ヒース
「はあ、なんて日だ。」
ヒースが吐き出す息の音は部屋に大きく響いた。
シエルから"愛の毒"を受け取って、ほんの少しの休憩代わりと、声だけで親しく話をしてきた無邪気な年下の友人と初めて直に会って話をしてみたいと思っただけの事だった。
だというのに、蓋を開けてみれば心臓が止まるかと思う出来事の嵐。
何故、保護者代わりと自称する連れが伯爵位持ちの、しかも大公の子息として有名な魔族なのか。
何故、横道があるとは言え、魔界に封じられているとなっている公爵位が現れるのか。
その上、その魔族達は、神聖皇国の最上位の機密である、シエルを通して知ることになってしまった半吸血鬼ディアナを探し求める弟達だと言うし。
ディアナの指示を受けて、聖騎士が二人も駆けつけてくるし。
公爵位と伯爵位の魔族と聖騎士が同じ空間にいる場面を拝むことになるなどと、一体誰が考えるのか。しかも、魔族は勝ち目があるのかと絶望するレベル。すわ死闘が目の前で、短い人生だったと、ディアナの存在と知っていなければヒースは意識を手放していたことだろう。
シエルを通じて話をするようになったディアナと直に会うことになったのは、ヒースにとっては予定外の事態だった。
ある要請によって神聖皇国を宰相として王を代理して訪問することになったヒース。皇宮へと足を踏み入れた途端に、ヒースの気配を感じ取ったというディアナの部屋へと転移させられていた。
あの時の、皇宮全て、ディアナの存在を知る皇族、一部の高位貴族や教会の上層部を巻き込んだ右往左往の騒動をヒースは忘れることは出来ない。
ディアナの部屋で呆然と立ち竦んでいたヒースの首元に剣が突きつけられ、床に引き倒された衝撃を思い出せば、今だに首や肩に痛みを感じる気がする。皇帝の鋭い眼光と聖騎士達の殺気への恐怖には背筋が未だに震えてしまう。
皇帝に抱え込まれ、ヒースから遠ざけられるように庇われたディアナが、力を使ってまで周囲を止めなければヒースは行方不明扱いで土の下にいたことだろう。
ディアナの存在については口を閉ざせと厳命されただけで解放された時には、く止めることの出来ない振るえと夜な夜な苛まれる悪夢に悩まされたが、それでもホッと安堵の息をついて、国に戻り自宅に帰りついた時には年甲斐も無くボロボロと涙を流していた。
それからは、もう知っているからいいでしょというディアナの押し切りによって、神聖皇国のディアナの部屋に度々、直接招かれお茶を共にすることになった。
渋い顔をしていた皇帝達であったが、機密を護る為にと100年近くを自由に出歩けない形になっているディアナに対する哀れみもあり、許可が降ろされてしまう。何度か会い、気安く話せるまで慣れていったヒースが皇帝に、許可するなよ、と突っ込みを入れる姿は皇帝の側近、侍従達から目を背けられ黙認されている。
「今頃、慌てているだろうな。」
疲れ切ったディアナの声を思い出し、今頃報告を受けて慌てているであろう年上の友人を思い浮かべる。
爆発する箱を最後に一瞬だけ見た後、ヒースはディアナ以外の面々と食堂に居た。
カフカによって雪に覆われた食堂は元に戻り、ディアナも声だけとはいえ無事であることが確認された。ディアナの事を誰よりも知っていると言う弟レイが説明するには、箱から巻き起こる爆発から皆を護る為にディアナは箱庭から全員を強制的に排除したのだそうだ。
箱庭の中では、造り手である魔女が最も強い存在になる。
それが、魔女よりも力の強い存在の攻撃であろうと、魔女を殺すことは出来ない。
だから、ディアナは怪我はしているかも知れないが無事である、とレイは感情の欠落させた顔を伏せて言った。それは、自分自身に向けての言葉であり、心配そうにしているシエルに対して向けられた言葉だった。
レイはその後、箱と魔王が持っていたという鍵の行方を捜しておこうと言って、魔界へと帰っていった。残されたのは、ガシャンと音を立てて床に崩れ落ちた人形。その人形も、カフカが抱き抱えて持ち去っていった。
すでに食堂では、何事も無かったように冒険者達が放つザワメキが戻っていた。
彼等は気づいていないようだったが、氷漬けになっている間に短くは無い時間が過ぎ去っていた。疲れもあるだろうと、まだ子供の範疇にあるシエルを気遣い、詳しい話などは明日にしようとその場は解散することになった。シエルとムウロはヒースが取っておいた二階の部屋に、聖騎士達は滞在用にと提供された賓客用の屋敷に向かい、ヒースは仕事に戻る為に王宮の宰相の執務室へと戻ってきていた。
部屋に辿り着いてみれば、ドッと疲れに襲われた。
このまま家に帰って眠ってしまいたいと思うのも仕方無いだろうと声高々に叫んでもよさそうな、そんな数時間だった。
