、私の存在は家族に深く浸透した。
歓談が進むにつれて和気藹々の触れ合いになり、帰りは家族揃って玄関までお送りいただいた。
お母様は近いうちに、
「東京の家にいらっしゃい」と言われ、
「美和さんの名前のいわれは、息子から聞いています。私も生け花は大好きです。今度いっしょに生けましょう」
とほほ笑んだ。
その後、私は彼と結婚した。彼がシンガポール支社に転勤になったので、私も
喜んで同行した。シンガポールで、私は日系企業で市場調査の仕事につくことになっている。今の若い人で、シンガポールが昭南島と呼ばれていた時代があったのは私しかしらないかも。アジアの人々との交流のことで、胸が大きくときめいている。
私は夫に、
「古都奈良には不思議な力があるのでしょうか」
と問いかけた。
夫は間髪いれずに、
「いや、自分で考えることが、不思議な力を生むのだよ」
と答えた。
私は『それから』をそっと口ずさんだ。
なんて素晴らしい生活なの!
わたしの夢は夢でなかったのね!
(完)
どこからだろう。
アパートの窓をあけると、やわらかな風に運ばれた清楚な香りが私を包んだ。
子供のころから大好きな匂い、どんな高級香水も及ばない沈丁花の香りだ。
春が来たのだ。
少し霞んだ青い空の眩い陽ざしに、私は目を細めた。いや、眉をひそめた。
やはり、今年も春服の新調は見送ろう・・・。
通帳の残高を見れば選択肢のない決定だ。母の遺言の謎解きになるかもしれない古都奈良訪問の出費が優先だ。ましてや、私の長年の夢である海外生活を実現するための定期預金は絶対に解約しない。
目標を果たすまでは、無駄使いは一切しない。生活費を徹底的に絞る、そう、合理化標語の「乾いた雑巾を絞る」ように。
今の会社に勤めてから4年が経つ。不安定な派遣社員。仕事ぶりの評価はすこぶる良いが自分のやりたいことではない。よって、自分本来の能力を出していないから自己評価はゼロ。会社の業種は時流のインターネット関係だが、競争が激しく業績はパッとしない。というわけで大手企業の女子社員ほどの収入には、はるかに及ばない。いわゆる若年貧困層。
でも、「政治が悪いからだ」と人生を他人任せにするほど自分を見失ってはいない。将来の夢はハッキリ持っている。世界に飛び出し、国境を持たない心で、たくさんの人々と接することだ。こんなわけで、日々、世界の出来事には人一倍強い関心を持っているが、情報源の新聞は取っていない。とても月4000円など払う余裕はない。
世間の情報は無料のネット新聞と通勤電車の週刊誌吊り広告で十分。むしろネット新聞の方がペーパー全国紙より人間中心の記事で面白い。特に海外記事は私の心を昂ぶらせ自己啓発されるものが多い。記事の真偽を嗅ぎ分ける勘も最近付いてきた。もちろん、元女子アナ第2子誕生なんて記事は読まない。皇族でもあるまいし。
今日のネット記事は、イギリスから寄稿されたものに強く共感した。『欧米のジェネレーションY』という見出しのものであり、寄稿者が評論家でなく、在英日本人の一般女性保育士であることも気を引かれた。ジェネレーションYと言うのは1980年代から2000年にかけて生まれた人たちを指し、現在、その多くが生きるための最低限の収入を得るために喘いでいる若者達だ。将来性のない仕事、華やいだ結婚や教育費のかかる子供なんて望めないという受難の世代だ。記事は、日頃、私が自分の世代におぼろげに感じていたことをハッキリと断定して活字に著していた。―【今日の若者たちの将来の生活水準は、前の世代よりも低くなっているだろう。努力をすれば成功するというこれまでの考えは、もはや過去のものとなった】―この記事に特に衝撃を受けたわけではない。やっぱりそうだったのか、若年貧困は日本だけでなく欧米でも進行していたのか。私の人生このまま押し流されてたまるか。たった一人でも、ジェネレーションYの受難に挑戦だ。
私は母娘一人の母子家庭育ちだ。母の思い出と言えば生け花をよく行い、
「あなたの『美和』と言う名前は、生け花の心を表した言葉からとったものだ」
と言った。私も自然と花に手を伸ばしたが、初めての稽古の日から母は、
「美和はとてもセンスがよい。いつか、美和の心が分かる大切な人の前で花を生ける日が来るでしょう」
と言った。
また、母は歌がとても上手でよく歌っていた。『その日から』という曲をよく口ずさんでいたが、歌謡曲ではなくどこか外国の曲だったと思う。私はそばで毎日聴いていたので自然にメロディも歌詞も覚えた。母は私に、
