涙
聖騎士が先輩と呼んだということは女も聖騎士だろう。
だが、二人を見てムウロが真っ先に口にしたのは、そんな事は関係無いと言わんばかりの事だった。
「えっと、どっちが姉さんの子供?それとも、二人とも?」
相手は聖騎士。魔族の天敵。神聖皇国に忠誠を誓う勇者の血を引く者達。だが、ムウロもカフカも、そんな事よりも、二人が姉の子なのかに重点を置く。勇者の浄化の力を宿している武器で傷つけられれば高位の魔族とて無事では済まない。だが、聖具を持つ聖騎士を目の前にしても、今の兄弟には優先し警戒すべき事とは感じられなかった。それだけの危機が、目の前に迫っていたのだ。
それに、聖騎士とディアナの関係に悩んだって、悩むだけ無駄なのだと弟達は理解している。半分とはいえ吸血鬼、魔族の中心で育ったディアナが何故よりにもよって神聖皇国に居るのか、なんて事も普通に受け止められる。なんせ、ディアナは大戦が始まる少し前に、"勇者さんの血はちょっと刺激的で美味しかったよ"なんて言って魔王や大公達を脱力させた事もある人だったのだから。
「…いえ。違いますが?」
何を言うのか?
二人の聖騎士はムウロの質問に、呆気に取られた顔をしている。
それもそうだろう。
魔族が力を振るう領域の中に勝手に入り込み、突然声を掛けたのだ。聖騎士達が敵意を示していなくても攻撃されても文句は言えない状況だ。
少しの間、沈黙が場を包み込んだ。
警戒しているとか、牽制している、なんて事ではない。
ただ、どうしたらいいのか動き倦ぐねているだけだった。
どちらも思っている事は、どういうことだろう、と言う共通した思いだった。
その沈黙を破ったのはヒースだった。
ムウロ達、聖騎士達の両方を知っている身として、膠着してしまった空間で声を振り絞り、場の空気を動かした。
「まずは、シエルちゃんを助けませんか?」
その声で、ヒースの目論見通り場は動きを取り戻した。
全員の目がトイレのドアに向かった。
「では、私が。」
女の聖騎士がドアの前へと足を進め、腰に収めていた剣を抜き、構えた。
ほんのりと光を放つ刀身が鞘から抜かれた瞬間、ムウロとカフカの肌がビリビリと振るえ、痛みさえ感じた。
勇者の血を引く者だけが使う事が出来る、浄化の力が宿る聖具。勇者が大戦の時に使用した聖具は、ムウロとカフカの母である『夜麗大公』を瀕死の状態にまで追い込み、今も苦しめている。近くにあるだけで恐怖を感じるのは、魔族としての本能だけではなく、母の苦しむ姿を思い出すからだろう。
剣が構えられ、ドアへと振り下ろされた。
ムウロが何をしようとビクともしなかったドアは、綺麗に真っ二つ、存在意味を失った。
「シエル!?」
切り裂かれたドアが床に倒れた後、シエルとレイが居るという空間から濃厚なむせ返るような甘い香りがムウロ達の下に流れ出できた。
一番近くにいた女性聖騎士は顔を顰め腕で鼻を塞いだ。その横を駆け抜け、ムウロが慌ててシエルの名前を呼んだ。
甘い香りは、吸血鬼が持つ力の一つ、人を自由自在に操る力を放つ時に香るものだった。
『銀砕大公』の魔女であり、護りに重点を置かれた加護を持つシエルなら、最高位の吸血鬼であるレイの力とはいえ屈することは無いとは思うが、心配になるのは仕方がない事だ。
「は?」
中に踏み入って見た光景に、ムウロは絶句した。
後ろから着いてきたカフカも同じように動きを止めた気配を感じたが、そんな事に構っていられる余裕などムウロには無かった。目の前の光景を処理することで頭が爆発しそうだった。
自他共に厳しく、己の内側に入れたもの以外には冷酷で容赦が無い。
そんな兄が、女王である母に代わって吸血鬼を纏め上げ、他の大公達とも渡り合っている『麗猛公爵』である兄が…。