だが、とヒースは手にした荷物に目を向ける。
それは、シエルに渡された惚れ薬"愛の毒"。
今、この国で大きな問題となっている惚れ薬や媚薬の類に関する売買に対して一石を投じる事となる計画を思えば、何とか疲れた身体や心を抑え、もう数時間だけ頑張ることも出来そうだと思いなおした。
そう思うだけの被害が出ていた。
もちろん、ヒースも被害を受けた事があった。
上手く予防し、そういった類の薬を無効とする薬も用意していたからこそ大事にはならなかったが、それでもヒースを僅かな時間とはいえ機能停止に落し得た事件だった。
コンコンッ
ヒースが椅子に座り、自分の肩を叩きながら執務机に向かい始めると、ドアを叩く音が響き部下が一人入ってきた。
「お帰りなさいませ、ヒース様。…御友人と何かございましたか?」
疲れが顔に滲み出ていたのか。
部下は軽く下げた頭を上げた途端に、驚いた顔をして指摘してきた。
普段ならば、そういった事は口にはせず飲み込み、お茶を用意したりという行動で労わる気遣いを見せる部下の発言だけに、ヒースは苦笑を禁じえなかった。
自分でも自覚はあるが、やはり疲れているのだな、と。
「いや。留守の間に異変は無かったか?」
説明しても信じては貰えなさそうな出来事があったのだと、口にすることは出来ない。ヘタをすれば、ヒースの命は無いような出来事の数々だったのだ。
だが、あれだけの面々が一箇所に集まってしまっていた事を思えば、何か異変が感知されていないとも限らない。王都には、仕事によって大金を手に入れた腕の立つ冒険者も多く集まるのだ。そういったものが何かを嗅ぎ付けて王宮に報告していないとも限らない。
「そういえば、陛下が宝物庫が可笑しいと騒いでいましたね。」
だが、ヒースの予想とは反対に、その異変は王宮内から報告されたと部下は言った。
しかも、ヒースの上司である王からだと。
「宝物庫?」
王宮内には三つの宝物庫がある。
一つは政に関わる貴重品などが保管された場所。
一つは後宮近くにある、王族の私物を保管する場所。
そして、もう一つは国にとって重要な、建国に関わる『聖騎士』の遺物を保管した場所。
そう思い浮かべて、ヒースは何となく予想がついていた。
「えぇ、聖遺物が保管されている宝物庫です。不穏な音がすると報告があったので、近衛騎士に踏み込ませたのですが、ネズミ一匹発見できず。今も一応は見張りを置いてはいるのですが…」
「…反応したのか?」
やはりと思ったヒースの口から、小さく漏れ出た声は幸いにも部下には届かなかった。
先程、ディアナの箱庭の中で開かれ爆発したのは、神聖皇国に遺されていたという『聖女』の遺物。『聖女』と共にあった『聖騎士』の遺物が反応したとしても可笑しくは無かった。
「それで、ヒース様。すでに皆様がお集まりなのですが、例のものは…」
どうせ、この国の王族では触れることも出来なくなっている代物。神聖皇国に回収させてしまおうかと考えていたヒースに部下の声が掛かる。
そういえば計画を素早く実行する為に、国の政に関わる役職の者達を集めておいたのだったとヒースは思い出した。
「全員集まったか?」
「はい。皆様、意気揚々としておられます。」
「そうか。」
フッ。ヒースから笑いが零れた。
いつもなら、のらりくらりと欠席したり、無意味に反対意見を示したりする面々が集まり、やる気に満ちているとは。
それだけ、彼等が薬の被害に合っていると言うことを示している。
「特に、財務大臣が血走った目で息を荒くしてお待ちです。」
「それはそうだろうな。」
媚薬に惚れ薬、一番口に入れているのは財務大臣だ。
財務を司るものである上に、本人はロマンスグレーと評される美中年。あまりの被害の数に、溺愛している娘には最近では信じて貰えず嫌悪され、愛妻は不調を訴える程。さっさと、この馬鹿げた流行ものを終わらせたくて仕方が無いのだろう。
ヒースはシエルから受け取った"愛の毒"の瓶が24本も入った袋を部下に手渡した。
「!こんなに、ですか?」
ずっしりと重みがある袋の中を覗き込み、驚きを隠せない部下にヒースは苦笑を漏らした。
「あぁ、全てで24本だ。これなら、オークションだけではなく、怪しげな店や商人にも流して、より多くの関係者を見つけることが出来るだろう。」
購入しようとするもの。すでに禁止令を出しているにも関わらず、そういった類の薬を取り扱おうという商人達。多くを巻き込む大捕り物となるだろう。
だが、そんな苦労はなんだというのか。
口に入るもの、焚かれた香にビクビクと過剰というまでに怯えなくてはいけない日常を思えば、どんな苦労も惜しまないと、ヒースは会議室へと向かう。