「美和がいつかこの曲を、愛する人の前で歌う日が来るでしょう」
と語りかけた。
そんな母を私は15歳の時に亡くした。亡くなるまえに、たいへん美しい古代織物のような布の『物入れ袋』を私に差出した。袋は帯らしきものを裁って、母が袋に作り変えたように見えた。中に何が入っているのか言わなかったが、
「あなたが困った時にこの袋を開きなさい」
と言った。母は、更に1枚の和紙を広げて奇妙なことを言った。和紙には簡単なデッサンの女性の顔が描かれていた。母は、化粧は美しさの装いのためではなく魔除けのためだと言い、私が大人になってからのメイクの仕方を、デッサンを示しながら丁寧に話し出した。眉はタレ気味、目は目じりをぼかしたドングリ眼、口のまわりには、若者には見られない‘ほうれい線`まで書かれている。一目見て、美形ではないフケ顔だ。私は強い戸惑いを感じたが、母はこの化粧が美和を守ると言い、
「美和が大切と思う人に出会うまでは、この化粧方法を必ず続けるように」
と言い置いた。ただし、
「もし古都奈良を訪れるような時があったら、聖地のため化粧をしてはいけない」
とも言った。
その後、私は縁者に預けられ高等学校を卒業して社会へ出た。今日まで多少の困りごとは何度かあったが、母の形見の物入れ袋を開けるようなことはなかった。また、母が示した化粧は当初、自分の顔に馴染まず違和感を覚えたが、母の言葉を信じ、初出勤の日から実行した。
会社に勤めてからの8年間、特に彼は出来ていない。化粧のせいか、道行く人に振り返えられたことなど、一度もない。合コンに参加もしたが、いつも引き立て役ばかり。趣味を聞かれて、まさか「海外記事の読み解き」なんて言えないし。男性の視線もほとんど集まらない。たまに視線を向ける人は奇妙なものを見る目つき・・・。
「化粧を変えたら」
と忠告してくれる友達もいたが、変える気は毛頭ない。私を守ってくれているのだから。
八月の夏休みに入り、春先に予定を組んだ奈良行きの日が来た。
観光旅行ではない。子供の頃に母から渡された物入れ袋の古代模様が気になり、古都奈良に行けばなにか手がかりがあるかもしれないと思ったからだ。
母の「もし、奈良に行く時は化粧をしてはいけない」という言葉も実行した。今日は全くのスッピン顔だ。なにかをし忘れたような気がしたが、肌はいつもよりツルツルで気持ちがよい。
奈良に向かう新幹線の車中で、私は予期しない状況に置かれ戸惑いを感じた。通路を通る人々は男女を問わずことごとく、私の顔に目を見張り、眩いものでも見たような視線を向けた。特に若い男性たちは立ち止まり、あるいは何度も振り返り、
「まさしくヴィーナスだ」
と驚嘆の呟きをもらした。
奈良に着き興福寺、東大寺を参観した後、隣接の二月堂に廻った。季節外れの八月のせいか広い境内に参観者は私と若い男性一人だけだった。ここでは、やっと人々の、フラッシュを浴びせるような視線から解放された気がした。早春にここでおおぜいの人が集まり、火の粉をまき散らす『お水取りの行事』が行われるとは信じられない静寂だ。
私は回廊の端にたたずんで誰もいない境内をゆっくりと眺めていた。先ほどから居合わせた男性は少し離れたところでしきりと屋根を見上げていた。そのうち、屋根の構造についてなにか口にしている。始めは独り言かと思ったが、ほどなくして私への語りかけと気づいた。私の了解をとることもなく建築美について手振りを入れて長々と話した。学究的なものではなく直観的な美の賞讃だったので私も共感するところがあり、突然の語りかけにも不快ではなかった。
堂を一巡したあと2人で境内の小さな茶店に立ち寄ったが、ここでも客は私たち二人だけだった。イスは木製の古びた長イスだったが二月堂に融和しており、知り合ったばかりの私たちは美について共感の余韻をもったまま、並んで腰かけた。私は並んで座ったことが、ごく自然に思えた。
男性、これからは「彼」と表現する。彼は女性の一人旅を訝り、奈良にはよく来るのか、寺院のどこに惹かれたのか、古代史に興味があるのかなど立て続けに問いかけてきた。私は、寺院参観はついでであり、
「訪問目的は別のこと」
と話し、ちょっと躊躇したあと脇に置いてあったバッグを引き寄せ、中から古代模様の袋を取り出して彼の前にそっと置いた。
さて、今日は予期しないことばかり!!
