魅了の力
はい!
重苦しい衝撃が走った空間で、それを生み出したシエルの、一変して場違いな声が響いた。
だが全員の目を集めた、真っ直ぐに手を天井に向けて上げているシエルの顔は強張り、必死に何かを訴えようとしている表情に誰も何も言えなかった。
自分がどんな爆弾を投げ落としたのか、それによってヘタをしたら大惨事になっていたかも知れないというのに、それをまったく理解していない様子でシエルは目には涙が滲み始めていた。僅かに殺気のようなものを放ちかけていたレイさえ、シエルによって変化した空気に体から力が抜けていた。
「えっと?」
何?どうしたの?
そう動揺を抑えながら出来るだけ優しく聞くムウロに目を向けることなく、シエルはレイを見上げた。その目は涙を湛えながら鋭い。
「元の場所に戻りたい、です。…もう限界…」
最後の言葉は、さすがに恥じらいがあったのか、小さな声だった。
だが、人以上の身体能力を持つ魔族三人にはしっかりと届いていたし、魔族と戦う為に研ぎ澄まされた感覚を鍛え上げた二人の聖騎士達にも届いていた。
何より、レイが空間を重ね合わせていた場所が何処なのか思い出せば、おのずと理解出来た。
只人であるヒースは、元々シエルが個室を出て行くところも見送った為、その様子からだいたいの事は聞こえずとも予想が付いた。
あぁ、と何とも言えない空気が生まれる。
「それは、すまなかった。」
シエルが初めにレイが用意した空間に入ってきた時のような、優しい声を出してレイはシエルに謝った。
パチンッ
レイが指を鳴らす。
すると、部屋の隅に黒を基調とした古風なメイド服を来た女が姿を浮かび上がらせた。そして、レイが目で送った合図に頷く。メイドを前にした部屋の壁に扉が姿を見せた。
その一連の動きで、彼女がレイに仕えている魔女だと知れた。
それも、本来の意味での魔女だ。『己の空間を作り出しす事に長けた魔女』を契約を交えて己の魔女にする。そうすることで、シエルを招き入れる為のこの空間も用意したのだろう。
多くの魔族が、魔女の骸を使って作られる魔道具でもって空間を作り出したり転移の術を使ったりしている中、近年では稀にしか生まれなくなった生きた魔女を平然と使っているレイに、ムウロはさすがと呟くしか出来なかった。
疎遠どころか普通の兄弟として仲が良い方だと思っていたにも関わらず、初めてレイの魔女を見たムウロがそちらに目を奪われている中で、レイはシエルに対して、扉を指差してみせた。
「元の空間に繋げてある。」
「ありがとうございます。」
シエルは颯爽と、メイドが体をずらして全体を見せた扉の向こうへと消えていった。
「可哀想なことをした。」
ふぅと息をついてシエルを見送った兄の背中に、ムウロの呆れ声が投げつけられた。
「そもそも、兄上がトイレで待ち伏せなんてするからであって。なんで、そんな所で。」
色々と一緒にいると扱き使われたりと疲れる事の多い兄ではあるが、ムウロにとって敬愛している上位者でもある。少なくとも、父方の兄や姉達など比べようもない程は家族として好いている。
そんな兄が女性用のトイレで待ち伏せをしていたとい事実をまだ、受け入れる事が出来ないでいた。
「お前が目を放す場所など、それくらいだと思っただけだが?」
何か問題が?
レイはレイで、それがどうしたのだと平然としている。
「お前と共に居る時に姿を見せれば、必ず大事に捉えて話をさせてくれないと思ったのだ。」
《じゃあ、貴方がそういう趣味に目覚めた訳では無いのね?》
本気で弟が可笑しな性癖に目覚めたのかと心配していたディアナの声が落とされた。
シエルの力は空間を離れても通用し続けていたようだ。
これまでディアナの声が聞こえなかったのは、ただディアナが大人しく様子を見守っていただけだった。
「あぁ、姉上。何を仰るのですか。私はただ、姉上に会いたいと彼女に頼もうと思っただけです。」
姉上の大切な御友人に危害を加えるなど…。ディアナには見えていないというのに、レイは微笑んで見せる。
「頼む、ねぇ。精神を支配する吸血鬼の力を使っていたようだったけど?」
天を仰ぐようにディアナの声に答えているレイに、女聖騎士の皮肉気な声が掛けられる。
彼女がドアを切り、空間を切り開いた時に感じた濃厚な甘い香りは、吸血鬼など誘惑の術に秀でた魔族が放つ魅了の術が行なわれた際に多く嗅がれるもの。聖騎士が地上で対峙することになる敵の多くは人を誘惑して自由自在に操っている魔族だ。それらに対して、数多くの場数を踏んでいる聖騎士にとっては、あの手の香りは嗅ぎ慣れている。
レイが閉じられた空間の中で、シエルに何をしようとしていたのか、簡単に予想が出来る。
魅了の力を使う魔族の種族の数だけ効果は様々に分かれている。その中で、吸血鬼の魅了がもたらす効果は、魅了の力の中でも際立って強力な支配だった。
「だが、効かなかったのだから問題は無かろう。」
女聖騎士の指摘に、レイは顔色一つ変えない。
「そういう問題じゃないよ、兄上。」
兄の、望む結果の為なら過程は一切気にしない性格を理解しているムウロは、ただ溜息をつくしか出来ない。指摘したとしても、何が悪いのだと言い返されるのがオチだと子供の頃からの経験で理解しているからだ。
「面白いな、ムウロ。私の力が通じなかった。母上には劣るが、私の支配の力がに通用しないと考えたことも無かった。」
ただ、あまり他人に興味を持たない、吸血鬼や同格の魔族以外を歯牙にも掛けない兄が目を僅かに輝かせている様子が目に付いた。シエルに興味が出来たようだと分かるが、止めて欲しいと思う。
「シエルは父上の魔女だからね。加護はしっかり付いてるんだよ。」
レイの力が通用しなかったのは、シエルを護る為にアルスがつけた加護にあるのだと伝え、レイの興味を失わせようと試みる。
だが、その言葉だけではレイの興味を晒す事は出来なかった。
「その銀砕殿は、母上や姫殿下にやすやすと操れていたというのに?」
レイの言葉に幼い頃をムウロは思い出す。
吸血女王の魅了による支配。『魔女大公』の魅了による"お願い"。
時折、二人の魅了に嵌まっていた父親の姿。冗談のような命令をされるのだと分かっているからこそではあったと言う事に気づかず、二人の力の強さと凄さを知らないあの頃は父親に白い目を何度向けていたことだろうか。
それらの出来事を表面的に捉えられ、指摘されてしまえば、ムウロには返す言葉が見つからない。何を言っても、説得力は乏しく感じられるだろう。
「ただいま。あれ、どうしたの?」
《弟を苛めて遊んでいるのよ。昔からよくある事なのよ。》
帰ってきたシエルの疑問に、様子を見守っていたディアナが答えた。
《レイったら、いっつも弟達をからかって遊んでいたの。》
「仲が良かったんだね。」
《えぇ。私の事も気遣ってくれて、よく遊びに来てくれていたのよ。》
特にレイなんて毎日のように花とかを持って見舞ってくれていたの。
そう言って笑っているディアナの声に、ムウロを自分なりにからかっていたレイがまたハラハラと涙を流して感動していた。
《だから、私は城を出たの。》
その声を最後に、シエル達を包んでいた部屋の形をとった魔女の空間が歪み、様子を一変させた。