「あら、綺麗。」
そんな感嘆の声がムウロとカフカの後ろから聞こえた。
「先輩、空気を読んで下さい。」
まったくだ。そう思うが、ムウロは声を出す事が出来ないでいた。
人を誘惑する事に長けた、魔族の中では屈指の美しい姿形を誇る吸血鬼、その中でも際立った顔立ちをしている青年が、涙を流しているのだ。
金の目から止めどなく生み出され、真っ白な肌を流れていく涙。
今まで生きてきた中で見たこともない、想像したこともない、ハラハラと静かに立ち竦み、綺麗な涙を流す兄の姿に、ようやく動くことを思い出した弟達はヒッと息を飲んだ。
「あっ、ムウさん。」
そんなレイの前に立って、ハンカチを差し出して慰めていたシエルが硬直しているムウロに気づき、困り顔をムウロに向け助けを求めた。
けれど、助けを求められてもムウロにはどうしようも無い。
まず、何故兄が泣いているのか。それさえも思い至れなかった。
「なんで兄上は泣いてるの?」
なんとか振り絞った声でムウロはシエルに聞く。
「えっ、えっと…ディアナちゃんの声を聞いたら、いきなり泣き出しちゃったの?」
どうしたらいいのかな?シエルも戸惑いを浮かべている。
シエルにしてみれば、年の近いというのならいざ知らず、大人の男性が泣く姿など、しかも声を上げることも無く静かに泣く姿など縁の無い光景だった。冒険者達の悔し涙や苦痛を訴える涙なら何度かは見たことはあるが、レイのように綺麗と表現出来る泣き方は初めて見るものだった。
ムウロに相談した後、シエルは呆然としたままのレイに声を掛けていた。
そろそろ元の場所に返して欲しい、と。
心配してくれているムウロの所に戻して欲しいという事もあったが、そろそろ我慢出来なくなってきていたからというのが大きい。突然に起こった事ですっかりと忘れていたが、シエルがトイレに来たのはもちろん来る理由があったからだ。
シエルは少し焦っていた。
だから、先程苛立ちを見せてシエルに詰め寄ってきていた相手にも迷うことなく触れて、頼みごとをすることに躊躇いも無かった。
「姉上に!」
そんなシエルの肩を、正気に戻ったレイが掴んだ。
勢いの割に痛みを感じさせない程の力ではあったが、その鬼気迫る顔付きがシエルを驚かせた。
「姉上は何処に。いや、姉上と話をさせてくれないか。」
あまりの勢いに、ただディアナとレイの間に『遠話』の回線を繋げるしか出来る事は無かった。
《ディアナちゃん?》
《まったく、変わらないんだから。いい加減にしなさい!》
呆れと苦しみが感じ取れるディアナの声が、レイに降り注いだ。
それが、ムウロ達が踏み込む前に起こっていた事だった。
シエルに分からないのなら、本人に聞くしかない。
ディアナの声を聞いたら、と言うのなら、何かディアナから衝撃的な事を聞かされたとか、拒絶されたとか、何とか予想を思い浮かべる。
そうすることで、兄が何を言っても驚かないようにしようとした。
「あ、兄上?」
だが、ムウロの人知れぬ努力をレイの言葉は嘲け笑った。
「久しぶりに姉上の声を聞いた。」
笑うといえば嘲笑や凶悪なそれしか見たことが無い兄が、涙を流しながら、ふんわりと柔らかな、子供のような無邪気な微笑みを浮かべた。
しかも、ただ声を聞くことが出来たというだけの理由で。
《まったく、相変わらずなんだから。》
ディアナの苦笑を漏らす声が頭に響いた。
《だから家を出たのに…。まだ駄目なのね。》
それがどういう意味なのか。
聞くにも聞けないムウロの代わりに、シエルが尋ねた。
「《家出って、レイさんが原因なの?》」
しっかりと口からも出ていたその問い掛けは、一段と大きな衝撃をもたらした。