彼はまず、袋を見るより先に、私の差し出した指先をじっと見入り、
「観音の御手か、見たことのない美しさだ」
とつぶやいた。
それから彼は袋を手に取ると驚いた様子で目を見張り、
「これは東大寺正倉院に保管されている錦の織物と同形模様だ、おそらく江戸時代あたりに複製されたものだろうが、古代の織法が伝わっていないため、めったに織れるものではない。名匠の織物職人が年月をかけ、試行を重ねて帯として再現したものにちがいない。その後、由緒ある家系に引き継がれたのであろうが、この袋はどこで手にいれたのか」
と真剣な眼差しを向けた。私は母が帯らしきものを裁ち直して作ったものだと話した。更に、母が魔除けの化粧をするように言い置いたこと、奈良では化粧をしてはいけないことも話した。彼は私のスッピン顔をしげじげと見つめ、
「このように美しい切れ長の目は見たことがない、今日はラッキーだった」
と言い、魔除けの化粧はこれからも「しばらく、続けてください」と懇願するように言った。
私は、‘しばらく‘という言葉をなぜか素直に受け入れ、深く頷いた。
私たちは奈良からもどったあと、たびたび会った。当然、私はいつも化粧顔。あの新幹線での経験はその後まったく起きない。でも、彼は会うたびにまばゆい目つきで私を見つめた。
二人の会話は当初、彼がリードするかたちで古代から現代に至るまでの建築デザインの話題が多かった。そのうち、私はデートの話題としては不適切と思ったが、国際社会への想いを少し話してみたが、彼は予想外に強く反応した。回を重ねるごとに、彼も海外の話題を人生観と結びつけて話すようになった。私の心の中には、大切な人という存在がはっきりと芽吹き出していた。もちろん日常の話も深めていった。勤め先は建設系で父がオーナーであること、母も健在である、兄は二人いるが父の会社の役員であり、いずれも結婚していること、東京生まれであることなど。
あとでわかったことだが、次兄の嫁様が私と彼が歩いているところを偶然見かけ、「義弟が冴えない服装の不美人と仲睦まじく連れ立っていた」
と彼の母に告げた。
「あのような品のない女と義弟が結婚して、将来義姉妹の関係になるのはお断り」
と言ったとのこと。
彼のお母様はこの話を聞いてたいへん驚き、これは我が家の嫁にするには不似合と思い、阻止の一計を案じた。そして、不美人の女を、美しく優れた兄嫁たちに引き合わせれば、その身の劣りを恥じて身を引くであろうとの策である。
彼はお母様たちが、私たちを別れさせる策とは知らずに、お母様の‘嫁合わせ‘の要望を入れ、私は一週間後に彼の家族と会うことになった。この話を聞いて私は大切な日が来たと思い、躊躇することなく了解した。
彼は、来訪はいつもの服装でよい、ただし、
「美和が私を大切な人と思うならば、魔除けの化粧はしないでスッピンで来ること」と言った。また、なんの品物でもよいから、父に贈り物をひとつ持ってきて欲しいと言った。
私は、心が弾んだものの前日になっても、贈り物はなにがよいか思い浮かばず、また、服装も量販店の吊るし服ではと気後れした。
これで彼の家族に会えようか・・・。
私は困り果てたが、ふと、母が「困ったときには袋を開けなさい」と言ったことを思い出した。
衣装箱の奥から袋を取り出し、初めて紐を解いた。中には大きなスカーフと小箱が一つ入っていた。スカーフは、どこの国のものか分からないが、これまで見たことのない喩えようもなく美しい優雅なものだった。私は、瞬間、これを上に羽織って行こうと決めた。さらに、小箱を取り出しフタを開けると、木片か樹脂の塊りのような黒っぽいものが一つ入っていた。フタの裏には『越南』と書かれベトナムの古称と思ったが黒片が何かは分らなかった。しかし、母が遺したのであるから、価値あるものにちがいないと思い、これをお父様への贈り物に決めた。
嫁合わせの日が来た。行き先地は明かにされていないが、彼とは東京駅で待ち合わせをした。もちろん、私はスッピン顔。彼は私を見つけ、近づくと瞳だけを見て、
「まばゆい」
とほほ笑んだ。そしてスカーフに見入り、
「人の心を和ませるこれほど優美な模様は見たことがない。このような高貴なものを持っていたのか」
と聞かれ、私は、
「昨日、母の物入れ袋を開けたところ、中に入っていました」
と告げた。
行先は長野県と言われ新幹線に乗車したが、通路を通る人々は私を見て、
「これほど気高くなれるものか!!」
とささやいた。
新幹線で降り立ったのは軽井沢だった。駅には彼の家の使用人らしき人が車で出迎えに来ており、すこしの乗車の後、降り立ったところは高い木立に囲まれた大きな別荘風の建物だった。私は彼に付き従がって、応接間と思える広い部屋に入った。
ご両親、長兄夫妻、次兄夫妻が席についており、待ち構えていたように一斉に私に視線を向けた。
お母様、兄嫁、次兄嫁は一瞬キツネにつままれたような顔をして、私を見つめたが、不美人と吹聴していた次兄嫁は、
「違う!!」
と狼狽した。
私は緊張しなかった。自分が輝いているのが自分でもよく分かった。
もちろん、この輝きは私の心から出ているものだ
「はじめまして、山野美和です。お招き頂きありがとうございます」
と挨拶した。長兄が、
「ファッション誌から抜け出したようだ」
と言った。次兄が
「声もたいへん美しい」
と言った。私が末席に着こうとすると、お父様はお顔をにこやかにくずされ、
「なんと気高いことか」
とおっしゃり、お母様の左席にお呼びになった。
私は彼に促されて、お父様の前に贈り物の小箱をそっと差し出した。お母様は私のしぐさを注意深く見ていたが、私の伸ばした手指をしげじげと見て、ご自分の手をおずおずとテーブルから引き下げた。
お父様は小箱のフタを開け、驚きの様子で目をしばたかせ、黒片を手のひらに取り、「これは貴重だ、さっそく明日の茶会で使おう」
と言った。長兄が脇から覗き込むと、お父様は、
「ベトナム産の極上伽羅だ。今は入手が難しい香木だ」
と言い、満面の笑みを浮かべた。
次兄の嫁は音大卒であり、夫が私の声を褒めたのが腹立たしいらしく、意地悪く、
「美和さんは声が美しいから歌を披露していただきましょう」
と言った。彼は手振りで私に制止のしぐさをしかけたが、私がスッと立ち上がるのを見て手を降ろし、心配顔で私を見た。私は彼にかすかにうなずき、その後、お父様にゆっくり会釈したのち、歌い始めた。
澄んだ柔らかいソプラノが天井の高い広間に響き渡った。
あなたにすべてをあげたその日から
まるで私の運命は花に飾られているみたい
私、魔法の世界で夢見ているような気がして
心もまだあなたの初めての口づけに酔っていてよ
なんて素晴らしい生活なの!
私の夢は夢でなかったのね!
私が歌い終わると、全員が肩から力を抜き長い拍手をした。次兄が、
「スバラシイ、感動した」
と言った。次兄の嫁は、只々、茫然としていた。
海外勤務の経験がある長兄が、
「日本ではあまり歌われないが、イタリアのボローニア歌劇場で聴いたことがある。シャルパンティエ作曲の歌劇ルイーズの『その日から』だ」
と言った。
私は母が「あなたが大切と思う人の前で、この歌を歌う日が来るでしょう」と言ったことを思い出し、胸が熱くなった。
次に長兄の嫁が長い欧米生活を鼻にかけて、海外事情を話しかけてきた。
内容は観光やショッピング、グルメ、パーティだった。私は、受け答えのイントロに嫁の話を引用したが次第に政治、経済、社会の分野に発展させ、現状の問題点については、簡潔に自分の考えを話した。そう、私は自分で考えるのが好きなのだ。
嫁は口をつぐんでしまったが、長兄が適格に応じ、話のキャッチボールも進み、私の存在は家族に深く浸透した。
歓談が進むにつれて和気藹々の触れ合いになり、帰りは家族揃って玄関までお送りいただいた。
お母様は近いうちに、
「東京の家にいらっしゃい」と言われ、
「美和さんの名前のいわれは、息子から聞いています。私も生け花は大好きです。今度いっしょに生けましょう」
とほほ笑んだ。
その後、私は彼と結婚した。彼がシンガポール支社に転勤になったので、私も
喜んで同行した。シンガポールで、私は日系企業で市場調査の仕事につくことになっている。今の若い人で、シンガポールが昭南島と呼ばれていた時代があったのは私しかしらないかも。アジアの人々との交流のことで、胸が大きくときめいている。
私は夫に、
「古都奈良には不思議な力があるのでしょうか」
と問いかけた。
夫は間髪いれずに、
「いや、自分で考えることが、不思議な力を生むのだよ」
と答えた。
私は『それから』をそっと口ずさんだ。
なんて素晴らしい生活なの!
わたしの夢は夢でなかったのね!
(完)